《天平‧奈良》,朝日新聞社,1973。
長広敏雄
薬師寺・大安寺・元興寺
この経過を申し上げますが、まず薬師寺のところから申し上げたい。奈良の都は、今発掘しております平城京跡に対して向かって右のほうが左京、そして向かって左のほうが右京になりますが、この左京の六条に大安寺をつくる。それに対して右京の六条に薬師寺をつくる。六条ですけれども、薬師寺のほうが少し真中に近いところにつくられる。しかし左右は対称です。ですから、薬師寺と大安寺は、当時においては平城京から申しますと左右にちゃんと並んでいるように計画されたわけです。現在の大安寺は、むろん左京の六条に当たりますし、現在の薬師寺は右京の六条に当たるわけです。薬師寺のことから申し上げますと、この薬師寺が完成したのはいつかということはなかなかわからない。現在のところでは、養老二年の七一八年に移建をした ろう、大体そう考えています。藤原京時代に本(もと)薬師寺をつくっておったのを、ここへ移したわけでありますから、かなり古い寺格を持っているわけです。伽藍の全体の計画は割に古風でご ざいます。そして東塔と西塔をつくって、仏像は薬師三尊を造立した。後に東塔のやや東のところに東院堂をつくりまして、ここに今も残っている聖観音がある。今言った薬師三尊とか聖観音という像を、もとあった本薬師寺のものを移したものか、あるいは平城京に移転されてから新しくつくったのか、学者間で非常に議論がございますが、私は、むしろ平城京に移ってからつくったという ふうに考えます。
それから、それと対称的になりますのが大安寺。大安寺は現在はたいへんさびれておりまして、たずねる人もほとんどございません。もとは非常にりっぱな豪華な寺であった。何度も焼けたりしまして、今から十年ほど前でしたか、またちょっと焼けました。非常に火災が多くて、残念ながら昔の面影はぜんぜんございません。当時ここには非常に偉い道慈(どうじ)というお坊さんがいました。この人は中国へ十七年ほど留学して帰って来た、当時としてはたいへん知識の高い名僧だと言われた人です。この人は唐の都長安におりましたが、長安切っての大きな寺である西明寺の伽藍配置を頭に浮かべて、この大安寺をつくったというふうに言われている。それほどりっぱな伽藍配置であったわけです。この二十年ほどの間に着々と発掘が行なわれまして、わかってまいりました。もう一つ大安寺で申し上げたいのは、ここには奈良朝時代に書かれたお寺の財産目録、これを「流記(るき)資財帳」と申しますが、これが残っております。天平時代に書かれたそのままのものが巻物として残っている。これで見ますと、大安寺にいかにりっぱなものがたくさんあったかということがよくわかる。ほかの寺の「流記資財帳」はなくなったり、また時代が下りますが、この大安寺のものだけは現在も残っており、たいへん貴重でございます。ただ仏像は、残念なことに天平時代のものと申しましたら、天平のごく末期の、次の平安時代の仏像に近いようなものしか残っておりません。その意味で、大安寺の仏像は今回の説明から省かせていただきます。
その次は元興寺でございます。元興寺も今はたずねる方が少ないと思います。現在は極楽坊だけが残っているわけです。これも非常に大きな寺であり、とくに元興寺は、日本における仏教の発祥の地と言われる飛鳥の飛鳥寺がもとであったわけです。飛鳥寺、別の名前は法興寺と申します。この法興寺、飛鳥寺という飛鳥の地にあったのが何遍か変わりまして、そして奈良の都に移って来たわけであります。この寺は、そのもとは蘇我氏の発願によって最初の飛鳥寺は出来たわけですから、元興寺は蘇我氏の氏寺であった。しかし氏寺と申しても、それは古いことであり、この当時は天皇家からも非常な保護があったわけです。ですから、奈良の都に移しまして、現在の興福寺、その南に猿沢池がございますが、猿沢池から南の地域が全部元興寺であった。今の興福寺に匹敵するぐらいの大規模の元興寺であったわけです。これも非常に災厄が多くて、現在残っているのはわずかに極楽坊だけです。極楽坊は元興寺の僧坊のごく一部です。元興寺の金堂も、塔も、あらゆるものが みんななくなってしまいました。
そこで考えなきゃならないことは、薬師寺と大安寺は平城京の左右にちゃんと並べたんでございますが、元興寺はずっと東のほうに寄せてつくったわけです。元興寺のありますあたりは、むしろ当時の平城京から言うと外京と言わなければならない。薬師寺と大安寺に比べると別格みたいに、別のところにつくられた。そこへ第四のお寺として出来ますのが興福寺でございます。興福寺は元 興寺のすぐ北のところに出来るわけでございます。
興福寺の由来
興福寺は現在も五重塔があったり、奈良公園になっておりまして、だれもが通るところでございますが、これは奈良のお寺といたしましては、東大寺を除きましては、最も栄えた寺でございます。東大寺は大仏なんかで特別でございます。この由来を申し上げますと、これは藤原氏の氏寺でございます。言うまでもなく、藤原氏は最初の藤原鎌足が例の蘇我氏を倒して一種の王政復古をやった。当時としては殊勲者であったわけです。この藤原鎌足が元来天智天皇の時に山階(やましな)寺という寺を、京都の現在の山科の一画、どこであったかわからないんですけれども、そこに山階寺という寺をつくった。これがその後飛鳥へ移されまして、飛鳥の土地では厩坂(うまやざか)寺という名前に変えて、やはり藤原氏が氏寺としてこれをもり立てておった。そこへ平城遷都ということが決まってから奈良の都に移ったわけであります。藤原鎌足以来、藤原氏は政治的勢力が強くなってまいりまして、ちょうど奈良の遷都のころは藤原不比等が実権を握ったわけです。不比等のぐるりには天皇家に関係のある人が非常にたくさんおります。 