仏教の生活化

天台宗は円仁・円珍によって著しく密教化し、貴族社会の成立と共に真言宗と並んで貴族仏教化していったことを説いたが、それを最も具体的に示すのは皇族・貴族出身の高僧が増大してきたことであろう。寺院の上級地位は貴族の子弟で占められ、しかも俗界の身分が僧界の位階につながっていることは、教団と世俗の権威が同一視されていることに他ならぬから、仏教の世俗化の最大現象であろう。したがって宮廷と貴族からの公私の御用が盛んであって、帰する所は天台座主になるのが願いであり、またその高僧たる資格は、阿難のような容貌と富楼那の如き智弁を具えていて、音・弁・形・徳・愛敬に満ちていなければならぬと、頼通時代の藤原明衡が「新猿楽記」でのべているほど俗化してきていたのである。そして密教を中心とする仏教と貴族との結合は、宮廷と貴族の年中行事の中に仏事が大きな比重をもつようになって、定期や臨時の諸法会に列席するのは 貴族生活における重要な勤務であったし、私的生活においても、出産の祈禱から葬送の儀式に至るまで一生を通じて仏事に守護されている観があった。そしてこのように公私生活に不可分な行事として組みこまれた仏事の作法は、古来からの民族的宗教儀礼を融合してしまって、その原形であった唐朝仏教儀礼と異質の形式と内容に変容してしまい、平安貴族生活の体系の中枢をなしている。寝殿造建築が唐朝の宮殿建築と全く別形態であるように、また平安貴族の礼服や朝服が唐朝服製から変態してしまっているように、仏事もまた平安貴族生活に根底をおいた倭習俗 として形成されていたのである。
この仏事に参列することは、原理的には宗教生活であるはずであったが、行事化された仏事はもはや世俗習慣に変貌し、しかも貴族の奢侈生活の方便ともなっていたので、寺院・宮殿・私第における諸法会は、祈願と礼拝のための仏教的壮厳と同時に富貴を誇る貴族生活の装飾の場でもあった。平安貴族の奢侈生活の内容は、苑内における歌舞管弦の遊びと室内においての詩歌琴棋の慰めに限定されていたのであるから、その装飾の方向は室内の美的生活であった。遊芸のちがいによって多少の差があったにしても、室内を装飾するための諸工芸と書面によることが装飾手段であったから、平安貴族はこの生活美術の発達を促がした原動力であったわけだが、仏事法会の場も、この室内における享楽生活の一種であったと言ってもよかろう。すなわち美的法悦にひたるための仏事であった。逆に言えば、仏教行事が世俗美術の振興を促がしており、同時に仏教美術自身が世俗美術化してゆく宿命におかれていたのである。この関係を最も象徴的に示しているのが、藤原道長の法成寺の建立であろう。貴族の造寺造仏は以前からあったことはもちろんであるし、基経は極楽寺を、忠平は法性寺を、兼家は法興院を発願しているが、道長は寛仁三年(一〇一九)に大病平癒の謝恩のために土御門第の東隣に阿弥陀堂を建て始めた。
道長は一条・二条・枇杷邸などの諸邸を構えていたが、室・源倫子が持参してきたこの土御門第が最も豪壮であったが、長和五年(一〇一六)に焼失すると、諸国司に分担させて再建させた。源頼光が土御門第の家具調度のすべてを調達寄贈したことは有名な史実である。それこそ、当時の一流工人である細工・木道者が丹精をこめて作ったところの手篋・硯箱・枕筥・櫛筐・厨子・唐櫃・几帳足・屏風骨・燈台・仏台・花机・経机・高座・礼盤・大盤・高杯・脇足(新猿楽記)を初めとする万般の生活用品であった。その東隣に正面十一間の阿弥陀堂を建て、さらに金堂や五大堂以下の諸堂塔を方四町の寺域に営んで法成寺と号して治安二年(一〇二二)に落慶供養を行なったのであるが、境内には道長の寝殿造邸宅が建っていたばかりか、堂宇の配置も寝殿造形式に準じていたので、世俗邸宅と同じ苑池 つらえられていた。寺院と私第とを兼ねた新らしい形式であるわけだが、先祖が建てた極楽寺・法性寺・法興院において、すでにその萌芽があったとみてもかろう。こういう僧俗両生活が合体した第三生活が三昧生活であると考えることができないであろうか。もしそれが許されるとするならば、奢侈的な世俗生活が形式化するにつれて唯美生活にたどりついたのと同じように、半俗半僧の三味生活は唯美生活を質的転換させた美的法悦の境地にひた る場であった。したがって堂塔の内外の壮厳も仏教規範をこえた世俗装飾の領域に入ってきていたことは、文献や 僅かな遺作が証明しているところである。
この平安貴族の宗教的新生活を理論や実践の上で可能にさせた根拠は、源信によって確立された浄土教であった。この平安浄土教は天台宗と中国浄土教とを折衷して、阿弥陀仏の本願を信ずれば在家生活のままで救済されることを強調しているのが特色なのであるが、貴族はもとより、とくに庶民を説得するためであろうか、現世は穢土で来 世は浄土であることを細かにのべ、念仏によって浄土に極楽往生ができるという他力救済説であった。しかし貴族の奢侈的な生活感情は、浄土教本来の臨終の意義を重んずることよりも、目前に極楽浄土を現世で実感する欲望を満たす方法に重点をおくようにすりかえられて、法会祈禱の壮厳と造寺起塔の盛大と造仏写経の豪華を競うところの形式的な信仰実践面が重視されてしまった。法成寺の建立もそうであり、寛弘四年(一〇〇七)の金峰山埋経もそうであった。その一端を具体的に語っているのが藤原頼通の別荘における阿弥陀堂、今の平等院鳳凰堂であろう。この道長の僧俗両生活の絵画的要求に応じた代表者は、法成寺の仏画をかいた延円と世俗画の巨勢広貴、仏像を造った康尚とその子定朝であった。定朝が治安二年(一〇二二)に造仏師として最初の法橋に叙せられ、教禅が絵仏師として治暦四年にやはり後の法成寺に百体の丈六像を描いた功で法橋になったのも、すべて貴族の欣求浄土感を満足させるために、地上に極楽世界を再現した功績に対する報償に他ならぬのである。そういう意味では、藤原道 長以後の平安仏教美術はほとんど浄土教美術に特色があったとみてよいし、世俗美術は奢侈生活を飾る造形物であ ったと言ってよかろう。

