寶曆中に、應擧が櫻町院の宮嬪蓮池院尼公に仕へたといふ一事は、文鳴の傳に擦って初めて知るところである。尼公は従二位權中納言山本實富の第四女で、名を勝子といつた。中御門櫻町二朝に女房として仕へ、典侍に補せられ、權中納言局と號した。以上は山本家譜に據ったが、まだその生歿年を明かにしない。

應擧が園城寺の塔頭圓滿院の門の寵遇を得てゐたことは諸書に も見えてをり、現に同院に藏する應擧の孔雀圖、難福圖などは國寶にも指定せられてゐる。古畫備考に引くところの一書には、同院には古畫が多く所藏せられており、應擧はそれによって畫意を工風したことが記されてゐる。但し従来の諸書が殆ど一様に、應擧が圓滿院門主に仕へたとしてゐるのはいかゞであらうか。文鳴の傅に、蓮池院尼公の寂後また仕へずとしてあるのを正しとすれば、門主とも主從の關係にはならなかった筈である。

同門の名を文鳴は祐成としてゐるが、これは常が正しい。その傳は華頂要略に載つてゐる二條吉忠の男で、關白綱平の養子となり、享保十九年に入室得度し、後大僧正に任せられ、安永二年十一月二日、壽五十一にして入寂せられた。應舉が祐常に知られたのは明和中だったといふ。して見ると二人の交渉は十年を出でなかったのである。また現に圓滿院に藏せられてゐる應擧の大作も、何れも明和四五年から安永元年までの五六年間の製作に係ることが、右の事實を裏書する。

應擧が梅花を愛したことは、文鳴の傳に據つて初めて知るところであるが、江戸の村田春海が一年上京してゐた時に、應擧や皆川淇園と共に、伏見の梅谷の梅を見に行ったことが、その琴後集一の歌の詞書に見えてをり、淇園文集卷二に收むる「梅溪紀行」の一文に據つて、天明八年の正月二十八日に、應擧が皆川淇園、香山適園、米谷金城、吳月溪その他と、また同所に遊んだことが知られる。ことにその文では、應擧の携行した眼鏡を皆が代る代る見ることなどの記されてゐるのが面白い。なほ適園の東隴庵集卷一にも、この時の「伏見觀梅歌」の一篇があるが、應擧のことはその中には特に何とも記してない。

應擧は寛政五年癸丑の頃から老病を發し、その上眼疾にも罹ったらしい。水戸の立原翠軒は、寛政七年の春夏の候に在京してゐたが、その四月六日に、水戸の岡野逢原に宛てた書簡には、丸山に皆川淇園の催した書畫會を見たことを報じたのについで、「此方にも只今は書畫名家も無御座候。丸山主水などは目疾にてかかれ不申候」云云としてゐる一節がある。淇園が主催した新書書展覽會は、寛政四年の春に第一回が開かれ、爾後毎年春夏二回づつ行はれてゐたのである。

目を悪くしたことは、應擧に取って大きな打撃であったに相違ないが、しかし晩年にも全然揮毫を廢したのではなかったらしい。淇園文集巻十の「書源仲選遊嶂着彩竹鶏圖後」その他に據れば、寛政七年の夏五月、淇園は阿波の曾道怡といふを伴って應擧を訪ひ、道怡は備前國瑜迦山寺神符所の遊障の着色竹雞圖その他の揮毫を請うたところ、後一兩月を経て、それらの畫は成ったが、未だ落款に及ばずして應擧は下世したのによつて、その忌の明くるを待つて、應瑞が父の印記を押し、淇園がその由を記したのであった。歿する間際まで、應擧は畫事を廢しなかつたのである。瑜迦山寺は、兒島郡琴浦村山の瑜迦山蓮臺寺をいふ。行基菩薩の草創に係る古刹である。應擧の畫は今なほ傳へられてゐるであらうか。

文鳴は皆川淇園を應擧の「親友」としてゐるが、西村天囚博士の「皆川淇園」に據れば、淇園は應擧と親しきこと恰も兄弟の如く、應擧の留守へ上り込んで、酒などの歓待を受けることなどがその箚記に見えてゐるさうである。淇園は享保十九年に生れて、應擧よりも少きこと一歳であつた。

淇園と擧とのことはすでに一二事を記したが、なほ淇園詩集には、高芙蓉が水戸家に聘せられ、家を挙げて關東へ下らうとする時 に、應擧に「海鶴將雛圖」を描かせて贈ったこと、また柴野栗山が幕府の召に應じて江戸に行かうとした時に、また「春鷺出谷圖」を描かしめて贈ったことなどが見えてゐる。

なほ淇園詩集には「贈源仲選」の一首があって、淇園がいかに應擧の畫を推重してゐたかが窺はれる。詩はすなはち左の如くである。

前代妙畫顧陸倫。吾視君筆豈啻臻。
少時卓然已創意。成家耻作傍古人。
誰傚俗畫事傳摹。看物唯寫造化眞。
天賚筆態清且麗。刻意經營動經旬。
凡有形象寫皆妙。得意往往泣鬼神。
嘗召内廷描孔雀。牡丹花映御屏春。
令人坐覺煙光暖。一時衆工畫逡巡。
自來聲價更騰起。門前車馬無虛辰。
天宮政朝權與貴。輕紈細綺求相因。
盤磚不知老將至。興余相識久相親。
時時敬待杯酌頻。心愛君筆高品格。
清泉白石無片塵。興來曳杖倫相顧。
莫厭我爲觀畫賓。

詩中「少時卓然已創意」といふ、應は風く頭角を抽でたのであつた。「刻意經營動經旬」といふ。應擧の畫は決して投げやりには 描かれなかったのである。「嘗召内廷猫孔雀。牡丹花映御屏春」は、すなはち天明元年光格天皇御即位に際して御所の御屏風に描いた牡丹孔雀圖をいふ。時に應擧四十九歳、この頃よりして鬱然たる大家として仰がるゝに至ったのであらう。「門前車馬無虚辰」といふのは、文鳴が、上王公より下黎庶に至るまで、これを珍としこれを重として、日に索め月に請うて寸隙あることなしとしてゐるのと合致する。

當時に於ける應擧の人気は、或は今想像する以上であつたらしい。そしてつぎづぎぐと揮毫に忙殺せられてゐたからであらうか、應擧の交際の範圍は比較的狭かったらしく思はれる。當時の京都の人々の詩文集にも、應擧のことの見えてゐるものは存外に少い事實がそれを證する。 

應擧の交友については知るところに乏しいが、俳人でまた畫人だつた與謝蕪村と相識だった一事が、蕪村の句集によつて明かにせられる。今その句集の中から、應擧に關する條を抄出しておいて見る。

丸山主水がちひさき龜をしたるにせよとのぞみければ、仕官懸命の地に榮利をもとめむよりは、かじ尾を泥中に曳かんには
錢龜や青砥も知らぬ山清水
丸山氏が黑き犬を書きたるに讚せよと望みければ

おのが身の闇より吼えて夜半の秋
丸山主水が畫きたる蝦夷の圖に
昆布でふく軒の雫や五月雨

蕪村は享保元年の生れで、應擧には十七歳の先輩であつた。

 

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