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部落格全站分類:生活綜合

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  • 3月 05 週四 202607:00
  • 【引用】創造美術


《昭和の日本美術遺産 第二巻 日本画II》,東京:ぎょうせい,1991大須賀潔新しい日本画を目指して日本画の公募団体創画会の秋の本展、創画展は、平成二年で第十七回展を迎えた。出品目録も今では、出品作品全部をカラー図版で収める分厚い図録になった。創画会が、その前身には、洋画や彫刻の美術団体である新制作協会の日本画部としての長い年月をもっていたことは、今はもう格別に意識する必要がなている。さらに溯れば、それが創造美術という、三年ほどの誕生の歴史をていることなどは、遠い昔語りのように思える。
第二次世界大戦の終戦から半世紀近くが過ぎて、戦後 の日本美術を新しい評価の視点から回顧する美術展が相次ぎ、昭和二十三年(一九四八)一月に結成された小さな日本画団体創造美術のことも、それなりに美術史的な視座に納まるようになった。創造美術は、それが存続した三年間の動向だけではなく、昭和初期からの日本画の動勢を伏線にはらみ、現代日本画を戦前から戦後へと展開させた一つの舞台として重要であり、そのまま今日の創画会にまで歴史を重ねいることに意味がある。それは単に一つの日本画団体の発展史を超えて、昭和日本画史の現代に至る影響の大きな流れと相呼応しているから、いっそう興味深い。他の日本画団体、例えば、日展や院展にそれがまったくないというのではないが、創造美術の誕生を発端として、そこから新しい日本画創造に影響力の強い作家たちが画壇に登場してきたというのも事実だ。明治から続いている日展や院展の戦後は、日本画壇の中枢を形成する大家たちを健在に擁していたから、変革の動きは着実ではあが緩慢た。そこへ日本画の前衛として、同じ頃に結成されたパンリアル美術協会による日本画の否定や破壊の方向からでなく、日本画表現の地平を現代的なものへと広げていく刺激を与え続けたのが、創造美術の作家たちであったといって思う。何もないところから出発した創造美術が、四十数年後の今日の創画会にまで、時代を語り伝える新鮮な表現の担い手たちを数多く輩出させる源になった。創造美術の三年間だけの評価はさしたることではないかれない。しかし、結成に集まった作家たちは、それから現代日本画に名を残すだけの作品を発表してきた。創造美術にまつわる話は、歴史が語る彼らの青春の、というには遅いくらいだが、ややほろ苦い記念碑的物語になる。創造美術結成まで創造美術は、この数年でやっと創造美術協会と誤記されることがなくなった。しかし、未だに、それが戦前の新美術人協会を母体として直接誕生したかのように記述されているのは、誤りではないにしても正確ではなく、当時の画壇の状況やその重要な歴史的意味、今日に伝えてほしい存立基盤である精神的な結び付きが色褪せてしまう。
この結成に参加したのは、東京から、高橋周桑(明治三十三年生)、山本丘人(同)、橋本明治(明治三十七年生)、 福田豊四郎(同)、加藤栄三(明治三十九年生)、吉岡堅二(同)の六人、京都から、上村松篁(明治三十五年生)、奥村厚一(明治三十七年生)、広田多津(同)、沢宏靱(明治三十八年生)、秋野不矩(明治四十一年生)、向井久万(同)、菊池隆志(明治四十四年生)の七人、計十三人であった。彼らは、京都の作家たちはやや若いが、いずれも四十歳前後から四十代半ばの日展審査員経験の作家や特選受賞歴のある有望な実力作家であった。高橋周桑だけが院展、他は、日展を離れて、つまりそれまで画壇に築いてきた実績を捨てて、「在野精神に立脚し官展に関与せず」と宣言して、新たなゼロからの出発に踏み切った。
