四 遊牧民の美術以上の地理的立証についてはきわめて大ざっぱな紹介に限るほかはなか った。この小文ではそれを詳述する余裕がない。彼がこの地理的立証を行った目標は、「蔓草」の起源探求に存する。しかし、私のみるところでは、 それはまだ好ましい結果に到達したとはいいがたく、むしろ彼は「蔓草」文様についての地理的分布を述べたにとどまり、一つの図譜(Bilderatlas)を編集したにとどまっている。その意味で、東洋学者にあらたな問題提起 をしたのである。
さて、スチュゴースキーは次に欧亜大陸にまたがる美術圏を考え、これを民族論にまで発展させようとする。言語学者が立論する言語系統論にな らって、彼は美術上の形式語による民族文化圏の論を立てようとする。彼によれば、欧亜大陸を通じて三大民族圏が考えられる。(1)南方民族圏、(2)北方民族圏、(3)遊牧民族圏である。
(1) 南方民族圏とはエジプト、アッシリア(およびベルシア)、インドを連ねる古代文明の源泉地帯で、地中海文化もその延長として含まれる。この地帯の美術はすでに太古において木造建築より石造建築へと発展を遂げ、また人像彫刻のいちじるしい発達があった。
(2) 北方民族圏とは北ヨーロッパにみられる文化圏で、この地帯の美術ではない間、木造建築と装飾文様が保持された。もっとも、ずっとのちに、これは地中海とカスピ海との中間地帯において、南方文化圏の媒介をへて、石造と煉瓦造との様式をまなび、また人像彫刻の表現を取り入れた。
(3) 遊牧民族圏とは、大西洋より太平洋にいたる横に長い草原地帯であって、北方と南方とに対する中間地帯に属する。この文化圏の美術は彼らの生活の中心たる天幕(中国では包・パオ)と武器とに付属したもののみであって、石造も木造もさらに人像表現も知らなかった(長廣注・これは誤解)。この草原地帯の遊牧民族の美術は現在においてもあい変らず、装飾文様の段階にとどまるのであり、かの「東方絨氈」は この地帯の生んだ今日でも貴重視される産物にほかならない。
この遊牧民族圏をあきらかにするのが、スチュゴースキーの主要課題であるが、結論からさきにいえば、遊牧民族圏とはペルシア、インド、中国の中間にあってそのいずれとも接触したもの、「古トルコ」の名で呼ばれるのである。もちろん民族学的にこの種族をトルコ民族とするか、塞民族と名づけた方がよいかを彼は決定しがたいとする。アレキサンダー大帝の東方遠征後、東西交通に一進展があったが、民族間にもいろいろの混乱が まぬがれがたい。しかも東トルキスタン(いま新疆ウイグル自治区)のトルフ ァンやコータン遺址に燦然たる石窟美術(長廣注・これは誤解)がその美を誇った時代に、天山からバイカル湖方面に群集していたトルコ系遊牧民族が東西の文化圏へ波動したと思われ、ここに遊牧民族が東西の歴史上に大きな影響をあたえる情勢ができてきた。そしてこの時代におけるアジア的 遊牧民族が彼らの美術財を諸他文化圏にいかにもち込んだかが、課題となる。それにはまず第一にパルチア人の故地たるホラサン(Chorasan)が注目される。ホラサン地方は、一方では南に向かってイラン地方に入る門口にあたり、このホラサン・ルートを西にのばすとアラビア民族の地方にいたる。一方、ホラサンははるか西方ハンガリーに侵入したトルコ民族の門口であり、途中にはアルメニア高地やコーカサスがある。ホラサンはこのような二重の門口の役をしているのである。
さてこの遊牧民族の美術上の特色は、絨氈である。リーグルもかつて(一八九一年)『東方絨氈考』を発表して、そのなかで次のようにかいている。
絨氈を家具としてペルシアに輸入したのは、アーリア系のパルチア族であり、パルチア族は西アジアに覇をとなえた最初の中央アジア種族であった。......初期の東方絨氈はどこでいかにして生成されたか。中央アジアかコーカサスか東欧のスキタイの荒野かあるいはどこか古代世界の一地点か、この問題は民族学上の興味こそあろうが、美術史の対象とはならない。それは計量しうる歴史的発展を示さず、むろん歴史的発展への萌芽もなしに、われわれが想像をめぐらすほかない太古の民俗美術の所産にほかならない。それは単に幾何学的に構成された産物であり、ほんの原始的芸術品にすぎない。たまたまパルチアの覇者がイランに侵入するとともに、始めて輸入した絨氈が文明人の目に触れたのである。
このリーグルの見解に対してスチュゴースキーは二つの点で抗議する。一つは、ある種の絨はその起源を中央アジアに発し、かの天幕(包・バオ)と離すことができないとする。一つは、リーグルが古トルコ美術のみなら ず、遊牧民族美術を軽視するのを不当とする。すなわち遊牧民族美術ときってもきれない関係にある古代中国の美術、そして特に東トルキスタンの石窟美術をリーグルは知らなかったために右のような遊牧民族美術の過小評価となったのだというのである(ここでもスチュゴースキーは、誤った資料を使っている)。
このように絨氈の意義を強調するとはいえ、実際上、古い絨氈そのものを実例として示して立証することができないため、スチュゴースキーは、一つはペルム地方発見の銀製盤の線刻画像にみえた絨氈とか、一つは東トルキスタンのトルファンやコータンあるいは敦煌の石窟にある壁画にえがかれた絨氈を引用している。絨氈といっても、むろん絨氈の装飾文様が観察の中心となるのであって、これは彼のことばによれば、「平面を充実する文様法」によっている。織物、編物、組物においては、その文様法はシンメトリー(左右相称)の法則にしたがう。シンメトリーはその本質上、加工材料と加工技術に結びついたものであり、その形態は反写実的であり、幾何学的である。つまり文様モチーフが元来、葡萄唐草のごとき植物文様であれ、動物文様であれ、幾何学的文様であれ、これらをまったく自由に、「平面を充実する文様処理法」によって施工する。したがって、この文様処理法の特色は「無限的文様」であり、かつてリーグルが「無限関 係」と呼んだものである。これは遊牧民族美術では、三つの種類に分けられる。(1)菱形構成、(2)尖卵形構成、(3)無限的蔓草構成。
リーグルはその『美術様式論』においてこの無限関係を植物文様から解釈したが、スチュゴースキーはこれは遊牧民族美術の絨氈文様から発生し たと考えた。すなわち純幾何学的文様処理法であるとしている。このような考えから、アラベスク文様の起源を遊牧民族の美術に求める彼の主張が 出てくるのである。
絨氈にならんで、もう一つ、遊牧民族芸術の特色となっているのは金属工芸である。トルコ民族は「アルタイの鍛冶屋」だという。上述の「地理的立証」の章で述べたアルタイ地方の金属具や南シベリアの青銅文化などは、ひっくるめて「トルコ的」といってよいと彼は考える。パーカー著『タタール一千年史』やウィルト著『シベリア史』を引いて、アルタイ地方の鉱山および冶金についてのトルコ民族の関係を説いている。そしてこの古トルコ民族の冶金が産んだ金属工芸のうちに、斜面彫の技法や多彩的手法の起源をみようとする。つまりリーグルがそれをもって後期ローマ工芸の特色とする斜面や多彩的効果の起源を、スチュゴースキーは決して古典古代に求めるべきでなく、オリエント、ことにアルタイ地方に想定すべきだと論ずるのである。
