《天平‧奈良》,朝日新聞社,1973。
長広敏雄
東大寺三月堂の由来
それは具体的に申しますと、現在東大寺の東の山の上に、お水取りで有名な二月堂がございます。二月堂の南のところに現在通称三月堂と申しているお堂がございます。この三月堂というお堂の像は天平仏像の粋と申しますか、いずれもたいへんな傑作。よくもこんなりっぱなものが現在まで残ったと思われるりっぱな像が、あそこに、あの狭まい内陣の中にひしめくように現在置かれているわけであります。全体の像がもとからあったかどうか、ということは別問題といたしまして、三月堂は実際は法華堂という名前で言われておる。これは元来は東大寺の、言うならば、あの大きな大仏殿が出来る東大寺というものの前身が、あの辺にあったんじゃなかろうかということが考えられる。文献的にはいろんな名前が出ているのでありますが、これは実は金鐘(こんしょう)寺という寺であったというように文献では言われる。ただ金鐘寺というのは文献だけに残っているんでありまして、一体どのくらいな大きさのものであったか、その規模はぜんぜんわかりません。しかし文献ではいろいろ伝えられまして、法華堂こそが金鐘寺であるという文献もございます。あるいは、別の名前を羂索(けんさく)堂。現在、不空(ふくう)羂索観音立像が三月堂の本尊でございますけれども、そういうところから来た羂索堂というものがあったんだ。だから、法華堂と金鐘寺とこの羂索堂と、これらが全部一つのものであるか、そうでないのかということは学者の間でたいへんな議論がございまして、そうであると言う人と、ないと言う人と、いろいろに説があるんでございます。表でちょっと見ていただきたいんですが、一四九ページに、「天平二十年、東大寺三月堂(法華堂)が建立され、不空羂索、梵天(ぼんてん)、帝釈、四天王、仁王像が作られる」とございますが、これは平凡社の『世界美術全集』が出来ましたころは大体そうい う説があったんでございますけれども、現在ではその説は少しあやしくなりました。結論から申しますと、結局、天平十二年ごろからだんだんと御本尊をつくったり、いろんなことが行なわれてお って、そうして天平十九年ごろには出来ておったんではなかろうかという考えでございます。不空羂索観音という御本尊はこの時に出来たわけでありますが、梵天、帝釈──現在も残っておりますが──が同時につくられたかどうかはわからないけれども、ややおくれるんであろう。四天王もややおくれるんであろう。一時に出来たとは思われない。多少の時期のずれがあると思われる。
今のお堂、三月堂の二月堂に近いほうは、屋根が四注になっております。実は北のほうは今の内陣に当たる御本尊のあるところ。前のところは外陣でございまして、礼拝するところでございます。南のところ、つまり礼堂は鎌倉時代に付け足したんでございまして、今は北と南の建築は非常にうまく調和されている。天平の当初は南側の建築はなくて、ごく小ぢんまりした堂が法華堂であったわけです。それを羂索堂というふうにも呼んでおる。それが金鐘寺であるかどうかは文献ではわからないんです。この小ぢんまりした仏堂は、当時山房と申しております。文献によりますと、神亀五年、西暦七二八年、この時、むろん聖武天皇のころですが、皇太子が生まれて間もなく幼児でな くなったので、その冥福のために聖武天皇が発願されて堂をつくったという。その同じ神亀五年に造山房司(ぞうさんぼうのつかさ)の長官を政府は任命している。ですから、その当時は山房というふうなごく簡素なものがつくられた。その山房がおそらく羂索堂、あるいは法華堂、あるいは金鐘寺と、いろいろ名前を変えて言われるもとになったんではなかろうか、というふうに考えられるわけであります。天平時代のお寺は、その後にいろいろな文献によりまして、いろんな伝説がはいったり、架空的な話がまつわったりなんかいたしまして、いろんな名前が出て来るわけであります。
こういう簡素なのが法華堂でございますから、この中には、現在のようなあんなたくさんの仏像は、おそらくもとはなかったんであろうと考えられるわけであります。法華堂には日光、月光という、非常に美しい合掌した塑造の菩薩立像がございます。これは塑像でございまして、今表面の彩色模様は残っておりませんが、非常に美しい。この二体が有名で、よく写真なんかに出ているんでございますが、この二体は明らかにここにはなかった。これはよそからあそこにいつのころか持って行ったに違いない。ということは、当時あちこちのお寺が焼けますと、仏像を適当な寺に移すということをしたわけです。不空羂索観音と梵天、帝釈、四天王、それから左右の仁王、これだけは一つのグループに違いない。しかし、私はこれがこの小さなお堂にもとからあったかどうかということは、たいへん疑問だと思います。しかし人によりますと、いや、あれで充分なんだ、あれでいいんだ、と言う人もありますけれども、私は少しお堂としては窮屈じゃないかというような気がいたします。