ほぼ一年掛かりの結成は、正式な発表前に毎日新聞にスクープされたりして、世間に話題を呼んだ。記事を書いたのは、小説家の井上靖で、当時は記者をしていた。他に事前から察知していた記者もいた、スクープされて支局の上層部が責任を取らされるということもたほどに、画壇の事件として騒がれた。創造美術という日本画家集団の出発が、当時の日本の社会では、戦後民主主義の新しい風潮を象徴する紛れもない一つの社会的な事件となるところに、日本の戦後の出発との二重映しを見てとることができる。
けれども、その頃を思えば、どのような経過があって東西の作家がこのような顔ぶれで集まり、結成にまで漕ぎ着けたのか、不思議でもある。新幹線で往復できるよ ックスさえもある現代のように情報手段の簡便な時代ではない。まして、今日でさえ閉鎖的な特殊性をいわれる日本画の世界で、所属している団体を離れてやっていこうというのは、まだ一人立ちしきれていない作家にとっては、先行きの不安な大問題である。例えば、京都の七人は、日展の大御所として勢いのある西山翠嶂の画塾青甲社に籍があった。他にも日展には、小野竹喬、堂本印象、福田平八郎といった京都の大家が顔を揃えている。日展は、まさに京都画壇そのものであったといってもいい。そこを離脱して出発しようというのは、それなりの覚悟と人間的な強い結び付きがなければ、到底果たしえない難事であった。同じ事情は、東京の作家にもあった。東京美術学校を昭和六年に卒業した日展作家で構成された六窓会で、東山魁夷らと一緒に歩んできた加藤栄三と橋本明治の二人は、後年になって、不本意なが参加したと訂正しているが、創造美術の三年だけで日展に復帰したのも無理からぬところがあった。その点では、戦前から、新日本画研究会、新美術人協会というふうに、独自の新日本画運動を率いてきた福田豊四郎と吉岡堅二の二人が、最も自由であり、終始グループを先導する役割を果たしたとみることができる。そのまとめ役 が山本丘人であり、京都は上村松篁が中心になっていた。
そのように、東京と京都、それぞれ事情の違う十三人が、戦後の落ち着かない世情の中から、結成に参加していった経過というのは、かなりドラマなハラハラさせる展開があって感銘深いものがあるが、ここでは割愛せざるをえない。ただ、その具体的なきっかけだけを、山本丘人の回想録に依って紹介しておこう。
「今思うと、一種の革命期であったろう。世の中全体が新しい動きでむんむんしている。......とにかく、時代の空気がなんとなく伝わって、血が騒いでいた。そのころ、終戦翌年か翌々年かだ 私のところに、山崎斌という人がよく現私ばかりではない、東京では前から私と付き合いのある吉岡堅二さんや面識のある福田豊四郎さん、京都では上村松篁さんや秋野不矩さんといった人たちなどを、この人は訪れた。......事は、この人との付き合いから起った。」(山本丘人「私の履歴書」昭和五十三年十月十三日付日本経済新聞)
山崎斌は、初めは小説家としての道を歩み、のちに、草木染を復興して、雑誌を主宰するなど、文学活動の傍ら、自らが命名した「草木染月明織」の普及に努めた見識高い文化人であったから、その頃の日本画の在り方に、率直な意見を説いて回り、新しい団体結成に参加してくれそうな人材を捜し歩いたのだった。
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日本美術史 創造美術 戰後美術 日本畫

