《天平‧奈良》,朝日新聞社,1973。

長広敏雄

社会的な背景

しかし、ここでもう一つ、われわれ現代の人間としましたら、天平時代をいいことずくめに考えるということに、私はたいへん抵抗があるのであります。それは何かというと、日本が全部統一されますけれども、その時の社会というものはどういう社会であったかということも考えておかなければならない。その当時の社会に非常に多く災いがあったということです。これはこの当時の『続日本紀』というふうな文献をお読みになりましたらよくわかりますが、非常に災いが多い。天災もありますし、飢饉もありますし、疫病の流行もあります。現在ではだいぶん記録が失われていると思いますけれども、ずいぶんたくさん書いてある。災いをなくしたい、除災したい、という願望。あるいは病気が非常にはやる。お祈禱をして直したいという人民の願望というものを汲み上げて、国家がするというふうな、災いという現象が非常に多いのです。このことはぜひここで考えておかなければならない社会的な問題でございます。

それから第四点といたしまして、こういう造寺造塔、あるいは造仏をするそのエネルギーというものはどういうものであったかということ。このエネルギーというのは、言うまでもなく律令国家という当時の日本の政治形態、あるいは行政形態である。律令国家という形態が基本的なエネルギーであります。とくに巨大な寺や仏像をつくらせる。あるいは多数の寺塔を各地に拡散的につこれはまさに律令国家体制というもののエネルギーであり、人力も財力も国家自身が収奪して行っ て、その力でもってつくって行く。

それからもう一つのエネルギー、これは大陸の大帝国の唐というものからの──この唐の文化圏には、朝鮮半島を私は含まして申し上げますいろいろな輸入という力によって、それがやはり一つのエネルギーになる。輸入ということは、申すまでもなく遣唐使、あるいは留学僧たちが持って帰ったもの、あるいはその成果、これは物心両面があると思います。さっきの、仏教は何ぞやというふうな方面のお経の問題とか、あるいは向こうで勉強した仏教上の業績というようなこともありますし、同時にもう一つは、いろんな造寺造塔、あるいは仏像をつくる場合のいろいろの手本であるとか、いろんな職人や技術とかいうようなものを一緒にもたらして来る。それから次には、そういう日本人だけじゃなくて、唐のお坊さんが日本にどんどんやって来る。あるいは朝鮮半島、新羅、あるいは北のほうの高句麗の僧たちも日本に来るというふうな、外国人の渡来ということもこ の時代に相当ある。大体以上の四点が、天平時代の美術を考えます時に四つの柱になると思います。この四点をすべて詳しく申し上げるひまはございませんので、場合々々によりましてそれに触れながらこれから申し上げたい、こういうふうに思うわけであります。

最後に申しました遣唐使のことは、美術に関係することだけを申しますと、遣唐使は何回も続きますけれども、まず第八回の遣唐使は、西暦七一七年に行きます。四隻の船で行きまして、乗り組みの者が全部で五百五十七人というたくさんの人数で行っているわけです。その時に行ったお坊さんで有名なのは、玄昉(げんぼう)です。玄昉は、それから中国に十七年もの間、長期滞在をするわけです。その次の第九回は七三三年、この時も四隻の船が行っているのです。乗り組みの者は全部で五百九十四人という非常にたくさんの人が行っている。この第九回の七三三年には、後に有名な鑑真和上を迎えて来た、たいへんな功労者であります栄叡(えいえ)とか普照(ふしょう)というお坊さんが旅立ったわけです。それから第十回は七五二年、天平勝宝四年でございますが、この時も四隻の船がまいりました。この時の人数ははっきりとはわからないんでありますけれども、推定いたしますと、やはり四百五十人ぐらいが行っていると思われます。この第八回、第九回、第十回の三回は、天平の美術にとってはたいへん大事な遣唐使であったと思います。それから第十回は、行きました船の二年あと、七五四年の帰り船で、有名な鑑真という唐のお坊さんの一行が日本に来ました。

