洪武をすぎて永楽画院になると、このような元代絵画の延長としての諸形式は少なくなってゆき、明代絵画様式として位置づけのできる作家達が現われてくるようである。永楽時禁中三絶と呼ばれた辺文進、趙廉、蔣子成のうち趙廉の画虎、蔣子成の人物山水仏像画等については具体的にその画風を明らかにすることはできないが、辺文進に関してはほぼ誤りないと思われる二三の作品によってもその画風を知ることができる。

遺品中、山鳩図はその構図法においてかなり伝李安忠筆鶉図に近似し、花葉の勾勒線、土坡の墨彩等、南宋画院の写生画風を祖述したことを物語っているが、鶉図が土坡の右方を空白として自然景の拡がりを暗示するのにたいして、山鳩図にあっては淡墨々彩で二箇の土坡を描いており、山鳩とそれがおかれた自然景観をかなり説明 的に描写しようとする意図を示している。また山鳩の下辺の土坡の表現も鶉図とは比較にならないほど具体性を 示すが、この土坡の形体感覚やその陰影法には、元代浙江画と近似する点のあることも見逃しえない。この作品はむしろ擬古的な作風を示すものと解されるが、他の一幅、柏樹に鷹、犬、雉子の描かれた一幅ではより辺文進的な様式がみられるようである。柏の老木にとまる鷹が大写しにされ、画幅の中央には岩かげに頭部だけをみ せる黒色の犬、下辺の岩かげには雉子が配されている。一見画幅は切りつめられたかと思われるほど余白は少な いが、「隴西辺景昭画」と読まれる款記の位置は山鳩図の同文の款記のそれとさしてかわるところはなく、おそらくは原初の画面はさして縮小されてはいないようである。勾勒線の肥瘦も激しく、皺法には焦墨の粗い筆致が目立っており、これらの点では明代花鳥画の典型である呂紀の画風に類似する。羅列的に配置された諸景物は、前後関係も明瞭でないほど平板であり、画面は幾つかのブロックの対比によってだけ階調が保たれている。山鳩図にあっては山鳩と花樹は自然景の中にある種の落着きと調和をもって配置されているが、この図では自然景と鷹の画面上に占める意味も差がない。筆者は再現された自然景象の中に動物をおくのではなくて、岩や柏樹、大写しの笹、雉子、犬そして鷹も同じ意味で、同様の強さで画面を支えている。平板な画面がもつ装飾的効果は、色彩と墨色と幾つかの景象の塊りで醸成されているといってよい。したがって岩魏にしても立体感の強調、暗部 の描出法という意味はなく、奇縦な筆づかいが齎す装飾的な効果だけが意図されているようである。そしてこれらの描写形式上の特色は、辺文進花鳥画が明代絵画様式の範疇に入れられることを明示している。

辺文進の出身地については両幅の款記にみるように隴西説も行なわれたが、「閩画記」は辺姓がもと隴西に出たため款署に故郡の名を記したものと考えており、現在通行する画史類には延平志の沙県説をとるものもある。彼の出身地に拘泥する意味は、後述するように福建、広東の地方画家と浙江派の関係を考察する上にも重要な手掛かりを与えてくれるからである。ここでは、辺文進が著色花鳥画家として呂紀とともに論じられるべきであるのに、水墨花鳥画家林良とともに語られている点も併せ考えて、延平志の記述により信を置きたい。

邊文進,柏鷹圖

ただ辺文進の永楽画院奉職説は信ずるにしても、活躍の下限をどこにおくかの問題がのこされている。「明実録」によれば少なくとも宣徳元年には七〇才余で画院にあったことが明らかであり、彼とほぼ時代を接した張寧が、「(辺)景昭は宣徳中にあって写生の第一手であった」とのべているので、その活躍期は明代浙派画風の形成期と交叉するとみてよいわけである。したがって註二〇九で紹介した邱濬の「瓊台詩文会稿重編」の二詩にみる辺文進父子の画が林良の声価のあがるのに逆比例して衰えていったという批評は、単に福建出身の画院画家二人を俎上において論じただけではないようであり、両者の画風に類似性があったことを想像させる。このような推測に立って辺文進筆柏鷹図を考察すれば、この図の皺法や平板な構図法、主題の扱い方等はやや林良画に共通するものが あり、しかも林良画の方がより大きな空間表現と巧みな自然描写が行なわれている。また現存辺文進画二幅は、山鳩図が習作的な擬古作品であり、鷹図が款署の体からみても老年の制作と推定されるので、宣徳画院における 戴文進画風の成立以前において、すでに明代浙派的な様式、描法に近いものが行なわれていたと考えることは不可能ではない。しかもそれが福建出身である点に、浙江画風の伝播の問題が大きく関係してくるわけである。しかしながら、このような推論にやや支障をきたす辺文進画が存在する。支那名家書画集が収戴する寒林鴉陣図が それである。この作品には他の作例とはやや異なった落款「待詔隴西辺景昭製」がみられ、他幅にはみられない題記が書かれている。未見の作品ではあるが、款記の書体も他作のそれと著しく異なるものではなく、書そのものには模作にみる筆力の弱さや律動感の欠除がなく、画そのものにも渋滞した筆づかいも看取されない。したがってまずは正筆とすべきものと考えられる。この鴉陣図は前二図と筆致の上で余りに差異がある。肥瘦のある堺線もほとんどみられず、荒い法もない。丹念に施された胡椒点のほかに、尖のちびた筆と焦墨で擦過された土坡が他幅と似通っているにすぎないが、題記に「梅翁の筆意に倣う」とあるように、この図は製作のはじめか 元末文人画風を基本形式とすることが意図されていたわけであって、職業画家が往々にして自己の画技の幅広さを誇示する意図に出たものと解すべきであろう。いわば辺文進の余技的な画法であり、辺文進本来の個人的形 式ではないと考えるべきであろう。

