八木幸夫,《田の神サァガイドブック》,南方新社,2022
多くの田の神石像をみていると、「田の神」かどうかの判断に迷うことがある。
例えば、石像は元禄時代のものであるが、田の神ではなく明らかに墓石である。しかし、その集落の古老や公民館長などの話では、その墓石をかなり昔から、みんなで田の神として崇めてきたというのである。
また庚申塔や水神として作られたものが、後に田の神として祀られている石像も珍しくない。このような場合判断に迷うが、著者はやはり年代不 詳の田の神としている。そして個人宅や田の片隅に、自然石や祠、場合によっては屋内で掛け軸や厨子などを田の神として祀ってある。これらは立派な田の神と考えられる。要するに、石像であれ何であっ ても、地域住民が「田の神」として祀ってきたものであれば田の神と定義したい。
1. 田の神石像の保管・保存方法
田の神石像には、大きく分けて(1)設置型、(2)家宝そして(3)持ち回り型の三種類がある。
(1)設置型
石像の多くを占めており、例えば霧島市国分上之段の田の神のように、道路沿いや田を見渡せるような高い場所に置かれていることが多い。稲の成長を見守っているかのように佇んでいる。この石像の作製年代は不詳で あるが、外界の自然の風雨にさらされる石像の寿命は百年くらいといわれている。しかし、中には木製やコンクリート製の屋根つきの祠に祀られているものもあり、これらの寿命はさらに長くなる。
(2)家宝型
曽於郡大崎町新越家の田の神のように、先祖代々家宝として引き継がれてきたもの。この田の神石像は、昭和51年7月に町の有形民俗文化財に指定されている。
(3)持ち回り型
村人が部落でお金を出し合って石像をつくり、田の神講では田の神石像を祀って講のみんなと一 緒に飲んで踊ったりしていた。田の神石像は講の農民たちが順番で持ち回りしていたものである。現在は薩摩川内市の民家の床の間のように、個人宅や公民館などで保存されているものも少なくない。
2. 田の神に纏わる興味深い風習
ここで当時ならではの田の神に纏わる風習と、大変珍しい幾つかの田の神について紹介する。
(1)オットリ(おっ盗られ)田の神
田の神を知るうえで、重要な昔の風習があったことを忘れてはならない。「オットリ田の神」である。「オットリ」とは、鹿児島地方の方言で、「盗む」という意味である。神を盗むとは妙な風習であるが、以下のようなもので ある。豊作だった地方の田の神を置き手紙を残して盗んできて、その地域で豊作になるように祀り、2~3年経過すると米や焼酎などをお礼に添えて、盗んだ田の神を戻しに行った(神送り)。盗まれた方は、田の神は必ず元の所に帰ると皆信じており、帰ってきた際には盗まれた方も盗んだ方も一緒にお祭り気分でお祝いし、以前は風習化していたようである。鹿児島県の有形民俗文化財指 定の田の神など多くの石像がこの難に遭い、田の神の作製初期から明治の頃まで続いている。
以下に年代は不詳であるが、日吉町郷土史にその具体的な歴史的行事が行われた様子が書かれているので紹介したい。
田の神は盗んでも良いことになっている。だが盗んでも次のような書置きをするのが礼である。「さて小生は明治〇年〇月〇日〇時出生いたしました。ただ今まで貴殿のお世話になり、実に有り難き次第の事でありました。けれど何分ダゴ・モチ好きでありますれば、これから北の...の方面に行き、腹一杯ダゴ・モチを食うて帰るから、その間は拙者の居る処が知れた言うても、やまやまなる事は言うてくれるな。お前も大元気で御働きり下され。自分もなるべく元気で六十二ヶ国を回り、二、三年の間には又此の地にかえる。別れのさかずき一チョウ差し上る」と。
かくて三年が過ぎ、盗んだ部落では返しに行く。田の神には新しい赤い 着物を着せて、赤く身体を塗りかえて、顔はおしろいをつけ、おみこしに乗せて、三年働いて下さったお礼として、モミ・餅・料理・焼酎などを持って、ミチガク入りで送る。盗まれた部落では、田の神様のお帰りとサカムケをする。 田の神は「オンジョ」の顔はしているが、もともと農神は繁殖の神女神と考えられ、お化粧をしたり紅をつけたりの乱行、果てはとても女好きなど当たり前である。
