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  • 12月 17 週三 202508:00
  • 【引用】風景画の成立日本近代洋画の場合-1(#49785132)

松本誠一 はじめに一九〇〇年(明治三三)前後を境とし、日本近代洋画史における風景画は、その形式も内容も変化の様相をつよくしめすようである。そうした近代洋画史に変化をもたらしたのが、一八九三年(明治二六)にフランスから帰国した黒田清輝の存在であった。画塾天真道場、洋画団体白馬会の結成と活動をつうじて、かれの色彩の明るさに端的にみとめられるあたらしい画法は、新派、紫派とよばれ、それ以前の洋画が旧派、脂派とみなされることになる。本稿では、この一九〇〇年(明治三三)前後を境とした日本近代洋画史における変化の様相を、風景画の分野において考察しようとするものである。そのことにより近代洋画史における或る特質をみいだすことができると思われる。 一 前提日本近代洋画史において、岡田三郎助は黒田清輝、久米桂一郎らとともに近代洋画のアカデミズムを形成し、その頂点に位置した画家であった。黒田は、作品制作の理念の提示と美術行政において手腕を発揮し、久米は美術理論の啓蒙でその役割を果した。それに対し岡田は、作品制作の行為をつうじてアカデミズム形成の主要な柱となった。一般に、岡田三郎助は婦人像、裸婦像をえがいた画家として知られているが、実は、画業の過半は風景画の制作である。私は『美術史』第=二二冊において、岡田三郎助の風景画を問題とし、一九三八年(昭和一三)、岡田が最晩年にえがいた風景画の代表作《河口湖畔》について、その「安定した構図」の由来を解明し、かれの風景画において構成的で安定した形式が成立した過程をかんがえた。こうした風景画における「安定した構図」への志向は、ひとり岡田においてのみならず、この時代の周辺の一部の画家においても、同様にみとめられるところであった。とくに官展系の画家についてそのことがいわれる。
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  • 個人分類:日本美術史
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  • 12月 16 週二 202508:00
  • 【引用】昭和前半期の美術 植民地・占領地の美術-3

東南アジア 
一九四一年十二月八日マレー半島やフィリピンに攻撃を加えた日本軍は、短期間の内に東南アジアのほぼ全域を占領し、軍政を敷いた。軍政の実態は、地域によって状況も異なり、占領した軍隊の方針も一様ではなく、一律に述べることはできない。ここでは、文化行政が組織的に行われたオランダ領東インド(当時「蘭印」、現在のインドネシア)のジャワ島を中心に、三年半と短期間ではあったが、各地に強い衝撃を与えた日本軍政の美術分野における実態と美術史上の役割を考察したい。
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日本美術史 日本美術 東南亞

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  • 個人分類:日本美術史
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  • 12月 16 週二 202508:00
  • 【引用】昭和前半期の美術 植民地・占領地の美術-3(#49784346)