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唐絵と倭絵

唐朝の宮殿や高官邸宅における大画面絵画の実情は、遣唐使その他の入唐者が実見しているであろうし、また中国ではそれらが漢代から歴代王朝が図巻に縮写して秘閣に保存していて、時には入唐者にその模本を下賜して王朝の偉容を誇示していたりしているから、日本の入唐者は流布する模本を請来して朝廷や貴族に献上し、それによって平安宮殿の大画面が製作されたのであろう。 上にあげた内裏の画題の他に、宮殿や邸宅で描かれ中国の画題を記録によって拾うと、人物風俗では老子像・大将軍像・白居易像・道士図・胡人師子図・偃息図、故事物語としては孟嘗君図・李広射石図・養由射猿図・伯楽蓬塩車図・竹林七賢図・長恨歌図・白沢王像、山水風物には蓬萊山水図・漁父図があり、正確な図様は不明だが坤元録・大宋・楽府・漢書・文選・文集などの屏風があった。これらの画題と平安貴族生活との必然性はほとんどないのであるから、好奇心によって無計画に取り入れたにすぎないと思うけれども、これらの平安時代絵画は、中国で育成された画題を中国画家が描いた構図と画法の通りに忠実に平安画人が再現していたのである。すなわち平安時代の日本製の唐朝画という意味で、これらを当時の人は唐絵とよんだのである。なおこれに関して注意しておかなければならぬのは、以上の唐絵は主題上では仏教や儒教や道教と関連しているのがあるにしても、宗教絵画として描かれているわけではないということである。まして礼拝画ではなかったのであるからして、宗教や道徳による規範絵画ではなかったということは、それは世俗画であったということに他ならぬ。平安貴族は公私の世俗生活を営む場において、唐朝の世俗画を使っていたという結論になるわけだが、そういう二重生活を矛盾と思わないほど唐朝文化に心酔していたのであるし、その限りでは矛盾ではなかったと認めるべきであろう。
大陸金属器文明の洗礼を受けた先史時代から平安時代前期までの日本文化の源泉は、すべてが大陸、とくに中国からの伝来であった。奈良時代を中心にした造形物に限定して言えば、唐朝からの輸入品が文化の中核であった。それを平安時代の用語で言い直すならば、唐物が先進文化であったわけだが、その唐物の模造品または類似品を日本で造った場合には、それをどうよんだのであろうか。造形物としての形式や性能や用途が同じであって、単に産地がちがっているだけであるから、それらは唐物とほとんど区別がつかなかったにちがいないので、これを同じく唐物と称しても差支えなかろう。したがって、輸入唐朝物を唐物とよんだ他に、唐朝風の日本製品をそうよぶこともあったかもしれない。しかし「日本書紀」武烈紀に出る唐墻という言葉は、以前からの土俗的な日本の墻と区別 している唐朝式の墻であるにちがいないからして、墻の用途目的は同じであっても形式が日本と異っていたことを物語っているのではなかろうか。この解釈を適用するならば、奈良時代によく表われる唐櫃と倭櫃、また倭琴、平安時代の唐鞍と倭鞍との区別は、単に産地が別であることと形態が同じでなかったから、区別したのではなかろうかと思う。例えば「万葉集」に現われる倭歌なる言葉が漢詩・唐詩と全く別種の形態の詩歌であるように。
ところが絵画の場合に限っては、奈良時代はいざ知らず平安時代中期からは、舶来唐朝画とそれを模写した日本の絵画との両者を共に唐絵とよんでいることが明白に証明できるのである。絵画だけなぜそうであるかを考証することができる史料はないのであるが、近代以前の日本の絵画における最も重要な項目は画題とその図様と構成とであった。これを二つに縮めるならば画題と構図と言ってよかろうが、その二大根幹を踏襲して舶来のほんものの唐絵を日本で描いている限りは、やはりその日本製絵画をも唐絵とよぶことに抵抗を感じなかったからであろうと思う。事物を描写再現することに大きな意義を認めていた時代の絵画としては、画題と構図こそ、絵画の両極であったのだから、その二つが唐絵と同じであれば、それを唐絵の類に包摂してしまったのであろう。そういう意味では、古くは玉虫厨子絵から法隆寺金堂壁画と聖徳太子像、さては神護寺両界曼荼羅に至るまで、日本製であるとは言えみな唐絵であるし、とくに奈良時代の画人の多くは大陸帰化人の一世から三世が多かったのであるから、そう受取必然性は十分にありうるわけだ。かの空海が長安の宮廷画家李真に描いてもらった真言五祖像はもちろん純粋な唐絵であるし、それに基づいて弘仁十二年(八二一)に平安京で追画した龍猛・龍智二祖像もまた日本製の唐絵であるというべきであろう。これは現代における推定的な決め方であって、平安極初期の九世紀前半に唐朝風の日本の絵画をも唐絵とよんだ文献は見あたらないことは、前にもふれた通りであるし、かつまた、純粋な仏画を唐絵に含めることにも問題がある。
ところが平安時代中期になると、倭絵なる用語が使われだす。現在では長保元年(九九九)「内権記」(十月十三日條)の記事が最も古いのであるが、それ以後は唐絵と並んで倭絵が頻繁に使われて江戸時代に至っている。倭絵という言葉が必要になったからであるにちがいないからして、唐絵と質の異なった絵画が誕生したことをそれは意味する。画面形式や絵具の差異ではなくして、やはり絵画の根本である画題と構図が唐絵とちがっている絵画が発生したからであろう。その倭絵発生の初期的現象をいちばんよく立証しているのが「古今集」であるが、しかし古今集の倭歌そのものを画題にしているのではなくして、屏風絵を歌題として詠んでいるという逆の現われかたが多いのは多少の難点であるにしても、結果的には倭歌の主意と同じく日本の風景と事物を描いていることは明瞭であるからして、唐の風景と事物とを描いていない絵画、それは必然的に画題と構図が唐式でなくて日本の自然に取材している絵画であるがために、一見して唐絵と区別できる絵画であったればこそ、これを倭絵と名付けたのであろう。「古今集」は延喜五年(九〇五)の勅撰であるけれども、その倭歌の詠者の生存年代が基準になるのであるから、唐絵の題材と構図とは別の日本の風物を描いている倭絵が一般的になりだしたのは、九世紀中期の清和天皇期ごろと推定してよかろう。それは小野篁などによって倭歌が復活される曙光と軌を一にしているように思えるし、また倭歌の運命の上に倭絵が築かれていると考えたいのである。そして六歌仙時代をへて倭歌の黄金期を迎える天暦の時代、「後撰和歌集」を撰進する勅命があったのは天暦五年(九五一)だが、その前後において、この倭絵も第一次の完成をとげて唐絵と対等に評価されるほど発達したとみてよいのではなかろうか。

