《藝術學報》57期,1995年10月美術學系資訊組 壹、四十年來美術教育之變革中國繪畫藝術,自明清以降,因臨摹之風所及,漸入衰頹時期,繪畫成為文人官宦之風雅韻事,或為官場失意者發洩之所託,與社會生活脫節,失去生機,有志之士力圖振衰起蔽,清末民初,乃有國畫革新或改良之議,一時蔚為風尚。而清光緒年間,海禁大開,西洋畫的輸入,對西洋繪畫的研究風氣蓬勃了起來。這對正處於中國畫衰頹的時刻。不無刺激,也使得中國藝術有了別開生面的新契機。
民國初年,西洋資訊蜂湧而至,列強的衝擊,使得知識分子覺醒,從新審視自我文化的本質,企圖自西洋繪畫的啟示中,探求重展生機與突破傳統教育的桎梏,追求鮮活的繪畫創造力。採擷西式美術教育,以帶動中國繪畫的革新。一時朝氣蓬勃,中國繪畫之發展,出現一道曙光。不幸的是,民國三十八年大陸淪陷,教育之推展遭遇制度的更迭,藝壇活動遭此歷史性的浩劫,大陸上革新精英,或身陷大陸或流落異邦,剛萌芽的繪畫革新運動,未能全盤移至台灣,殊為可惜!
台灣光復,政府又於三十八年播遷來台,勵精圖治,積極建設,尤以推展教育,掃除文盲,提昇文化,改善人民生活,四十餘年來,展現了活潑的生機。為求提高國民生活品質,推展文化建設,對於美術教育的日益重視,增加經費以充實設備,改善教學環境,鼓勵教師進修,戮力創作,加以經濟的快速發展,國民審美能力日見提昇,美術愛好者積極投入教育與藝術創作,展覽頻仍,生氣蓬勃。(一)美術思想之演變台灣光復之前,在日本統治下,有關學制與繪畫風格,在在受到日本的影響。此時美術活動,以西畫為主軸。大部份著名西畫家都會留學日本,如廖繼春、李梅樹、李石樵、陳慧坤、李澤藩、郭柏川、楊三郎、劉啟祥、洪瑞麟等,均從事繪畫創作,又肩負台灣的大專美術教育的重任。畫風方面,也都承繼了印象派、野獸派等十九世紀末、二十世紀初的西洋風貌。民國三十八年,政府遷台,追隨政府而來的,以國畫家為多,如黃君璧、溥心畲、吳詠香、傅狷夫、金勤伯、胡克敏等以及台籍畫家林玉山、林之助、陳進等,亦均以創作、教學為職志。初期階段的畫風,均自傳統繪畫中,探求自我風格之建立。
此際社會風氣較為保守,又因交通不便,西方所發生的新繪畫思潮,未能輸入,影響無由產生。而政府播遷來台,整軍經武, 投注心力於國防,尚無餘力以推廣文化建設,美術教育只能延續以往方式,聊備一格。
直至民國四十年起,台灣的美術運動有了突破性的發展。青年藝術家們創作意識的覺醒,又逢西方現代繪畫思想的衝擊,一時風起雲湧,掀起時代巨浪,為沉寂的藝壇,帶來無比的震撼。主張藝術須充分反映時代精神,發揮自我,賦予積極機能,強化感性,提昇審美情操。年青一輩畫人,接受了西洋抽象表現主義的洗禮,開創具有中國風味的抽象繪畫,對保守畫風產生了前所未有的刺激,新舊論戰,蔚為一股風潮。此一覺醒,對保守畫風也具有催化的作用,傳統派畫家不得不檢討以往缺失、追求從傳統中開創新意。而新一代的青年畫家也正思考著,如何在中國文化精神中結合西洋新知,追求藝術理想,樹立新時代的新風格。畫會在結合相同創新理念下,一一成立,聲勢浩大,為藝壇注入新的活力。東方畫會、五月畫會,都曾為此階段奉獻了極大的心力。
自民國五十五年起,隨著台灣經濟的發達,資訊傳遞的快速,縮短了國際間的距離,繪畫創作者獲取最新信息,已是到了垂手可得的地步。國人可從視訊網路瞭解國際藝術全貌,更能清晰體認自我在世界的方位,從而體悟民族性、時代性、自我性在世界藝術思潮中如何加以詮釋與運用。多元的創作思想體系正在建立,擺脫了以往威權時代一元化的桎梏,以自我創作為目標。三十餘年來,畫會林立,各縣市文化中心的建立,公私立美術館、畫廊如雨後春筍,相繼成立,繪畫工作者有更多寬廣的創作與展示空間,相對地對國民的美育提供了更為完整的運作體制。
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6. 満洲国における“郷土色”─「擬似故郷として満洲」東アジアの植民地展で奨励された地方色は、帝国の視点が要求した異国趣味であり、内地・外地の差異をつくるための手段であった。しかし植民地側の視点からみると、それは民族主義的な情緒を表現することでもあったため、地方色は、植民地時代の画壇の最も重要 なテーマとして、これまでも各国の研究で多彩な議論が行なわれてきた。満展については、朝鮮と台湾に比べ、地方色についての言説があ まり残っていないが、宣詔展の審査相談役だった松林桂月は、「地方色」「地方的な特色」などの言葉を使って、次のように述べている。芸術は畢意するに民族精神の反映であるから、今少しローカルカラーに富んだ作品を描き、東洋に於ける民族性のみがもつ味はひを研究し盛り立てて行く事を心懸け、こうした試みが日本の帝展の出店の様なものに落ちぬやう心懸けて欲しい。桂月は地方色を、ある民族の精神と特性を反映するものと捉えていたが、実際の満洲国は多くの民族を人為的に結合した国家であったため、地方色は複雑な問題だった。そのため満展では、むしろ多くの民族が共存する社会自体を、満洲特有の地方色として演出したように見える。この満展の地方色は、まさに国家のスローガンだった「五族協和」に共鳴し、その理想を宣伝する効果的な手段となった。そして出品作品には、中国、朝鮮、日本の伝統服を着た人物や、 蒙古族の風習、亡命したロシア人などのモチーフが、頻繁に登場した。しかしこうした「五族協和」を表象したにもかかわらず、実際の満展の運営では、民族的な差別が存在した。当然ながら「五族協和」は、当時の満洲国の現実ではなく、むしろ逆に脆弱な現実をそのまま表わす、解決すべき課題であった。
このような皮肉な状況の中で興味深いのは、満洲画壇の地方色が、満洲国人ではなく、甲斐巳八郎を中心に結成された〈満洲郷土色研究会〉の画家たち、つまり満洲在住の日本人画家によって、より活発に追究された点である。まずここで触れておきたいのは、「地方色」「郷土色」という言葉の用法である。「地方色」は、同化政策としての日本の視点を反映し、中央(日本)に対する地方(植民地)という関係を含んでいたため、植民地の官展の主催側や、民地に居住した日本人画家たちによって一般的に使われた。それに対して植民地の画家たちは、むしろ民族主義的なニュアンスを含む 「郷土色」という言葉を主に使用した。ところが、満洲在住の日本人画家たちの場合は、〈満洲郷土色研究会〉の会名にも表れているように、「地方色」ではなく「郷土色」という語の方を積極的に使った ことが注目される。これは単に地域の言語習慣というより、画家たちのアイデンティティーの認識の違いから発生したと考えられるここでは、このような満洲在住の日本人画家の状況に焦点を当て、満洲における郷土色の様相を具体的に考察してみたい。
