《天平‧奈良》,朝日新聞社,1973。
長広敏雄
前口上四つの柱ただ今ご紹介いただきました長広でございます。今夕と来週の二回にわたりまして、天平美術のお話を申し上げたいと思います。みなさんも大体天平美術というのは、奈良においでになりましていろいろご存じだと思います。飛鳥・白鳳期に続く時代で、日本の美術の中でも非常に豊富な美術、しかも学界におきましても、これぐらい議論の多い、仏像一つ一つについても各学者にいろんな議論があるという、たいへん盛んな時代でございます。最初に申し上げておきたいことは、序論と申しますか、あるいはきょうとこの次の回の結論と申しますか、そういうことをかいつまんで先に申し上げます。あとでスライドを映しますが、私の講演は竜頭蛇尾にスライドで終わってしまうということがよくございますので、きょうは先に結論ないし序論を申し上げたいと思います。
天平時代の美術の主流は仏教美術でございます。仏教以外の美術はたいへん少ないと申してもいい。そうしますと、この仏教美術というのは飛鳥・白鳳もむろん仏教美術でございますが、仏教美術、とくに天平美術を考えます上で、大体四つぐらいの柱を考えるべきである。その柱の第一は思想と申しますか、仏教とは何ぞや、あるいは仏教というものはどうでなきゃならないかということが中心になるわけです。これをごく簡単に申し上げます。
申し上げるまでもなく、仏教というのは「空・無・虚」というのが根本思想でございます。つまり、今の言葉で申しますと脱社会ということですね。人間のままでありながら脱社会である。これに向かって釈尊は非常な苦闘をされた揚げ句、禅定(ぜんじょう)という精神統一の姿、座禅を組んだ姿で悟りを開かれた。この禅、あるいは定という精神統一の状態で瞑想し、思索して、最高の悟りの状態を切り開く。こういうことは、要するに脱社会ということですね。言わばたいへん高い哲学である。ところが、こういう哲学はむずかしいことでありまして、一般大衆、とくに古代の大衆におきましてはなかなかそういうことは哲学的にはわからない。わからないんでありますけれども、こういうことが仏教の中心になる。こういう空・無・虚というふうなことが、実は中国において、仏教がインドからはいりまして、中国仏教となりました時に、中国にこれと同じような哲学が あったために、中国では一段と哲学化したわけであります。これは天平時代には関係ありませんけれども、日本でも後になって禅宗ということになるわけです。ですから禅ということは、最初から基本的にはあったわけです。そういう禅というような考え方が、すでに中国仏教になった時に発生している。これは根本の思想的なものであります。
ところが、こういうことと、もう一つは、仏教を実践するということから言うと、これは哲学で はなくて、仏教の法に達するためには喜捨(きしゅ)をする、自分の全財産、あるいはすべてのも のをなげうって仏のためにささげるという喜捨という行為です。仏教の哲学はわからなくとも、喜捨をすればいいんだということを説いた僧たちが、やはり中国仏教の最初の時期にいたわけです。そういう風潮が四、五世紀ごろに盛んであったわけです。言うならばこの二つを、仏教を実践するお坊さんたちがともに行なって行こうとするわけです。それで喜捨ということは何でも行動にあら わす。物を、金であろうが、財産であろうが、自分の邸宅であろうが、あるいは自分自身も、というふうにあらゆるものを投げ出すという実践的なものです。この実践によって何かを得るんだ、言うならば、そういうことがまじないの作用をして何かを得るんだ、あるいは災いを福にするんだ、あるいは病気をなおすんだ、あるいは死んでから仏の世界へ行けるんだ、こう説くわけです。ですから、この行為は実は前の行為とぜんぜん裏腹みたいな、前は脱社会でありますけれども、この喜捨のほうは社会に向かってあらゆるものを仏さまのために投げ出す、ということは、寺をつくりなさい、あるいは仏像をつくりなさい、というふうにするわけです。前者のほうが脱社会なら、喜捨のほうは、もう一遍何かにおいて社会の中にはいって行くことになります。