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第四節 美的生活

顕教の密教化

奈良仏教の中にすでに密教が混っていたことについては既述の通りであるし、またその奈良仏教そのものが現世利益を強調することで国家と結びついていたのであるから、その験力を高めるためには山林の寺院での修行を説く者が現われており、それが最澄を生む原因にもなっているのだが、その最澄と空海が本格的な天台・真言を伝えてから、とくに空海が東大寺と大安寺の別当になると、奈良の僧侶に与える影響が著しかった。また南都仏教自身においても、宮廷や貴族と再び接近することによって寺門の繁栄を計らねばならぬという内部事情があったので、それがためには貴族社会の要求する密教を南都諸大寺が進んで摂取しようとする計算がとられたのである。かの東大寺の聖宝、法隆寺の道詮、広隆寺の道昌などは藤原良房時代において顕教の密教化に努めた高僧であった。その結果は、南都の僧侶は顕密兼修をし、南都寺院は修法の霊験を競うようになった。後にふれるように、顕教寺院の中に、原理的には相容れない密教美術が奉安されていたりするのを見うけるのは、そのためである。
がんらいが藤原氏の氏寺である興福寺も密教化していった。桓武天皇の勅を奉じて平安京を選定した賢憬は法相を極めた興福寺の高僧であるとともに最初の登檀受戒者であるが、その弟子の修円は最澄や空海と親交があって密教に精通し、さらにその弟子徳一は天台を奉じて東北地方に教勢を広めたのである。さらに藤原道長時代の真興は金剛峯寺に南院を開き東三十六流の一である子島流の祖となって、密教と法相とを調合した代表者である。この賢憬は宝亀九年(七七八)に室生寺を創建したが、さらに修円が来住してほぼ形式が整えられたと推定されている。
したがって現在の金堂も五重塔も、八世紀末から九世紀にかけてのころであろうというのが建築史家の最近説である。当初の金堂は入母屋造りであったが、正面に礼堂を付け四注の屋根に改造されたのは江戸時代である。その内部の広さは、身舎の梁間が三・六四メートルにすぎないのに、庇が広いからして、仏壇場よりも礼拝場のほうを大きくしようとしている意図があるわけだが、それにしても金堂としては小造りであり、またそれにふさわしく五重塔も、異形の姿なりに調和がとれていて、室生の山林の中に程よく配置されている。おそらく山林修行を重んずる構想のもとに作られたのであろうが、いつ正規の密教寺院になったのかわからぬけれども、もともと祈雨の龍穴信仰に基づいて建立され、貞観九年(八六七)龍王寺と号しているからして、すでにその頃は密教の専門道場であっ たにちがいないし、前にのべたように金堂の後板壁に描かれている帝釈天曼荼羅がそれを証明している。したがって現存する金堂内の釈迦像を中心として並んでいる十一面・文殊・地蔵・薬師像の計五軀も密教系尊像として、そのころに製作奉安されたと推定されている。この五体の大きさや金堂内陣の広さなどからみると、中央の釈迦立像だけが本尊であったのであろうと想像されるが、五軀の中では釈迦と十一面の二像がとくにすぐれているようであ る。いずれも一木彫成による重厚な迫力をもっているけれども、体軀の比例が調和を保ってきており、褶襞を表わす飜波式衣紋の畳み方と流れ具合に律動性をおびてきていることなどは、これ以前の一木彫成像の特質である塊量性による圧力的様式を薄めようとする意図が加わっていると認めてよかろう。むしろ、今までの一木彫成像に形式美を与えようとする積極性があると言うべきである。そういう意味では、一般に弘仁彫刻または貞観彫刻とよばれている平安前期彫刻が、この室生寺彫刻において仕上げられたと解釈すべきではなかろうか。それとともに、その製作時代も貞観年間(八五九─八七七年)を上らないで、九世紀末期と考えたいのである。

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第三節 貴族美術

宮廷生活

桓武天皇は律令体制を建て直すために内政の改革と財政の緊縮と仏教の粛正に着手した。長岡や平安への遷都や延暦八年(七八九)の造東大寺司の廃止などはその政策の一端であるが、しかし蝦夷遠征と新都造営の二大事業のために国費の大半を費やしているので、終に延暦二十四年にこれを打切ってしまった。平城天皇もその施策を受けついで緊縮財政と民政安定に重点をおき、大同三年(八〇八)に画工司と漆部司を内匠寮に合併して機構を縮小したのも、政務の能率を高めるための改革であった。その効はしだいに現われ、次の嵯峨天皇の弘仁年間(八一〇─八一三年)は政治的に安定をもたらした上に、前代からの文教政策を強めて文事に堪能な政治家を登用したので、唐朝的な文芸が宮廷と貴族間に勃興してきた。弘仁九年に朝廷の儀式や衣服を唐法に従う詔書が出されて、内裏の宮殿と諸門や平安京条坊を唐風に改名し、空海や橘逸勢の能書家に額を書かせたりしているのもその具体化である。嵯峨天皇から位を譲られた淳和天皇の天長年間(八二四─八三三年)と、その後の仁明天皇の承和嘉承年間(八三四─八五一年)は両上皇の在世期で、やはり前代の政策を継承している政情安定期であったがために、文芸がますます盛んであったことが、嵯峨天皇の勅撰による「凌雲集」と「文華秀麗集」、淳和天皇勅撰の「経国集」が編纂されて いることでわかろう。
いずれも漢詩文集であることはことわるまでもないことだが、その背景には遣唐使の派遣とかれらが請来してく唐朝文化への絶大な憧憬があることを忘れてはならず、また未知の神秘的な新文化をたずさえてきた最澄と空海が文芸をもってまず最初に宮廷貴族に接近していったという知恵も、そこに理由があるのであるし、ひいては天台・真言両宗が急速に貴族間に滲透してゆくのも、あるいは求法入唐の諸家が続出するのも、朝廷における唐朝文化への崇拝を前提にすることによって、よりよく理解できるのである。平安時代後期からの定評であるけれども、上記の空海・逸勢・嵯峨帝を三聖とよんで名筆を讃美しており、空海将来の「三十帖冊子」が現代まで珍宝とされており、貞観十七年(八七五)の神護寺の銅鐘が三絶の鐘に数えられているのも、橘広相の序と菅原是善の銘と藤原 敏行の書があることが与っているのではなかろうか。
そういう意味では、平安前期の九世紀における宮廷と貴族の生活は、奈良時代と同等に、むしろそれ以上に唐朝文化への傾到が濃厚であったと考えてよかろう。むしろ唐朝文化の理解や味識が奈良時代以上に深まっていた上での没入であったから、唐朝文化の吸収力はいっそう効果的であったのではなかろうか。しかし、当代のそれを実証するに足る宮廷的美術が一つも遣っていないのであるが、その立場で唐朝と日本の密教美術を比較するならば、今までに指摘されている以上に親近性が認められるのである。当時の文化や生活がいかに唐朝的であったかを示す唯一の作品がある。延喜唐櫃とよばれている箱の一種が教王護国寺にある。身の四方が褐色に変っているけれども、これを赤外線写真で撮影した図が紹介されていて、当時の絵画資料として重んぜられている。この図様は日本でい丸とりと鶏合せ、すなわち唐朝の見世物である弄丸と闘鶏を唐朝人物が行なっているのであるから、延喜唐櫃の名の如くおそくとも延喜年間(九〇一─九二三年)の作品であるからして、そのころの宮廷・貴族・寺院の什器装飾図さえも、これほど唐朝的であったという証拠になるので、その他は推して計るべきであろう。これよりはるか以前の弘仁四年(八一三)に嵯峨天皇が催された清涼殿の宴に使った什器は一切が漢土の法に従ったとあり、その環境と雰囲気の中で唐朝式詩歌管弦の雅会が開かれたのである。またそれは公儀においても唐式に則っていたのであるからして、こういう唐朝的宮廷生活が貴族生活にも波及して、その結果として唐朝風俗を描いた唐櫃が生れてきているのである。むしろ唐櫃に関しては、唐製櫃の模造であるのかもしれないほどだ。