満洲の郷土色を表現した代表的な画家である甲斐巳八郎(一九〇三~一九七九)は、満洲国の民族をテーマとした点では、満展の一般的な傾向と同じだったが、造形的な面では、満展で奨励された写生に拘泥せず、自由でシンプルに表現した挿絵のような特徴を持っていた。これは、彼が純粋美術の分野以外に、ジャーナリズムでも活発な活動をしていたためと考えられる。甲斐は満鉄の社員会機関紙だった『協和』の編集者として、満洲の風習に関する連載を担当した。その代表的な例が、『協和』に一八七回にわたって連載された「満洲郷土画譜」と、〈満洲郷土色研究会〉が共同執筆した『苦力素描』、『満洲土俗人形』などの本である。そしてそこでの重要な特徴として、甲斐をはじめとする〈満洲郷土色研究会〉の作品に、民俗学的な関心が強く表われている点があげられる。朝鮮在住の日本人画家たちの場合も、朝鮮的なモチーフで作品を制作したが、理解不足から不正確に描写した事例がしばしばあった。朝鮮在住の日本人画家にとって、朝鮮的なモチーフは、あくまでも地方色を表現するための手段であり、それ自体に対する関心は薄かったため、そこでの地方色も、朝鮮美展で入選するための手段という性格が強かったと言える。しかし甲斐巳八郎や〈満洲郷土色研究会〉の作品では、正確な考証と研究による満洲の風物が、詳細かつ緻密に描写されている。なぜ満洲在住の日本人画家の郷土色に、満洲への高い関心や民俗学的な特徴が現われたのか。その原因を、彼らの言説からさぐってみよう。一九三六年の『協和』の学芸欄は、満洲画壇の状況を次のように記している。満洲の絵かきを満洲牛のうまくないのと一緒に考えてゐる人が 相当にあるようだ。(中略)気が早い人は此処まで考へて、満洲の絵かきは気の毒だ、立派な絵の描けぬのは当然のことだと早飲込をしてしまつてゐる。(中略)日本人の天然自然のみを以て、絵画の対象と心得てゐる一部絵かきの観念と、何等異らないものではないか。
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4. 部門構成の特徴─大東亜共栄圏の文化政策としての書部の存続満展は、基本的に東洋画、西洋画、彫刻・工芸、書の四部に構成された。特にここで注目されるのが、第四部の書である。書部が途中で廃止された朝鮮美術展覧会や、最初から設置されなかった台湾美術展覧会に対して、満展では当初から最後まで存続しただけでなく、第五回展からは正式名称も「満洲国絵画工芸書道展」と変更されている。満展での書部の存続は、図録が中国語で発行されたこととともに、日本による懐柔策と捉えることもできるが、むしろ書をめぐる問題は、東アジアの近代美術におけるパラダイム転換という、より複雑な意味を持っている。書や南画などの伝統的な書画は、日本近代美術の制度化の過程では、殖産興業政策の影響で「美術」から排除された。つまり書画から絵画への転換は、「中国的価値観との決別を象徴」していた。そうであるなら、日本の対東アジアの美術政策における書の問題は、逆に各植民地に対する日本の立場や姿勢の違いを明らかにする、重要な手掛かりとなることが期待される。日本が朝鮮美展の書部を廃止したことは、中国の影響圏にあった朝鮮を、日本中心の新秩序へ編入しようとした意図を窺わせるが、しかしでは日本が満展の書部を継続したことは、どのような意味をもっていたのか。
まず第四回満展の書部の審査を行なった栄厚の審査評は、書の造形面について次のように述べている。仮名出品物は遂年質的向上を認められる。大陸的な仮名書道を普及しこれが持つて真の味を理解するやう念願して巳まない。日語と関連して仮名書道普及徹底は我々の立場において特に強調したい。それにはよい仮名を見せなければならない。この一文は、満洲国側の立場から日本語普及のための仮名書道という目的を強調しながら、「大陸的な仮名書道」という言い回しで、日満の融和を図ろうとしている。このように満展での書部の存続は、大東亜共栄圏の文化交流を図るためのメディアとして、書を利用しようとしたことを窺わせる。言い換えれば日本は、朝鮮への美術政策では、自国と同様に書を排除する一方で、満洲国への政策では、書を積極的に利用すべき対象としたのである。この方針に沿って、満洲国では、満展以外にも多彩な書道関連の展覧会が開催された。例えば、第一回満展と同じ一九三八年に開催された、満洲国と中華民国が連合した〈満日華書道親善展覧会〉をはじめ、一九四二年の〈満日華三国親善書道展〉などは、その代表的な例である。また書以外でも、明治以降の「美術」で書とともに冷遇された南画や文人画が、逆にこの時期、中国と日本の親善を目的に奨励された点も注目される。周知のように満洲国は、大東亜共栄圏の文化構築のための地理的な橋頭堡として機能したが、そこでは、明治期の殖産興業政策でいったん排除された書と南画が、大東亜主義という新たな国策のために、今度は奨励されたのだった。5. 出品作品の傾向─奨励と排除による満展様式の創出満展は官設の公募展という性格をもっていたため、出品作と受賞作には、満洲国が意図した美術の方向性がよく表れている。ここでは、東洋画部・西洋画部で奨励、あるいは排除されたものに注目し、出品作品の傾向を確認してみたい。
まず満展での伝統的な絵画は、朝鮮美展や台展と同様に東洋画と いう名称で扱われたが、満洲国人の画家と日本人画家では、出品作の扱いに著しい違いがあった。中国の書家である高澄鮮は、のちに満展を回顧して次のように述べている。
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崔在爀
1. はじめに
満洲国は一九三二年、「王道楽土」や「五族協和」というスローガンの下、現在の中国東北部に建国された。終戦とともに忽然と消えたこの「幻の国」は、大東亜共栄圏の建設のための橋頭堡だったと同時に、「帝国的支配システム(植民地)」から「帝国支配下の主権国家システム(傀儡国)」へと展開した、日本の対東アジア政策の産物だった。満洲国の官展だった満洲国美術展覧会(満展)は、一九三七年の訪日宣詔紀念美術展覧会(宣詔展)を前身とし、一九三八年から一九四四年まで開催されている。これは、帝展をモデルに東アジアの各地で開催された、植民地官展の三番目のバージョンであったが、満洲国の特殊性が反映されているため、東アジアの官展の全体相を把握する点でも、一つの重要な手がかりとなると思われる。しかし現在の満展研究は、ほとんど空白の状態にあり、中国現地での満洲国という存在じたい、過去の汚点として、その侵略の歴史が矮小化され、客観的な研究どころか満展図録などの基本資料さえほとんど保存されていない状況にある。近年、韓国では東アジアの近代の官展を総合的に検討しようとする研究が提起さているが、ここでも満展は、中国現地での研究が足踏み状態であるため、除外あるいはたんなる参考対象として扱われ、植民地の文化政策の一環として述べられるにとどまっている。また日本での満展研究は、散逸した資料の収集や整理が中心となっており、美術史的な分析や検証には十分に至っていない観が強い。そのため本稿では、まず満展の主催機関、審査制度、部門構成、出品作品を検討し、 他の植民地展とは異なる満展の特徴について考察する。次いで満洲 在住の日本人画家の表現に注目し、植民地の官展の最大テーマだった「地方色」が、満洲国ではどのように展開されたのかを探る。その上で、満洲国の美術界の事情と政治状況から、満展の意図や性格を明らかにしたいと思う。
