《美術研究》第三十六號,一九三四年
森銑三
一
岡村鳳水の撰んだ圓山應擧傳が梅津氏によつて紹介せられたのについで、更に應擧に關する資料の二三を掲げ、なほそれについて多 少の研究を試みて見たいと思ふ。
應擧の略傳を、またその高弟の一人であった奥文鳴の書いた「仙齋圓山先生傳」といふものが、帝國圖書館に藏する平賀鷄岳の稿本鴨江漫筆の中に載つてゐる。鶏岳名は哲、信濃の人で、文鳴の門下であつた。應擧の一生は別に波瀾も曲折もなく、従つてまたその傳記にも特に疑問とせらるなどはないやうであり、右の文鳴の應擧傳にも、新事實の知らるゝものは比較的乏しいが、鳳水所撰の傳よりはや、精しく、殊に應擧の人物のよかったことがその中から知られて来る。全文は最後に掲げることとして、まづ研究を進める。
二
應擧の字號はこゝに一々擧げないが、「應擧」は雅號ではなくて、本名だったのである。初名「氐」は、音テイである。その印章にはこの名の用ひられてゐるものも多い。いつ頃から氐を應擧に改めたかは、作品によつて大體知られるであらうか。
鳳水は應擧を丹波の穴太村に生れ、同地に於て生育したやうに書いてゐる上に、その文の末尾に於て、「門生或謂師爲平安人、是特不然」云々としてゐるのであるが、右にいる「門生」の内には文鳴も含まれるのであらうか。文鳴は應擧を「京師の人」としてゐる。その郷國は丹波であつたが、父藤左衛門が故あつて家を京都に移したとしてあるのを見れば、擧は文鳴の記してゐるやうに、京都に生れたらしく思はれる。書乘要略には「丹波人、蚤入京」云々とあり、抹桑名畫傳所引の圓山應立家記には十七八歳の頃に入京したとしてあつて、丹波出生説の方が有力のやうにも見られるが、しかし應擧自身、署名に「平安」の二字を添へてゐるものがあり、その印章にも、「平安人圓氐字仲均」など明記してあるものがある。風水がその「平安人」といふを否定しようとしてゐるのが却って心得難い。郷國は丹波だったにもせよ、擧は京都で生れたのではあるまいか。
しかるに以上を書いてから、某書に據つて、今南桑田郡曾我部村に属する穴太には、「圓山應擧誕生地」とした石碑も建てられてゐることを知った。私は強ひて異を立てようとする者では勿論ないが、穴太生誕説に果して確實な根據があるならば、明示を乞ひたいと思ふ。
但し應擧が何地に於て生れたとするも、その生誕が享保十八年五 月朔日だった一事は動かぬらしい。
應擧が石田幽汀に學んだことも、すでに知られてゐるところである。幽汀は天明六年、應擧五十四の歳の五月二十五日に六十六歳にして歿する。應擧に長すること十二歳であった。
幽汀については、私は特に知るところがないが、その子友汀は、また應擧に就いた。そのことは中島棕の水流雲在樓集の詩註に、「源應擧門人石田友汀、天明年間以畫鳴于都下」と見えてゐる。「少きとき家至て貧し」と文鳴も書いてゐる。應擧は貧困の間に人とな つたのであるが、幽汀に就いてゐた頃には、貧窮もその極に達してゐたらしい。書畫聞見錄四の圓山應擧の條には、東東洋の談を擧げて、「初石田友〔幽〕汀に學ぶ。その頃極貧にして、冬着物なければ寒に堪へず、水風呂桶に入て凌たりと云へり」としてある。その覗機關の繪を描き、髹器や粉袋の下絵を描いて生活に資したといふのも、またこの頃のことだったのであらう。
應擧が生活のためにさやうなものまで描いたといふことは、崋山が青年時代に初午行燈を描いたことを聯想せしめるが、崋山の作品には後年のものまでも、やもすれば寒酸の氣が伴つてゐるのに反して、應擧の畫があくまでも豊麗富瞻なのは、やはり天賦の性格の然らしむるところだったであらうか。
しかし貧乏の體驗を十二分に持ってゐた應擧は、後々にも物を粗 末にすることを嫌った。生臙脂の綿を捨てずに、縮の具を洗ひ落し てしまっておいて、六十幾歳の時、その綿を中に入れた羽織を作っ たといふ話を何かで韻んだことがある。但し何の書であったか今思出されない。
幽汀に就いたといふ外には、應擧の學間の師承などは傳へられてゐないが、恐らくその少壯時代は、畫道と學問とを併せ修めるだけ の餘裕がなかったのであらう。東洋は右に引くところについで「この人元來無學無筆にして、初大典和尚へ下書してもらひ、落款などせしと云へり」といつてゐる。應と大典との交渉については未だ 知るところがないが、さやうのことなども或は事實だったかも知れない。そして應擧が學間に乏しかったといふことは、その作品の上にも何等かの影響を興へてゐるやうにも思はれ、多少はそのことが應擧に災してはすまいかとも思はれる。

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