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第二節 木像の発展

奈良彫刻の変貌

東大寺法華堂の諸像で代表されているように、奈良時代の仏像彫刻は人形を理想化した外形と学問仏教にふさわしい円満な内容とを具えているのが特色であるから、形態上では調和と整正の美があるといえよう。ところが、鑑真が没した宝亀七年(七七六)前後にほぼ完成したと推定される唐招提寺金堂の仏像彫刻は、丈量が大きいというだけではなくて雄偉な相貌と力量に満ちた体骼によって渋な圧迫感をたたえていて、東大寺仏像群とは全く対蹠的な様式である。唐招提寺が律宗であること、製作上の指導者が唐朝仏師であったこと、しかもかれらが江南仏教美術になじんでいたこと、その上に国家仏教の統制から独立して教学と教壇の主体性を強めようとする権威確立の願望があったことなどが混合して、反東大寺様式の、言いかえれば反奈良時代的様式の仏像が生れたのであろうと納得できるのである。しかしこの金堂像ともまた違った数体の像が講堂に残っている。薬師如来・不空羂索観音・衆宝王菩薩、四天王や頭部を欠く像などであって、相貌には海渋さは認められないけれども、肥満した胴体を塊量表現で処理しているので、肩から胸にかけて、あるいは腰から大腿にかけて盛り上った人体の体力的な威圧感をたたえている。そしてこの重量感を整えるためであろうか、上体から足まで連続した衣褶線を併行的に刻みこんで律動的な流れを出しており、しかも大波と小波との高低のある襞が交互に刻んであるからして、これは後にもっと洗練されるいわゆる波式衣褶形式にあたるわけである。これら諸像がみな木像であることは別に不思議ではないけれども、一本の太い木材から全身を丸彫として刻出している一木彫成像であることを注意しなければならぬ。この講堂諸像の製作年代についての実証的史料はまだ発見されていないけれども、奈良時代の最末期から延暦年間にかけてであろうというのが建築史界の通説である。
唐招提寺講堂像ほどには塊量表現がないけれども、やはりその類型に属するのが大安寺の楊柳観音像などの五体の観音像と四体の四天王像との一木彫像である。奈良時代の章でふれたように、奈良時代末期の大安寺は鑑真と関係が深く、その上に官寺でありながら密教の拠点でもあったので、この唐招提寺と大安寺において一木彫像の塊量性豊かな特殊な仏像が造られだしたのであろうから、作者は恐らく唐招提寺の唐朝系仏師と同じではないかと想像される。木造が急増してきた原因は財政的にも時間的にも経済的であったからであると考えればよく理解できるのであるが、この一木彫成法という技法と塊量的な様式とはどこから生れてきたのであろうか。 飛鳥時代から木像はあるのであるから、一木彫成法も自然発生的に創造され得ると考えてもよかろうが、唐朝後期には北方でも南方でも一木彫が盛んになってきたことは、今も西安博物館などに林立する仏像で証明できるからして、やはり鑑真随従の仏師の特技であったのではないかとみたほうが穏当であろう。また唐朝一木彫像は同じように量感のあふれた様式であるから、それに密教的または律宗的教意を加味すると、こういう様式になるのではないかと思う。
このように遺作の上だけからみると、少なくとも延暦年間になると反奈良時代様式の一木彫成像大安寺と唐招提寺で生れてきているという結論になるのであるが、仏像彫刻界ぜんたいがそういう傾向に進んでいたことを新薬師寺の坐像と神護寺の立像との両薬師如来が物語っている。天平十九年(七四七)に創建された新薬師寺は宝亀十一年(七八〇)の雷火で焼けたので延暦十二年(七九三)に再建されたのであるから、いま本堂になっている堂は当初の何堂であったか不明であるし、また再建時の堂宇ではないかという説もあるほどだが、その本尊薬師は、ぐるりに配置されている十二神将塑像とは全く異質の反奈良時代様式であるがために、恐らく再建された時の新造仏であろうと考えられている。高さ一・九メートル余の大像を一木で彫出していて、両腕も頭部も体部も巨大と言ってよいほど誇張された雄偉な姿体である。十二神将像などの東大寺様式をいかに修飾してもこの様式とはつながらないので、唐招提寺木彫群との関係でその発生を解釈しようとする説が行なわれている。一木彫成技術と力量表現という点ではたしかにそうであろうが、唐招提寺金堂の巨像群にみられる晦渋な様式をさらに深めて神秘的な威容にまで変化させているのは、様式に対する要求が唐招提寺や大安寺とは別の種類であったからであろうと考えたい。がんらい薬師如来は現世と未来の二世の福徳を加護するために飛鳥時代から崇信されてきているが、奈良時代に現世利益思想が増大するとともに、衆生の無明の病を治するはずである薬師像に向って具体的な厄難消除を祈願するようになってきた。天平十三年(七四一)に造られた国分寺に薬師像がおかれたのもその ためであり、この新薬師寺の最初の本尊は薬師の変化である七仏薬師像七軀であった。最澄の持仏堂すなわち後の延暦寺根本中堂は薬師を安置していたのであるし、空海もそうであって、やがて天台修法の七仏薬師法が成立するに至るのである。