このころ中国は非常に文化が高揚した、いわゆる玄宗皇帝の時代でございました。ところが、七五五年になりますと、有名な安禄山の内乱が起こり、また史思明が叛乱を起こす。安史の乱とも申しますが、この安史の乱は実に八年間続きまして、中国の北部地方は、その間戦場になるわけです。第十一回以後の遣唐使は、安史の乱の最中またはそのあとに行くようになりまして、当時非常に中国の情勢が変わってまいります。そこで、向こうから持って来るものもいろいろと変わるという結果も生まれる。幸いにも鑑真和上はこの第十回の帰り船でございますから、安史の乱の前に日本に来たという、きわどい時であったわけであります。

以上が、大体序論的、結論的なものでございました。天平美術はほとんどが仏教美術でございますが、普通われわれは奈良の有名な寺というと七大寺ということを申します。七大寺という言葉はたいへん古くから言われているのでありまして、すでに平安時代後期から、奈良の七大寺を巡礼することが貴族の間で行なわれたわけであります。七大寺というのは一体どれを言ったかと申しますと、大体十二世紀のころに奈良の七大寺を巡礼してまわった大江親通(おおえのちかみち)という貴族がいますけれども、この人が『七大寺日記』という非常に詳しいものを書いております。その中で述べています七大寺というのは、まず東大寺、第二が興福寺、第三が元興(がんごう)寺、第四が大安寺、第五が西大寺、第六が薬師寺、第七が法隆寺、この七つでございます。普通はこういうところを七大寺と言ったようでありますけれども、しかしこれも厳密に七大寺がこれだというふうな定義をしたわけじゃないんでありまして、そのあとに、『七大寺巡礼私記』というものを、同じく大江親通が書いております。前に言った時よりも四十年ほど後に言ったのでございますが、その時には法隆寺を出しませんで、唐招提寺を出しております。古くは唐招提寺のことは、唐という字を抜きまして、招提寺と言ったのです。ですから、合わせて八つの寺のどれかを、出したり引っ込めたり。今の奈良市に近いという点から申しますと、唐招提寺がはいれば近いわけでありますけれども、いろいろの点から、むしろ唐招提寺は抜けていることが割に多い。

この七大寺につきまして、ここでご説明すれば、私の天平美術の話の大体がご理解いただけるわけでございますが、時間がわずかでございますので、これを詳しく申し上げることはとても出来ません。そこでおもなものだけを、かいつまんで、大体時代順に申し上げたいと思うわけであります。私、年表を出しておきましたが、年表の最後のところに、これは平凡社の『世界美術全集』からとったと書いておきました。それは昭和二十七年に出来ましたもので、その後学界のいろいろの説が変わりまして、現在では訂正したいところがございます。ちょっと表のほうをごらんいただきますと、西暦七一〇年の和銅三年に都を平城に遷す。それはいいんでございますが、その次の「興福寺、大官大寺を新都平城京に移建する」はカッコにしておいていただきたい。というのは、ある文献にはそう出ているのですけれども、これは今から考えますと、移建するということを決めたとい うぐらいのことで、実際に移ってしまったという記事ではないというように思われる。大官大寺というのは大安寺と同じことでございます。大官大寺は大安寺という寺号になりまして奈良の都に移ります。それから一行おきまして、七一六年、霊亀二年のところに「元興寺を奈良に移建する」とありますが、実は、これはたいへん議論のあることでございますけれども、元興寺というのを消していただきまして、そこに大安寺とお書き願いたい。七一六年に大安寺を奈良に移建した。そうしますと、第一の項目の時とそこで合うわけであります。大安寺は霊亀二年に移建したということに大体なっていて、これが正しいことでございます。その次の行は、七一八年の養老二年 「法興寺を奈良に移建」これを元興寺とお変え願いたい。これは元興寺でも法興寺でも同じことでございますけれども。まずそこまでをきょう申し上げたいと思います。

要するに、奈良に都が遷りますと、それまで藤原京に都があったころに、南のほうにありました官寺と言われている天皇家の最も庇護の厚かった寺がまず移されることになる。そこでその第一は、大安寺と元興寺と薬師寺と興福寺という四つでございます。

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