2. 主催機関─満日文化協会から民生部、国務院弘報処まで
第一回満展の名目上の主催機関は、満洲国の民生部である。民生部は、一九三七年に教育、社会、労務、保険の総轄機関として設立され、民心作興、民生安定、国民生活の向上を目的とした。しかし実際には、民生部は形式上の主催機関に過ぎなかったため、むしろその一年前に行われた宣詔展の主催機関である満日文化協会に注目する必要がある。というのもこの団体こそが、主催が民生部に移管された以後も、実質的な運営を担当した組織だったからである。満日文化協会は、行政機関ではなく、民生部の援助を受けた外郭団体だったが、第一回満展の審査員長だった羅振玉をはじめ、東洋画部・西洋画部の審査員だった栄厚、書部の審査員の宝熙らが、いずれも満日文化協会の発起人だった点からも、満展と深い関係にあったことがわかる。満日文化協会は、日満の交流と、日本文化を媒介とする満洲文化の育成を目的に、一九三三年十月、日満両国に設立され た文化機関だった。この点からも満展が、満洲と日本の友好関係を促進する目的をもつものだったことがまずわかる。「協和」とは、満洲国を構成する五つの民族の統合をめざした「五族協和」だけでなく、いわゆる「兄弟国」として宣伝された両国の外交関係としても、不可欠の理念だったと言える。
ところが一方、満洲国が独立国として誕生したことを宣伝するには、他の植民地との違いを強調する必要があった。朝鮮美術展覧会(朝鮮美展)と台湾美術展覧会(台展)の場合は、「内鮮一体」「内地延長主義」という“一体化”と“同一化”の政治スローガンが、美術の分野でも実践されたが、ここでの「一体」とは、中央(日本)からみた地方(朝鮮、台湾)という視点での同化を意味していた。したがって日本は、植民地文化の後進性を強調しながら、教化する側としての日本の立場を強調した。しかし満洲と日本の場合は、国家対国家の関係として設定され、表面上は支配の関係ではなかったため、支配を正当化する負担が少なかった。このため満洲における文化の後進性は、改善しなければならない要素としてよりも、障害物がない純粋な状態として描写されることが多かったといえるえば、第二回満展の審査相談役だった梅原龍三郎は、満展を他の植民地展と比べながら次のように記している。
私は台湾美術展を知ってゐるが、ここでは既に歴史が古いだけに各美術家の傾向がはつきりして、云はば固まった感じが多く、この点青年満洲には自由な躍動が全文化面から脈々と感取され、美術上の純な姿は頼もしい限りだ。
このように独立国を表明した満洲国での満展は、新国家に相応しい新たな美術の創造を積極的に表明しながら、国家的な美術プロジ ェクト、あるいはプロパガンダとしての性格が強調されたと言える だろう。満展は、その開設時期がすでに戦争期であり、国家による文化統制が強く反映されたため、不出品といったボイコット問題が起こるなど、当初から美術界の対立を生んだ。第一回満展を伝える次の記事には、当時の満展を取りまく状況が示されている。
国展(満展・筆者註)不出品作家の中には国展出品不満作家と、国展イデオロギー(明示されたわけでもない)への反対者に区別することが出来る。即ち機構に対する不満とか、統制国家美術に対する自由主義立場から抱くほのかな危惧、または芸術家特有の自尊心から不出品を決行したのであつた。この対立的空気は将来相当の深さまで掘り下げらるべきであつて、早急に解決さるべき問題ではあるまい。要は建国精神を捧持し、民族協和の理想を顕現すべき新国家の美術文化の建設は自ら判然と把握されなければならないのである。
政府は、「明示されたわけでもない」と国展イデオロギーの存在を否定しつつ、文章のすぐ次には、「建国精神の棒持」「民族協和の顕現」という「国展イデオロギー」が明記されている。このような性格がより強化され、一九四一年の第四回満展からは、その主催が民生部から、最高の行政機関だった国務院総務庁の弘報処へ移管された。この移管は、満洲国弘報処が一九四一年三月二十三日に発表した「芸文指導要綱」に基づいて、他文化団体の統制や統廃合とともに行なわれたものである。この要綱の目的が、「建国精神を基調とする芸文の創造と、その育成と普及」にあった点は、第一回満展の趣旨とも一致していることがわかる。
3. 審査制度
満展の審査制度は、形式の上では審査員、相談役、美術委員の三つに分けられていた。満展の規定によれば、彼らの役割は、次のようなものだった。
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九、朝鮮最古的佛像,是慶尚南道宜寧出土的,有高句麗延嘉七年(五三九)銘的金銅佛立像(金載元、金元龍,《朝鮮美術》,一九六七,美術出版社,圖十七)。其台座是長,且又極傾斜的素瓣反花圓座,這也就是北魏太和佛的形式。此單層蓮座,如六世紀後半的平壤元五里出土的塑造菩薩立像,又百濟的七世紀前半忠清南道瑞山摩崖三尊佛等,似受東魏以後的影響(同書圖錄九五、九七)。其中值得注意的是金晟雨所藏的癸未(五六三)銘金銅三尊像、中尊立在複瓣和素瓣、三重反花的高圓座上。但蓮瓣的各緣,有細細的點線文(同書圖錄九一 )。此像與其說是高句麗,還不如說是百濟的。(延嘉三年造像)扶余軍守里廢寺出土的金銅菩薩立像,也是立在素瓣二重反花的蓮座上。如與中國成都萬佛寺址出土的梁普通二年(五二一)銘石佛像相較,是受到南朝樣式的影響 (松原三郎,〈中國佛像樣式的南北〉,《美術史》第五九號,七一頁,插圖一二、一四)。然而東魏的金銅菩薩立像,雖也是古樸樣式,但也有素瓣二重反花的蓮座,這點是非常值得探尋的(松原前揭,圖一二二)。(扶餘扶餘窺岩里青銅觀音像,來源)忠清南道扶余窺岩里出土的金銅觀音立像,即是百濟複瓣反花蓮座的極好例子,就是從像容看,也知是受隋朝的影響(《朝鮮美術》,圖65)。又,百濟或古新羅金鎣弼所藏的金銅觀音立像,是單瓣反花蓮座的好例子(同書圖錄九六)。再者,如只有請花的蓮座,忠清南道扶余北里出土的百濟末期金銅菩薩立像素瓣二重花,早為人所指出了(松原三郎,〈飛鳥白鳳佛和朝鮮三國期的佛像〉,《美術史》六號,插圖二四)。
新羅的金銅佛,如韓國國立博物館的金銅觀音立像,厚蓮瓣的蓮座,與尖端反撓而不尖銳的素瓣反花,即是古新羅的造形(松原三郎,〈新羅金銅佛年代考〉,《美術研究》二七五號,一六頁,插圖3)。此蓮座伴有八角框座,而且複瓣六葉的反花蓮座置於十二弧形框座上。然而著名慶州皇福寺石塔內出土的黃金製佛立像(同書插圖一〇)所見的,歷經不久的時間即展開有花形與稜形的框座。
進了統一新羅時代,開始出現了如根津美術館金銅佛立像上,素瓣請花和反花混合形蓮座的八角框座形式,而且有使台座增高之意圖(同書一八─一九頁,圖版VI d)。但是慶州月城禪房谷寺址的菩薩立像,雖是石造,卻早於七世紀前半出現了相當低的複瓣請花與反花的混合形蓮座(《朝鮮美術》,圖六六)。
