目前分類:日本美術史 (108)

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應擧の畫は多くの人々に喜ばれた。しかし一部にはまたその畫を認めない人々もあった。同時代の曾我蕭白が「圖が欲しかったら圓山主水へ往け。繪が望みなら己のところへ來い」といつたのは有名な話であるが、賴春水の如きも、その在津紀事の中に、「圓山應擧畫名一代、有人自京歸來者、多齎贈余、大有德色、余不甚喜、得輙與人、今不留一張」としてをり、春水の子の山陽も呉春を以て應擧の上に描き、「圓翁代腐以新、故純主寫眞、毫無古氣、以余視之、畢竟洋畫之無墨影者矣。謂之寫眞則可、未可謂之畫」といつてゐる。この山陽の文は、中林竹洞の畫冊に題したもので、全文は市島春城氏著隨筆賴山陽に載つてゐる。

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擧の墓石の「源應擧墓」の四字は、妙法院宮眞仁法親王の御揮毫になつた。宮は光格天皇の御兄君であらせられ、文藝の趣味に富ませられた。その歌人小澤蘆庵を優遇し給うたことは、南天莊墨寶解説の中に精しく述べられてゐる。本間游清の随筆耳敏川に據れば蘆庵の墓石もまた宮の揮毫し給ふところであった。文化二年、御歲未だ三十八にして薨じ給うた。その應擧との御交渉は、まだ知らるるに及ばなかったが、妙法院所藏の宮の御日記天明七年元日より八月十六日に至る一冊の寫が史料編纂所にあるのによつて、天明七年頃、宮と應擧との交渉のかなり頻繁だったことが知られる。尤も編纂所本は、妙法院に託して謄寫したもので、不明の字を不明のまゝに書いてゐる箇所が多くて、かなり讀み取り難いが、辛うじて判讀して、その條々を左に擧げて行つて見る。天明七年には、宮は御年二十歲にましました。應擧はこの年五十四歲である。

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寶曆中に、應擧が櫻町院の宮嬪蓮池院尼公に仕へたといふ一事は、文鳴の傳に擦って初めて知るところである。尼公は従二位權中納言山本實富の第四女で、名を勝子といつた。中御門櫻町二朝に女房として仕へ、典侍に補せられ、權中納言局と號した。以上は山本家譜に據ったが、まだその生歿年を明かにしない。

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《美術研究》第三十六號,一九三四年

森銑三

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《昭和の文化遺産 第一巻 日本画I》,東京:ぎょうせい,1991

草薙奈津子

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《昭和の文化遺産 第一巻 日本画I》,東京:ぎょうせい,1991

野地耕一郎

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日本美術院の新古典主義

日本美術院は、明治三十一年(一八九八)に岡倉天心・橋本雅邦らによって創設された前期日本美術院以来、確固とした主張があった。その創立の趣旨に、「本邦美術の特性を経とし、各自作家の特長を緯として、専ら其発達応用の自在を得せしめざるべからず」というのがそれである。これは、明治四十年に始まる寄り合い世帯の文展の無主義──敢えていえば穏健中庸策であるが──とは大いに異なるところで、したがって一つの革新運動としての性格を持った。

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《昭和の文化遺産 第一巻 日本画I》,東京:ぎょうせい,1991

 

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四、書家が志向する場

多くの書画家が朝鮮美展に参加したが、参加しない人物もいた。それは当時、書家、鑑識家として活躍していた呉世昌である。呉世昌は、当時、書画協会の多くの主要作家たちが朝鮮美展に積極的に参与していったのにも関わらず、第一回展に出品、入選後は出品していない。なぜ呉世昌は朝鮮美展を活動の場として選択しなかったのだろうか。この点について、先行研究では、朝鮮美展を齋藤実総督による「文化政策」の一環に過ぎないと考えた呉世昌が、出品を拒否し、関係を絶ったという見方が提示されている。

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三、書部門廃止論の高まり

朝鮮美展において書部門が廃止に至ったのは、先行研究では「書ハ美術ナラズ」とする日本の状況が植民地朝鮮の美術概念にも移植されたという指摘に終始してきた。しかし、廃止に至る経緯を慎重に見ていくと、当時の朝鮮人と日本人間にある書認識の違いが見えてくるのである。次にその経緯を見ていきたい。

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二、書部門の概要

1. 書部門の審査員

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金貴粉

はじめに

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6. 満州国建国と戦争の影響

大木豐平,新興國滿洲,1934

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5.「観光楽土」としての〈満州〉

辻が「満州」を描き、田中が「開拓地の家族」を描くまでのおよそ30年間、〈満州〉表象をリードしたのは、「観光楽土」としてのイメージである。飯野正仁「〈満洲美術〉画家名索引」のデータによれば、日本人画家の満州渡航は、1920年代までわずかであったが、30年代から急激に増加している。また、本論文の巻末に掲載した一覧表に示したとおり、官展における〈満州〉表象は、1934年以降急激に増加している。ここには、満州国建国が深く関わっていると見るべきだろう。

