來源:奈良文化財研究所編,《奈良の寺一世界遺産を歩く》,岩波書店,2003。

1.若草伽藍の謎

再建・非再建論争

法隆寺には様々な謎があり、それが魅力にもなっています。まず、若草伽藍の謎について。一九三九(昭和一四)年、現在の西院伽藍の東南の「若草」と呼ばれた地で塔と金堂跡が発掘され、これが若草伽藍と名づけられました。しかし、その歴史がわかったのは近年のことです。世界最古の木造建築として有名な金堂や五重塔がある西院伽藍との関係に注目して、研究の経緯をたどってみましょう。

法隆寺はもとは地名をとって斑鳩寺と呼ばれていました。「日本書紀」には六〇六(推古一四)中に初めてその名がみえ、六七〇(天智九)年に焼けて「一屋も余ること無し」と記されています。一方、「法隆寺伽藍縁起幷流記資財帳」(七四七年作成)には、七一一(和銅四)年に五重塔の塑像群や中門の仁王像を造ったとの記載があります。

明治になるとこれらの史料から、当初の伽藍は六七〇年に焼亡、西院伽藍は七一一年前後に再建されたとされました(再建論)。これに対して一九〇五(明治三八)年に建築史家の関野貞が、西院伽藍の建物は飛鳥時代の古い様式を残すことなどから、六七〇年の焼亡を疑う見解(非再建論)を出し、再建論の歴史家、喜田貞吉がすぐに反論します。そのほかに法隆寺・斑鳩寺別寺説(二寺説)、皇極二(六四三)年焼失説なども唱えられて、昭和初期まで論争が続きました。非再建論は建築様式と使われている基準尺度が奈良時代に使われた天平尺より古いこと、再建論は「日本書紀」の記述の正確性を根拠にしていました。

やがて一九三九年に若草伽藍が発掘され、出土した瓦の年代などから飛鳥時代の建立と確定しました。六七〇年に焼亡したのは若草伽藍で、間もなく西院伽藍の建設が始まり、七一一年ごろには塔・中門も完成したとする見解に、論争はほぼ落ち着きました。

若草伽藍は焼けたのか

一九八〇─八五年の防災工事に伴う発掘調査では、若草伽藍の北と西の寺域を区画する塀や新旧二条の南北方向の水路が発見され、再建説はいっそう確かなものとなりました。

すなわち、①古い水路は若草伽藍の建立以前の谷川で、七世紀初めごろに谷川の南半分を埋めて若草伽藍の塀を造っている、②新しい水路を古い水路の西につけている、③新水路は七世紀中ごろまでは機能していた、④後に古い水路の北半分を埋めて西院伽藍の回廊を建設している、⑤その年代は出土した土器から七世紀末ごろ──などの事実が判明したのです。

それでも金堂の建設は七世紀中ごろ、つまり若草伽藍の焼亡以前とみる見解が今も一部にあります。でもそうだとすると、西院伽藍の寺域は若草伽藍の北側まであるので、寺域が重複してしまうことになります。西院伽藍は若草伽藍の廃絶後に計画されたとみるのがやはり妥当です。その時期は、七世紀中ごろ以降、七世紀末ごろ以前でしょう。六七〇年の若草伽藍(斑鳩寺)焼亡が契機であった可能性はきわめて高いといえます。

しかし、若草伽藍の焼亡をいま一つ明言できない事情もあります。厚い焼土層が確認できないことです。塔・金堂跡付近は地表面が大きく削られており、焼土も残っていませんが、先に述べた西の水路にもほとんどありません。本当に「一屋もない」ほど焼けたか否か······。西院伽藍では一部で古材を転用しているので、建物の部材を年輪年代法などで細かく調 べれば、答えが出るかもしれません。

(毛利光俊彦)

 

2.西院伽藍の柱配置

七世紀の寺院の姿

法隆寺西院伽藍の金堂・五重塔・中門などは、現存最古の木造建築としてこの上なく貴重です。また七世紀の飛鳥時代寺院の姿を伝える唯一の建物でもあります。八世紀の奈良時代の建築とは異なるデザイン上の特徴として、柱の強い胴張り(エンタシス)、深い軒を支える雲斗雲肘木の組物、卍崩しの高欄と「人」字形の割束などがよく知られるところです。

では七世紀の寺院はみな法隆寺のような形だったのかといえば、そうではないようです。一例として桜井市にある六四一(舒明一三)年創建の山田寺跡の発掘成果を見てみましょう。

まず伽藍配置が違います。山田寺は中門・塔・金堂が一直線に並ぶ「四天王寺式」。法隆寺は金堂と塔が東西に並び、南正面に中門を開く「法隆寺式」です。建物の形も違います。山田寺では東回廊が山崩れに押し倒されたままの姿で出土しました。一つひとつの材を見ていくと、法隆寺の回廊とは少々違うデザインだったことがわかりました。

さらに金堂では柱の並び方から違うのです。次ページの平面図を見て下さい。金堂には仏像ひさしを安置する身舎の部分と、その外側の廂の部分があります。法隆寺の身舎は正面からみて四本、側面からみて三本、計一〇本の柱が囲みます。廂の柱は正面から六本、側面から五本がみえて、計一八本です。柱は縦方向、横方向とも位置をそろえて整然と並んでいます。

山田寺は身舎も廂も柱の数は同じです。正面からみて四本、側面からみて三本で、計一〇本ずつしかありません。しかも身舎の正面両端は柱の間隔(柱間)が極端に狭くなっています。この柱配置の違いは何を意味しているのでしょうか。

柱と組物から分かること

どうも軒を支える組物の出し方に違いがあるようです。組物とは、斗と肘木を組み合わせた部材のことで、柱の上に大斗を置いて肘木を乗せ、前方に出た軒を支えるものです。身舎の柱からの柱へ乗せ、軒先に出ています(図の点線の先端)。様々な組み合わせ方があり、寺院建築を特徴づける意匠にもなります。なお、斗と肘木が一体で輪郭が雲のような曲線になっている雲斗雲肘木は、法隆寺と法起寺だけに残っています。法隆寺では身舎の隅の柱から廂へは、縦・横・斜め方向に三本の組物を乗せています。山田寺では身舎の隅から廂へは斜め四五度の方向にしか出せません。

山田寺の身舎の柱間を等間隔にしたら、どうなるでしょうか。隅の組物以外も斜め方向に出て、外で開く形になります。建物の中央から放射状に広がる構造です。法隆寺の国宝・玉虫厨子の組物はこういう構造を表現している可能性があります。

廂の柱から外に出た組物は軒を支えます。隅の組物に注目すると、法隆寺も斜め四五度方向しか出ていません。奈良時代になると、廂の隅柱から縦・横・斜めの三方向に組物を出します。

構造の原理として、放射状の構造と縦横に組み合う構造の二系統があるようです。玉虫厨子は柱配置も組物も放射型。これに柱配置で微調整を加えたのが山田寺でしょうか。法隆寺は柱配置が縦横型で、組物は放射型。奈良時代の建物は柱配置も組物も縦横型です。七世紀が放射型八世紀が縦横型とするなら、法隆寺はその中間に位置づけられるでしょう。

(長尾充)

 

 

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