仏教の生活化
天台宗は円仁・円珍によって著しく密教化し、貴族社会の成立と共に真言宗と並んで貴族仏教化していったことを説いたが、それを最も具体的に示すのは皇族・貴族出身の高僧が増大してきたことであろう。寺院の上級地位は貴族の子弟で占められ、しかも俗界の身分が僧界の位階につながっていることは、教団と世俗の権威が同一視されていることに他ならぬから、仏教の世俗化の最大現象であろう。したがって宮廷と貴族からの公私の御用が盛んであって、帰する所は天台座主になるのが願いであり、またその高僧たる資格は、阿難のような容貌と富楼那の如き智弁を具えていて、音・弁・形・徳・愛敬に満ちていなければならぬと、頼通時代の藤原明衡が「新猿楽記」でのべているほど俗化してきていたのである。そして密教を中心とする仏教と貴族との結合は、宮廷と貴族の年中行事の中に仏事が大きな比重をもつようになって、定期や臨時の諸法会に列席するのは 貴族生活における重要な勤務であったし、私的生活においても、出産の祈禱から葬送の儀式に至るまで一生を通じて仏事に守護されている観があった。そしてこのように公私生活に不可分な行事として組みこまれた仏事の作法は、古来からの民族的宗教儀礼を融合してしまって、その原形であった唐朝仏教儀礼と異質の形式と内容に変容してしまい、平安貴族生活の体系の中枢をなしている。寝殿造建築が唐朝の宮殿建築と全く別形態であるように、また平安貴族の礼服や朝服が唐朝服製から変態してしまっているように、仏事もまた平安貴族生活に根底をおいた倭習俗 として形成されていたのである。
この仏事に参列することは、原理的には宗教生活であるはずであったが、行事化された仏事はもはや世俗習慣に変貌し、しかも貴族の奢侈生活の方便ともなっていたので、寺院・宮殿・私第における諸法会は、祈願と礼拝のための仏教的壮厳と同時に富貴を誇る貴族生活の装飾の場でもあった。平安貴族の奢侈生活の内容は、苑内における歌舞管弦の遊びと室内においての詩歌琴棋の慰めに限定されていたのであるから、その装飾の方向は室内の美的生活であった。遊芸のちがいによって多少の差があったにしても、室内を装飾するための諸工芸と書面によることが装飾手段であったから、平安貴族はこの生活美術の発達を促がした原動力であったわけだが、仏事法会の場も、この室内における享楽生活の一種であったと言ってもよかろう。すなわち美的法悦にひたるための仏事であった。逆に言えば、仏教行事が世俗美術の振興を促がしており、同時に仏教美術自身が世俗美術化してゆく宿命におかれていたのである。この関係を最も象徴的に示しているのが、藤原道長の法成寺の建立であろう。貴族の造寺造仏は以前からあったことはもちろんであるし、基経は極楽寺を、忠平は法性寺を、兼家は法興院を発願しているが、道長は寛仁三年(一〇一九)に大病平癒の謝恩のために土御門第の東隣に阿弥陀堂を建て始めた。
道長は一条・二条・枇杷邸などの諸邸を構えていたが、室・源倫子が持参してきたこの土御門第が最も豪壮であったが、長和五年(一〇一六)に焼失すると、諸国司に分担させて再建させた。源頼光が土御門第の家具調度のすべてを調達寄贈したことは有名な史実である。それこそ、当時の一流工人である細工・木道者が丹精をこめて作ったところの手篋・硯箱・枕筥・櫛筐・厨子・唐櫃・几帳足・屏風骨・燈台・仏台・花机・経机・高座・礼盤・大盤・高杯・脇足(新猿楽記)を初めとする万般の生活用品であった。その東隣に正面十一間の阿弥陀堂を建て、さらに金堂や五大堂以下の諸堂塔を方四町の寺域に営んで法成寺と号して治安二年(一〇二二)に落慶供養を行なったのであるが、境内には道長の寝殿造邸宅が建っていたばかりか、堂宇の配置も寝殿造形式に準じていたので、世俗邸宅と同じ苑池 つらえられていた。寺院と私第とを兼ねた新らしい形式であるわけだが、先祖が建てた極楽寺・法性寺・法興院において、すでにその萌芽があったとみてもかろう。こういう僧俗両生活が合体した第三生活が三昧生活であると考えることができないであろうか。もしそれが許されるとするならば、奢侈的な世俗生活が形式化するにつれて唯美生活にたどりついたのと同じように、半俗半僧の三味生活は唯美生活を質的転換させた美的法悦の境地にひた る場であった。したがって堂塔の内外の壮厳も仏教規範をこえた世俗装飾の領域に入ってきていたことは、文献や 僅かな遺作が証明しているところである。
この平安貴族の宗教的新生活を理論や実践の上で可能にさせた根拠は、源信によって確立された浄土教であった。この平安浄土教は天台宗と中国浄土教とを折衷して、阿弥陀仏の本願を信ずれば在家生活のままで救済されることを強調しているのが特色なのであるが、貴族はもとより、とくに庶民を説得するためであろうか、現世は穢土で来 世は浄土であることを細かにのべ、念仏によって浄土に極楽往生ができるという他力救済説であった。しかし貴族の奢侈的な生活感情は、浄土教本来の臨終の意義を重んずることよりも、目前に極楽浄土を現世で実感する欲望を満たす方法に重点をおくようにすりかえられて、法会祈禱の壮厳と造寺起塔の盛大と造仏写経の豪華を競うところの形式的な信仰実践面が重視されてしまった。法成寺の建立もそうであり、寛弘四年(一〇〇七)の金峰山埋経もそうであった。その一端を具体的に語っているのが藤原頼通の別荘における阿弥陀堂、今の平等院鳳凰堂であろう。この道長の僧俗両生活の絵画的要求に応じた代表者は、法成寺の仏画をかいた延円と世俗画の巨勢広貴、仏像を造った康尚とその子定朝であった。定朝が治安二年(一〇二二)に造仏師として最初の法橋に叙せられ、教禅が絵仏師として治暦四年にやはり後の法成寺に百体の丈六像を描いた功で法橋になったのも、すべて貴族の欣求浄土感を満足させるために、地上に極楽世界を再現した功績に対する報償に他ならぬのである。そういう意味では、藤原道 長以後の平安仏教美術はほとんど浄土教美術に特色があったとみてよいし、世俗美術は奢侈生活を飾る造形物であ ったと言ってよかろう。