このような特色をもつ東洋遊牧民族は、彼の見解によれば、さらに二つに分けられる。一つは前述した「古トルコ」民族であり、地域的にはアルタイ的と名づけられる。一つはSaka族であってイラン的と呼ばれ、中心 地として北東イラン、ことにホラサン地方が注目されている。東洋遊牧民族の美術上の波濤はこの二つとみられているのである。
(「古文化」─昭和二十三年所載)
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三 アラベスクの起源さて、このようにしてスチュゴースキーは「円板状をもてるバルメット草」の源泉を東アジア地方に求め、リーグルが遺物を知らなかったために看過した重大事実にまで論及した。次には問題の焦点をアラベスク(アラビア文様)におき、リーグルがアラベスクの起源をヘレニズム時代の装飾に求めたことの誤解を剔出しようとする。スチュゴースキーの言説をきくまえに、われわれは一応リーグルの所論に耳を傾ける必要がある。『リーグル美術様式論』(長廣訳・新版二八六─二八七頁)には次のごとく彼の考えが述べてある。
近代的な例としてイスタンブールにあるアブドール・アジズ(トルコ帝)宮の模様壁画をみるならば、その七つの装飾モチーフから次の点が考えられる。これは自然物の写実的な直写ではない。様式化の方法はつとめて抽象的であるが、幾何学的様式の範囲にかぞえねばならないほどに抽象化されていない。幾何学的様式では厳正な左右相称が最高法則たらねばならないだろうが、ここではただとgとにのみ、これが守られているにすぎない。だから、ある自然物を原型とみたにちがいない、との結論は否めない。
リーグルのこの提言はきわめて論理的である。幾何学的様式とアラベスクとの間にただしい一線 をひいている。アラベス クは幾何学的様式にあら ずして、一種の抽象的様式すなわち、ある自然物を原型とみながらこれを非写実的に表現したものとして規定するのである。しからばその原型た る自然物はなにであろうか。これに答えて彼は、十九世紀の作例からさかのぼって、十五世紀の遺物(カイロにあるマメル ク朝トルコ帝の宮殿における一四一一年完成の銘ある古文書の縁飾り)を図示する。「この図形における葉状のギザギザをしめす線は、疑いもなく、植物の外貌とのむすびつきをとりもどしている。この文様モチーフは様式 化した葉形または花形である。したがって、これらのモチーフが付着する線を、ただちに唐草と名づけることは、不当ではない」。リーグルのアラ ベスクに対する見解はかくのごとく直截に決定した。だからアラベスクの祖先は「ヘレニズム美術およびローマ美術におけるアカントス葉形(つまりギリシア式パルメットの写実化した発展物)であり、厳正なギリシア式パル メットによる唐草法も混入している」とみている。そして「古典的唐草文様とアラベスクとのあいだの、唐草の運線には、次のような差異がある。前者には、個々の唐草線が相互に、明確、かつ独立して素地の上に走っている。後者アラベスクではそれが多面的に交錯している」(二九〇頁)。
さてリーグルの発展史的見解によれば、ギリシア、ローマ装飾史を通じて写実的な植物性唐草文様は動かせない主流となっていて、それがビザンチンからサラセンにかけて「抽象化というオリエント精神」によって、反動的に植物唐草そのものを図式化、幾何学化、抽象化したのだと断定する。しかも、この図式化、幾何学化、抽象化の萌芽はヘレニズム時代からローマ時代にすでに潜在していたのであると考える。
リーグルはこの彼の考えをさまざまな遺物において、克明なそして見事 なモチーフの分析を通じて実証してゆくので、彼の例示したかぎりにおい ては反駁の余地がないほどである。
しかし彼の『美術様式論』を発表した時代以後に発見された遺物を、たとえばスチュゴースキーの形で提示されたとき、問題はあらたにされる可能性をはらんでいる。つまり、彼のごとくアラベスクはその原型を古典唐草の植物性文様からえたと仮定しても、アラベスクが完成されるについて彼も容認した〈抽象化というオリエント精神〉はいったいなにか、ということである。このオリエント精神がなければ、ヘレニズム美術に対立し、それに反動的となるべきアラベスクの非写実的唐草は生まれなかったといわねばなるまい。古典古代美術からの申し子として、かかる反動的傾向が外部からではなくヘレニズムの延長の上で発生したと考えるのが彼の発展史観のようであるが、それは同時に彼の美学でもあるように私には思われる。スチュゴースキーはこの点を鋭く突いた。リーグルは彼の師ウィクホーフWickhoffの考えを祖述し「従来、美術史に看過されし体系的なる、すなわち質的に検討さるべき研究態度を持して発展的問題を処理する」ことに専念したが、これは二つの点で失敗している。一つはリーグルは体系がないのに体系的に論述していること、一つは資料を慎重に検討し、それを確定しないうちに「闇に鉄砲打ち」となったと、非難している。
脇道にそれるが、これは芸術作品を分析的に研究して、そこから「芸術史的基礎概念」を把握しようとするドイツ芸術学者の往々おちいる陥し穴である。たとえば音楽美学者ハンス・メルスマンは古典、ロマン派音楽の分析から、彼の音楽美学を樹立し、そのなかで「音楽は有機体である」との前提の下に基礎概念として有機体における「機能と実体」ということをのべている。この考えでは実体と機能とはアンチテーゼとなることなく、ときには機能のなかに実体が没しさることがあるのである。つまり有機的作用のみに芸術現象の本質をみるかぎりでは、すべてが連続的に考えら れ、世界像が一元的とならざるをえない。しかるに芸術をおこす地盤はそのように一元的ではなく、多くの断絶と矛盾を内蔵するのである。
リーグの発展史的唐草文様研究においても、実体が機能のなかに埋没している。「抽象化というオリエント精神」を、結局はヘレニズムのうちに包含せしめている。彼の時代の発見資料は、あるいはそれをゆるしたのかも知れない。私には西洋の学界のことはよくわからないが、スチュゴー スキーがリーグルを批評しようとする意図は、まずもってスチュゴースキーが、リーグルの触知しえなかった資料を蒐集しえたところに発していると考えられる。そしてまた、リーグルが「抽象化というオリエント精神」としてあいまいに片づけたものを、地理的に探求しようと考え、アルタイ・イランという宏大な地域の美術圏──彼のいわゆる遊牧民美術圏──によって解決できると推測したのであった。
以下、ふたたびスチュゴースキーのアラベスク起源論に筆をうつそう。アラベスクの起源は、彼にあっては幾何学的蔓草の起源に帰着する。いったい、渦文的蔓草はギリシアやインドのごとき文化の中心地では植物的に 生動化する傾向があるが、これは古代中国およびシベリア古銅器文化では欠けている。メソポタミアを中心とする近東諸民族は他の二大古文化国なるエジプトおよびインドと交渉しながら、その文明の発展は、観念より直観へ、抽象形式より描写図像へと向かってゆく。これに対して遊牧民族および北方民族(加うるにこれに関連して中国)は自然界に無関係なる芸術的想像 を固守した。この北アジア的、古代中国的「蔓草」はSaka(塞族)的へレニズムの影響の下に、たえず西方へ流れようとの転移傾向を示しながら、ムシャッタ(Mschatta)やソフィヤに実見されるパルメット化を通じて、アラベスクと名づけるかの波状形式に変化した、と彼は説く。
