邊文進の作品邱濬(永樂十八年〈一四二〇〉~弘治八年〈一四九五〉)(『綜表』)の『瓊臺詩文會稿重編』卷二(天啓刊本)には「題林以善畫迭王琚」と題する七言排律があり、その中で邱濬は言う「近代翎毛、誰か最も工なる、邊家の父子獨歩を誇る、羊城の林氏晩く出ると雖も、筆勢飄飄として天趣有り(略)」。これは林良を稱賛した詩の一節であるが、近代──邱濬にとっての近代、おそらく明初──において最も翎毛の巧者として邊文進、邊楚芳が獨歩していたことを物語っている。
邊文進が永樂畫院に入ったことを暗示するただ一つの資料になり得る作品は臺北國立故宮博物院の 《三友百禽圖》軸である。「永樂癸巳(十一年〈一四一三〉)秋七月、隴西の邊景昭、三友百禽圖を長安官舍に寫す」の款記がそれを示している。しかしその樣な資料的價値のほか、作品その物は充分な出来栄えとはいいえない。畫面一杯に散らされた 禽鳥の描寫は一種のステレオタイプによっており、躍動感も生氣もなく、畫面に騷がしさのみを與えている。三友を足進成了死面的降物 形成する竹の描寫は鉤勒線も頼りなく、梅樹は表現をなしていない。北宋以来の傳統にしたがって外面的な形態のみを寫した物ということが出来る。 竹葉と松の葉には元代の傳統が看取されるものの、禽鳥と同じく生動の趣に乏しく、僅かに岩の描寫のみに浙派形成期の畫家の苦心が認められる。簡潔な皺法とオドオドした筆使いにそれは現われている。
橋本家の〈栢鷹圖〉の機知的畫面構成と描線の美しさ、寫生的要素と適度の装飾性の結合狀態は寧ろ三友百禽圖に 優るということが出来る。この事は作品成立の時期の問題であるかもしれない。三友百禽圖が比較的若年の制作であり、後者が宣德期になってからの作品という推測も成りたつであろう。〈鳩圖〉(泉屋博古館)についてもこの種の議論は成立つと思われる。そしてこの繪と傳李安忠筆鶉圖との構圖、筆法の近似點は注目しても良いのではないか。この圖には鶉圖ほどの沒骨使用法の卓抜さはないが。花樹──枸杞か?──の描法の近似、邊文進が求めた物が南宋であったのか、明の花鳥畫の一體に影響された物なのか分からないが、花樹の下と、左端には浙派らしい黒ぐろとした突起が有り、右端には沒骨の土坡が二個左方に突き出ている。この土坡は日本に現存する南宋畫という物に屢々見られるものであり、日本現存南宋畫の鑑識に重要な手がかりを與えてくれる。そして邊文進が求めた物が究極に於て南宋院體であったことをも知らせてくれる。邊文進と浙派の關係、或いは浙と閩との關係については邵經邦の『弘藝錄』卷十九の「明處士樸菴張公孺人劉氏合葬墓碣銘」に「浙と閩とは圻、相い屬き、物、相埒しく、山川、相比ぶ。故に人、恆に限りを為らず(略)」。このように浙江と幅建は地理的にも文化的にも或いは人間關係においても密接な ものがあった。従って浙江の繪畫は時間的に餘り餘裕を置かないで相互に傳播するのが普通であったと思われる。
藪本家の〈雙鶴圖〉は南宋花鳥畫の直模とも思われるが、土坡の描法には浙派と共通するもの──宣德期の──が見られるが、鶴は唐朝、北宋以来の形式に従っており寫生家──張寧(景泰五年の進士)が『方洲集』で言う寫生邊姓としての邊文進の實力の現われた作品と言うことが出来る。而も明代花鳥畫の特色である自然景觀のなかの花鳥を自然もろとも寫すことに彼の畫風の大きな特色を示すものでもある。