そういうわけで不比等は非常に勢力を伸ばして来て、そういう政治的な力でもって、古くから由緒のある薬師寺であるとか、あるいは大安寺であるとか、元興寺というものと匹敵するような地位を興福寺は与えられ、そして現在の猿沢池の北側に土地をもらって移すということになるわけです。しかし、出来ました当時の興福寺と元興寺とは、どっちが大きいかわからないくらいのものであった。むしろ古くから由緒のある元興寺のほうがもっと勢力があっただろうと思われます。中におったお寺のお坊さんに しましても、あるいは寺にたくさん男や女の奴婢がどの寺にもいたわけでありますけれども、元興寺にはいちばんと言っていいぐらい奴婢がたくさんいた。そういうふうに並んでいたわけでありま すけれども、しかし、その興福寺は天平時代にみるみるうちに大きくなってまいります。天平時代にそういうふうに大きくなるとともに、奈良から今度は京都に都が遷り、平安時代には藤原氏がどんどん地位が高くなって、ご存じのように藤原時代が成立する。藤原氏の力はこの天平時代以後衰えることなく、どんどん平安朝までも続いて行って、平安朝でピークになるわけですけれども、そういう時代に藤原氏は奈良の興福寺に絶えず財宝を注ぎ込むわけです。ですから、興福寺だけはちっとも衰えないで残って行くということになるわけです。
そのことをもう少しこまかくご説明いたしましょう。興福寺が平城京の外京に移りました年代、これもいろいろ問題はございますけれども、大体は和銅の末のころから、その次の霊亀、養老のころであろう。普通、学者はそういうふうに結論を出しております。それまでは、さっき申しましたように藤原氏の氏寺であった。ところが文献によりますと、養老四年、西暦七二〇年という年に造興福寺仏殿司というものを政府は設けたわけです。ということは、興福寺をつくるための政府の正式の機関というものが出来た。今まで藤原氏の氏寺であったものが、この時からいわゆる官寺にみなされたということを意味している。それほどこの寺はここで格が急に上がるわけです。そして、藤原不比等が死んで一周忌の時にまず中金堂がつくられます。藤原不比等の夫人である橘三千代が 発願者になってつくる。これは今言った造興福寺仏殿司が出来た次の年、養老五年のことです。中金堂に続いて、おそらく南中門、南大門をつくったに違いない。その同じ時に、同じ藤原不比等の冥福を祈る追善のために、この当時、もう位を譲られておった太上元明天皇と、天皇であった元正──両方とも女帝です──この二人の天皇が発願者になって、そして皇族の一人である長屋王に命じて──この人はたしか右大臣になっていたと思いますが──つくらせた。それが今でも形は残っています北円堂です。今の建築はあとのものですけれども、大体の形は当時のままであって、円堂と申しますけれども実際は八角形でございます。日本では八角形、六角形のお堂のことをみんな円堂と言いました。この北円堂が出来たのが、つまり天皇の勅願ということになります。それほど格が高くなる。それから少し後になりまして、今度は中金堂の東のところに東金堂が出来ます。東金堂は、元正天皇も位を譲られて聖武天皇になりました時に、この元正天皇の病気平癒祈願に聖武天 皇がこの東金堂をつくられた。それが神亀三年という年です。そのすぐあとに、今度は聖武天皇の皇后になった光明皇后、この人が東金堂の南に今建っている五重塔あれも今のは後世の建築ですけれども、とにかくあそこに五重塔を光明皇后がつくられる。それは天平二年です。光明皇后のお母さんである橘三千代がなくなったので、これを供養するために、光明皇后自身がつくられたのが西金堂。この西金堂は現在ぜんぜんございません。この西金堂のところに、現在は南円堂というお堂が出来ております。興福寺は行ってごらんになればわかりますように、今でも南円堂というと ころは信仰が生きているという感じがいたします。これは南円堂をつくりまして、藤原氏はあそこを信仰の中心にしていろいろ布施をしたわけです。そういうことでございまして、大きなもので申しましても中金堂に東金堂、それから西金堂、それから東の五重塔というふうにつくって、そしてこれを取り巻いて、非常にりっぱな伽藍配置が出来ます。これでおわかりのように、藤原氏の氏寺 であったものが、だんだん天皇家自体が力を入れるようになって、とくに光明皇后、聖武天皇が非常に力を入れて造営をはかどらせた。
そこで、この仏像でございますが、これだけたくさんの堂塔がある中で、何遍も焼けまして、現在は天平時代の建築というのはぜんぜんございません。何遍も建て直しているわけです。ただ仏像としましては、もと西金堂にあった御本尊──これはなくなってしまいましたけれども──の脇立であった十大弟子とその同じ西金堂にありました八部衆、この二通りのものが残っているわけであります。これは非常に貴重なものでございまして、言うならば奈良へ都が遷り、天平の初期の仏像として、現在は代表的なものでございます。十大弟子も八部衆も大体天平六年ごろに出来たであろう、というのが学者の現在の落ち付いた見解でございます。興福寺だけでもていねいに申し上げま すとたいへんなことになりますが、ごくあらましだけを申し上げて、あとでスライドでまたご説明申し上げることにいたします。
さて、こういうふうに四つの大きな寺が、まず天平のはじめごろに出来て、天平の盛期になると、聖武天皇の仏教に対する非常な力添えによって盛大になって行くということを申し上げたんですが、そうすると、東大寺のことを申し上げなきゃなりませんけれども、東大寺の問題は次回に申し上げ ることにいたしまして、きょうは東大寺の起こりだけを申し上げておきたい。
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