スチュゴースキーは、右のごとき見通しをつけて論述をすすめる。これらの叙述で注意しなければならないのは、彼が遊牧民族および北方民族、また古代中国人が「自然界に無関係なる芸術的想像を固守した」とする点である。このことばだけみればスチュゴースキーは、純幾何学的様式をもって、これら民族の装飾芸術の特性と考えるわけでなく、自然物を抽象化する芸術的想像をもそこに含ましめようとしているのであろう。しかしそうならば原型たるべき自然物を考えねばならないのに、彼はそこへは突入しなくて、〈幾何学的蔓草〉の現象に論点を定着させている。われわれの近代的視覚には〈幾何学的〉に映ずるものが、歴史的には実は怪獣や雲気の象徴であったことへの省察が彼にはたりない。以下述べる彼のアラベスク観がこの論証不足を暴露していることは、リーグルの前掲のアラベスク分析の論理的なのに比して、大いなる差異であり欠点である。
ただリーグルと異なりスチュゴースキーはアラベスク研究の資料として十一、十二世紀ごろの東イランの遺物を提示する。それはアフガニスタン国境にあるメシェエットの南方シャルギルトの僧院にある粘土製の記銘フリーズである。これは彼によればもう一世紀ほど早い時代に比定され、イスラムの感化以前の時代、すなわち土着民の芸術とする。同様のアラベスクはホラサンChorasan地方の古都セングベスト発見になるガズナ朝のアルスラン・ジャンブ、ツスのワリス時代(西暦九九八─一〇三〇)の記銘フリーズである。さらにいろいろとコーカサス出土の彫刻類を資料にあげ、これらにみられるKreisstab Ranke(スチュゴースキーはあくまで幾何学的な呼称を用いているが、これを強いて訳すと「穀粒文をつけた棒形による蔓絡み」となる)や、絡縄文を指摘する。前者は『博古図録』でもわかるように周銅鐘にみられるとし、さらに後者は織物文様であって、その特色として無限関係(これはリーグルもアラベスクの特性としてみとめたもの)を示し、この無限関係の絡縄文が中央アジア遊牧民族の織物から拡まったとする。この地方はサカ族の地方だから、この地方において、遊牧民族と北方民族との手工芸である織物がギリシア、インド、中国の文化財と接触したと考える。東西交通が活発化するや、この種の装飾文様が西へ西へと伝播されはじめて、すでにヘレニズム時代の後期ないし、ビザンチン初期にはエジプトおよびビザンチンまでもアラベスクは伝播していた。またこの北東イランの地においてその芸術上の原動力をにぎっていたイスラムが、このアラベスクを多角的意匠と総合し、これを地中海全域に伝播したと考える。
この北東イラン地方においては、またアジア的な幾何学的蔓草と西方かギリシア人によってこの地域にもたらされたパルメットとが握手したのである。だからバルメットについてリーグルの力説する西方の地域以上に、内陸アジアの要素、東方のヘレニズム要素、東アジアの要素、南アジアの要素が交錯することによって、いちだんとすばらしく豊富になったパルメット装飾の宝庫が、ここにあると考える。
無限関係がアラベスク模様のいちじるしい特色であることは、すでにリーグルの指摘したごとくであり、スチュゴースキーもこれをみとめた。ただリーグルはこの無限関係の起源をローマのポンペイ美術意匠に存すること を説いて、アラベスクの起源を古典古代に求める一つの論拠としたのであったが、スチュゴースキーはこれを北アジアに発生すると主張する。しかしスチュゴースキーが、無限関係を示す文様として、特に絡縄文をとりあ げ、それを六、七世紀以降の織物文様に実証し、これをアラベスクの一祖型とみようとするのは明らかに貧弱な立論である。なんとなればこの絡繩 文と平行的に論ずる「穀粒文をつけた棒形の蔓絡み」を中国古代の銅鐘文様に起因すると考えるならば、絡縄文だけをこれと時代のはるかにへだたる六、七世紀の織物文様によって考えることは、資料的に平衡を失ってい るではないか。われわれの知識をもってすれば、絡縄文もすでに中国古代の、ことに周末の銅器にみとめられるのであり、しかもこの場合の絡縄文は帯状をなし、決して無限関係を示す平面文様ではない。すなわち、絡縄文は必ずしも無限関係を示すのでなく、したがって必ずしも織物文様とはかぎらない。
要するにスチュゴースキーが、アラベスクの起源を古代中国工芸やシベリア青銅器文様に推定しようとするのは、資料そのものおよびその年代的 な系列のたてかたに覆うべからざる不正確さがあって、とうてい、承認しがたい。
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二 地理的立証古典古代末期より中世にかけての東西交渉の事情を、美術史的に究明するためにスチュゴースキーの研究室は、各地の遺跡遺物の広汎な研究にのりだす。また、諸外国学者の関係研究とそれとをつきまぜる。これを以下 に略記しよう。(1)アルバニア遺物 アルバニアは今日のユーゴスラビアとギリシアとの中間にあり、アドリア海に臨む小国で、この一地点から一九〇二年に一括の金属遺物が発見された。いま、これらはニューヨークのド・モルガン蔵品となっているものだが、これは三種類にわかれ、第一は黄金製高杯、第二は銀製提梁容器、第三は黄金製装飾具(革金具)である。この第三類、すなわち装飾具の文様がハンガリーの青銅遺物(特にNagy-Szent-Miklos発見遺物 これは前出のハンベルが詳しく報告している)の文様と性質を同じくしているので注目された。つまり「円板状の葉形をもつ幾何学的パルメッ ト蔓草(波状線)」がほどこされている。また「無際限の蔓草」と呼ばれる、前者と親縁関係にある幾何学的な草もほどこされている。この装飾文様の施工法はいわゆる斜面彫の技法で、またときには透彫が用いられている。(2)ドナウ河下流沿岸地方の遺物 ドナウ河下流沿岸を中心とする南口シア近傍、すなわち、ルーマニアのベトロアサ地方とウクライナのポタヴァ地方があげられる。後者の遺跡からは アルバニア遺跡からと同じく黄金製コップ、銀容器、黄金製装飾具が発見さ れていて、このうち黄金製馬面にはかの「円板状の葉形」を複合したハート 形文様とかパルメットとかがほどこされているのをみとめる。(3)ハンガリーのナギー・ツェント・ミクロス遺物この遺物のうちでは黄金製の瓶にほ どこされた装飾が注目される。これには三種のモチーフが指摘される。(一)鋸歯文。(二)絡縄文の輪郭内に図像をほどこしているが、この手法が(スチュゴースキーの見解では)古代ペルシアの絹織物の図様を想起させる。(三)この絡縄文の輪郭内の図像には騎馬図像と狩猟文とがある。騎馬像はかのチフリスのコーカサス博物館所蔵なるダゲスタンよりウワロフUwarov伯の将来した銅製鼎式容器にみられる。ウワロフ伯はこれをペルシアのササン朝のものとするが、これがコーカサスから発見されたことでも知られるごとく、遊牧民族の美術の模範例だとスチュゴースキーは主張している。狩猟文はササン朝ペルシアの狩猟文織物や銀盆の文様と酷似している。ただ乗用獣が馬ではなく、人頭有翼獣で ある。この人頭有翼獣は古代メソポタミアの石門の守護者としてしばしば表現される。(4)中世エジプトの遺物パノポリスのAkhminから将来されたバル メット絨氈は七世紀から九世紀のものとみなされ、いまイギリス(Victoria and Albert Museum)に保存されているが、これには笹縁にパルメット蔓草がある。この蔓草の特徴はパルメットの茎が欠けていて、葉形がただちに波状線 (蔓草)化しているのが指摘される。このパルメット絨氈は元来エジプトの地ではじめ て作られたのでなく、輸入品とみられる。ではどこから輸入されたか、この点にスチュゴースキーは注視する。