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壇の建立と遺品

このようにして、九世紀前半期の唐朝仏教美術の一部である密教美術が日本に移植されて、日本の密教寺院を中心として平安朝仏教美術の中核となった日本密教美術が発達することになったのであるが、当時の中国においては、天台宗は江南地方が地盤であり、真言密教は唐朝でもまだ初期の段階であった。九世紀の唐朝、いわゆる晩唐時代は唐帝国の崩壊期にあたり、円仁も会昌の難に遭遇しているように仏教排撃の傾向をおびてきているけれども、唐朝の美術及び仏教美術はしだいに現実主義的様式に向っていて中唐時代とはかなり変化をとげつつあったので、それを学んだ平安前期の密教美術は、中唐の宮廷と寺院の美術で育成された奈良時代美術とは異質の美術として現出するのは当然であるし、いわんや教義的にも寺院礼法的にもひじょうな相違をもっている密教美術においては、奈良の顕教美術とは二重の異相をもっていたわけである。
最澄が比叡山中道院で没した弘仁十三年(八二二)には多宝塔はできていたけれども、講堂は天長元年(八二四)、戒壇院は同五年であることや、その後のたびたびの火災などのために、初期の天台寺院における美術と堂塔との連関を具体的に知ることができないのであるけれども、真言寺院では本寺格の金剛峯寺と教王護国寺(東寺)に、とくに後者に遺品が多いからして、堂内の仏像配置計画を復元的に回想できる。金剛峯寺の金堂には阿閦如来を中尊にして金剛薩多・金剛王・普賢延命・虚空蔵の四菩薩と不動・降三世の二明王との七体が安置されていたが、昭和元年(一九二六)に焼失してしまった。金堂が完成したと推定される天長元年(八二四)ごろには造られたのではないかという説が行なわれていたほど初期の像であるが、そして七体で完結していたわけではなくて金剛頂経のどれかの儀軌に基づく仏像布列が企だてられていたにちがいないが、諸障を消除し福徳智恵を成就する虚空蔵菩薩があるのは興味深い。インドの新密は開元五年(七一七)に唐にきた善無畏が大日経と虚空蔵求聞持法とを漢訳したのに始まるのであるが、当時、入唐していた大安寺の道慈がそれを日本に伝え、さらに奈良時代の山林 仏教の中でこの虚空蔵求聞持法が厳修され続けてきて最澄や空海に影響を与えたのである。空海は唐都長安で、その善無畏の孫弟子である恵 果に正統密教の相承を許されて帰国したのであるから、この因縁のある虚空蔵菩薩が最初の道 場である高野の金堂に造顕される必然さをしの ぶことができる。
空海の意志をもっと具体的に立証しているのは教王護国寺講堂の諸尊である。「東宝記」によると、淳和天皇不豫のために堂と二十一尊を造って祈願しようと天長二年(八二五)に建て始めて、空海の図様指示があった。五仏・五大菩薩・五忿怒尊・梵帝天・四天王であって、これは金剛界曼荼羅の中央の羯磨会を彫刻で建立したのである。承和二年(八三五)に空海が死んだ後は東寺長者になっている実恵が続行して、承和十一年(八四四)に御願新造真言仏像供養料が東寺造寺所に下っているからして、すでに完成していたとみてよかろう。現在は中尊を除く五大菩薩四軀と五大明王五軀と梵天・帝釈天二軀と四天王四軀との一五体が最初の姿を留めている。五仏の正法輪は五大菩薩、教令輪が五大明王であるが、この明王が提説されたのは真言密教においてであって、劔輪を器に持ち、蛇身や虎皮で厳身して、忿怒の畏相を現わしているのが特色である。この密教独自の彫像とともに、曼荼羅を壇上に敷いたり壁面に懸けたり、あるいは明王画像を垂下したりして、道場の神秘的な壮厳をいやが上にも盛り上げた曼荼羅壇で教法通りのいわゆる如法供養を勤修することによって教団を強め教勢を拡げていったのである。「性霊集」によると、空海は恵果阿闍梨から伝受された李真筆の高さ一丈六尺の両界曼荼羅など計二六鋪を弘仁十二年(八二一)に模写したり新写したりしているが、それらはこのような供養の道具であった。東密ではこの恵果伝受の曼荼羅を根本にしていたが、請来本は真言院の火災の時に焼失し、第二伝の模写も傷んできたので、俊証僧正が建久二年(一一九一)に勝賀をして新図させたのが部分的に現存している。
帰国後の空海はしばらく高雄山寺に滞留していたが、天長元年(八二四)に神護寺(神護制作)と改め真言寺院としての規模を整えてゆくのであるが、この神護寺灌頂院の曼荼羅として空海が指示して描かせたのが赤紫綾地に金銀泥でかかれた大幅の両界曼荼羅である。淳和天皇御願と「神護寺実録帳」などにあるからして、遅くとも天長十年(八三三)にはできているわけであるが、請来曼荼羅は彩色であるから、空海独自の構想があったがためか、やはり根本曼荼羅として尊敬され、また高雄曼荼羅とも俗称されているが、現物は剥落がひどくて図像も画法も十分には認め難い。しかし曼荼羅は密教教義の具体的な標識であるから、その造画が盛んであったようだ。空海が東大寺に真言院を建てたのは弘仁十三年(八二二)であることでわかるように、南都仏教もますます密教化し、また承和元年(八三四)には唐朝の内道場にならって宮中にも曼荼羅壇を築いて宮中真言院を建立して貴族の保護をうけている。かくして同四年には諸国に真言僧を派遣して流布を計り、同八年には金剛峯寺が定額寺となり、嘉祥三年(八五〇)には帝釈天像百鋪を描いて畿内百ヶ寺に安置し、さらに清涼殿で七仏薬師画像を本尊として薬師法が修されていたりするから、密教の拡大と密教像の造頭とがいよいよ盛大になってきたことが知られる。その一端を物語っているのが室生寺金堂にある板絵の帝釈天曼荼羅であろう。縦三・四八メートルの板五枚が後壁に嵌めこんであって、そこに帝釈天一体とそのぐるりに小帝釈天百体が布列してある。この金堂は延暦元年(七八二)には完成されていたとする推定説が有力であるけれども、壁画は他堂から持ち込まれたのであることと、画法と様式が奈良時代でないことも明らかであるから、おおまかに平安前期の九世紀の作とするのが通説であるが、その明快な色彩などから判断すると、九世紀も後半期におきたいような気がする。それにしても、室生寺は興福寺の賢憬が開基であるから、南都仏教系寺院の密教曼荼羅として意義があるわけだ。

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第五章 平安時代

第一節密教美術

平安京の造営

仏教美術と宮殿美術の盛大さだけからみれば、天平時代はいかにも律令制国家の黄金時代であったけれども、政教両界にはすでに弛緩と頽廃がかもし出されていた。その律令体制の矛盾が現われかけてきた宝亀元年(七七〇)に即位された光仁天皇は、皇太子と共にその改革に着手し、それを皇太子すなわち桓武天皇もうけつがれたのである。その一環として延暦三年(七八四)に山背国の長岡への遷都が決って直ちに実行された。延暦五年には主要な朝堂が完成したのであるが、その後の経営は順調でなかった。そして延暦十二年さらに山背国葛野郡宇太村に東西四二町・南北四九町の新都を建設することになり、同十三年十月に遷都が行なわれ、山背国を山城国と改め新都を平安京とよぶことになった。宮城や城内の諸形式は平城京と同じく唐都長安を模倣していて、ぜんたいは平城京より少し大きかったが、延暦二十四年(八〇五)に平安京の造営が打ちきられてしまったので、初めの計画通りには完成しなかったようだが、遷都してから三〇年ほど後の記事に、京は五八〇余町あると書かれているのに基づいて、千二一六町の計画に対して半分近くしかできていなかったと解釈する説が歴史家によって出されている。
しかし宮都が美術と深い関係をもっているのは、市街でなくて宮城と寺院とであるから、まず宮城の建設はどうであったかをみなければならぬが、この宮城すなわち平安期の用語で言えば大内裏には政庁である建物と内廷すなわち内裏の建物との二種類があった。政庁の中では、天皇が政務をとり大礼を行なう大極殿は延暦十五年(七九六)には竣成しているが、大嘗会や節会などの饗宴を催す豊楽院はまだ完成されていなかったけれども、その仮殿はひじょうに壮麗であったとあるからして、朝堂の正殿である大極殿と豊楽院の二大殿は十分な壮厳が施されてでき上っていたとしてよかろう。また内裏では、正殿である紫宸殿と仁寿殿、常の御所である清涼殿と女御などの後涼殿はできていたにちがいないし、その他の殿舎もかなり営まれていたとみるべきであろう。中国の宮城ほどではないにしても、もし正規の通りに大内裏と内裏が完成していたならば、数十の大小殿舎が建ち並んでいたはずであって、その景観は平城京の宮城も同じであるけれども、東西八町・南北一〇町の宮城にたつ諸殿舎の内外、とくに室内の美術的壮厳は平城宮よりも盛んであり、またいっそう発達してゆく過程にあったのが平安宮城の特質であり、またそこに宮殿と宮殿生活が平安時代の世俗美術を育成する最大の基盤となったわけである。この都城の建設の担当官省は、時代によって名称が変わるけれども造京司が責任をもち、各省に属する木工寮や内匠寮や修理職が技術家を動員して造営と営繕に当ってきているのであって、平安京の場合は初めに藤原小黒麻呂が、ついで和気清麻呂が造宮使長官に任ぜられている。