東南アジア 一九四一年十二月八日マレー半島やフィリピンに攻撃を加えた日本軍は、短期間の内に東南アジアのほぼ全域を占領し、軍政を敷いた。軍政の実態は、地域によって状況も異なり、占領した軍隊の方針も一様ではなく、一律に述べることはできない。ここでは、文化行政が組織的に行われたオランダ領東インド(当時「蘭印」、現在のインドネシア)のジャワ島を中心に、三年半と短期間ではあったが、各地に強い衝撃を与えた日本軍政の美術分野における実態と美術史上の役割を考察したい。東南アジアの近代美術は、一九三〇年代に、各地で自覚的な近代美術運動が動き始める。マニラでは「十三人の近代人たち」が、シンガポールでは華人美術研究会が、バンコクとハノイでは美術学校を拠点に学生たちが、そしてジャワではプルサギ(インドネシア画家協会)が活動を始めていたが、ようやく動き始めた各地の近代美術運動は、日本軍の侵攻によって頓挫することになる。ジャワでは、一九四三年四月に、啓民文化指導所が「三百年に亙るオランダ植民政策に虐げられて来たジャワ五千万民衆に適正な精神的導向を与え、皇国の精神的文化的雰囲気を醸成浸透せしめることは大東亜建設の根本要件なるに鑑み、主として芸能文化の面から民衆の啓蒙自覚を促すべく」創設された。事業方針として、「伝統芸能の保護育成」「純正文化の昂揚」「日本文化の普及」「啓蒙宣伝」など六項目を掲げ、組織的には「本部、事業部、文学部、音楽部、美術部、演劇部の六部を置き」「専ら原住民を職員とし日本人は指導委員として」「両者協力して事業を運営」するとしている。美術工芸部長はブルサギの会長であったアグス・ジャヤ、指導委員は河野鷹思、山本正、小野佐世男らであった。年二回の公募展「新ジャワ美術展」が最終的に第五回展(昭和二十年四月二十九日五月十日)まで開催されたほか、軍政開始当初から「明治節奉祝美術展」(昭和十八年十一月)や「大東亜一周年記念ジャワ絵画展」「ジャワ生活美 術展」などの公募展が大規模に開催され、指導委員を始めとする日本人画家の展覧会も不定期に開催されている。展覧会は、いずれも盛況であったと伝えられ、十日間で一万人を越える入場者があったともいわれる。強制的な動員もあっただろうし、当時の軍政側の数字をそのまま信じるわけにはいかないが、一定の影響力はあったと見てよいだろう。展覧会のほかに重要だったのは、教育機関としての役割である。啓民文化指導所には、美術クラスがあり、二十歳未満の若者を実技試験で選抜して美術教育を行った。それまで、美術教育機関がなかったインドネシアでは、最初の美術学校の役割を果たした。ここでも、植民地の官展同様、授賞制度を通してローカルカラーが推奨された。オランダ植民地時代の「美しいインド」と呼ばれた理想化された熱帯風景に代わって、農作業をする人びとが好んで描かれた。アグス・ジャヤに見られるような仏教やヒンドゥ的な世界観を反映したり説話を描いたり、ジャワ神秘主義的な作品も現れた。軍政期に「天才少年」と称えられたカルトノ・ユドクスモが、その後伝統美術の特質を活かした独自の装飾主義に至ったのも、軍政期の遺産といえるか もしれない。一方、「熱帯の表現主義」として国際的な活躍をしたアファンディは初個展のために、リアリズムに基づいた哲学的ともいえる作品《彼は来て、待って、去った》(一九四四年ジョグジャカルタ、アファンディ美術館蔵)を描いたが、日本軍の検閲によって、それを展示することは禁じられ、さらに個展も中止を余儀なくされた。軍政期のジャワでは食料始めあらゆる物資が不足していたが、そうした悲惨な現実を描き出すことは許されなかったのである。日本の敗戦の二日後インドネシアは独立を宣言、再侵略を狙ったオランダとの厳しい独立戦争を、さらに数年戦わなければならなかった。多くの美術家は古都ジョグジャカルタに集い、プロパガンダ戦を戦ったが、その際、軍政期に小野佐世男らが街頭で描いた「聖戦遂行」のためのプロパガンダの方法が活用された。その他の占領地では、目立った美術活動は展開されなかった。とりわけ、シンガポールでは、いわゆる「大粛正」によって、華人美術研究会の会長張汝器を始めとする中心的なメンバーは収容所に没し、唯一の美術学校であった南洋美術専科学校は閉校し、当地の美術活動は壊滅的な打撃を受けた。日仏の二重支配を受けたフランス領インドシナ(仏印)では、現代日本美術展が開催され、また仏印現代美術展が日本を巡回した。さらにハノイから三名の画家が招かれ日本各地を旅行し、日本の美術家と交流した。
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  • 12月 15 週一 202508:00
  • 【引用】昭和前半期の美術 植民地・占領地の美術-2