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長廣敏雄,《中國美術論集》,東京:講談社,1984一 概論 ウィーンの美術史家イゴール・スチュゴースキー(Igor Strzygowski 一八六二─一九四一)の名は、日本人には耳あたらしいにちがいない。彼は西洋中世の美術史、とくに民族移動期の美術史をかいている。私がこのひとの所説を紹介しまた問題にするわけは二つある。一つは彼が同じウィーンの美術史家アロイス・リーグル(一八五八─一九〇五)の学説を徹底的に打倒しようと意図したので、リーグルの所説に関心を持つ私にはこれを看過できないからである。一つは彼は西欧の問題をでなく、オリエントの美 術の問題を解釈しようとし、オリエントと西方とに共通する要素の剔出をもってあらたな世界史を美術史の領野に打ち開こうとするその野心に興味があるからである。この二つの点で──結論的にいって──私がスチュゴースキーの説に賛成するか否か、これは断言できない。なぜならば黙殺てすましているには、彼の世界史的な美術史学への寄与は大きいのであり、肯定するには、彼は極東の美術をあまりにも知らなく、誤りが多々あるからである。彼は一つの重要な提言をしていることは明らかであり、あたるにしてもあたらぬにしても彼の提言は将来の学界への予言を含んでいる。
スチュゴースキーのウィーン大学の研究室員は、中世の東欧およびオリエント諸遺跡とくにアルメニアとかエジプトとかまたはイスラムの諸遺跡の調査に専心していた。土方定一氏訳『インドの美術』の原著者ディーツ博士もこの研究室の畑からでたひとで、ディーツ博士はむしろイスラム美術研究の権威である。スチュゴースキーがこれらの研究を統率し、ここに特色のある学風を樹立したのは注目に価するのである。
スチュゴースキーの野心作『アルタイ・イランと民族移動期』(一九一七年刊)はその副題に Ziergeschichtliche Untersuchungen über den Eintritt der Wander und Nordvölker in die Treibhäuser des geistigen Lebensという長い題がついている。つまり美術のうちでも装飾美術を対象とし、その歴史を研究する。「精神生活の諸温床への遊牧民族と北方民族の侵入」に関する研究を装飾美術の材料によってなしとげようとするのである。「精神生活の諸温床」とは、彼の場合うたがいもなく南方文明圏すなわち古代インド、エジプト、メソポタミアおよび古典古代の文化圏を意味する。ギリシア、ローマ古典古代の伝統圏内にオリエンや北方の諸民族が侵入し、中世における民族移動期を形成するが、この中世の精神生活をオリエントおよび北方民族の影響なしには考えがたいとい うことを実証しようと試みるのが、彼の意図である。しかも彼はこのこと「装飾美術の歴史」を通じて実証しようとするのであって、そのことによって精神史としての美術史に新生面を切り開こうとするわけである。
装飾美術の歴史とはいかなることであろうか。装飾は工芸にも建築にも彫刻にも絵画にも相関連する。装飾には装飾法と装飾のありかたとの両面が含まれる。装飾の歴史は装飾法の歴史であり、また装飾のありかたの歴史である。装飾法とは装飾の技法と考えられる。かごあみ、組ひも、織ものなどから、幾何学的な文様が生まれるように、装飾は一般に工芸の材料とその加工上の技法によって発生した。一八六〇─六三年ゴットフリード・ゼンベルの巨著『様式論』二巻はこのような工芸の材料、技術による発生論に端を発した唯物論的研究として、十九世紀後半のドイツ工芸界と 美術界とを風靡したといわれる。一八九三年ウィーンの美術史家アロイス・リーグルは『美術様式論』(Stilfragen)をもって立ちあがった。装飾法の歴史とは装飾技法の歴史であってはならない。装飾技法にはすでに原始の段階においても芸術衝動、別のことばでいえば、芸術精神、芸術意欲が内蔵されている。装飾法の歴史とは装飾技法の発展と同時にその内蔵された精神の表現が展開されることである。装飾法はかくして諸他の美術と同様にその時代時代の精神を語る形式語をもっている。形式語とは装飾法に内蔵された精神の表現の謂にほかならない。リーグルはこの装飾法の歴史において、古代オリエントからギリシア・ローマに発展し、さらにビザンチンをへてアラビア文様にいたる一連の系統を完成して、いわゆる地中海文化圏の発展を、装飾法の上からも一元的な脈絡あるものとして立証しようとしたのであった。
このようなリーグルの装飾美術の歴史に対する見解は、装飾美術の研究をきわめて品格高いものに位置づけると同時に、人類の視覚が高級(自由)美術とか低級(応用)美術とかの区別なく、あまねく諸多製作物に意味ふかく表現されていることつまり形式語において語られていることの自覚をひきおこした点で、きわめて大きな功績をのこした。私はかつて彼の『美術様式論』を翻訳してその巻末にやや解説した(本書第一部のリーグル関係論文参照)。
スチュゴースキーもまた装飾法の歴史が装飾の形式語の発展であるとする点では、リーグルの流れをうけている。しかし歴史は理論の演繹ではなく、事実の立証にもとづくからには、誤った事実の上に展開された歴史はたとい先覚者の所説としても是正されねばならない。リーグルはなにを誤ったか。スチュゴースキーは書いている。リーグルは後期ローマ美術工芸からビザンツをへてアラビア文様にいたるまでを一元的に理解するが、それはオリエントおよび北方民族の侵入によるいくたの工芸上の新要素の流入を看過している。世界史は──ことに中世すなわち民族移動期の世界史は──ヨーロッパのみの一元的文化圏の産物で理解できるものではない。オリエントおよび北方民族の侵入による新要素は、単にこの時期の一美術要素たるものではなく、リーグルがそれをもって古典古代装飾美術の主流とした美術形式語 (唐草文様的リズム)さえもこの新要素のうちに見出されるのである。つまりリーグルが地中海美術圏を一元的に系統化したのは、当時の世界史の視野の一部にあたるにすぎず、これにならんでほかに二大美術圈──北方民族によるものと遊牧民族によるもの──を考えねばならない。スチュゴースキーはこのようにして、従来は野蛮的未開的として高次文化圏の美術ではかるくあつかわれていた北方的と遊牧的との二要素を高く評価したのである。感情的にみれば、彼は古典美術の下積みなる土俗芸術Volkskunst や東洋芸術に同情しているのであり、科学的にみれば、美術史を東西交渉の見地から打開しようと意図したものにほかならない。
リーグルはかつてその弟子たちに語って「美術史家は資料に対してきわめて冷静でなければならない」といったということが、ドヴォルジャックの追憶記にみえている。その当のリーグルも主体的にはヨーロッパ的ある いは古典古代的伝統への信頼と愛着とにつらぬかれていた。スチュゴースキーが『アルタイ・イランと民族移動期』の著述によって、リーグルの蒙を啓くべく徹底的な批判を試みようとするとき、そしてこの著述の発表 (一九一七年)以来三十年(一九四八年現在)の歳月が経過した今日ではスチュゴースキーの冷静な判断にも、多くの感情的契機が腹蔵することを否むことができない。しかしあたらしい視覚の誕生があたらしい美術を生むのと同じく、若い科学である考古学や美術史では批判と仮説、誤謬の剔出と論戦とが活発となって、はじめてよりよい前進が期待される。冷静な科学性とともに旺盛なる主体性の裏づけが、いいかえれば理論と実践との合体が、もう一ついいかえれば歴史と創作との総合が、もっとも確実な美術史論をうむはずである。