在中國,隋已採用素瓣和複瓣的混合形蓮座,而朝鮮的話,不須考慮,定是在此期間前後的。慶州皇福寺石塔內出土一黃金製佛坐像,是以素瓣二重請花蓮座和複瓣反花圓形框座,相連於須彌座樣式的四重圓座形中台的形式(梅原末治〈韓國慶州皇福寺塔發見的舍利容器〉,《美術研究》一五六號,圖版六)。此座是否該當當時件隨而出的舍利器銘文─神龍二年(七〇六 )的「全金彌陀像六寸一軀」,雖仍是個問題,但可視為盛唐初期的樣式。
又,韓國國立博物館慶尚南道狹川出土的金銅佛立像,是在素瓣請花蓮座和複瓣反花的八花形框座之間,取一六角方座形中台的形式。此形式可與初唐永徽元年(六五〇)銘石造三尊佛碑像中尊台座相互比較(松原前揭書,二二頁,插圖一三)。慶州吐含山石窟庵本尊,是八世紀中期新羅石雕王座中最傑出的作品。然其台座也是取角形方坐形式。此處中台的八角方座,及其周圍以五角石柱配成八角形,而在上下框裝飾着各種瓣端反撓的單瓣請花和反花的造形,毋寧說表現出極其簡潔又莊重形式的感情(《朝鮮美術》,圖八一)。本背後壁面的九面觀音像浮雕(金載元《韓國美術》,1970,講談社,圖九三),常常被用來作為與法隆寺傳來九面觀音像的比較。但是其請花蓮座的流麗表現,毋寧說使人不盡想起盛唐期畫風下敦煌壁畫及幡繪的蓮華座。
但是朝鮮三國的蓮華座,非常不可思議,反而很少見有中國南北朝所流行的牀座。德壽宮的銅造半跏思惟像,被認為是六世紀後半的百濟之物,但是榻座之下有素瓣反花蓮座、八角框座,及透雕格狹間的方座相重著。特別是此格狹間,不同於中國東漢以來的尖銳刳形,而是稜角不向下保持平穩的造形(《朝鮮美術》,圖六一)。關於此獨特的格狹間形式,有認為是伴隨建築架構的雲形肘木等的朝鮮系說法(小杉一雄,《日本文樣》,一一八─一二一頁)。近來忠清南道公州錦鶴洞出土的金銅菩薩立像,在素瓣請花和反花之間置一圓座,而其下的六角方座的風框座有豬目形的透雕格狹間(黃壽永〈韓國三國時代的雕刻〉,插圖六)。這樣的牀座,付屬有下框和基座,意識透雕格狹間的裝飾空間,在中國來說,是隋前後盛行的。但在朝鮮,突然在統一新羅時代流行起來。故由素瓣、複瓣,這兩者的混合形蓮座,還有六角或八角、八花、人稜的基座,及六角、八角格狹間飾的框座所組合的多樣造形,即是構成獨特的新羅台座。慶州月城甘山寺址出土的開元七年(七二〇)銘石造阿彌陀佛立像,是石雕,但格狹間沒有刳穿的大像(金載元,《韓國美術》,圖7)。又,韓國國立博物館的金銅佛立像,鼓脹的素瓣二重請花,位於蓮華座的頂點(松原前揭書,插圖一八)。再者,顯示此時期蓮華座華麗裝飾性傾向的,有波士頓美術館楡帖寺傳來的金銅葉師如來立像(《世界美術全集》第十八卷,角川書店,圖四三)。在蓮瓣及框之處,裝飾有唐朝風味的小圓花文。
新羅統一時代進人九世紀,其裝飾化傾向更為顯著。框座不僅纖細,而且特別在反花瓣端顯現出尖銳的獨特形式(松原前揭書,二六頁)。一般而言,像容都是新羅風,但在連接請花和反花的中台,以格狹間透雕的六角形或八角形方座為多(同書,圖九b、c)。又、德壽宮美術館金銅阿彌陀如來坐像,是一裝飾小圓花文的素瓣三重請花蓮座,及帶有透雕格狹間的八角方座中台,瓣端捲起有如雲文式的三葉繖狀形的複瓣反花圓座,並且上下框相重作成八稜形透雕格狹間框座,是一極為華麗的重層蓮座(金載元,《韓國美術》,圖三八)。
蓮華座的蓮瓣瓣端裝飾繖狀的三葉形,早在慶州感恩寺西塔發見的青銅製舍利容器台座下框之角,便出現了。感恩寺創建於新羅神文二年,即唐的開耀二年,恰遲於龍門石窟萬佛洞本尊八角層蓮座的繖狀三葉形二年。總之,新羅統一時代蓮華座所出現的三葉形飾的蓮瓣,是淵源於初唐末期以後的形式。但是這時期似乎還沒有「敷茄子」的中台形遺例 。然而,像慶尚北道公山的桐華寺石造毘盧舍那佛坐像,中台施有繁雜的寶相華文浮雕,是隨於盛唐期長安與慶宮址出土的白玉觀音立像等之後的形式(松原前揭書,插圖二四)。
日本飛鳥、白鳳期的佛菩薩像蓮華座,很少有大像遺例,但從法隆寺傳來的小金銅像等,也可知其概要。法隆寺金堂釋伽三尊像的中尊,有沿着須彌座上下之框裝飾素瓣的請花和反花(《奈良六大寺大觀》第二卷,岩波書店,圖三七)。上座也飾素瓣反花,但藥師如來像,卻是複瓣反花(同書,圖六七)。戊子(六二八)銘的金銅三尊像的脇侍菩薩,有顯似釋迦三尊像,素瓣延伸的反花 (同書,圖一〇〇)。法隆寺的金銅菩薩立像及金銅菩薩半跏像,也有幾乎同樣延展的素瓣反花蓮座(《法隆寺寶藏小金銅像》,1954,岩波書店,圖一〇,附錄圖四一)。此蓮座,不用說,是直接以朝鮮三國之物為型範的造形。
夢殿的救世觀音像,立於複瓣二重反花的蓮座(《奈良六大寺大觀》第四卷,圖七三)。但百濟觀音像,卻是在複瓣反花上,置一特殊的五角形框座的方座(同書,圖九〇)。總之,其蓮瓣長而傾斜厲害,類似百濟菩薩像。有格狹間的框座,也出現於金堂釋伽三尊像等,這也是伴隨於百濟之後的形式。然而法隆寺傳來的辛亥銘金銅觀音立像,卻是個問題。因其素瓣反花的蓮座,格狹間的框座類似釋伽三尊像(野間清六,《金銅佛》,1964,竹內書店,圖四七)。是否下限白雉二年(六五一),請待後考。
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八、中國蓮華座的最古遺例,是魏晉之時的三角緣神獸鏡、及佛飛天夔鳳鏡等,伴有佛像之蓮座( 水野清一,〈中國佛像之始〉,《佛教藝術》七號,四七─五二頁)。但是作為禮拜像的初期佛像,其蓮華座之遺例意外的少。
京都國立博物館的舊松本徵古館藏金銅佛立像,似可見到置有素瓣反花蓮座的圓座(松原三郎,《增訂中國佛教雕刻史研究》,一九六六,吉川弘文館,圖3b)。除外,還有石趙建武四年(三三八)銘的金銅佛坐像方座,或舊藤木正一氏藏的金銅佛坐像低方跌,南朝宋元嘉十四年(四三七)銘的金銅佛坐像須彌座,似普遍都是置於牀座形式的台座(《東洋美術》第三卷雕刻,一九六八,朝日新聞社,圖10)。
方座原本來自於於印度、而其上下框向腰部縮小且重疊的,即是所稱的方跌,若將其腰細的腰部增高,作成中台式的,即稱須彌座。此三者形式上之問題,在於置座的牀座上,也有稱此為寶機的說法(逸見梅榮,《佛像的形式》,一九七〇,一六八頁),並且認為這是應用秦漢以來的玉座之牀(小杉一雄《日本の文樣》,一九六九,社會思想社,一一四─一一九頁)的說法。然而其間,常常伴有格狹間,因此可以說這是別於印度王床,由中國獨自發展的形式。在這牀座之上,還置有初期典型的單層蓮座形式之例的。例如,北魏太平真君四年(四四三)銘的複瓣反花蓮座金銅佛立像(《東洋美術》第三卷,圖11)。(北魏太平真君四年彌勒佛立像,來源)又、雲岡石窟最早的曇曜五窟中,例如第十六洞北壁本尊佛立像,是立在瓣端尖銳、蓮肉豐滿的複瓣蓮座上。而南壁西龕的佛坐像有一大寶壇,其上下框與腰部之間,裝飾成請花和反花的方跌形式(水野清一、長廣敏雄,《雲岡石窟》第十一卷,圖版一二一、九一 )。此種方跌形式,在太和年間的諸洞,都一直的被承繼著(《雲岡石窟》第三卷,圖版三二)、但是卻不見牀座。然而在獨尊像的金銅像上,即所謂的太和佛,如住友博物館的太和二十二年(四九八)銘佛立像,就有上下裝飾請花和反花的方跌形式。此又可稱作置在附有格狹間牀座的須彌座形式(松原前揭書圖五一、三二)。文化廳保管的比丘法恩造佛坐像(圖十五),也看不到請花,但在上框之下,有表現請花的曲面部份(《東洋美術》第三卷,圖13)。