台湾美術展
台湾は、朝鮮より早く、日清戦争の講和条約によって、一八九五年清朝から日本に割譲された。台湾美術展は、朝鮮美術展の設立にも刺激され、在台湾の石川欽一郎、塩月桃甫、郷原古統ら日本人美術教師と新聞関係者などの日本人有志が計画を練り、一九二七年に開設されたが、日中戦争のあおりを受けて一九三七年には開かれず、名称や組織を改めて翌年再開した。前期は、台湾教育会の主催で、計十回開催され、「台展」と略称される。後期は、台湾総督府文教局の主催で六 回開催、略称は「府展」である。朝鮮美展とは異なり一貫して東洋画と西洋画の二部性をとった。審査員は、第一回台展では、在台湾日本人美術教師が務め、第二回展以降、帝展審査員を中心に、松林桂月や藤島武二ら日本画壇の有力者が招かれた。また、台湾人画家で審査員を務めたのはわずかに三名で、陳進と廖繼春が六回展から八回展、顔水龍が第八回展の審査員を務めた。
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日本美術史 日本美術 台灣美術展

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  • 12月 15 週一 202508:00
  • 【引用】昭和前半期の美術 植民地・占領地の美術-2(#49784340)

台湾美術展台湾は、朝鮮より早く、日清戦争の講和条約によって、一八九五年清朝から日本に割譲された。台湾美術展は、朝鮮美術展の設立にも刺激され、在台湾の石川欽一郎、塩月桃甫、郷原古統ら日本人美術教師と新聞関係者などの日本人有志が計画を練り、一九二七年に開設されたが、日中戦争のあおりを受けて一九三七年には開かれず、名称や組織を改めて翌年再開した。前期は、台湾教育会の主催で、計十回開催され、「台展」と略称される。後期は、台湾総督府文教局の主催で六 回開催、略称は「府展」である。朝鮮美展とは異なり一貫して東洋画と西洋画の二部性をとった。審査員は、第一回台展では、在台湾日本人美術教師が務め、第二回展以降、帝展審査員を中心に、松林桂月や藤島武二ら日本画壇の有力者が招かれた。また、台湾人画家で審査員を務めたのはわずかに三名で、陳進と廖繼春が六回展から八回展、顔水龍が第八回展の審査員を務めた。台湾教育会が開催した台湾美術展から、総督府が直接開催する府展 への転換について、総督府自身が、次のように述べている。「爾来回を重ねること十回、台湾教育会主催の下に逐年進歩の一路をたどって 来たのであるが時代の趨勢はいつまでも単なる小団体の主催で止まることが出来ず、昭和十三年から国費をもって開催することに決し官展第一回を開くに至った」と、ここで正式な官設の展覧会に質的な転換を図ったことを宣言し、その目的に言及して、「島民に対する美術趣 味の養成と国民的情操陶冶に資せん」という台展開設当初の目的に加 え、「日本の歴史を知り、日本の美術を語り、之を日常生活に取り入れるところに真の皇国民たらしめる道を見出すことが出来るのであって、単に作家の作品発表の機会以上に深い意義を持つのである」と、拡大していく戦争という時局を背景に、その目的が「皇民化」にあることを明確に述べている。そこでは、そもそも、「美術趣味の養成と国民的情操陶冶」は、日本が領有した「楽土」に「安業の日々」を送る島民が、芸術を欲しているのに何もないという認識からきていることが述べられている。日本が領有したことで楽園となり、未開の地を 文明化するという植民地支配の論理は、作品にも色濃く映し出された。台湾在住の画家、立石鐵臣が、台湾の美術の発展のためには、官設公募美術展よりもまず、日本美術の古典を展示する美術館と美術研究教育機関が必要であると主張するのは理に適っているように思われるが、台湾においては、朝鮮に作られたような「日本現代美術館」が作られることはなかったし、美術教育機関は、結局朝鮮にも台湾にも作られることはなかった。こうしたことは、日本の意図が、純粋な芸術文化の振興とは別のところにあったことを示すものだろう。植民地の官展の中で上昇を志す人は、独学でなければ、結局東京美術学校を中心に日本の美術学校へ留学するしかなかった。そこでは、美術学校の教育や、師弟関係を通じた、美術学校を頂点とする価値体系が機能する。帝展を範とし、審査員を通じて系列化、序列化した植民地の官展は、人的なネットワークの面でも東京中心の価値体系に組み込まれていたのである。なお、台湾総督府にも、朝鮮総督府同様、植民地支配を象徴する壁画が展示された。岡田三郎助の《北白川宮殿下澳底上陸》である。日清講和条約の後、台湾における武力による抵抗を鎮圧するため軍を率いて上陸する北白川宮と、台湾に没した北白川宮を祀った台湾神宮を画題とした、二面からなるこの壁画は、戦争末期の台北空襲によって総督府が炎上した際に焼失したと思われる。 満州国美術展 一九三一年の満州事変以後、中国東北部を占領した日本軍の強い影響下に建国された満州国(当時の表記は「満洲国」)では、朝鮮、台湾 と同じように官設公募展である「満洲国美術展覧会」(満展)が開催 された。この展覧会については、本書に別に論考が収められているため、ここでは詳述しない(南洋群島についても同様の理由で言及しない。)。展覧会は、前身の「訪日宣詔紀年美術展」の後、第七回まで毎年開催されているが、朝鮮、台湾が植民地であり、満州国は建前上、あくまで国家であったことから、日本との関係は、前者のような中央と地方という関係ではなく、あくまで形式上、国家対国家の関係とする必要があったことが展覧会の在り方に影響を及ぼしている。また、ここでも公的な空間に、壁画が、それも台湾と同様に岡田三郎助の作品が展示された。この満州国国務院総務庁に飾られた岡田の《五族協和》(一九三六年)が描き出す「日本人、漢人、朝鮮人、満州人、蒙古人」の満州に住む五つの民族が協力して友好的に暮らすイメージは、建国十周年を記念す切手の図柄にも使われ、満州国のスローガンの視覚的な象徴として一般にも流布した。 
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  • 個人分類:日本美術史
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  • 12月 14 週日 202508:00
  • 【引用】昭和前半期の美術 植民地・占領地の美術-1