永楽画院の画家は、洪武のそれに比べてややその画法や経歴を明らかにできる。例えば郭純は盛懋系の画家で あるが、このことは元代以降、職業画工の中には南宋院体画風の一変形としての盛子昭画風が伝えられていたこ とを物語るものでもある。辺文進と同じように郭純もまた永楽から宣徳画院に復職したとみられる。「画史会要」は「山水は盛子昭(懋)を学ぶ」とのべ、「水東日記」はその画に「山水布置茂密」の評のあったことを記しているが、このような構図や配景のほかに、盛懋師法説を裏付けるものとして胡儼の七絶二首をみることができる。そしてこれらは永楽画院に盛懋の粗荒な筆描形式がもちこまれたことを物語るものでもある。元代山水画風を継承したものは郭純にとどまるわけではない。茹洪も当然それに数えられるが、「無錫志」に「窠石竹木を作る。郭熙を法として山水をつくり、気韻奇古である」とあるだけであって、その画法については知ることができない。

戴文進画評の項でふれた謝環は永楽中、推薦によって禁中に呼ばれ、宣徳朝では錦衣衛百戸より千戸に陞り、景泰中ではさらに錦衣衛指揮僉事に昇進している。謝環自身の軼事について記すものは多いが、その画風について記すものは極めて少なく、「明画録」、「無聲詩史」、「東里続集」等をあげるだけである。「明画録」は謝環の荊関二米師法説、「無聲詩史」は陳歩起師承説、「東里続集」は張起師事説を伝えている。このうち「無聲詩史」の陳歩起師承説は「東里続集」の記述を訛伝したものと考えてよいであろう。詩史は歩起に註して、元の張師夔の高弟とし、洪武のはじめに両に盛名があったとするが、陳歩起なる人物については明らかではなく、「東里続集」の「張歩起、善画、元張師夔高弟、洪武初有盛名両浙、清介凛然、不苟接人」という一文を引用したことが容易に推測されるわけである。しかしながら張歩起が師承したという張師(羲上)についてもあまり詳かではない。「図絵宝鑑」が「張羲上、浙人、字師夔、善山水」と記すほか、明の凌雲翰が数詩をその作品に題しているだけであって、その画系すら明確ではない。しかしながら張羲上、張叔起ともに浙人であり、謝環もまた浙江永嘉の出身であることを思えば、画家としての謝環の生長は浙江に限られていたとみてよいであろう。「明画録」の荊関二米師法説の根 拠を具体的に実証しえない現在、この記述に全幅の信をおくことはできないまでも、謝環の山水画が、浙江水墨 画形式の加味された北宗系の地方様式であったという推測が可能になる。このような推測に立てば、画風の上ではかなり戴文進山水画に近いものであったと考えることもできるし、広義の浙江絵画の範疇に組み入れて不可ないかもしれない。伝える如き戴文進と謝環の不和確執も、出身地を同じくし、画風が近似し、画院における地位をもひとしくする二人の画人の間では当然おこりうるものと推測できるし、文人的教養においてはるかにまさる謝環が職人階級の出身である戴文進の優位に立ったことも至極当然と考えてよい。ことに戴文進失脚の因をなしたという秋江独釣図の紅袍事件については、後の文人達が文人画家の職業画家にたいする優越性を例示するものとして作られた説話と考えても不可ないであろう。

謝環の作品については著録されるものもきわめて少なく、図録等を通じて知りうるものもわずかに杏園雅集図巻があるだけである。この横巻については陶九皐氏が文物(一九六三年第四期)誌上に紹介されているが、図版も鮮明さを欠き、その真偽については言及すべくもない。その描写形式を推測すれば盛懋流ということができるかとも思われ、時代を下げてほゞ類似する作家を求めれば清朝の宮廷画家禹之鼎に近いものがある。

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生之

Ahura

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