スチュゴースキーは、なにを根拠としてリーグルに肉迫しようとするか。この点を次に述べてみよう。
西洋の中世──特に西暦五世紀より十世紀までの時代──における異色のある工芸品は、ハンガリー諸地より発見された金属製品であった。この種の工芸品については一九〇五年ョーゼフ・ハンベルがその研究を集大成しているが(「ハンガリーにおける中世初期の遺物』)、それらに顕著なる装飾法は「渦線より成立せる波状(蔓草)文様」 Palmettenranke である。 パルメット要素と蔓草(波状線)的要素との二つの要素が中心である。だが、パルメットとか蔓草とかの形式語は通常古代エジプトからギリシアにいたって展開された植物的な文様とみられているが(リーグル)、このハンガリーの遺品が決して植物的な有機的な文様構成をしめしていないことは、文様を注意してみればわかることである。パルメットなる文様構成法は図5でみるような二つの部分すなわち扇形とその下の萼形とからなっていて、元来はエジプトの蓮花(ロータス)の形式化文様であるが、いまハンガリーの装飾でスチュゴースキーがパルメッテン・ランケと命名するものは、外形的にはパルメット様をしめすので、かりにこのように名づけたにほかならない。その図案は決して植物 的な起源をもつものではない。なぜそう主張するか。図6をみてわかるように、ハンガリー遺物の装飾には波状線のさきに円板状の平たい葉形で、その突端が鳥の嘴のごとくなったもの、ときにはその突端に小さい円孔が できるごときもの、つまりKreislappen (円板状の葉形)がある。この円板状の葉形は植物の葉ではなく、単に渦線から構成された幾何学的な文様である。
さらにハンガリー文様の蔓草線をみると、これも植物様の唐草ではない。この点もギリシアにおいて独自の発達をとげた唐草(リーグルは『美術様式論』においてこれを追究した)とはまったく異なるのである。明らかにこれは反植物的であり、幾何学的・抽象的である。スチュゴースキーの立論の根拠はまずこの彼が直観した形式語「幾何学的波状線(蔓草)」がギリシア的古典古代的なる形式語「植物的唐草」とまったく異なる起源と発展経路を歩んだことを例証するにあった。すなわち、われわれの目に同様な夢草風な文様として映じているものでも、有機的・植物的な構成をとるものと抽象的・幾何学的な構成をとるものとは明確に区別しなければならぬ。言語の研究に文法(グラマー)が欠くことができないと同様に、形式語としての装飾文様にもGrammar of Ornamentが必要なのである。
さてリーグルは彼のギリシア唐草文様の発展を考えて、かのイスラム文化が盛行せしめたアラベスク(アラビア文様)さえもギリシア唐草の後継物 とみなした。これはリーグルの眼をもっても、アラベスクをギリシア文様の「形式語のなまり」としかみなかった彼の誤謬である。スチュゴースキーは彼の提唱する幾何学的蔓草こそがアラベスク文様の起源をみいだすべき鍵であると主張し、これを立証することも、この著述をなした一つの動機であった。
ではアラベスク装飾法はハンガリー中世遺物の幾何学的蔓草文様に起源があるのであろうか。問題はここから出発する。スチュゴースキーはこのハンリー幾何学的蔓草の語る形式語はオリエントより侵入した遊牧民族の所産であると考える。そこでこの遊牧民族の美術とはいかなるものであるかが問われねばならず、彼はこの問題の究明は地理的、年代的、社会的に事実自身をして語らしめることによって、はじめて達成せられるとしている。そしてリーグルの「発展史的問題究明のための体系的研究」では、すなわち一元的体系論ではこれは解決しえないものだとしている。
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蔡草如(1919–2007),原名蔡錦添,出生於臺南。其創作養成深受地方工藝、民俗信仰與傳統繪畫環境影響。父親蔡振昆為打銅師,擅繪銅器花形;母親陳明花曾於陶瓷場描繪花鳥圖樣;舅父陳玉峰則為臺灣重要民俗畫師。自幼熟悉的工藝、廟宇、戲臺與民間信仰,成為蔡草如日後創作中反覆回返的精神土壤。 本展以「雙筆」與「仙跡」為題,重新梳理蔡草如在民俗畫、水墨、膠彩、自然寫生與神話人物之間的創作路徑。「雙筆」既指向他橫跨廟宇彩繪與藝術創作的兩種筆法,也象徵其在傳統與現代、民間與學院、草稿與完成作之間不斷往返的創作方法;「仙跡」則回應其「草如仙」之稱,並指向其神仙人物、宗教圖像與想像世界中所呈現的精神性與神祕氣息。 展覽將透過作品、草稿、文獻與相關物件,呈現蔡草如如何從反覆構圖、描摹與拼貼中,逐步完成理想中的畫面結構。從神話人物、歷史故事、戲臺場景,到街巷風景與自然寫生,蔡草如的創作並非單純承襲傳統,而是在地方技藝與個人感知之間,建立出獨具臺南文化厚度的視覺世界。本展亦延續近年蔡草如作品與文獻陸續捐贈、典藏與研究的脈絡,透過重新整理其創作歷程,回望一位藝術家如何在民俗、工藝、信仰與現代美術之間,以雙重筆法留下屬於臺灣美術史的仙跡。(來源)
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曹根先生出生於民國二十年,家鄉是嘉義縣中埔鄉同仁村,十六歲入林東令畫室學習膠彩畫。十九歲,改為追隨林玉山先生。二十五歲,又向李石樵先生請教油畫的技法。事實上,基於對美術的熱愛,幾乎他所遇到的前輩畫家,凡他們畫裏有他喜歡的,傾慕的成分在,他都迫切地產生效法學習的心情。譬如廖繼春、藍蔭鼎、郭柏川等人,他沒有正式拜他們為師,但在他的繪畫看法或繪畫創作裏面,確然顯露出他們對他的影響。
「我是文學家做不成,只好改做畫家。」曹根性情坦率,毫不忌諱地想到就說。他那個時代出生的台灣人,仍然是受日本教育,而他因家境富裕,小時候就被送到日本,所以是在日本直接受日本教育,對於詩、小說,他非常地著迷,也就是說,他儲備了相當程度的日本語文能力。但是,光復後回到台灣,日本文字已無用武之地,他的文學家之夢,只好從此拋棄,然而他堅持做一個文藝青年,熱愛文學。於是,改而執起畫筆,一生未曾再有改變,忠實地朝畫家之路努力。
曹根生具稟賦,多才多藝。只說美術這方面,除了膠彩畫,油畫,他同時還畫水墨,水彩。而且,他曾經以四五年時間,做過雕塑、涉獵古董。他又研探過民俗工藝,精於建築設計,以讀日本書讀到高中的學歷,他從小學老師當起,目前担任嘉義私立稚暉高級工業家事職業學校美工科主任。他住家是一棟二十坪餘的四層樓房。基於空氣暢通的心要,他設計了兩個小天井,便於空氣直接流入,卻不使影響到房子的寬窄。此外,他還精於烹飪。等等。