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3. 〈満州〉以前──初期官展における作品例

ただし、以上に述べたことは一般理論であって、〈中国〉を表象する場合と〈満州〉を表象する場合とでは、あるいは〈朝鮮〉を表象する場合、〈台湾〉を表象する場合とでは自ずと異なってくる。自明のことであるが、〈アジア〉は一つではなく、複数 の民族性に分割され、表象/統治されていたのであり、官展においてもその差異が(まったく同じではないものの)反復された。したがって、〈満州〉表象は、独自の様態を持つものとして考察される必要がある。

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千葉慶

はじめに

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ローゼット(rosette)というのは、要するに全開した花文の意である。本来の意味からは、ぱら(単弁の)の花の 形をさすのであるが、一般用語としては必ずしも、ばらという品種には関係なく、凡て花弁の放射的に全開した花の形をいう。弁の数は問わない。インドのような、蓮華に特殊な信仰的意味を有している国でも、明らかな華の他に、蓮華とは似ても似つかない四弁や五弁のローゼットが、ガンダーラにはすでにあらわれている。そこには西方文化の影響を考えることができる。

現実の蓮華を知らぬ中央アジアの砂漠地帯では、この蓮とローゼットが混乱している。和闐ダーンダーン・ウイリュック寺院出土のイラン様菩薩像(或いは守護神か)台座には、四弁花のローゼットをあらわしている。当然それは蓮華を意味する筈である。同じく西域のミランの寺址から発見された三〇〇年前後と思われるスツッコの基壇の浮彫には、それは当然蓮華を意味するのであるが、銭葵を思わせるような──それは唐に至って盛んに行なわれた宝相華文の一形式である。そしてそれはまさに宝相華であるが──植物文様である。多分この様な蓮華とローゼットとの混乱を帯びたまま、中国に運ばれてきたものと思われる。年代的にたしかなのは、新羅人で中国にあって顕要な地位を得て残した泉男生(則天武后の調露元年〔六七九〕)の墓誌銘の石蓋に刻まれている宝 相華唐草である。

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源豊作,日本美術史論究3,京都:思文閣,1980

宝相華は、日本の仏教美術において、最も愛好された装飾的文様である。ことに藤原時代においては、圧倒的にこの宝相華意匠が行なわれている。中尊寺金色堂はまさにその典型である。柱・桁・枓拱・蟇股、いずれも漆地に螺鈿の宝相華文様である。又須弥壇の格狭間には、地生えの宝相華が鳳凰とともに金銅浮彫で表わされている。須弥壇の前に置かれた卓も、もと在った燭台も、宝蔵に収蔵されている例からみても、何れも課鈿象嵌の宝相華文様でかざられていたことが知られる。さらにはその内陣に懸けられている金銅透彫の華鬘も、美しい宝相華唐草地文に迦陵頻伽が表わされている。 宇治の鳳凰堂も、また宝相華の殿堂である。ここは五彩の色花やかな網の宝相華である。今は十世紀に近い風霜が、褪色と剥落とを加えてはいるが、近年修理の際に施こした復原が、当初の美しさを充分に偲ばせてくれる。しかし鳳凰堂で驚嘆されるのは、本尊の上に吊 るされている二重の天蓋である。方形の屋蓋様の天蓋の内部に、更に花形のややくぼみのある平らな天蓋が収められている。この花形の天蓋と、方形の天蓋の裾に幕のように垂れた囲いとは、金色にかがやく木造透彫の宝相華唐草である。その精緻な彫技もすばらしいが、宝相華唐草の意匠の麗さは驚くべきものがある。

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中国に葡萄唐草の出現するのは、五世紀末の雲岡石窟である。流石に西方に近い北魏の地であったからではある。しかし一般にまだパルメット的文様が支配的であった。正光元年(五二〇)の銘のある三尊像(ロンドン、ビクトリア・アルバート美術館)光背の葡萄唐草も、葉はパルメット的である。これらの葡萄唐草は、直接には中央アジアのイラン文化の諸国から伝えられたものと思われる。中央アジアの楼出土の寺院のに刻まれた葡萄唐草は、四〇〇年頃と考えられる楼蘭の滅亡を下限とするが、非常に簡素な葉と房が互生的に対置されている。そのよう葡萄唐草が、それ以前に伝えられた尖鋭なパルメット文が六朝時代の感覚と合致して盛行していた中に、新たに進出してきたのである。それ故にこの新しい葡萄唐草が勢を得るまでには、相当な時が経過した。

さきにも述べた西方的官能性をもつイラン文化が、大きく中国に波及してくるのは六世紀の中頃であるが、さらにそれは七世紀に入って唐が興ると、積極的にイラン文化の吸収が意図され、中国文化は前後に比を見ない荘麗古典主義的文化の一時期を画するのである。その最も顕著な現象の一つは海獣葡萄鏡の出現であった。

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源豊作,日本美術史論究3,京都:思文閣,1980。

葡萄は、その原産地はカスピ海の沿岸地域と考えられているが、小アジア・メソポタミア・エジプトを含むオリエントには、遙かなる古代──エジプトでは紀元前二五世紀頃すでに「死者の書」に画かれている──にすでに伝播し、食用として、殊に酒の原料として貴重な植物であった。紀元前七世紀のアッシリア時代のニネヴェー(テグリス河上流)宮殿址から出土した石壁浮彫には、明らかに聖樹の意識において葡萄が表現されている。

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