總之,這些與其說是座在蓮華座,倒不如說是置於牀座的中國式賢座(Bhadrasana)樣式。然而在蓮瓣文中,值得注意的是莊嚴方跌的裝飾文。北魏景明三年(五〇二)銘的石雕佛座像,在低脚的方座,繞有反花複瓣的蓮瓣文,即是一例(松原前揭書,圖五三)。以雲岡石窟來說,佛龕的上下框,也盛行使用複瓣蓮瓣文帶。如第七洞主室東壁第四層,在框的裝飾上,有類似景明三年銘像的獨特反花複瓣蓮瓣文形式(《雲岡石窟》第四卷,圖版四九)。這種蓮瓣文帶,在印度的阿旃陀石窟第一洞門口右側小室上方浮雕,也可發現(Ghosh A., Ajante murals, 1967, New Delhi, Pl. K)。再者,在阿瑪拉瓦提、秣菟羅及犍陀羅,也可探出其蹤跡,但是反花形式的,似除了台座外 幾乎在任何之處都發現不著(《雲岡石窟》第四卷,八頁,註一、插圖八參照)。
綜之,在中國,從南北朝至隋唐朝的菩薩台座,極為盛行此種蓮瓣文帶。如隋末唐初的龍門石窟賓陽南洞右壁佛龕的佛坐像,坐在請花形二重蓮座上,但是承其座的下框,就有蓮瓣文帶的須彌座(水野清 一、長廣敏雄,《龍門石窟》,圖十二A)。
又、蓮花座上的請花形,出現於主尊像的很少,多出現於脇侍像。雲岡石窟第七洞主室面壁上部的三尊像,其脇侍即是站在素瓣蓮座上(《雲岡石窟》第四卷,圖版一〇一)。而鞏縣石窟第一洞東壁維摩諸像,也是坐在請花素瓣的低蓮座上(《世界美術大系 第十九卷 中國美術I》,一三九頁)。
以上是北魏之例。若以單獨像來說,書道博物館的北周天和元年(五六六)銘石造菩薩立像、及隋開皇二十年(六〇〇 )銘石造菩薩立像等,即是一個好例(松原前揭書,圖一八三a、二二〇a)。總之,就是在素瓣蓮座上、重上方座。但是其問題,是在於請花和反花混合形的蓮座,此種形式,似從北周至隋之間始盛行的,且和敦煌石窟一起併行。北周之例的石造三尊像,隋之例的金銅菩薩立像,有不少素瓣請花和複瓣反花相互組合的(松原前揭, 圖二二二b )。
唐以後,更不勝枚舉,而其裝飾化更為顯著。但是費城大學博物館的神龍二年(七〇六)銘石造觀音立像、及法隆寺著名的九面觀音像等,是伴有俏麗的二重請花的混合形(《世界美術全集》第八卷,平凡社,圖二四)。蓮華座是圓形的話,不用說,其圓座的構成更容易。承繼前述的國立京都博物館的金銅佛立像,藤田美術館的北魏太和銘金銅佛立像,即是在複瓣反花蓮座上,伴有圓座的(松原前揭書,圖四五a) 。而此種圓座,大多是置於牀座上出現的(同書圖七九、一〇〇e、一〇一b)。
又、北齊天保八年(五五七)銘石造三尊佛龕像,有素瓣請花和複瓣反花相連繫於圓座中台的台座形(同書,圖一三九)。同樣的,北齊白玉佛坐像,是上下連繫適合大像的雄渾素無反花而成的圓座(《東洋美術》第三卷圖42)。此圓座形中台所構成的重層蓮座,也盛於唐朝,天龍山石窟的第十七洞後壁脇侍菩薩像,即是最明顯一例。但是此像,因已作成裳懸座,從前方看不見上部(《世界美術全集》第八卷,平凡社,圖三)。再者,北齊的響堂山石窟諸洞佛坐像,在圓座形中台也是連繫素瓣二重請花及複瓣反花,故幾可視為相同形式(水野清一、長廣敏雄,《響堂山石窟》,昭和十二年,圖版一〇、二六)。
到了隋朝,就可例擧在波士頓美術館開皇十三年(五九三)銘的金銅阿彌陀五尊像、中尊所坐的,其圓形中台出現了進一步裝飾化形式的重層蓮座(《世界美術全集》第八卷,平凡社,圖1)。再者,同樣的隋金銅菩薩立像,也開始出現請花和反花的混合形蓮座,上下框縮小的須彌座式的圓座、及上下重疊反花的蓮台形式的重層蓮座(松原前揭書,圖二〇三)。
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七、印度蓮華座的成立,已如前期所述。然而蓮華座的基本形式,似乎在犍陀羅期至笈多期時,幾乎已形成了。例如,以支持蓮華的蓮華莖來看,有一莖一尊形、一莖三尊形、一莖多尊形、沒有莖的單層蓮座及反花形、請花形、兩者混合形的;甚至還有所謂的分踏(兩足踩踏)蓮華台。
再者,方座的佛台座,以及王床(Raja-patra)、王座(Raja-sana)所組合的床形座,也早為學者們所指出(Marshall J.; The Buddhist Art of Gandhara, Cambridge, 1960, Fig. 140, 151)
阿富汗的佛教美術,如哈達(Hadda)的塑造佛立像,已出現反花三重花的蓮華座(Hackin J.; L'Oeuvre de la Délégation Archéologique Française en Afghanistan (1922-32), l'Archéologie bouddhique,1933, Tokyo, Fig. I)帕達瓦(Paitava)的石雕佛坐像,是近於犍陀羅派的請花與反花的混合形座(Rowland B, Art in Afghanistan: Objects from the Kabul Museum, London, 1971, Fig. 107)邵托拉克(Shotorak)石雕佛立像,也是立在請花、反花的混合形座上。但是此座有莖,其他的邵托拉克佛立像,是頭光內的二坐佛,以一莖一尊的蓮華座形式出現(Mennie J., Shotorak, PL. XXI, XVI 52)
以壁畫來說,帕米爾E洞佛龕的佛坐像,及35公尺佛龕的「裝飾佛陀」,其菩薩坐像也是坐在反花的蓮座上。而且C洞洞堂內的步行佛陀像,確實是採分踏蓮華形(《帕米爾─一九六九年調查》名古屋大學,一九七一,P1. 43, 100 ,37參照)。又豐杜基斯坦(Fondukistan)的塑造佛坐像,也是坐在複瓣二重花的蓮座上(Rowland, Art in Afghanistan, Fig. 153)。這樣地看,上述的阿富汗佛教美術大致上可說是承繼印度基本形的蓮華座。然而,還有所謂的伊朗蓮華座,也是非常值得探討的。著名的薩珊朝遺跡,伊朗西北的塔吉波斯坦(Taq-e Bostan)小洞,有阿爾達希爾二世的光輪神授圖浮雕。王背後的太陽神密特拉,矗立在由莖支持的花上。關於此花,有認為是「已樣式化的向日葵之類」的說法(和田新,《伊朗藝術遺跡》,昭和二十年,七三頁),但是也正如吉爾什曼所指摘的,這是蓮花(Ghirshman, R., Iran, Parthians and Sassanians, 1962, London, P. 191)。而且此花也是以大蓮肉包圍雄蕊的二重花半側面形蓮華文,因此很明顯的,這是印度系的蓮花文。又,白鳥庫吉博士也認為犍陀羅的國都補斯羯羅伐底(Pushkarāvati),以波斯語稱之,叫作「süsan」,意味青蓮華之意。因此,《漢書》西域佛記「罽賓國,王治循鮮城。」(白鳥庫吉,〈罽賓國考〉,《西域史研究》所收,昭和十六年,四一七頁)。(豐杜基斯坦出土泥塑坐佛)(塔吉波斯坦阿爾達希爾二世的光輪神授圖浮雕,左側密特拉底下站在蓮花之上)