在繪畫三要素─線條、色彩、形象三者之中,曹根最重形象。他認為,一張畫要做到三者兼顧,實際上有其困難,總是必須有所捨才能有所立。他的選擇,就是構圖第一。仔細看他近日到印度、尼泊爾、泰國做完一趟寫生之旅以後,以絕對投注的心態所繪的風景畫、風俗畫等,對於他的「構圖為先」,特別能有所感受。他的構圖特色有三。彷彿南宋畫家馬遠、夏圭之被稱為「馬一角、夏半邊」一般,曹根的繪畫構圖裏,出現不少「一角、半邊」的景物。他習慣截取或截去景物的局部,再按實際狀況或憑藉虛構,將它們組合拼列起來。如「尼泊爾之夜」、「古蹟有語」諸圖皆是。二、他也習用包容雜的方式,以長距離鏡頭的俯視仰瞻,以及相同角度的平看,來構成他的畫面。比如「香格里拉」、「夕陽西下」等圖,便帶有合攝遠景的意味。三、他的畫面構圖,都經過相當刻意的經營佈置,一則是要求畫本身的形式之美;一則是要表現畫意,使具有可以意會,甚或可以言說的主題。但有些畫可能過於刻意,或失之於內容過多,以致顯得繁複。可是,他又有一些畫與這種情形正相反。比如「聞笛起舞」、「魚」等圖,卻是非常簡單、純粹的主題呈現,讓單一的主題,占滿全部畫面。這種構圖方式,令人不自覺地感受到天真樸素的趣味。
構圖以外,他強調畫面要有動感。按物理現象來説,一幅畫是死的東西,但這幅畫面要有動感,它就不是死的,而是活的,有生命、有生氣的畫。因為,它能夠讓人感動,吸引住人去看它、去愛它。在曹根的看法,好畫就是從具有動感出發的畫。那麼,如何使具有動感?重點就在於多角度的觀照、多角度的表現。如此一來,多角度形象的匯集,自然構成了生命的律動。
不過,多角度觀照與表現的習慣能力,並非天生而有,仍然必須經過後天的培養。以曹根個人的經驗來說,他是藉由寫生來完自我學習、自我充實。「寫生是對眼力的最好訓練。」曹根這麼說。他認為,做一個畫家,必須視覺纖密、眼力銳敏;否則,何從捕捉到真正值得入畫的生命場面?
曹根的畫,大抵取材風景、花、魚、牛、貓等。概言之,他是以寫實手法描繪下生活周遭所見的景和物。這種帶有生活性、民俗性味道的寫實畫,實在的說,畫的人相不在少數。因此,若只是忠實地做實景實物的寫生,不灌注入自己的感情或不彰顯出自己的個性,難免讓人產生千篇一律的感覺,就無法由衷地喜愛、親近了。從這方面,又可看到曹根繪畫的另一特色,即:他的寫實裏帶有頗濃厚的文學情味。他早年培養出的文學興趣,直到現在,未嘗稍減。工作、繪畫之餘的閒暇,他的嗜好是看日本小說。當然地,文學意涵就在不知不覺中,表露於他的畫面上。譬如從民國64年,他獲得第一屆全國油畫展第一名的「惑」,或者是最近剛結束印度之遊前後所畫的「月下談情」、「四眼天神」等這些畫裏,都可以看得出,他在安排畫面景物時,確實是以帶著對比、襯托、照應等的文學手法,傳達出微妙的文學情意。
曹根個性爽快,對事事物物都充滿好奇歡喜之心。雖然他已經作畫作了四十多年,但在他老師林玉山先生面前,他依舊恭敬地執弟子之禮,有關於繪畫方面的事,仍是時常有所請益。也就是說,作畫作了四十多年,他却仍然不改廣泛學習,旁收博取的謙虛心理。或許他的畫裏,偶而有些筆觸,有些處理,仍隱約看得見某些畫家前輩的影響;或許,他作畫速度應該稍放慢些,讓筆意更從容地融入畫裏。但是,以他這種「容而能大」的堅持,相信,不必再多久,他就會走過這些小小的絆腳點,闢出完全屬於他自己的創作大路。
國立歷史博物館研究組七十七年十二月五日黃春秀採訪
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序光復之後,畫壇從戰後的廢墟再度活躍起來,學棣曹根君是光復初期的新秀。他出生於嘉義縣中埔鄉,是位樸實的農村青年,曾隨林東令先生學習水墨畫,也從余砌磋寫生之道。常以鄉土風物爲描繪對象,能融入真摯的情感,毫無抄襲臨摹之習氣。自民國三十八年起即入選全省美展,此後年年入選,而時時獲獎賞,近年繼爲省展評審委員。
曹君質樸聰敏,從林東令與余習畫的時間甚短,自己研修磨練,凡水墨寫意,重彩工筆,甚至水彩,油畫,都用心去嚐試。為增進對西畫深一層的研究,民國四十五年尚隨李石樵先生習畫一段時間,因此亦常參與油畫的展覽。在全國首屆油畫展,即榮獲首獎。綜視他四十年來的作品,實難以國畫,西畫,或水墨,膠彩、水彩、油畫等傳統方式來歸類區分。在他隨和不拘的個性,以及廣泛無成見的學習中,實己融合多種質材、形式、風格、形成他獨自的風貌。
近年數度攜畫筆遠遊日本、韓國、尼泊爾、印度等地,更拓展他的藝術領域。在邁入創作旺盛時期之際,欣聞他將應國立歷史博物舘之邀請,舉辦四十年來首次的個展,並編印畫集,因此特綴數語,以為序。
林玉山寫於容膝草堂
寫給一個為形象而掙扎的朋友
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每當我們為了滿足需求而環顧四周,嘗試按照功能推想出的器具形式,在世界中尋找合宜的某物時,「材質」的概念或許已經模糊地浮現在我們的意識中。然而,什麼是材質?它是可以被塑造成任意形式的質料?還是獨一無二的特殊本質?或是雖然具有固定性質,卻可以通過特定方式,對其進行轉化與提升?柏拉圖(Plato)曾試圖分辨「哲學家」(philosopher)與「智辯者」(sophist),前者引領靈魂向上提升,後者則向他人傳授論爭的技藝。煉金術士們將傳說中的神奇催化劑命名為「賢者之石」(philosopher's stone),字面上的意思是「哲學家的石頭」,或即借用哲學家對靈魂的提升,比喻神秘物質對金屬固有性質的提升。今日的當代工藝與當代藝術創作者們,已經不再執著於尋覓獨一無二的本質,反而開始嘗試運用手上的材質來為其它材質發聲。展覽故借用「哲學家」與「智辯者」這對概念,將當前創作者們的材質思維,命名為「辯者之石」(sophist's stone),並邀請觀者一起討論:當代工藝與當代藝術如何既圍繞著「材質」進行創作思考,又能藉由「運用自身材質特性,言說其它材質動能」的方式,避免創作陷入「材質主義」的封閉困境,同時借鑑「煉金術」跨越「質感貼皮」與「虛擬物質」在當代造成「物」之經驗斷裂的危機?(來源)(照片來源:美術館臉書粉專)
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沈燕誠
師範大學畢。
歷任香林、昇平、太保、水上等國中校長。
國立台灣藝術教育館諮詢委員、藝術與人文召集人。
大日本書藝院特選賞、推薦賞、鑑查員獎勵賞、特別賞、現任協贊員。
全國語文競賽書法類評審,全國學生美術比賽彰化嘉義縣市台南縣市評審委員。
全國蘭亭盃、文化盃、祥和盃、人間文教基金會、慈濟盃、北回盃、高雄賞、台中觀音盃、雲林政大盃、啟承盃......等,各書法比賽評審委員。
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However, one more step seems to have been needed to complete the development of the art. It was necessary to move the technique of silk tapestry weaving that had been developed by the Sogdians, and perhaps improved by the Uighurs, into the sophisticated atmosphere of Sung China to achieve the reproduction of actual scrolls and paintings under the genius of the Chinese creative spirit. Then, and not until then, did pictorial silk tapestry reach its highest expression.