後小路雅弘
日本は、日清講和条約によって台湾を領有、日露戦争から「韓国併合」を経て、「朝鮮」を植民地とし、さらに満州事変を契機に中国東北部へと進出、「満州国」を建国、東アジアに君臨する帝国となった。さらには、日中戦争、そして一九四一年末からの太平洋戦争(大東亜戦争)によって、東南アジアを占領し、各地に軍政を敷いた。
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日本美術史 日本美術 朝鮮 殖民地

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  • 個人分類:日本美術史
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  • 12月 14 週日 202508:00
  • 【引用】昭和前半期の美術 植民地・占領地の美術-1(#49784331)

後小路雅弘日本は、日清講和条約によって台湾を領有、日露戦争から「韓国併合」を経て、「朝鮮」を植民地とし、さらに満州事変を契機に中国東北部へと進出、「満州国」を建国、東アジアに君臨する帝国となった。さらには、日中戦争、そして一九四一年末からの太平洋戦争(大東亜戦争)によって、東南アジアを占領し、各地に軍政を敷いた。美術の面では、朝鮮、台湾、満州では、官設美術展(官展)を開設し、その成り立ちや有り様は一様ではないものの、帝展の制度に倣い、また帝展審査員を審査員として派遣することで、帝展を規範とする価値体系を作り上げた。こうして官展というシステムを通じて、植民地の美術活動に決定的ともいえる大きな影響を及ぼした。また、軍事占領した地域では、「聖戦」遂行のために住民の協力が不可欠であり、「民衆宣撫」あるいは「宣撫工作」と呼ばれるプロパガンダが文化行政の形で展開され、各地の美術活動に、短期間ではあっ たが大きな影響を与えた。小論は、この日本が植民地・占領地として支配した地域の美術活動を展覧会、とりわけ官展を中心に概観し、比較しつつ、その歴史的意味を考察しようとするものである。 朝鮮美術展一九二二年、朝鮮総督府は、官設公募展「朝鮮美術展覧会」を開設する。一九一九年の三・一独立運動を契機に、それまでの軍隊と警察による強権的な統治から、「内鮮融和」を掲げた、原敬内閣の「内地延長主義」による「文化政治」への転換が背景にあったというのがいわば定説となっている。「朝鮮美展」(当時の略称は「鮮展」。本論では、韓国で一般的な「朝鮮美展」を用いる)は、一九四四年の第二十三回展まで毎年一回の開催を続け た。朝鮮総督府が主催し、帝国美術院展に範をとった運営体制で、「朝鮮人」、日本人どちらも出品できた。設立当初の出品規程には「製作者は朝鮮に本籍を有する者又は展覧会開会迄引続き六月以上朝鮮に居住するもの」とある。この規程も回を重ねる内に変更が加えられ、最終的には、「朝鮮に本籍又は住所を有する者」「朝鮮に三年以上居住したる者」「朝鮮美術展覧会に於て三回以上特選せられたる者」の三項目のいずれかに該当するものに出品資格が与えられた。原則公募による審査を経て入選作品が展示されるが、「鑑査外」の出品(過去、現在の審査員・参与、前回の特選者など)もあった。審査員は、帝展審査員などの日本人が中心に務めたが、東洋画部門には韓国人審査員が見られ、書部門に限り韓国人審査員も多かった。設立当初は、「第一部東洋画」「第二部西洋画及彫刻」「第三部書」のカテゴリーであったが、以後多少の変遷があり、第三回展からは「四君子」(「主として墨色を用いる簡単なる画」と規程にある)が書とともに第三部に組み入れられた。また第十一回になると、「第一部東洋画」と「第二部西洋画」に加え、書に代わり「第三部工芸品」部門が作られた。