邊文進畫蹟を概觀すると、一般的に「武英殿待詔」の款記をもつ作品のほうが優れており、その點、日本に傳存する作品には畫家の身分、地位を示す肩書の見える物はない。隴西と言うのは邊文進の本貫をしめしたもので、大した意味を持つものとはいえない。彼は福建、沙縣の出身であり、後の閩習と呼ばれたような地方畫風を繼承していたと 思われる。
既述したように、『明實錄』の始めての畫家に就いての記述は邊文進が賄賂を受けて不適當な二人の人物を推薦したと言うものである。當然、罪せられるのを、七十餘という高齢であったため許されている。
邊文進の作品と言われるものは非常に多い。乾隆の『延平府志』によれば鄧文明、羅績、劉琦、盧朝陽等は工巧の處は景昭に似るといわれ、文進の子、楚芳、善のほか同邑の邊孟屯は山水人物を善くしたというが、これまた邊文進の一族であるかもしれない。邊文進の後世に残した影響は大きく、それが邊文進の偽物を横行させた主な原因でもあろう。『延平府志』はまた「婿の兪存勝が粉墨の法門を得て、遂に沙陽畫家の宗祖と為った」という。地方志、雜書、別集類を検索すれば膨大な福建畫家の傳歴を知ることが出来るが、その中のかなりの部分に邊文進の影響を讀取ることが出来る。尹臺(嘉靖十四年〈一五三五〉進士)の『洞麓堂集』(文淵閣四庫全書收)には邊文進の花鳥畫をうたった七古が有り、その中で邊畫に贋物の多いことを述べている。「(略)茲の幅 抹染 先後同じく、側に邊の名を記するも、筆縦異なる。論畫豈に必ずしも真贋を窮めんや、爾の為に墨を灑ぎ愁春工みなり。」
拙稿「明代畫院制について」(『美術史』第六〇號、昭和四十一年〈一九六六〉三月)において既に概説したが、今新たに加える物は多くはない。Vanderstappen君の前揭論文の批判から始めた拙稿は當然、明代頻出する中書舍人の問題から論じている。欽定『歴代職官表』(光緒二十二年廣雅書局校刊本影印)卷四、內閣下は梁清遠(順治の進士)の『雕邱雜錄』を引き、次のように言う、
邊文進が永樂畫院に入ったことを暗示するただ一つの資料になり得る作品は臺北國立故宮博物院の 《三友百禽圖》軸である。「永樂癸巳(十一年〈一四一三〉)秋七月、隴西の邊景昭、三友百禽圖を長安官舍に寫す」の款記がそれを示している。しかしその樣な資料的價値のほか、作品その物は充分な出来栄えとはいいえない。畫面一杯に散らされた 禽鳥の描寫は一種のステレオタイプによっており、躍動感も生氣もなく、畫面に騷がしさのみを與えている。三友を足進成了死面的降物 形成する竹の描寫は鉤勒線も頼りなく、梅樹は表現をなしていない。北宋以来の傳統にしたがって外面的な形態のみを寫した物ということが出来る。 竹葉と松の葉には元代の傳統が看取されるものの、禽鳥と同じく生動の趣に乏しく、僅かに岩の描寫のみに浙派形成期の畫家の苦心が認められる。簡潔な皺法とオドオドした筆使いにそれは現われている。
橋本家の〈栢鷹圖〉の機知的畫面構成と描線の美しさ、寫生的要素と適度の装飾性の結合狀態は寧ろ三友百禽圖に 優るということが出来る。この事は作品成立の時期の問題であるかもしれない。三友百禽圖が比較的若年の制作であり、後者が宣德期になってからの作品という推測も成りたつであろう。〈鳩圖〉(泉屋博古館)についてもこの種の議論は成立つと思われる。そしてこの繪と傳李安忠筆鶉圖との構圖、筆法の近似點は注目しても良いのではないか。この圖には鶉圖ほどの沒骨使用法の卓抜さはないが。