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六、古代印度的蓮華文,常表現在塔婆的塔門及欄楯、石窟寺院架構等的各種畫面構成上。而其中最顯著的,即是圓形板構圖與帶狀構圖。前者的圓形板,雖有繪畫性描寫的佛傳及本生譚,或前述的蓮華女神及聖樹禮拜等,但是還是以裝飾文樣的蓮華文佔壓倒性的多數。
巴弗大塔欄楯、山奇第二塔欄楯等,是圓板蓮華文的寶庫。尤其是後者,正如福舍所指摘的,佔全圓形板蓮華文的三分之一,至於其多彩的圖文:「那所有的細部變化,幾乎是無法數出的。」這樣百花繚亂的全貌,想要敘述,其紙面也無盡。只是試從全般性的形式來分析,加以分類,盡其可能的述其概要。再者,石柱或欄楯,常常在上下還有半圓形狀圖文,有的是整個圓形板構圖的一半,而有的卻是獨立的構圖。但是本稿都列入一起敘述。
一、基本形─蓮華圓花文蓮華圓花文,直接配置於圓形板的圓形構圖。正如前述,蓮華圓花文是將西方系的正面形蓮花,即薔薇花飾的構成方式,應用於蓮的花文,其特徵是中心配有蓮肉及雄蕊的形式。蓮肉通常表示蓮子,但也有省略的,特别是沒雄蕊的圖文,與西方系的圓花文,真是難以區別。例如,紀元前二世紀Bulandi Bagh出土的柱頭,其八瓣圓頭形瓣的圓花文,與紀元前五世紀阿契美尼德王朝波斯波里斯王宮到處所見的,沒有什麼的大差別。西方的圓花文,常常以設想圖文替代蓮華圓花文中心部的蓮肉和雄蕊,其次是一重花的周圍,再重上花瓣的二重花形。接著的有三重花形,及阿瑪拉瓦提欄楯的四重花形、五重花形等的豪華浮雕。又,蓮華圓花文不相重,在圓形板的中央置一花,其周圍環繞全花文或半花文的構成。這種花文的大小,完全類於同等大的及染織文樣,而主文副文的關係也可看出。
這些花文的花瓣形式,也極其多樣。首先,可看其輪廓,有直線的劍形瓣,及曲線的拱門形瓣,還有尖頭形瓣及圓頭形瓣、花瓣幅度寬窄相等。又,這些花瓣,有所謂的素瓣、作為輪廓緣線而加入刻線的、或葉脈中央施上刻線,但也有刻線沒有貫穿至瓣頭的。因此對於後來東亞軒丸瓦上的單瓣及複瓣,有一說法,認為是以這些花瓣為原形,再由西域的塑造技法而創造出的(塚本樹,〈蓮華文的研究〉,《早稻田大學研究科紀要》六,二九一—二頁)。但是在秣菟羅的樂人像浮雕,其蓮華樹上已經出現明顯的複瓣圖文。
花瓣之數,以標準形八葉蓮華的八瓣、 十二瓣、十六瓣、二十四瓣等為多,但也有更多瓣的。花瓣的組合法,有單純並列的、及在瓣間,以去除下方之瓣的形狀充填瓣頭的。再者,也有在瓣間及以瓣頭反覆之形充填配置的。還有,稍脫離此方式,即是在瓣間重疊突出比瓣頭還大,且漸趨小的形式,彷彿是千葉蓮華狀似的。
空間處的充填,有在瓣間置小圓文的,及瓣間稍稍擴大,以側面形蓮花文及蕨手形相對配置的。半圓形板的有以花瓣相重疊,卻只現出重疊的各一部份,在全圓形板的,是以旋轉文來表現此形。以上所述的,是關於開展的花文。未開展的花文,當然也有。兩者相重時,一般似乎是以未開展的,置於內側。阿瑪拉瓦提的最華麗五重花形文,即是此例。
二、混合形─配上其他主題
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五、印度初期的佛教徒僧房,在《四分律》造的房舍犍度初,有「聽作蓮華像。」造塔之際,在同書的雜犍度二,也有「聽作蓮華像。」這些已在「莊嚴」一文敘述了。
作為「蓮華像」的遺品,有巽伽王朝以後佛塔的塔門欄楯的雕刻;但是正如福舍(A. Foucher)氏所指摘的,這些遺品都是歷經長年歲月而被形式化的,且所舉的例證,一一清楚。寺院可能是從木造時代,印度的圖案家便以其獨特的裝飾性感覺,飾以多彩多姿的蓮華文形。這是一面學習西方而來的蓮花文形式,且一面發揮自己所常見的蓮花及水蓮的特徵,而自由奔放地創作,故其作品常常地顯現出裝飾文樣的抽象性與自然主義生動活潑描寫性的相互巧妙交融的調和感。
這樣的石雕美術,例如巴弗大塔的欄楯浮雕,莖的分歧部有如劍鞘形的花苞。從此處分散而延伸的花梗尖端,掛有大大的蓮肉,且佈滿雄蕊。有垂著反花形花瓣又展開側面形的蓮花,及重疊鱗形花瓣的花蕾,與側面形的葉。還有以蓮肉的小圓形為中心,布有雄蕊,且花瓣相重,取乙面放射狀形的花。然而,不可思議的是同樣從花苞延伸的另一花梗,也有在大大的花萼上包上花瓣的側面形睡蓮花。(巴弗大塔欄楯浮雕)正面形的花,不用說,是熟習西方圓花文構成方式的圖案家所創造的。因此蓮花瓣的重疊方式,下層的三角形尖端,作為上層之間空間隔的填充,且規整地配列著。這種花瓣的重疊方式,早在紀元前九世紀的洛雷斯坦(Lorestan)青銅鉢,已有以底部為中心,裝飾器身的圓花文。再者,阿契美尼德王朝,紀元前四世紀阿爾哈戈里(Akhalgori)出土的黃金製髮飾,也有此圓花文。後者,是在子房周圍,飾以蓮珠文,但是巴弗大塔的,在此處卻是以雄蕊裝飾。又,側面形的睡蓮花,可以說是直接地以埃及以來的側面形蓮華形式來表現的,花萼之間所充填的規整三角形花瓣,也是正確地依其左右相稱的方式。
再者,山奇第一塔東門左柱浮雕,有象頭摩羯魚口中冒出極為絢爛的蓮華唐草文。此文樣,在莖的分歧處,有劍鞘形的花苞。然而莓狀球形的基部有莨苕風的半葉形。這樣的花苞,當然在蓮花和睡蓮花上是沒有的,因此可視為可能是希臘化時代至羅馬時代,流行於西方的莨苕文所影響的。例如,切爾托姆雷克(Tchertomlyk)古墳出土,紀元前四世紀的黃金製弓矢筒及銀製水瓶所出現的莨苕文,莖的分歧部,也有莨苕式半葉形花苞。由此可知,印度的圖案家們,不會不知道此種西方輸入的莨苕文裝飾。
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《藝術家》86,1982年7月四、佛教的經典,有各種名稱的蓮華。其中,大都以敘述佛國土莊嚴的四種蓮華為多。例如,《長阿含經》卷第三「遊行經」第二,當佛滅度時,在拘尸城,敘述忉利天的善貝城光景,有「水精城瑠璃門。其城周圍四寶莊嚴。 間錯欄楯亦以四寶。金樓銀鈴銀樓金鈴。寶塹七重中生蓮花。優鉢羅花。鉢頭摩花。俱物頭花。分陀利花。」(《大正藏》1-21頁)
再者,大乘典《大般涅槃經》卷第一壽命品第一之一,有「散以諸花而為莊嚴。優鉢羅花。拘物頭花。波頭摩花。分陀利花。......一一車上垂諸花鬘。優鉢羅花。拘物頭花。優鉢羅花。鉢頭摩花。其花純以真金為葉。金剛為台。」(《大正藏》12-366頁)
同樣地,也是以四種蓮華為一組;然而在此的,很明顯是以寶蓮華化的意識來敘述。但是在《放光般若經》卷第九「摩訶般若波羅密無作品」第四十四的,「是時諸天眾於虛空歡喜踴躍大笑。持天憂鉢羅華。拘勿投華。分陀利華而散佛上。」(《大正藏》8-67頁)卻沒有列舉鉢頭摩華。總之,這樣的四種蓮華,正如《大涅槃經》「壽命品」第一之一所述的,是「無量雜色的蓮花」,且是依花的色彩來分類。關於此,在《摩訶般若波羅密經》卷第一「序品第一」,有:「三千大千國土人與非人。以諸天花天瓔珞天澤香天太香天。青蓮花赤蓮花白蓮花紅蓮花天樹葉香持詣佛所。是諸天花乃至天樹葉香以散佛上。」(《大正藏》8–218頁)所述的四色蓮華該當於那一種,姑且不論。然而定是符合優鉢羅花、鉢摩頭花、俱物頭花、分陀利花的四種蓮華。