第十四回からは、第三部が「彫塑・工芸」となった。こうした推移に、「美術」制度移入の揺籃期における揺れが感じられるとともに、日本側の美術観あるいは「朝鮮美術」への認識や期待の変化を見ることができよう。東洋画から伝統的な「四君子」が排除され、西洋美術の影響を受けた日本 画的な表現が主流となり、書は「美術」の枠外に置かれることになる。また工芸部門の設立は、帝展での美術工芸部門の誕生が背景にあるものの、中村義一が指摘するように、柳宗悦の尽力によって朝鮮民族美術館が一九二四年に設立されるなど、朝鮮に固有の伝統美術としての工芸あるいは民芸への関心の高まりを反映したものであろう。しかし、そのこと自体、後の柳宗悦への批判に見られるような、ひとつの植民地主義的な態度(後述するような植民地を過去の伝統とのみ結びつけようとする態度)ともとられた。展覧会開催の目的については、展覧会規程の冒頭第一章第一条に、ごく簡潔に「朝鮮に於ける美術の発達を裨補する為毎年一回朝鮮美術展覧会を開く」とあって、美術の発達を支援するという目的が謳われている。『第一回朝鮮美術展図録』に朝鮮総督府参事官で、展覧会創設の実務を、主任として手がけた和田一郎の名前で掲載された「序」は、当時の事情や日本側の意識を映し出して興味深い。
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  • 個人分類:日本美術史
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  • 12月 13 週六 202508:00
  • 【遊記】2025年奈良、滋賀:寧樂美術館(#49780860)

【遊記】2025年奈良、滋賀:寧樂美術館
寧樂美術館位於依水園內,是經營船運的中村家族收藏,於1958年起公開展示。中村收藏包含古代中國青銅器、韓國瓷器、茶道具、古印、古瓦等,現在的陳列館是1969年建成,由東畑謙三設計。

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  • 個人分類:2025奈良、滋賀
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  • 12月 13 週六 202508:00
  • 【遊記】2025年奈良、滋賀:寧樂美術館

【遊記】2025年奈良、滋賀:寧樂美術館

寧樂美術館位於依水園內,是經營船運的中村家族收藏,於1958年起公開展示。中村收藏包含古代中國青銅器、韓國瓷器、茶道具、古印、古瓦等,現在的陳列館是1969年建成,由東畑謙三設計。
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日本旅遊 奈良 寧樂美術館 古美術

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  • 個人分類:2025奈良、滋賀
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  • 12月 12 週五 202508:00
  • 【遊記】2025年奈良、滋賀:奈良依水園

【遊記】2025年奈良、滋賀:奈良依水園

依水園位於奈良,被日本指定為「名勝」,可分為兩部分。前園為1673年由清須美道清(即奈良著名商店「中川政七商店」老闆)所蓋,後園為明治時期的奈良商人關藤次郎所建。1939年,以航運起家的中村氏收購兩園,使兩園合併為一園,成為現在的依水園。
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