「オットリ田の神」『日吉町郷土史 史跡編』I(鹿児島県日吉町)
現在では考えられないことであるが、当時は農薬などもなく、自然気象まかせの稲作時代であり、手紙の中身は滑稽であり楽しそうでもある。多くの田の神石像が、この被害にあっているが、二度と盗まれないようにと石像が巨大化していったのも事実である。最も大きな石像は曽於市大崎町月野広津田の田の神で、高さが140cm、横幅70cm、 奥行が40cmもある。 とても盗めるサイズではない。
(2)神送り
オットリ田の神の返還の日が近づくと、羽織袴姿の礼儀正した部落の代表が「無断拝借の断りの挨拶」を述べ、返還の日程を決めて帰ることになる。盗まれた方もいやみ一言もいわず、「神様のお蔭で豊作であったとの挨拶を聞いて安堵した」と和やかに返す。その当日、鉦、太鼓、三味の音も賑やかにやって来て、羽織袴姿の代表が返還年月日の書いた証文を手に、御礼の米俵先頭に丸太棒に吊るした田の神を大勢で担ぎ、元の台地に納めるといった具合である。その後は双方で餅や酒稀を持ち寄り、 一緒に酒宴で友好を深めていたそうである。
(3)田の神と山の神
先述したように、春になると田に降りてきて稲作を見守り、収穫が終わって寒くなると山に戻っていくという田の神にまつわる話がある。一つの神を田の神と山の神に分けて表現することは、考えてみれば難しいことである。嘉永5年(1852年)の都城市山之口町天神川原の田の神は、左側が田の神で、右側は山の神である。同じ年の作なのに両者はとても似つかない。かなり形を変えた山の神で、 石工は苦労を強いられたのではと察する。
正徳2年(1712年)の姶良市西餅田楠元には、烏帽子を被り衣冠束帯、両手で笏を持ち顎鬚蓄えた威厳のある山の神がある。その近くの水田には、同年作で石像の半分は破損しているが、地蔵型の田の神が祀られている。このようにセットで作られた山の神と田の神の他にも、山裾に単独に山の神像が祀られたりしている。
大護八郎先生の『山の神の像と祭り』によると、古くから狩猟生活や草木の自然物への感謝から、全国各地にバラエティーに富んだ山の神像が存在する。この山の神に対する信仰から山そのものを霊山として崇める場合もあったが、江戸時代中期の石神・石仏ブームにのって山の神像も田の神石像と時を同じくして多く作製されている。山の神像が田の神石像と深い係わり合いがあることも同書では紹介されている。
(4)子孫繁栄の神
江戸時代は「嫁して三年子なきは去る」という言葉が全国的に用いられていたようで、嫁入りした女性にとって子供を授かるのはとても重要なことであったようである。冒頭にもふれたように、後方からみると男性根に見える多くの僧型立像の田の神がある。深夜ひそかにそのシンボルに向けて、嫁たちは一心に子が授かるように祈願をかけたのである。言うまでもなく女性蔑視がもたらした悪習慣である。他にも、神像型の田の神で両手に持つも男性のシンボルであり、石像がよく持っている椀は女性のシンボルともいわれている。
(5)田の神舞
農民の神社信仰が高まると、霧島市隼人町の鹿児島神宮にみられるように、 神社としての農神祭は以前にもまして厳かに、しかも盛大に奉納されることになる。写真12はその際に祀られる田の神で、神楽女舞う奉納舞ではなく、田の神舞という農神祭にふさわしい舞が奉納される。具体的には、狩衣を着て福面を被り、神前に備えられた鍬を持って耕作の格好をし、杓子持つ手さばきもあざやかに、参拝者の前で踊るのである。厳しい規則などなく、腰を二重にかがめて豊作に対して祈りの気持ちを全身に表現して舞い納めるという素朴な農民の踊りである。祭事は種おろし(籾まき)、お田植え、稲刈り、そして献穀と分かれるが、最も重要なのはお田植えと献穀とされる。 現在でも鹿児島神宮では毎年田植え祭が行われており、その際に田の神の格好をした舞手が田の神舞を披露して賑わっている。 全国で見られる神楽でも、この田の神舞を取り入れてあるものがあり、何らかの共通点があるものと考えられている。
(6)田の神講と濁酒