再者,慧琳的《一切經音義》第三第三百十卷,有「嗢鉢羅花。唐云青蓮花。其花青色葉細狹長。香氣遠聞人間難有。唯無熱惱大龍池中有。或名優鉢羅。聲傳皆一也。鉢特摩花。古云鉢頭摩或云鉢弩摩。正梵音云鉢納摩。此人間紅蓮華之上者或云赤黃色黃。拘某陀花。古云拘勿頭。正梵音拘牟那。此即赤蓮花。深朱色。人間亦無。唯彼池有甚香亦大也。奔荼利迦花。古云芬陀利。正梵音云本孥哩迦花。唐云白蓮花。其花如雪如銀。光奪人目。甚香亦大多出彼池人間無有。」(《大正藏》54-324頁)
大致上,優鉢羅花是青蓮華,鉢頭羅花是紅蓮華、俱物頭花是赤蓮華、分陀利花是白蓮華。然而在《慧苑音義》卻說,應稱優鉢羅花為青鳥鉢羅,即尼羅烏鉢羅才正確;且說拘物頭花,除紅外,還有白的。《翻譯名義集》卷第三,拘勿投花為黃蓮華,《俱舍論》卷第一,拘物陀花為白蓮華。再者,在《大毘盧遮那成佛經疏》卷十五「祕密漫荼羅品第十一」之餘,有:「復次三藏說。西方蓮花有多種。一者鉢頭摩。(復有二種。一者赤色。即此間蓮華也。二者白色。今此間有白蓮是也。非芬陀利。)優鉢羅(亦有赤白二色。又有不赤不白者。形似泥盧鉢羅花也。)俱勿頭(有赤及青二種。又云俱勿頭是蓮花青色者。)泥盧鉢羅(此華從牛糞種生極香。是文殊所執者。目如青蓮亦是此也。更有蘇健他伽花。亦相似而小花)分荼利迦(花可有百葉。葉葉相承。圓整可愛,最外葉極白。漸向內色漸微黃。乃至最在內者。瓣萼色相近也。此花極香也)。」(《大正藏》39-734頁)
在中國,還加上西方,即印度的蓮華─泥盧鉢羅為五種。而在小註上,加上各種的解說,也說到蘇健他伽的種類。以上諸本的解說,加以整理如下:
優鉢羅花─青、赤、白、不赤不白。
鉢頭摩花─紅、赤黃、白。
俱物頭花─赤、深朱、白、黃、青。
分陀利花─白。
尼羅鉢羅花─青。
蘇健他伽花─青。
其中,最明確的,是分陀利花。即是吠陀文獻以來,以Pundarika所代表的白蓮華。正如前述被作為《妙法蓮華經》題名的,也是使用白蓮華。但是依僧叡的後序,「華尚未敷。名屈摩羅。敷而將落。名迦摩羅。處中盛時。名芬陀利。」(《大正藏》9–62頁)
迦摩羅即Kamala,與其說是白蓮華,不 如說似是近於鉢頭摩的淡紅色蓮華。尼盧鉢羅花是Nilotpala,即青蓮華,而優鉢羅花是Utopara、鉢頭摩花是Padma、供物頭花是Kumuda等,不可否認這些是以色彩而留傳下的各種說法。正如《經集》第四「八詩句之章」所述的,可以知在古代的印度,確實早有「睡蓮與有棘蓮」(中村元譯《佛陀之語》,岩波文庫,一五七頁)。然而以花色彩為主命名的佛典蓮華,實際上相當於植物學上的那一類種屬,仍是個問題。關於此,丹信實的研究,非常精闢,現在藉以參考。佛典的蓮華,大致可區別為蓮(Nelumbo)屬、及睡蓮(Nymphaea)屬,兩者常相混亂,所以難於判斷(丹信實,〈釋迦牟尼佛因緣的印度植物〉。《龍谷大學論集》第三八九、三九〇合併號二一頁)。
蓮屬的蓮是多年性水草,葉柄及花梗散生,有短刺。葉是長柄、扁圓形、有放射狀葉脈、中央凹入。花單生、長在延伸的花梗上,萼片四到五片。花瓣有二十四枚左右、倒卵形、鈍頭,但是末端尖。雄蕊是花絲線形、簇生。雄蕊花柄大、倒圓錐形、上面平坦部、有多數窩孔、集聚各種果實。花色,有白、淡紅、赤、紫紅等。佛典的分陀利花及鉢頭摩花,都是屬於此。前者是白蓮華,後者是赤色系的紅蓮華或是赤蓮華。《大毘盧遮那成佛經疏》即《大日經疏》上,有不同於分陀利的鉢頭摩白蓮華,可能是誤記。
還有,視淡紅色的迦摩羅為芬陀利要落花之前的名稱,也許是由於蓮的色彩變化多端,而使中國難以考證吧!然而這個問題點,在《大日經疏》卷第十五,有:「若是佛。謂當作八葉芬陀利。白蓮花也。其花令開敷四布。若是菩薩。亦作此花坐而令花半敷。勿令極開也(其花或白或黃或作寶蓮華皆得,但赤色者是世間花在下也)。」(《大正藏》39-734)視為黃色的芬陀利花。但是,今天只在美國才有黃蓮華,因此佛典時代的亞洲,應是沒有的,而是白花凋零,變為黃色(丹信實,前揭論文,二二頁)。然而,《大日經疏》的這一部份,是指為蓮華座。若依小註所述「或黃、或寶蓮華」的話,黃蓮華可能是意味金色蓮華之意。
又,蓮的花瓣是以二十四片為基準, 是還有百葉花、千葉花等的。這些花可視為多開的種類,而且也不可忘記這也是如千葉金色寶蓮花之類的空想性莊嚴花。但是無論怎說,紅蓮華的鉢頭摩,是人間之花,也是最上的世間花。而白蓮華的分陀利,更是至高無上的天上之花。
其次,是睡蓮屬。有印度原產和埃及移入種,無論那一種都是多年生水草。葉長柄、浮水面。花萼片四枚、雄蕊多數、單生在花梗頂端,有白晝開與夜晚開。
又,不是蓮屬的青蓮華,是印度青睡蓮,葉是橢圓形,花是星芒形、淡青色,底部帶白色或紅色。花瓣是六至十二枚,比萼片還小的小輪型,夜晚開花。與此相對的,是埃及青睡蓮。葉是狹楯形,花萼長橢圓形。花瓣是披針形,有十四至二十枚、淡青色、下半部是暗白色。雄蕊是黃色,大輪型,白晝開花的。以這兩者來說,印度青睡蓮是優鉢羅花,埃及青睡蓮是尼盧鉢羅花。而蘇健他伽,是這些花在月光下的夜間顏色。
紅蓮華,有印度紅睡蓮,葉圓心形,鮮紅色,花瓣十二至二十片、狹卵形、成圓頭狀。雄蕊也是紅色,夜晚開花。
白蓮華,有印度白睡蓮,及埃及白睡蓮。前者,葉馬蹄形,花白色,萼長橢圓形,花瓣是披針形,有八至十五片,小輪型,白晝開花。後者,葉大楯形,花白色,外側基部帶淡紅色,花瓣是卵形,有二十片,大輪型,夜晚開花。這些紅蓮華與白蓮華的睡蓮,與蓮屬的鉢頭摩花、分陀利花相區別的話,可簡單地歸為是俱物頭花。因此,《慧苑音義》卷上說,優鉢羅花及俱物頭花有刺,不用說,這是誤記的。然而,優鉢羅花有紅、白,俱物頭花有黃、青的各種說法,仍是問題。
關於此點,丹信實認為佛典上的蓮華原植物,有二種。印度自生種,及埃及原產移入種,因此佛典上的記述紛雜不一,相當混亂。至少從蓮華色彩的分類看,《慧琳音義》第三的梵語音譯上所作的適切解釋,及「大日經疏」第十五的小註等,有不少相互矛盾的解說。若以蓮華的標準色看,可以認為蓮屬的分陀利花是白、鉢頭摩花是紅、睡蓮屬的優鉢羅花及尼盧鉢羅花是青、供物頭花是紅或白。
再者,蓮華的「Lotus」用語,本來是,源自於睡蓮屬的希臘語「lōtós」、拉丁語 「Lōtus」;然而一般地說,似是包括蓮屬和睡蓮屬的總稱而被通用。因此在蓮華文來說,有明確的印度系蓮華的形式、也有埃及以來的睡蓮,即Lotus花文的形式,及兩者混合的。若要確切的分類,卻未必容易。被抽象化的側面形蓮華文,不用說,是繖狀文的原形,而正面形蓮華文即是所謂的圓花文;這些當然與佛教美術的蓮華文,有極密切的關連。因此,本稿論考大致是以古代印度蓮屬及睡蓮屬的蓮華文為重點,且隨其必要,也加上抽象化的蓮花文一起地考察。