This last step could hardly have taken place in the T'ang. The examples of T'ang silk tapestry in Nara do not enter into the present discussion, since as we have seen, they are not pictorial tapestries, but merely examples of the mottled chih-ch'eng." Perhaps we should not infer from this scanty evidence alone that this rather primitive form of tapestry was the only type made in T'ang China, but the fact remains that we have absolutely nothing to prove that the Chinese of that period knew how to make pictorial silk tapestry. – Unless some silk tapestries with unmistakable Chinese motives are eventually recovered from a reliably dated T'ang tomb, we shall assume that they did not.
This does not mean that k'o-ssu, or its equivalent, was totally unknown at the T'ang court. There were many Uighur merchants and envoys coming and going in the cosmopolitan capital at Ch'ang-an, and some of them no doubt brought in such things as scarfs and robes made of k'o-ssu. The vassal princes of Central Asia doubtless also sent in some as "tribute". We have evidence of this given by the great T'ang poet Tu Fu, who began a poem in honor of one of these "tribute" missions, with the words, "Guests arrive from the Northwest to leave resplendent tapestry". But the important thing to remember is that no very great amount of silk tapestry could have come into China in this fashion; and as we have absolutely no record of any being made in China until a considerable time after the collapse of the dynasty, it is most doubtful that the T'ang court ever had enough to spare for any large-scale mounting of books and scrolls, as has been claimed by later writers.
For the Five Dynasties period, between the T'ang and the Sung, we also lack any reliable evidence. A k'o-ssu scroll of a Buddhist sutra, which belonged in the collection of the Ch'ien-lung Emperor, and which bears the Liang Dynasty date of 916 A.D., has been claimed as evidence that the Chinese already made k'o-ssu at that date. However, this date woven into the fabric cannot be accepted as proof of anything. The textile worker who made this sutra was undoubtedly copying a Buddhist manuscript that had been chosen for its fine characters, as well as because of its spiritual content. Following the usual custom, he would have reproduced the date at the end of the original, and not the date of his own work, which after all was only an artisan's copy. Moreover, as this particular sutra was especially popular in China during the Sung and later, this example might even be post-Sung.
We have been unable to find any record of how or when the technique of making k'o-ssu was actually introduced – such things seldom find their way into the records of Chinese scholars. We suggest, however, in the absence of definite evidence that the earliest possible date for this would be the first half of the tenth century; in view of the fact that it must have been brought by the Uighurs, it is possible that the technique could have been introduced to Ting-chou during the Hou Tang Dynasty (923-936), when a Turkish family ruled North China from a capital not far from there. It may have been that the art reached China then, but did not attain its full development until the Sung. A much more likely date, however, would be the beginning of the following century, when the invasion of the Tanguts drove many Uighurs, and probably some Sogdians as well, from Eastern Turkestan and Southern Mongolia into China proper. The foreigners who came in at this time were not just mercenary soldiers and adventurers like those who entered China in the period of T'ang decline, but men of all classes, including artisans and trained work- ers, the type of people who might have been expected to know the secrets of the tapestry art.
Although this technique was a revolutionary improvement in the Chinese textile industry, it would seem to have been 1) quite simple, and 2) fairly obvious, and therefore it might seem strange that it took so long to get to China. But there are many factors that could account for the apparent delay. In the first place, Anthropology has shown many instances of culture traits that look quite simple, but which have taken a long time to travel from one people to another. Especially in a case of this kind where the possession of the technique must have meant considerable wealth for those who had it, the guilds, or other vested interests would have taken great pains to keep the monopoly, and prevent too many people from learning it. Moreover, simple as the technique appears to have been, it required the utmost skill to execute fine tapestry. Therefore transmission of the technique must have taken more than a mere knowledge of the appearance of the tools; it required a person who had been highly trained in the use of them to pass the method on. Lastly, probably the most decisive factor in delaying the introduction of the technique to China, would have been the traditional Chinese attitude of extreme superiority toward the “barbarians" and their way of doing things. Even if they admired foreign products made by a certain method, they would have had to be absolutely convinced of the desiderability of that alien method before they would consider it worthwhile to adopt it into their own culture. It no doubt took the Sogdians and the Uighurs a considerable time to develop this technique to the point where it aroused the interest of the Chinese: and the Chinese may have had to see its results demonstrated by Uighur immigrants in China itself before they realized its full possibilities.
In any case, as far as we can tell from the evidence now available, the k'o-ssu industry in China probably did not develop until sometime around the beginning of the eleventh century, and it must have taken the Chinese a while to master and improve the methods, so that they could do the work for which the Sung period is still renowned. Thus, Chuang Ch'o's account of the making of k'o-ssu in the Northern Sung takes on an even greater importance. For, in addition to being an interesting description of the art at that time, it is apparently the first reference to what must still have been a relatively new technique in Chinese textile production.
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IV. Archeological Evidence for the Date of the Introduction of K'o-ssuWhen was this revolutionary new technique for making pictorial silk tapestry introduced to China? Since no examples of Chinese silk tapestry of pre-Sung date have been preserved in the land of their origin, we are forced to look for evidence in the outlying areas of Chinese civilization.
Claims have been made about the discovery of pictorial silk tapestry from the Han Dynasty, but these have been proven false, and no examples from that early period have ever been found. To be specific, two writers have published what were supposed to be figured silk tapestries from the Han. The first of these, found by Stein at Lou-lan in Chinese Turkestan, was of wool, and its motives were Western Asiatic in spite of a ridiculous attempt to prove that at least one of the elements was "Chinese" (see below). The second, found by Kozlov at Noin Ula in Outer Mongolia, was indeed Chinese, but it was silk damask, and not of tapestry weave. Unfortunately, both of these statements were accepted and repeated by other writers, making for much confusion.
The fragments in tapestry weave recovered by Stein at Lou-lan are believed to date from the first century B.C., or the latter part of the second. They are all of wool, and in Stein's own words, show in the style of their design unmistakable Hellenistic influence, suggesting production west of China. He assumed, moreover, that because of the importance of wool-raising in the Tarim Basin, plus the fact that one of the motives on an otherwise Hellenistic example was attributed to a "Chinese origin", all of these must have been made in that general region of Chinese Turkestan.
This seems very far-fetched. In the first place, all the motives were Western Asiatic or Hellenistic in feeling. Some were strikingly so, notably the chiaroscuro portrait of an individual of pronounced European type. Even the so-called "Chinese motive" is a Western one. This chimera, composed of the head and wings of a bird, horse's forelegs, and another creature for its tail, bears no remote resemblance to the bird-headed winged horse at Wu-liang-Tzu, with which it is said to have "the closest connection”. Beyond the fact that they are both composite monsters, they have almost nothing in common. Phyllis Ackerman says the chimeras are Scytho-Sarmatian in spirit, which seems very reasonable.