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  • 個人分類:日本美術史
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  • 1月 09 週五 202608:00
  • 【引用】当麻寺

志水正司,《續・古代寺院的成立》,六興出版,1982
当麻寺は、藤原京からみて西、夕日の沈みゆく二上山のふもとの寺である。 古代寺院の中にあって、東西両塔が揃って残り、 古寺の雰囲気がまのあたりにしのばれる貴重な存在であり、また、中将姫が蓮の糸で織ったというとうとい当麻曼荼羅を伝えることでも知られている。古代の氏寺とその信仰のすがたを追想させる寺として親しまれているのである。
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當麻寺 日本美術史 日本美術 奈良

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  • 個人分類:日本美術史
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  • 1月 08 週四 202608:00
  • 【引用】夢殿と栄山寺八角堂

志水正司,《續・古代寺院的成立》,六興出版,1982
八角堂の源流 
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日本美術史 聖德太子 八角堂 日本佛教

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  • 個人分類:日本美術史
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  • 1月 06 週二 202608:00
  • 【引用】日本と韓国、それぞれの近代主義をめぐって―鑑賞教育のための視座―3

このようにフォーマリズムの理論的な洗礼を受けつつ、いかに韓国美術のアイデンティティを確立するのかという、考えただけでもスリリングで創造的な時代に韓国の美術界は出会うことになる。通常ならばミニマリズムの還元主義は、現象学的、記号論的な知的プロセスとこれまでの文脈を解体する作業を伴うため、韓国のように一気に広まることは難しいと思われるのだが、「日本の影響から脱すること」と還元主義、そして民族主義が見事にフユージョンした、きわめて希有な衝突の現場があらわれたと考えられるのである。日本の植民地的な美術教育のもとでフォーマリズムの理論まで行き着くことは、ほとんど不可能と思われるにもかかわらず、それに民族的なエートスをも加えた60年代末のモノクローム・ペインティング運動は、世界のアートシーンでも通用する優れた作家を何人も輩出することになったのである。まさに三位一体の改革であったと言えよう。
このような民族的なエートスについて金英那氏は、次のように述べている。
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日本美術 美術教育 韓國美術

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  • 個人分類:日本美術史
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  • 1月 05 週一 202608:00
  • 【引用】日本と韓国、それぞれの近代主義をめぐって―鑑賞教育のための視座―2

2 鏡としての他者
先にも述べたように、韓国は最も身近な隣国であるにもかかわらず、その激しい近代・現代史は言うに及ばず、ごく日常的な習慣や身振りにいたるまで、その歴史的、文化的差異が広く理解されているとは言いがたい。それも、韓国近代史の真ん中に1910年から1945年にわたる日本の植民地時代があり、しかもこのことは、日本の社会に対しても常に鏡のように自らを映し出していることを忘却しがちである。もちろんこれは筆者自身も含めての話だが、これ以上ない重要な鏡の役割を持っていることを改めて深く認識すべきなのであろうが、先にも述べたように私たちに深く染み込んでいる無意識化された脱亜によって、他者として容易に浮かび上がってこない困難さがあるのは否定できないと思われる。
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日本美術 美術教育 韓國美術

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  • 個人分類:日本美術史
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  • 1月 04 週日 202608:00
  • 【引用】日本と韓国、それぞれの近代主義をめぐって―鑑賞教育のための視座―1

《美術教育》290號,2007
大嶋彰
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日本美術 美術教育 韓國美術

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  • 個人分類:日本美術史
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  • 12月 29 週一 202508:00
  • 【引用】圓山應擧傳箚記中文翻譯-4

(原文連結,Grok翻譯,人工調整)
應舉之畫雖深受多人喜愛,然亦有一部分人並不認同。同時代之曾我蕭白有「欲得圖者往圓山主水處,欲得繪者來吾處也」之名言;而賴春水亦於其《在津紀事》中記曰:「圓山應舉畫名一時,有人自京歸來,多齎贈余,大有德色,余不甚喜,得輙與人,今不留一張。」春水之子山陽亦以吳春置於應舉之上,於中林竹洞畫冊題跋云:「圓翁以新代腐,故純主寫真,毫無古氣,以余視之,畢竟洋畫之無墨影者矣。謂之寫真則可,未可謂之畫。」此山陽全文,載於市島春城氏所著《隨筆賴山陽》。
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日本美術史 圓山應舉

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  • 個人分類:日本美術史
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  • 12月 28 週日 202508:00
  • 【引用】圓山應擧傳箚記中文翻譯-3

(原文連結,Grok翻譯,人工調整)
應舉之墓碑上「源應舉墓」四字,係妙法院宮真仁法親王之御筆。真仁法親王為光格天皇之皇兄,富於文藝之趣味。其優遇歌人小澤蘆庵之事,已詳載於《南天莊墨寶解説》中。據本間游清隨筆《耳敏川》記載,蘆庵之墓碑亦為親王之御筆。親王於文化二年薨逝,時年尚未滿三十八歲。其與應舉之交遊,至今尚未詳知,然妙法院所藏親王之日記(天明七年正月一日至八月十六日一冊之寫本)現存於史料編纂所,據此可知天明七年前後,親王與應舉之往來頗為頻繁。雖編纂所本係託名親王所謄寫,多有不明之字仍照錄的情況,閱讀頗為不易,然勉強判讀後,將有關條目列舉如下。天明七年,親王年二十歲,應舉則五十四歲。
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日本美術史 圓山應舉

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  • 個人分類:日本美術史
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  • 12月 27 週六 202508:00
  • 【引用】圓山應擧傳箚記中文翻譯-2

(原文連結,Grok翻譯,人工調整)
三
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  • 個人分類:日本美術史
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  • 12月 26 週五 202508:00
  • 【引用】圓山應擧傳箚記中文翻譯-1

(原文連結,Grok翻譯,人工調整)
森銑三
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