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第一章 バガン

ビルマ全土の仏教遺跡のうち、もっとも魅力あふれる聖地は、バガンである。ビルマ族の第一次ビルマ帝国といわれるバガン王朝の都であった。この王国は一一世紀より一三世紀にかけて、約二五〇年間、栄えた。王たちは全部で一四代続き、正確には一一代目のナラティーハパテ王の治世、一二八七年、元の世宗、クビライカンの蒙古軍の侵略 にあい、崩壊した。諸王は競うかのように、仏塔・仏寺の建立にはげみ、バガン王国はビルマ第一の黄金時代として繁栄した。
バガンはビルマ中部、エーヤワディー河の東岸に都城跡があり、その内部、およびその東側と南側との大平原に、多くの仏塔・仏寺が建てられた。これらは人の住まない遺跡として、また現在いまだに生きる人々の信仰の場として、残っている。その数は、昔々、約五〇〇〇もあったと言われ、現在、約二〇〇〇もの遺構が、大平原の約二六平方キロメートルの地域内にちらばる。その光景は、一見するなら、実にすばらしく、壮大なもので、世界中から訪れる観光客によって、称えられている。
バガンの古名は「アリマッダナプラ」と呼び、征敵の都城を意味する。バガン王朝以前には、すでに二世紀始めより五五代も続いてきた王たちがいたと言われる。しかし、碑文などで立証される正式な初代の王は、アノーヤター王として知られる。王は一〇四四年に即位し、バガン都のはるか南南東にあるタトンを攻略し、その地より上座部仏教を受容した。それ以降、諸王は上座部仏教を信奉し、バガンはまさに、当時の東南アジアにおける上座部仏教信仰の中心地となっていた。
バガン遺跡の偉大さは、第一にその仏塔・仏寺の多大な数にある。そして第二に、この地域が乾燥地帯であったために、壁画が大変によく保存され、東南アジア第一の壁画の宝庫となっている。

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5. 共通した作風を見せるタミル地方出土の石彫仏像(2)

以上、11、12世紀の制作と推察される一群の石彫仏像についてを紹介した。一方、インド深南部には異なる作風をもった複数の仏像を見い出すことができ、それらの中には同地方において仏教信仰がいつまで 続いたかを伝える重要な作例が含まれている。さて現在、同地方における仏教関連の出土品の中、最も時代が下る作例の一つとされるのがチェンナイ州立博物館に展示される金属製の仏立像である。像高67cm、台座と光背を含めると高さ105.5cmを誇る同像は、かつてタンジャーヴールの町で礼拝されていたもので、ラーマチャンドランは以下のように解説しているまず同像は長方形と円形の蓮華座を組み合わせた台座に立ち、本尊はキールティムカを頂上にもつ光背で囲まれている。同像の右手は施無畏印、左手は与願印を結び、いずれの掌にも花文様が見える。また仏陀は布端を畳んだ大衣を纏う。同像において顔は卵型、鼻はワシの嘴のように曲がり、先端が尖る。同像の眉間には白毫が確認できる。頭部は6列の螺髪で覆われるが、それぞれの螺髪は実際の巻き毛を表現したというよりは装飾的に描かれている。また、5つの火の舌からなる炎の表現が頭頂部にのる。一方、作風についてラーマチャンドランは、同像が入念なモデリングで制作されてはいるが、顔には表情が欠け、制作年代については16世紀後半とみなしている。なお、同仏立像に関してデヘー ジアは平板状に表わされた螺髪、巨大なサイズの炎の突出部など、同像の極度に様式化された表現に注目、制作年代については16世紀と推定している。
さて、材質の違いはあるが、同仏立像と非常に近い作風をもつ石彫仏像がタミル・ナードゥ州には複数、見られる。カーンチープラムから南に13キロ離れたアールッパーッカム(Arppakkam)村には現在、ヴィシュヌ派のアーディケーサヴァ・ペルマール(Adikesava Perumal)寺院がたち、その境内で石彫の仏立像が一体、保管されている。馬蹄形の石板に仏陀の姿が高浮彫りされたもので、その偏袒右肩の大衣はくるぶし近くまで垂れ、膝下には大衣の下端が描かれる。また、大衣の端は一部が畳まれ左肩から下がり、余り布は左腕にかかる。頭部は下部両端に丸みがあるアーチ状の頭光を抱いている。頭光の内周縁には蓮華の花弁が並べられ、石板の最上部には正面向きのキールティムカが表わされる。同仏立像は顔面の磨滅が激しく、細部の確認は難しいが、弧を描く弓状の眉を見ることができる。開眼したアーモンド型の目はひときわ大きい。また、チェンナイ州立博物館の金属製仏立像同様、耳朶の下端は肩の上まで届いていない。頭部は螺髪で覆われるが、水平に並んだ螺髪は様式化された表現をもつ。なお、上に紹介したチョーラ朝後期の仏像において、頭頂部と炎の境目には1列分の螺髪が隆起、炎の台座のような形を成していたが、16世紀と推定されるチェンナイ州立博物館所蔵の仏立像、また同寺院の仏立像では炎が直接、頭頂部に接している。同寺院の石彫仏立像とチェンナイ博物館の金属製仏立像で特に近い表現は体躯の描き方である。いずれの像においても大衣の薄い衣が体に纏わりつき、衣を透かして量塊的な肉 体が表わされている。発達した胸部の筋肉は盛り上がりをみせ、腹部は前面に隆起しつつ、弧線で下腹部の窪みが明瞭に示される。また大腿部の付け根に溝を刻んで鼠蹊部が表わされ、張りのある逞しい太腿が描写されている。以上のような身体表現は極めて肉感的かつ写実的で、様式化された顔貌とは対照的な表現である。チェンナイ博物館所蔵の金属製仏立像、アールッパーッカムの石彫仏立像においては、このような相反する表現様式が1つの身体の上に共存し、一見、奇矯な印象を与えている。同時に、これらの仏像におけるモデリングは力強く、彫像としての充実感、強い存在感をもつことも否定はできない。その意味で、いずれの仏像も独自の美意識に則った完成度の高い作例と見ることができるだろう。
チェンナイ州立博物館所蔵の金属製仏立像、そしてアールッパーッカムの石彫仏立像に共通する作風は別の作例にも見ることができる。カーンチープラムより北西に16キロ離れたヴェールール(Velur)県パッルール(Pallur)ではブッダ・メードゥ(Buddha medu, タミル語で「仏陀の塚」という意味)と呼ばれる場所から3体の仏像が発見、 現在、同地に建てられた祠の中に安置され、村人からの礼拝を受けている。3体の仏坐像のうち1体は頭光や背障を持たない丸彫りの石彫仏坐像で触地印を結ぶ。他の2体についてはアーチ状の頭光を伴う仏坐像で、いずれも禅定印を結んでいる。これら3体における頭頂部の炎の突出部、偏袒右肩の着衣法、左脚に右脚を重ねる座法などは一般的なインド深南部の作例と変わるところはない。ここで問題となる仏像は祠の中央に鎮座する石彫保存状態がよく、細部までその表現を確認することが可能である。上向きの花弁と反花を合わせ、その上下に方形の帯を配する二重蓮華座の上に同像は禅定印を結んで坐す。マカラの口から放出されるアーチが同像の頭部周辺を囲むが、その内周縁には蓮弁の列が配され、外周縁には波打つ隆起により火炎が表わされている。同像は図像上、他の仏像と同じ形式を持っているが、その作風は独特である。まず体躯表現であるが、同像の肩 幅は非常に広く、上腕は張り、逞しさが全面に溢れ出ている。組んだ脚の筋肉、また臍を中心として前方に隆起する腹部、左右の大腿部の付け根に溝を刻んで鼠蹊部を表現する等、その身体表現は極めて写実的である。一方、同像の顔貌であるが、開眼したアーモンド形の目は異様なまでに大きく、さらに目は全体が前方に突出する。巨大な目に対しV字を描く口は極端に小さい。また、同像の頭頂部にはしずく状の三角形を形づくる炎がのっており、炎の底面には小さな楕円形、そこから発した4本の曲線が先端 まで伸びて5つの炎の舌となっている。何よりも特徴的なのは炎の大きさであり、デフォルメされた表情と相まって、巨大に燃え盛る炎が同像に特異な印象を与えている。なお、上に紹介した作例と同じく、同仏坐像では直接、炎が頭頂部に接する。以上のように、様式化された顔貌、写実的で肉感性を重視した体躯、さらに頭頂と炎の接触の仕方など、パッルールにおける同仏坐像の表現はチェンナイ州立博物館所蔵の金属製仏立像、アールッパーッカムの石彫仏立像と多くの点で通じている。

