
《昭和の日本美術遺産 第二巻 日本画II》,東京:ぎょうせい,1991大須賀潔新しい日本画を目指して日本画の公募団体創画会の秋の本展、創画展は、平成二年で第十七回展を迎えた。出品目録も今では、出品作品全部をカラー図版で収める分厚い図録になった。創画会が、その前身には、洋画や彫刻の美術団体である新制作協会の日本画部としての長い年月をもっていたことは、今はもう格別に意識する必要がなている。さらに溯れば、それが創造美術という、三年ほどの誕生の歴史をていることなどは、遠い昔語りのように思える。
第二次世界大戦の終戦から半世紀近くが過ぎて、戦後 の日本美術を新しい評価の視点から回顧する美術展が相次ぎ、昭和二十三年(一九四八)一月に結成された小さな日本画団体創造美術のことも、それなりに美術史的な視座に納まるようになった。創造美術は、それが存続した三年間の動向だけではなく、昭和初期からの日本画の動勢を伏線にはらみ、現代日本画を戦前から戦後へと展開させた一つの舞台として重要であり、そのまま今日の創画会にまで歴史を重ねいることに意味がある。それは単に一つの日本画団体の発展史を超えて、昭和日本画史の現代に至る影響の大きな流れと相呼応しているから、いっそう興味深い。他の日本画団体、例えば、日展や院展にそれがまったくないというのではないが、創造美術の誕生を発端として、そこから新しい日本画創造に影響力の強い作家たちが画壇に登場してきたというのも事実だ。明治から続いている日展や院展の戦後は、日本画壇の中枢を形成する大家たちを健在に擁していたから、変革の動きは着実ではあが緩慢た。そこへ日本画の前衛として、同じ頃に結成されたパンリアル美術協会による日本画の否定や破壊の方向からでなく、日本画表現の地平を現代的なものへと広げていく刺激を与え続けたのが、創造美術の作家たちであったといって思う。何もないところから出発した創造美術が、四十数年後の今日の創画会にまで、時代を語り伝える新鮮な表現の担い手たちを数多く輩出させる源になった。創造美術の三年間だけの評価はさしたることではないかれない。しかし、結成に集まった作家たちは、それから現代日本画に名を残すだけの作品を発表してきた。創造美術にまつわる話は、歴史が語る彼らの青春の、というには遅いくらいだが、ややほろ苦い記念碑的物語になる。創造美術結成まで創造美術は、この数年でやっと創造美術協会と誤記されることがなくなった。しかし、未だに、それが戦前の新美術人協会を母体として直接誕生したかのように記述されているのは、誤りではないにしても正確ではなく、当時の画壇の状況やその重要な歴史的意味、今日に伝えてほしい存立基盤である精神的な結び付きが色褪せてしまう。
この結成に参加したのは、東京から、高橋周桑(明治三十三年生)、山本丘人(同)、橋本明治(明治三十七年生)、 福田豊四郎(同)、加藤栄三(明治三十九年生)、吉岡堅二(同)の六人、京都から、上村松篁(明治三十五年生)、奥村厚一(明治三十七年生)、広田多津(同)、沢宏靱(明治三十八年生)、秋野不矩(明治四十一年生)、向井久万(同)、菊池隆志(明治四十四年生)の七人、計十三人であった。彼らは、京都の作家たちはやや若いが、いずれも四十歳前後から四十代半ばの日展審査員経験の作家や特選受賞歴のある有望な実力作家であった。高橋周桑だけが院展、他は、日展を離れて、つまりそれまで画壇に築いてきた実績を捨てて、「在野精神に立脚し官展に関与せず」と宣言して、新たなゼロからの出発に踏み切った。
ほぼ一年掛かりの結成は、正式な発表前に毎日新聞にスクープされたりして、世間に話題を呼んだ。記事を書いたのは、小説家の井上靖で、当時は記者をしていた。他に事前から察知していた記者もいた、スクープされて支局の上層部が責任を取らされるということもたほどに、画壇の事件として騒がれた。創造美術という日本画家集団の出発が、当時の日本の社会では、戦後民主主義の新しい風潮を象徴する紛れもない一つの社会的な事件となるところに、日本の戦後の出発との二重映しを見てとることができる。
けれども、その頃を思えば、どのような経過があって東西の作家がこのような顔ぶれで集まり、結成にまで漕ぎ着けたのか、不思議でもある。新幹線で往復できるよ ックスさえもある現代のように情報手段の簡便な時代ではない。まして、今日でさえ閉鎖的な特殊性をいわれる日本画の世界で、所属している団体を離れてやっていこうというのは、まだ一人立ちしきれていない作家にとっては、先行きの不安な大問題である。例えば、京都の七人は、日展の大御所として勢いのある西山翠嶂の画塾青甲社に籍があった。他にも日展には、小野竹喬、堂本印象、福田平八郎といった京都の大家が顔を揃えている。日展は、まさに京都画壇そのものであったといってもいい。そこを離脱して出発しようというのは、それなりの覚悟と人間的な強い結び付きがなければ、到底果たしえない難事であった。同じ事情は、東京の作家にもあった。東京美術学校を昭和六年に卒業した日展作家で構成された六窓会で、東山魁夷らと一緒に歩んできた加藤栄三と橋本明治の二人は、後年になって、不本意なが参加したと訂正しているが、創造美術の三年だけで日展に復帰したのも無理からぬところがあった。その点では、戦前から、新日本画研究会、新美術人協会というふうに、独自の新日本画運動を率いてきた福田豊四郎と吉岡堅二の二人が、最も自由であり、終始グループを先導する役割を果たしたとみることができる。そのまとめ役 が山本丘人であり、京都は上村松篁が中心になっていた。
そのように、東京と京都、それぞれ事情の違う十三人が、戦後の落ち着かない世情の中から、結成に参加していった経過というのは、かなりドラマなハラハラさせる展開があって感銘深いものがあるが、ここでは割愛せざるをえない。ただ、その具体的なきっかけだけを、山本丘人の回想録に依って紹介しておこう。
「今思うと、一種の革命期であったろう。世の中全体が新しい動きでむんむんしている。......とにかく、時代の空気がなんとなく伝わって、血が騒いでいた。そのころ、終戦翌年か翌々年かだ 私のところに、山崎斌という人がよく現私ばかりではない、東京では前から私と付き合いのある吉岡堅二さんや面識のある福田豊四郎さん、京都では上村松篁さんや秋野不矩さんといった人たちなどを、この人は訪れた。......事は、この人との付き合いから起った。」(山本丘人「私の履歴書」昭和五十三年十月十三日付日本経済新聞)
山崎斌は、初めは小説家としての道を歩み、のちに、草木染を復興して、雑誌を主宰するなど、文学活動の傍ら、自らが命名した「草木染月明織」の普及に努めた見識高い文化人であったから、その頃の日本画の在り方に、率直な意見を説いて回り、新しい団体結成に参加してくれそうな人材を捜し歩いたのだった。