仏像のほうから申しますと、さっきの興福寺の十大弟子、それから天竜八部衆に続く天平の彫刻と申してもいいわけであります。この法華堂の本尊であります不空羂索観音立像は、ああいう観音は天平時代に非常に信仰された。観音像というのは救世(くぜ)観音という名前がありますように、人を救う、女性的な母親のような気持ちで救うというような思想が中国からはいりまして、盛んに信仰されたわけです。それが日本でも天平時代には、とくに観音信仰が盛んになりました。不空羂索観音というのは手が非常にたくさんありまして、手にはいろいろな物を持っており、その持っておる中で羂索というのは綱です。明らかにこれは密教系の像でございます。日本では密教と申しますと、後の天台、真言になってはっきりするんでございますけれども、いろいろなこういう密教ふうな仏像はすでに天平時代からぽつぽつはいって来るんであります。とくに不空羂索観音立像は目が三つある。そして手が八本あるわけです。これを三目八臂(さんもくはちび)と申します。これはなぜ三目八臂になっているかと申しますと、これはお経の中に三目八臂の像のことが書いてありまして、それは大自在天(だいじざいてん)というものが三目八臂である。大自在天というのは平 安朝ごろの密教の信仰になるとたくさんつくられる像でございますが、これが三目八臂でございます。不空羂索観音は大自在天のごとしというふうにお経に書いてある。それを踏まえたと思われる。この像はこの時代としたら非常な傑作と言っていい。仏像が美しいというだけじゃなくて、また堂堂としているだけじゃなくて、その冠でありますとか、後ろの光背でありますとか、非常にきらびやかでありまして、この当時の観音像としては代表的なものだと申していい。
もう一つは、仏像をつくる材料の問題でございます。この不空羂索観音菩薩は乾漆づくりでございます。詳しく申しますと、脱活(だっかつ)乾漆という手法でつくられております。 この乾漆像天平時代に非常にたくさんつくられます。さっき申しました興福寺の十大弟子もそうでありますし、天竜八部衆もそうであります。この法華堂では本尊の不空羂索もそうであるし、その横の梵天、帝釈もそうである。これのつくり方ですが、台の上に柱を立てまして、柱のところどころ、肩の辺であるとか、おなかの辺であるとかにまるい板をはめ込む、腕に当たるところは適当なものによっ腕のような枠をつくる。こういう芯の柱を木でつくるわけであります。そのぐるりを屑を入れた泥みたいなもので巻く。芯の上に仏像の形のようにぐるぐる巻きながらつくって行って、最後に漆 で固めて行く。一種の漆の手法、漆を利用した手法でございます。これは中国で始まったんでござ いますが、実は残念なことには、現在中国ではこの乾漆像は、こういう古い日本の天平時代に当た るころのものはほとんど発見されませんし、おそらく、なくなってしまったのではないかと思います。ですから天平時代の乾漆像は、非常に貴重な日本の大事な仏像であると同時に、東アジア全体の貴重なものになっているわけでございます。この乾漆像は、形をつくります時に、どうしても芯をつくってその上に両腕を加えるわけでありますから、粘土の像みたいに自由な形はなかなか出来ない。腕とか、あるいは足とかに多少ぎこちないところが出るんです。これは乾漆像というものが持っている一つの運命でございます。
三月堂の日光・月光
それからもう一つは、天平時代の塑像でございます。言うまでもなく泥でつくります。むろん芯に、やはり多少の柱を入れますけれども、大体泥で固めて行くというやり方でございます。表面はキララ、つまり雲母の粉にしたものを漆喰にまぜまして、そして肌のなめらか なところをつくる。 ですから、塑像は表面がやや光った感じがするわけです。塑像は、日本でいちばん古いものは法隆寺の五重塔の下にたくさんございます。法隆寺のいちばん下のところ、網戸が張ってありますけれども、あそこをのぞきますと、たくさんの塑像が置いてございます。あれは八世紀のはじめごろと思われます。次は法華堂の日光、月光です。
日光、月光というのは経典にはないんでございまして、日本で日光、月光と俗称が通るようにな ってしまったわけであります。日光、月光は、実際は梵天、帝釈を指すのだという人もございます。いずれにしましても、御本尊から見まして左のほうが日光で、右のほうが月光です。これは薬師寺の場合でもそうです。法華堂の日光、月光は、今申しました塑像の美しさ、乾漆でも見られないよ うな非常にやわらかい美しさ、しかも非常に静かな像で、人々に親しまれる傑作と申していいわけです。
これと相並ぶ塑像は、これは東大寺に属しますけれども、戒壇院、ほんとうは戒壇堂と言わなきゃなりませんけれども、この戒壇院の中にあります四天王。四天王と申しますのは、持国天に増長天、それからその後ろに応目天に多聞天、この四体が戒壇院にありますけれども、これが塑像としましては、今の法華堂の日光、月光に並ぶ傑作でございます。この二つは時代的にもほとんど変わらないと思われます。戒壇院のものは非常にこわい顔をした四天王でありますけれども、ただ単に こわいんじゃなくて、怒りを内に秘めたような内面的なものを感じます。どなりつけたというようなこわさじゃなくて、じいっと永遠のものを見つめるようなもの。
天平時代には木像の彫刻はほとんどあらわれません。乾漆像が非常に盛んになりまして、乾漆像 の場合も、塑像の場合も、表面は非常に美しい模様を極彩色であらわしたわけであります。先ほど序論のところで華麗ということを申しましたけれども、よく見ますと、この乾漆像、あるいは塑像の模様の華麗さは錦を見るように美しいわけでございます。
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