花樹──枸杞か?──の描法の近似、邊文進が求めた物が南宋であったのか、明の花鳥畫の一體に影響された物なのか分からないが、花樹の下と、左端には浙派らしい黒ぐろとした突起が有り、右端には沒骨の土坡が二個左方に突き出ている。この土坡は日本に現存する南宋畫という物に屢々見られるものであり、日本現存南宋畫の鑑識に重要な手がかりを與えてくれる。そして邊文進が求めた物が究極に於て南宋院體であったことをも知らせてくれる。邊文進と浙派の關係、或いは浙と閩との關係については邵經邦の『弘藝錄』卷十九の「明處士樸菴張公孺人劉氏合葬墓碣銘」に「浙と閩とは圻、相い屬き、物、相埒しく、山川、相比ぶ。故に人、恆に限りを為らず(略)」。このように浙江と幅建は地理的にも文化的にも或いは人間關係においても密接な ものがあった。従って浙江の繪畫は時間的に餘り餘裕を置かないで相互に傳播するのが普通であったと思われる。
藪本家の〈雙鶴圖〉は南宋花鳥畫の直模とも思われるが、土坡の描法には浙派と共通するもの──宣德期の──が見られるが、鶴は唐朝、北宋以来の形式に従っており寫生家──張寧(景泰五年の進士)が『方洲集』で言う寫生邊姓としての邊文進の實力の現われた作品と言うことが出来る。而も明代花鳥畫の特色である自然景觀のなかの花鳥を自然もろとも寫すことに彼の畫風の大きな特色を示すものでもある。
邊文進畫蹟を概觀すると、一般的に「武英殿待詔」の款記をもつ作品のほうが優れており、その點、日本に傳存する作品には畫家の身分、地位を示す肩書の見える物はない。隴西と言うのは邊文進の本貫をしめしたもので、大した意味を持つものとはいえない。彼は福建、沙縣の出身であり、後の閩習と呼ばれたような地方畫風を繼承していたと 思われる。
既述したように、『明實錄』の始めての畫家に就いての記述は邊文進が賄賂を受けて不適當な二人の人物を推薦したと言うものである。當然、罪せられるのを、七十餘という高齢であったため許されている。
邊文進の作品と言われるものは非常に多い。乾隆の『延平府志』によれば鄧文明、羅績、劉琦、盧朝陽等は工巧の處は景昭に似るといわれ、文進の子、楚芳、善のほか同邑の邊孟屯は山水人物を善くしたというが、これまた邊文進の一族であるかもしれない。邊文進の後世に残した影響は大きく、それが邊文進の偽物を横行させた主な原因でもあろう。『延平府志』はまた「婿の兪存勝が粉墨の法門を得て、遂に沙陽畫家の宗祖と為った」という。地方志、雜書、別集類を検索すれば膨大な福建畫家の傳歴を知ることが出来るが、その中のかなりの部分に邊文進の影響を讀取ることが出来る。尹臺(嘉靖十四年〈一五三五〉進士)の『洞麓堂集』(文淵閣四庫全書收)には邊文進の花鳥畫をうたった七古が有り、その中で邊畫に贋物の多いことを述べている。「(略)茲の幅 抹染 先後同じく、側に邊の名を記するも、筆縦異なる。論畫豈に必ずしも真贋を窮めんや、爾の為に墨を灑ぎ愁春工みなり。」
拙稿「明代畫院制について」(『美術史』第六〇號、昭和四十一年〈一九六六〉三月)において既に概説したが、今新たに加える物は多くはない。Vanderstappen君の前揭論文の批判から始めた拙稿は當然、明代頻出する中書舍人の問題から論じている。欽定『歴代職官表』(光緒二十二年廣雅書局校刊本影印)卷四、內閣下は梁清遠(順治の進士)の『雕邱雜錄』を引き、次のように言う、