この二つの面が中国で非常に盛んになりまして、そして日本に伝わって来たわけです。この第二の点は非常に実践しやすいので、第二のほうが中国でも非常に栄えまして、とくにこれが、中国の南北朝時代、ことに北朝のほうで非常に栄えました。第一のほうはむしろ南朝のほうで栄えました。そして北朝のほうで栄えたものが高句麗に伝わります。あるいは南朝から百済や新羅に伝わります。そして日本に来るというわけです。日本に来た仏教は、初期においては第二のほうが非常にわかりやすくて、しかも実践しやすいということで、どんどん行なわれる。そういうまじない的な効果ということが非常に大きな影響を与えるのです。そうしてお寺をつくり、仏像をつくるという行為に なるわけです。このことを中国の六世紀ごろの慧皎(えこう)というお坊さんがたいへんうまい言葉で言っている。お寺や仏像をつくるということは「木石開心」である。 漢文というのはたいへんおもしろいものでございまして、この文章は、木や石が心を開く、ということは、木や石には心はないんですけれども、それを仏教的な行為によって木や石の中に心を開く。そうして、木や石を精神的なものにするということは、木や石を使ってお寺や仏像をつくる、ということです。木石開心ということが、造寺造塔、あるいは造仏という行為の基本的なものだということを中国のお坊さんが言ったわけです。この思想が仏教美術の基本的な思想である、というふうに私は考えております。
これが日本におきましては、飛鳥から白鳳時代にかけてどんどん仏教が盛んになって、この天平時代にまさにこれが非常に大きな花を開いたということになるわけです。
次に、そういうふうにして寺が出来、仏像が出来た結果、天平美術はどういう性格を持ったかという、スタイルの問題です。これはひと口に申しますと華麗である。現在見ますと、天平の仏像は もう色がはげてしまって非常に静かなように見えましても、かつてはみんなそれに色が塗ってあり、非常に美しい模様が描いてあったのであります。華麗という方向に向かって天平の仏教美術はどん どん向上して行った。ですから、日本における最も華麗なものに向かって行ったということが言えます。
もう一つは言うまでもなく円満であります。仏さまという姿は円満である。円満具足(えんまんぐそく)であるということはお経に書いてあるとおりでございますが、これが日本では、まだ飛鳥・白鳳のころはほんとうの意味の円満というところまでは行かなかったのが、天平時代になって円満を達成します。円満ということは形の問題でもありますので、その点を申し上げますと、飛鳥・白鳳においてはどこかぎこちなかった、あるいは未熟であった、あるいはどこかな幼なしていた。それが成長してりっぱなおとなの形になる。あるいはすべてバランスがとれている。非常に調和的である。調和ということは、精神的な意味と物質的な意味との、両方の意味での調和がある。あらゆる意味で円満、ということは、われわれがそれを仏像と見なくても、ただ美術というふうに見ましても、それはまさに美しい。理屈なしに非常に美しいという美的充実感とでも申しましょうか、日本の仏教美術の中で最も美的充実感のあるのが、この天平の仏教美術だ、と言えると思います。ですから、華麗ということは、みなさん方は、華麗なんてことを仏教美術で考えるのはおかし いというふうにお思いになるかもしれませんけれども、しかし飛鳥時代からどんどん発達して行くうちに、そういう華麗さというものを発揮するようになったのです。
そうして、こういう華麗とか円満というものを外側から見ますと、だんだん、だんだん巨大になって来る。巨大性への上昇、その頂点が東大寺の大仏になるわけであります。さらに天平時代の伽藍配置ということは、われわれが今想像出来ないような非常に大きく豪華なものであった。巨大なものにどんどん積み上げて行く。もう一つは、ただ一つの巨大じゃなくて、非常にたくさんのものにする。多数へ向かって拡大して行く。これは何かというと、言うまでもなく国分寺という、日本中の国ごとに国分寺をつくる、あるいは国分尼寺をつくるというようなこと。今では想像が出来ないぐらいに寺が増大し、全国的に国分寺、国分尼寺というものをつくらせるようにする。これはまさに拡大であります。ですから、巨大の方向に行くと同時に、拡大の方向に行くというふうなところに持って行く。飛鳥・白鳳時代でしたら、蘇我氏なら蘇我氏という氏の寺であった。氏寺というものが天平時代におきましては解消いたしまして、全部国家的な規模になる。つまり、全部が官寺というものになって行く。すべて国家が統一するという方向に持って行く。これは天平の歴史の 話をお聞きになった時に、大体そういう方向のお話があったと思います。そういう国家統一のほう に向かって行く形を持っているわけであります。
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