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4. 共通した作風を見せるタミル地方出土の石彫仏像(1)

以上のように、インド深南部における彫刻の様式変遷は緩やかながらも、それぞれの時代において個々の特徴を見ることができる。さて、同地方の仏像には画一化した図像形式が認められつつ、その作風は多岐にわたり、制作年代が長期間に及ぶと予想されている。そのため、当稿では近似する作風をもった複数の仏像を選出し、それらの造形的特徴を把握してみたいと思う。


タミル・ナードゥ州セーラム(Selam)県のアートゥール(Attur)から20キロ程離れたティヤーガヌール(Tyaganur)村にはブッダル・コーイル(Buddar Koyil, タミル語で「仏陀の寺」の意)と呼ばれる寺があり、同村で発見された石彫の仏坐像が村の人びとに拝まれ続けている。像高は約2メート、同像はタミル・ナードゥ州出土の仏坐像の中でも類をみない大きさで、かつて当地に大規模な仏教寺院があったことを想像させる。このティヤーガヌールにはもう一体、卓越した造形、さらに保存状態が良好の石彫仏像が残されている。こちらの石彫仏は長らく屋外に放置されていたが、同像を保管するため、ティヤーガヌール村周辺地域の行政管理担当者が広く寄付金を集め、2013年6月、ブッダル・ディヤーナ・マンダパム(Buddar diyana mandapam, 仏陀の禅定の堂)の施工が開始された。同堂の外装はストゥーパを模しながら、広々としたホールの中心には現在、屋外から移動された仏坐像が鎮座している。像高151cm、幅133cm、奥行き54cmの同像は禅定印を結び、膝を浮かせず左脚に右脚を重ね、右足の裏を上方に向けて坐す。首には三道が確認できるが、注目すべきは首と胸部の境目に見られる段差で、まるでシャツを着用しているかのような首回りの表現をもつ。ただし、そのような首元の表現はタミル 地方の他の仏像、さらにヒンドゥー教神像の多くにも見ることができ、同地方の彫像における特徴のひとつとなっている。同像の偏袒右肩の大衣は極めて薄く、大衣の端は一部が畳まれ左肩から垂れ下がる。大衣には衣襞が描かれず、下腹、左手首付近、左の大腿部に布の下端が広がる様子が巧みに描写されている。

また、足首には2本の隆起線があり、大衣と腰布の裾が表わされる。頭部は螺髪で覆われているが、螺髪の大きさは額近くで小さく、頭頂に向かって大粒となる。螺髪は水平に並ぶが、特徴的なのは頭頂部の表現で、螺髪の1列分が台座のように隆起し、その上に炎を象った突出部がのる。同像において炎の頂部は欠損、さらに表面の磨耗が激しく、細部がどのように表現されていたかを認めるのは難しいが、頭頂部における炎の表現はインド深南部の仏像において最も顕著な特徴であり、その形状は作例によって様々である。