江戸幕府から倹約令が発せられると、特に薩摩藩では一汁一菜が農民の食事とされ、祭礼以外は一切酒宴が禁じられていた。貧しい農民たちには、贅沢はしようにもなかったが、疲労回復や長寿といった勝手な理屈をつけて、濁酒や後になってイモ焼酎をよく飲んでいたそうである(三宅忠『薩摩の田の神』)。もちろんこれらは田の神講の集まりの際や隣組との親交を深めるために飲まれたとされ、一方では飯の代わりにもなるという一挙両 得でもあったようである。この濁酒は、まず甘酒半胴という一斗くらい入る陶器製の壺で甘酒を作り、これを発酵させて作っていたようである。わざと田の 神をたくさん作り、田の神講での濁酒飲酒の機会を増やしていたのかもしれない。
(7)田の神いじめ
不作続きの年は、田の神石像に向かって不作の不満をぶつけて「お前が田を守らないから鱈腹飯が食えないではないか、この馬鹿野郎目が来年も続いたら追っ払ってやるから覚悟しろ」と罵り、性根を入れてやると鉄槌をところかまわず叩きつけてやるというありさまであった。田の神はこのようなひどい仕打ちを受けても、相変わらずにこ やかに笑みをみせているので、農民はいかなる屈辱を与えても怒らない神、罰を与えない神として信じ、不作の鬱憤を晴らすため鼻を欠き、ひどいものは顔の中心に深く穴をえぐりこんだ。詳細は不明であるが顔に大きな穴があけられた石像を紹介する。このような乱暴きわまりない行為を「田の神いじめ」といって、昔から白昼平然と行われていたそうである。
(8)田の神隠し
ある地域では、田の神石像の前に小さい掘り込みのある石を供えてあるものがある。田の神が村の娘をさらって帰り、森の中や人目の付かないと ころに隠すので、女性の陰部を石に刻んで置くようになったとされる。この地方では娘の姿が消えると、田の神隠しといって部落の人が火のついた提灯を掲げて、鉦太鼓をたたいて娘を返せ戻せと大きな声で田の神回りをしたということである。
実際に、人身御供(いけにえ)ではないかという石像がある。姶良郡湧水町鶴丸の田の神で、シキを被り右手にメシゲ、左手に米櫃を持っている。栃木県水使神社の絵馬の御札は、「昼間持ち(田植えの際、着飾って昼食を運ぶ役にあたる田主の娘)」であるが、鶴丸の田の神と同様な格好をしている。水使神社の昼間持ちは、豊作祈願のために犠牲になり、ねんごろに祀られたといわれている(『由緒ある田の神石像の数々』、南方新社)
(9)廃仏毀釈の被害にあった田の神石像
廃仏毀釈とは、仏教寺院・仏像経巻を破壊し、僧尼などの出家者や寺院などが受けていた特権を廃止し、神仏習合を廃止して神仏分離を推し進めた、明治維新後に発生した一連の動きである。この破壊的な行為が田の神石像にも及び、破損されたものが散見される。その多くは首から上が破壊されており、見るからに痛々しく残念でもある。逆に当時、難を逃れるために土の中に埋められ、後から掘り出された石像もある。
(10)田の神祭り
霧島市隼人町の鹿児島神宮で、お田植え祭の際に田の神舞などが披露されていることはすでに紹介した。県内各地で、若い年齢層の人口減少と過疎化の中で、以前から行われてきた田の神講が激減しているが、部落単位で田の神祭りを実施しているところもある。令和元年11月16日に行われた鹿児島県姶良市西餅田高樋の田の神祭りを紹介する。
午前9時から3体の田の神石像を神台にのせて神事が行われ、その後子供たちが田の神を担いで集落を練り歩き、戻ってきたら餅つきが行われふるまわれる。途中でひょっとこ踊りがあり、場を楽しくしている。 夜には地域住民が公民館に集まって食事をしながら豊作や家内安全を祈り交流を図っている。
以前は古い祠の中に、江戸時代後期の作と思われる田の神2体(中央と右側)が胴体部分など破損した状態で収められていた。平成22年に80年ぶりに祠の改築を行い、高樋部落に古くから伝わる帖佐人形の技術を生かして化粧直しを行い、鮮やかな「帖佐人形風の田の神」に生まれ変わっている。2体に加え、自治公民館内にあった1体(左側)も加えて同じ祠に収めてある。
この修復を機に、秋に収穫に感謝する「田の神祭り」が復活したのである。3体のうち右側が最も古く、中央は荒神で子供たちのいたずらなどを戒めていたようである。

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