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三、古代的印度美術,現存最早表現蓮華的遺品,是孔雀王朝的阿育王紀念柱。眾所周知,此王柱系之柱;在西元前二世紀以後,不僅是作為單獨柱,也作為寺院建築柱而盛行。但是怎麼樣地說,其柱頭是反花形,而其礎盤是壺形。
西元前三世紀的鹿野苑柱頭,有十六瓣細長的花瓣、且舒暢地下垂成反花形,在圓棒狀的緣線之間,有如角形的葉肋。關於此柱頭,有認為是來自於阿契美尼德王朝,波斯波里斯王宮石柱的柱頭形式的說法;但是在細部上,還是差別很大,因此還不如說是印度的獨特形式。到了巽伽王朝之後,柱頭的高度不僅增加,而且花瓣兩側和中間,改變成寬粗相等,如襞的棒狀形。在紀元前後的卡拉(Karla)石窟 有多角形的凹曲面。二世紀的納西克(Nasik)石窟,變成了沒有花瓣而平滑的鐘形。再者,如山奇(Sanchi)第三塔石柱等的,枝一向細長花瓣的上部,出現幅度寬廣並列的花瓣。而阿瑪拉瓦提(Amaravati)西北賈加雅佩塔(Jaggayyapeta)所發見的浮雕,卻是以蓮珠文置於細長花瓣上的葉肋之處,且裝飾玉緣,也有出現幅度寬廣的花瓣與似雄蕊的豎線條相重的美麗文樣。(村田治郎「阿育王柱的樣式考察」,《佛教藝術》第九號六六頁參照)納西克石窟,阿育王式柱頭)與阿育王柱系細長花瓣相反的,是幅度寬廣的蓮華形花瓣,這可能是印度美術所創設的。巴弗大塔(Bharhut)的欄楯柱浮雕所出現的帶有雄蕊的反花形柱頭,即是最好一例,而且也顯示與初期佛教美術上,最為普及的反花形蓮華文,有着共通形式的特徵。
關於礎盤的壺形,以巽伽王朝來說,菩提伽耶的欄楯柱浮雕,及山奇第一塔門柱浮雕等,都可發現很多。特別是後者,南門左柱正面浮雕的阿育王柱系輪寶柱,其柱下部,有請花形裝飾的壺形。若以立體形來說,二世紀的卡拉石窟及納西克石窟,都是廣口壺形 的表現;坎赫里(Kanheri)石窟的柱頭也是壺形。關於此形,認為是來自於原來的寺院是木造建築之時,為了防止木柱底部的腐朽,而插上土製的壺。但是,事實上,這是象徵女神吉祥天(Laksmi)的甘露瓶。
像這樣的造形,柱頭為蓮華,柱身為蓮莖,這些都可解釋為從甘露瓶所冒出之物。在印度,此種廣口之壺稱作迦羅奢(Kalasa)。梵天在建立器界之時,由於它能盛滿一切萬物之德,故稱賢瓶(Bhadraghatah)或滿瓶(Purnaghata)也稱作寶瓶、吉祥瓶、如意瓶。特別是因它盛甘露,也稱甘露瓶(Amrtaghata, Amrtakalasa)。(逸見梅榮,《佛像的形式》,二二四頁)
甘露在印度教神話,是因宇宙創造的「乳海攪拌」,而得來的不死靈藥;這時,吉祥天也誕生於海中的蓮華上。再者,自古以來,在梵天的世界、天上最高的毗濕奴光明世界,就有甘露靈泉的傳承。印度的神酒蘇馬(Soma)與伊朗的豪摩(haoma)是相對的,這也許是與瑪茲達(Mazda)教的天空生命之泉─阿娜希塔(Anahita)相併行的信仰。總之,蓮華和賢瓶的組合,作為生命與豐饒的象徵在佛教以前就存在了。
以巴弗大塔的欄楯浮雕,山奇各塔塔門與欄楯浮雕,以及佛教美術所傳播之地,到處所展開的─賢瓶插上蓮華的「供養華」主題,也就這樣地開始。當然,從實際上看,此主題是佛前供養之具,但是在造形上,當初經常是伴隨着自古以來象徵神的顯現的水鳥(hamsa)一起表現,因此這不是將供養蓮花只插於壺上的單純意識。
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《藝術家雜誌》84,1982年5月
林良一著,林保堯譯蓮華文是佛教美術裝飾意匠上,使用最廣且最為尊貴的植物文樣。自古代印度以來,蓮華文的多彩多姿造形,更是筆墨難盡。然而,使用在造形美術上的蓮華文,卻大部份不是始於佛教美術的。
以國際用語來說,蓮華文即是Lotus文樣。早在遠古的埃及、美索不達米亞、或者希臘、伊朗就已廣泛地使用;也正因如此,在探討蓮華文時,就須從更廣大的視 野著手。若是能網羅盡蓮華文的系譜,加以整理,想必定可寫成一篇世界性的花的文化史。而且,這篇的主要部份,還是佛教美術上,獨自展開的蓮華文。故本稿論考的主題,主要在於敍述佛教美術史上,古代印度以來,到阿富汗、西域及中國等地,蓮華文樣式一連串展開的概要;同時因其必要,也加以參考各國美術史上的蓮華文。
佛教美術的蓮華文,不用說,是以寺塔、佛菩薩的裝飾為中心。正如本稿的卷首「莊嚴」一章所述的,所謂的華嚴,即是以雜華將其嚴淨的供養花意匠化。再者,蓮華因在佛教的教義上,具有重要的意義,因此蓮華文也大多被作為象徵性的圖文;而且,蓮華所具有的象徵性意義,又大部份是源自於佛教以前的古代印度宗教思想。因此,就先從吠陀時代以來,聖典上所出現的蓮華敘述起。一、迦梨陀娑(Kālidāsa)的《沙恭達羅》第四,有「蓮華綠蔭映清池,長途跋涉慰心靈。清涼樹蔭曳路旁,和暖日光煦煦照。滿天塵垢群飛揚,睡蓮花粉爽人心。清風徐徐貼臉頰,蹣跚旅途多幸運。」(依辻直四郎氏之日譯)的佳句。由此可知,在炎暑印度的旅行者 每個人多麼憧憬清涼的水邊,特別是在雨期開始之時,那蓮華盛開滿池的風情,更為醉人心迷。我想就是在吠陀時代的印度,也一定是這樣的吧!《梨俱吠陀》的「阿耆尼(Agni)火神之歌」,有「您來時,您去時,使那花草開花,使那花草生長。 也使那清池,也使那蓮華,這即是海的住家。」(《梨俱吠陀》10.142.8─依辻直四郎氏之日譯)這是對火神阿耆尼,其咒法威力無盡的讚歌。然而,以避炎暑來說,卻使人浮起在那清池上開的蓮華(Pundarikam)古代的印度,視蓮華為神聖的植物,還可見於聖典所記的《阿他婆吠陀》的「支柱(Skambha)之歌」,有「在那兒,諸神與人間,正如車的輻轂依存著。我在那兒,因那幻力,置於水中之花處,我問您。」(《阿他婆吠陀》X,8. 34─依辻氏之日譯)「具有九門(肉體的九穴)的蓮華,為三性所蔽。其中那神的顯現(Atman)是知道梵(Brahman)的知者。」(《阿他婆吠陀》X,8.43─依辻氏之日譯)這充滿吠陀特有的比喩與暗示的讚歌,正意味蓮華是人的心臟;而其靈魂─Atman即位於其中。再者,「水中之花」即是創造神所在之處,暗示著創造的本源。關於Atman 的位置,同樣的,在「支柱之歌」,也有這樣的記載。
「偉大的神的顯現(Atman),在萬有的中央,發熱力(創造的原動力),更乘那水波(太初的原水)之背,所有所有的諸神,依存其中。」(《阿他婆吠陀》X,7.38─依辻氏之日譯)
有如宇宙萬物創造展開的敍述,浮於太初原水,乘於水波之背的蓮華,確是被視為與造物主有關的比喩象徵。這也可以說是,從水中深處冒升至水面開花的蓮華,以其潛藏在底處的生命力為背景的觀念,且探求其思索的結果。
其後的印度教神話,有橫臥在象徵太初原水的乳海─ananda龍的身上,暝想著的毗濕奴(Visnu),而且從其肚臍長出蓮(puskara),並且在蓮華上誕生梵天(Brahma)的有名故事。這與上述自古以來的傳承有關。Deogarh的笈多王朝的毗濕奴寺院,也有以此故事為主題的浮雕。
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