If the one "Chinese" element is not Chinese – and there is not the slightest reason to assume that it is – the fact that these Lou-lan tapestries were made of wool is no evidence of local manufacture. Wool tapestry was made throughout the Near East and into Western Asia. Moreover, as Lou-lan and the other oasis cities of the Tarim Basin owed their importance to being on the great trade routes between the empires of Rome and China, they must have been dependent on trade goods rather than on local manufactures. Middle men are seldom producers, and there is no reason to believe that these were. Highly technical arts like tapestry weaving do not flourish under such conditions. If all the silks found at Lou-lan were acknowledged to have been imports from China, why could not these technically high-quality, wool tapestries have been imported too, from the opposite direction? Pfister and Dr. Ackerman have called them "Parthian". but that term does not adequately account for the one with the European-style portrait. This must have come from somewhere even further west, unless it was made in one of the centers of Greek culture in Sogdiana, or Bactria, which we think is very probable.
Sogdiana, at the Eastern end of the Iranian plateau, was conquered by Alexander the Great in 327 B.C. and was governed by a succession of Greek rulers for nearly two centuries after that, until the Tochari, or Scythians, took it over. Under Greek rule this region seems to have enjoyed an almost purely Hellenistic culture, to judge by objects found as far away as Taxila in Northern India. Among other culture traits the Greeks must have brought with them the art of wool tapestry. If so, the portrait fragment found at Lou-lan would probably represent the period of actual Greek rule, while those with the more Scythian motives, notably the one with the chimeras, would date from the period after the Scythians had taken over, when the Sogdians presumably continued the art of wool-tapestry weaving, under their new masters. Aside from the single, tapestry shoe that Stein recovered at Astana in the Turfan oasis, and ascribed to the early T'ang, he found no examples in this technique between the Han period wool tapestries from Lou-lan, and the "late T'ang" silk tapestries at Tun-huang. This shoe is very interesting because it had a warp of vegetable fibres-long since rotted away-which were probably of hemp. Thus it must have been a forerunner of the "chu-ssu" used for shoes, belts, etc., in the Yuan and Ming dynasties. At the same time, aside from being made of silk, with a somewhat more sophisticated pattern, this is much like the earlier shoes of wool tapestry on hempen warps found at Lou-lan and elsewhere in Chinese Turkestan, indicating that it was the culmination of a long tradition.
This shoe from Astana was considered by Stein and Andrews as having Chinese characters on the toe, which led them to say that it was a Chinese shoe. These characters do not show in the photograph, and as neither Stein nor Andrews could read Chinese, we are inclined to be sceptical. However, since all the other motives are obviously non-Chinese Central Asian ones, it is likely that even if these are authentic characters, they are auspicious ones, like the shou for longevity, which were considered lucky by the "barbarians" as well, and frequently copied from Chinese things. Thus we see no reason to believe that this was not made in Central Asia rather than in China.
The "late Tang" fragments of silk tapestry found by Stein and Pelliot at the "Cave of the Thousand Buddhas" (Ch'ien-Fo-tung) in Tun-huang are very well known. Tun-huang was a station on the old Silk Road, in Northwestern Kansu on the frontier of Chinese Turkestan, but it was also noted for its Buddhist shrines in great, rock-cut caves. After the westward expansion of the Han Empire, in the second century B.C., and the opening of the route across Turkestan, Tun-huang was ruled by the Chinese, off and on for almost a thousand years. However, about 847 A.D. in the later T'ang period, it became part of the Uighur Empire, and the Uighurs held it until about 1031, during the early Sung, when it was taken from them by the Tanguts, a Tibetan people who were founding the Hsi-hsia Empire. The few pieces of silk tapestry found there by Stein and Pelliot were discovered among a rich store of manuscripts and paintings that had been walled up in a side chapel off the main cave, sometime shortly before the Tangut invasion. Since, according to Stein, the large majority of the dated documents found in the chapel belonged to the tenth century of our era, it would seem likely that the tapestries were of approximately the same date, which would make them relics of the Uighur occupation at a Period equivalent to the Five Dynasties or Early Sung in China.
Stein reported that all the silk tapestry fragments found at Ch'ien-Fo-tung were of exceptional fineness in technique, and all were hand-made with the needle.69 He pointed out that the great value attached to such work was illustrated by the fact that twice he found small pieces of the identical fabric forming part of the mountings for different head-pieces to paintings and manuscript-roll covers.
Silk tapestry would indeed have been rare in Tun-huang, as this was primarily a religious center at that time, and not a place where textiles would be produced. Such luxuries had to be brought from long distances. We do not, however, accept Stein's statement that the tapestries must have been brought from China because the motives on them were "purely Chinese". The motives are certainly not typical of Chinese art – though some of them show traces of Far Eastern feeling – and their closest relatives appear to be in the fragments of Uighur tapestry found by Stein and von le Coq at various sites in the region of Turfan. None of the latter were precisely dated, but they are believed to have come from the late T'ang or Five Dynasties period. In fact, since Tun-huang belonged to the Uighurs, and was nearer to their oasis-centers in Eastern Turkestan than it was to any of the larger cities in China proper, it probably drew most of its gifts and supplies from Uighur patrons, rather than from Chinese. Thus, the tapestry fragments recovered from Tun-huang were probably Uighur, and like the earlier ones discovered at Lou-lan, were undoubtedly imported from regions further to the west of the place where they were found.
Where did the Uighurs get this art? Clues to the probable answer are given by Stein in Serindia. Reporting his discovery of Sogdian Buddhist texts at Ch'ien-Fo-tung, he says that some were written on the back of Chinese scrolls which manifestly belonged to T'ang times and were put to new use locally. This, he says, is proof that men of Sogdian origin were in Tun-huang, during the period of Uighur domination; while Pelliot's researches have proved that there were colonies of Sogdian emigrants at Turfan and other Uighur centers at that time. Then, in another place, Stein remarks, "In the case of those few silk fabrics from the West which found their way into the walled-up chapel at Tun-huang, local production in that old Sogdian region, which by that time must have grown its own silk, just as it does at present, appears to me on general grounds by far the most likely solution". He was not speaking about the silk tapestries as he believed them to be Chinese, but we feel quite sure that this statement applies to them above all. In our opinion, these fragments found at Tun-huang were scraps from tapestry fabrics either woven by Sogdians for the Uighurs, or by the Uighurs, who had obtained the raw silk and learned the technique from the Sogdians. In any case, they were probably the lineal descendants of the wool tapestry fragments from Lou-lan. For, assuming that the Sogdians were the weavers of the Lou-lan wool tapestries, it seems likely that after they obtained silk of their own, they adapted the old technique to the new medium.
Before we leave the Tun-huang fragments, we should consider the suggestion made by Miss Simmons that a study of these shows that, like the contemporary Coptic and Peruvian weaves, this form of tapestry had not yet reached the pictorial stage. This would seem to be a dangerous generalization. In the first place, since Tun-huang was a rather remote outpost of the Uighur Empire, the finest pieces would not have been apt to reach there, even in the form of scraps. Secondly, von le Coq's finds in Turfan seem to indicate that by the 10th century the Uighurs – or their Sogdian artisans – already had the concept of large compositions, and the technical ability to carry them out.
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