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2. 従来の調査報告・研究の成果

インド深南部の仏教美術に関し逸早く紹介したのは1878年のIndian Antiquaryの第7巻に掲載されたW. エリオットの "The Edifice Formerly Known as the Chinese or Jaina Pagoda at Negapatam" である。同氏は、中国仏塔(チーナ・パゴダ)として知られるナーガパッティナムの煉瓦塔についてを報告する中、同地で発見された5体の仏像についてを言及している。ただし、同報告書において仏像についての詳細、年代考察などの記述を見ることはできない。一方、T. A. G. ラーオが1915年にIndian Antiquaryの第44号に発表した "Bauddha Vestiges in Kanchipura" には仏像の現存例に関する詳しい記述を見ることができる。まず、カーンチープラムのカーマークシ・アンマン(Kamaksi Amman)寺院から発見された仏立像(現在、チェンナイ州立博物館に所蔵)について、像高は7フィート・10インチ、両手は損失しているが右手は施無畏印、左手は鉢を持っていたのであろうと述べられる。また、鼻が磨滅しているものの、他の箇所については保存状態が良好であり、偏袒右肩の大衣の襞が美しく腿の上に表現されているという。同像のように像高が2メートルを超える巨大な仏像が、何故、ヒンドゥー教寺院で見つかったかについて、ラーオはカーマークシアンマン寺院がかつて仏教寺院だった、あるいは仏教寺院の敷地内に同寺院が建てられたのではないかと推測している。この仏立像のほか、同報告書では、カーマークシアン マン寺院から発見された頭部欠損の禅定印を結ぶ仏坐像、同寺院に接する庭園で見つかった仏坐像、さらにカーンチープラム市内のカルッキラマルンダ・アンマン(Karukkilamarnda Amman)寺院内でヒンドゥー教徒に礼拝されている2体の仏坐像について、像高、座法、着衣法、印相などが言及される。そして、今後、より大規模で念入りな調査が実施されれば、必ずや多くの仏教関連の出土品が見つかるという展望、さらに、熱意ある考古学者が同地方の仏教美術に対し興味を向けて欲しいという期待を述べ、ラーオは同報告書を結んでいる。 大著 Elements of Hindu Iconography(1914年出版)をまとめ、ヒンドゥー教美術の研究者として知られる同氏がインド深南部の仏教美術に対し並々ならぬ注目を向けていたことはインド美術史研究の上でも特筆に値するであろう。ところで、タミル・ナードゥ州に西接するケーララ州からも仏像が出土しており、ラーオはそれらの作例に関して "Jaina and Bauddha Vestiges in Travancore" という報告書を Travancore Archaeological Series (Vol.II, Part 2) に発表している。同氏は旧トラヴァンコール藩領から見つかった5体の仏像についてを紹介するかたわら、同地のバガヴァティー(Bhagavati)寺院で行われているカットゥカールッチャイ(Kattukālchchai)祭りが仏教に由来するものではないかとも指摘している。また、P. C. アレキサンダーが1949年に出版したBuddhism in Keralaでは、ラーオが報告した5例の仏像のほか、2例の金属製出土品を紹介、それら出土品が集中する旧トラヴァンコー ル藩領の中部には、かつて仏教センターがあったのだろうと推察している。
このようにインド深南部の仏教美術に関して報告がなされる中、同テーマの代表的な研究といえる T. N. ラーマチャンドランの The Nagapattinam and Other Buddhist Bronzes in the Madras Museumが1954年に発表される。前述のようにタミル・ナードゥ州のナーガパッティナムからは350体以上もの仏教関連の金属製遺品が発見されているが、ラーマチャンドランはそれらの出土品について、仏立像、触地印を結ぶ仏坐像、禅定印を結ぶ仏坐像、観音菩薩像、弥勒菩薩像、ターラー像、ジャンバラ 像、ヴァスダーラー像、阿羅漢像というように分類、それぞれの図像的な特徴、作風などが詳細に考察されている。さて、タミル地方から出土した金属製の仏像には銘文を有するものが少なからず残り、ラーマ チャンドランの研究書では銘文の内容ととにも書体についてが言及、制作年代を推定する手がかりとなっている。このような詳細な考察の結果、同氏はナーガパッティナムから齎された仏教関連の遺品が11世紀から15世紀にかけて制作され、その大多数に関してはチョーラ朝後期(1070-1250年)に造られたものであろうと推測している。ラーマチャンドランの研究に続きマドラス(チェンナイ)の州立博物館からは1960年、Story of Buddhism with Special Reference to South Indiaという題目の論文集が刊行、その中に収録されたP. R. シュリーニヴァーサンの "Buddhist Images of South India" は南インド下から出土した仏像について図像解釈、図像生成、さらに制作年代の問題というように、多角的な視点から仏教美術を扱った論考になっている。例えば、インド深南部から出土する仏像で広く見られる頭頂部の炎について、シュリーニヴァーサンはヨーガのエネルギーと関連するものであることを指摘、最上のヨーギ、あるいはヨーギの中の帝王としての仏陀は、クンダリニーと呼ばれるエネルギーを脊椎の基部から頭まで上昇させることができ、頭頂から神聖なる炎を放出、仏陀が内在するそのような力を人々に知らしめるために、仏像の頭には火炎が描かれたのではないかという解釈を展開している。さて、金属製の仏像とは異なり、現存するインド深南部の石彫仏像には銘文を残すものが寡少で、制作年代を確定することは容易ではないが、シュリーニヴァーサンは頭頂の炎について、その形状が完全に発展してない仏像は古層に属すと見なし、独自の年代づけを試みている。また、年代考察の別の目安として、同氏はタミル地方の仏像で頻繁にみられるトーラナ型の背障とアーチ型頭光の変遷を挙げている。同地方の仏像の中には下部両端に丸みをもったアーチ状の頭光を抱いている作例、また門(トーラナ)のようなモチーフの背障を伴う作例が数多く見られるが、シュリーニヴァーサンの見解によれば片蓋柱をもったトーラナ型のモチーフはアーチ型頭光からの発展形とし、アーチ型頭光をもつ仏像はトーラナ型背障をもつ仏像に先行すると推測、仏像制作年代の手がかりとしている。これらの目安、さらに作風などを検討しつつ、同氏は個々の作例に関して年代づけを行ない、南インドにおいてアーンドラ美術以降、7世紀から17世紀に至るまで仏教美術の活動が継続したと推察している。さらに同氏は何故、このような長期間、仏教美術が同地方で存続したかについて、北インドの大乗仏教において発達した多様な図像を南インドは享受せず、仏像表現の形式が固執、伝承され続けたためであろうという見解を提示している。
C. ミーナークシーが1979年に発表した "Buddhism in South India" の中にもインド深南部に現存する仏像が言及されている。同試論において仏像は坐像、立像といった像容、また印相などが述べられるに過ぎないが、カーンチー(Kanici)県、チェンガルパット(Cengalpattu)県、南アールコット(Arcot)県(現在のカダルール県とヴィルップラム Viluppuram 県)、北アールコット県(現在のティルヴァンナーマライ(Tiruvannamalai)県とヴェールール(Velur)県)、タンジャーヴール県、ティルッチ(Tirucci)県等で見られる石彫 仏像の現存例が報告、これまで紹介されることがなかった作例に着目している点は意義深い。さらに、「ペルマール寺院に属する庭園は現在もブッダパッリトーッタムと呼ばれる」とか、「ガネーシャ祠堂に接する土地は今もパッリッチャンダムと呼ばれる」など、仏像が出土した場所、あるいは仏像と関連の深い場所について、同氏は仏教信仰の痕跡を探求しており、それらはインド深南部における仏教のあり方を考える上でも貴重な情報となっている。1988年刊行のMarg第39号(no.4)に掲載されたV. デヘージア著 "The Persistence of Buddhism in Tamilnadu" は、同氏が推定する制作年代順にタミル・ナードゥ州から出土した仏像を紹介、通史的な形で同地方の仏教美術が把握できる構成となっている。特に同稿ではボストン博物館所蔵の金属製仏坐像、ブルックリン博物館の石彫仏坐像、シカゴ博物館の石彫仏坐像、ノートン・サイモン博物館の石彫仏坐像など、インド国外の博物館に所蔵されるタミル地方出土の仏像が、鮮明な写真挿図とともに紹介されているのは特筆すべきであろう。それら作例は、いずれも保存状態が良好なく洗練された造形力を見せており、同地方における仏教美術がいかに高い水準を誇っていたかを如実に伝えている。以上のほか、インド深南部の仏像についてを扱った報告書としてはK. シヴァラーマリンガム著 Archaeological Atlas of the Antique Remains of Buddhism in Tamil Nadu、スウェーデンのウプサラ大学から出版されたBuddhism among Tamils in Pre-Colonial Tamilakam and Ilam, Part2 に収録のT. ダ ヤーラン著 "Recent Finds of Buddhist Artifacts and Architecture in Tamilakam" 等がある。前者はタミル・ナードゥ州における仏像関連の出土地、仏像が現存する場所を地域別に列挙、後者はパーンディッ チェーリPandicceri(ポンディシェリ)近郊、マーマッラプラム(Mamallapuram)、ラーメーシュヴァラム(Ramesvaram)等から発見された仏像についてを簡略的に報告、付記として仏教関連の出土品があったタミル地方の地名(85箇所)が紹介されている。

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袋井由布子

はじめに

今日に至るまでタミル・ナードゥ(Tamilnadu)州、ケーララ(Kerala)州といったインド深南部からは数多くの仏像が発見されており、それらの中には今もブッダとして人びとに礼拝される作例が珍しくない。また、同地方から出土した仏像はインド国内外の博物館に所蔵、時にヒンドゥー教寺院境内で安置される事例も頻繁にみられる。一方、村はずれの叢といった屋外に放置される仏像も少なからず存在する。それらの出土品の中には、高い完成度をみせる作例も多く含まれている。同地から出土する仏像は立像、座像、稀な例で涅槃像を見ることができ、座像の場合は禅定印のほか、触地印を結ぶものが多い。また、立像の場合、右手で施無畏印を見せながら左手は与願印、あるいは大衣の端をつまむ仕草を見せるものもある。ただし、いずれの仏像においても、頭頂部に見られる炎の表現、坐勢の場合、膝を浮かせず左脚に右脚を重ね、右足の裏を上方に向けるといった像容が広く見いだされ、画一化された仏像の図像形式、確固たる仏教美術の展開を予想することができる。さて、インド美術史において「南インドの仏教美術」と言った場合、インド東海岸のクリシュナー川、ゴーダーヴァリ川の下流域アーンドラ地方において、西暦1~4世紀前半頃、サータヴァーハナ朝、イクシュヴァーク朝といった王朝の下に開花したアーンドラ美術がこれまで注目、研究対象とされてきた。一方、アーンドラ地方以南、インド半島深南部の仏教美術については、例えばP.パールが「ナーガパッティナムのブロンズ像は研究されつつも、タミル・ナードゥの仏教彫刻に関する総体的な編年の枠組みを構成しようという試みは未だなされていない。」と言及するように、美術史研究において大きな成果が見いだせないままとなっている。

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