臺灣遊記
持地東嶺
前提
予の官途に在りて臺灣に在職したるは明治三十三年より明治四十三年まで朝鮮に勤務したるも亦殆んど十年及べり、今や筆を載せて臺灣に再遊するは實に二十二年目に屬せり想ふに此間臺灣經營の變遷消長果たして如何。吾人は北門の鎖鑰を確實に把持すると共に南門の關鍵も亦之を忽諸に附す可から賈誼曹錯たらざるも邊疆治安の利害得失は審思熟計を要す吾人の常に最も力を致さんとするは實に日本邊治の比較研究に在るなり。
阿里山登遊
十二月午前五時廿分阿里山森林鐵道に搭乘、嘉義北門を出發す同行者は牛塚部長一行及鐵道協會員數名にして製材場長永山技師案內せらる、凡て十二名也、二呎六吋の狹軌鐵道にして嘉義驛より阿里山頂沼の平までを幹線とし其延長四十四哩弱、七千五百餘呎を上るものとす。特別裝置の機關車に特別裝置の貨車運材車を連結す。予等の搭乘せるは普通の有蓋列車にして今回鐵道大會員の為特に製作せるものの由なり。
竹崎(舊稱竹頭崎)までは平坦にして五十分一勾配上りとす。此地嘉義を距る九哩、由地物產の搬出場にして、鐵道は此地までは一船旅客及貨物の運送を取扱ひ、是より以遠は貨物の運送のみを取扱ふ。竹崎よりは二十分一勾配上りにして漸く由中に入り、橋梁又橋梁、隧道又隧道を通過し山腰を迂餘曲折して上る。十五哩にして獨立山と稱する小山前面に橫はる。鐵道は螺旋狀を為して之を經廻すること三回、更に結帶狀を為して上る、海拔三千尺とす、實に偉觀なり。
交力坪を經て奮起湖に至り午食す。是より鐵路漸やく深山に入り、觸目轉瞬變化して應接に遑あらず。俯瞰すれば幾百千丈の深谷にして汽車は高山の腰部を驅走す。前面には塔山の斷崖絕壁あり。朝鮮金剛山の萬物相の奇巖怪石に乏しきも巨相雄觀は遙かに之に過ぐ。哆囉嘕、十字路、平遮那を經て、二萬平に至る、隧道を通過する實に七十有二。汽車は已に阿里山森林中に在り、蓊鬱幽邃、神氣人に迫る。是よりスウギチ、バツク數回にして神木の前に到りて下車す。
神木高さ數十丈、其腰圍は二十人の手を聯ぬるも尚匝る能はず、其斷面は二十疊を敷くに足ると云ふ、實に偉觀なり。是より徒步、阿里山神社、佛堂に禮拜し、沼の平に至り、俱樂部に投宿す、于時午後五時、沼の平は山頂に於ける作業の根據地にして、人家數十戶、小學校の設あり、兒玉村と稱し、海拔七千五百尺、氣溫六十度、嘉義の八十五度に比すれば實に二十五度の差あり、褞袍を擁して暖を取る、扁額、懸幅あり、書畫帖あり、登山者の風藻を收む。就中後藤棲霞男、田讓由男の吟詠あり次韻漫吟以て閑夜を消す、句を成さざるも亦是れ實境の感想なり。
身披雲霧近星河。無數青山一日過。天半人間詩不就。漫唱先賢樹海歌。
鐵路盤廻山又山。度來蒼翠檜杉間。飄然身在白雲上。明月清風心自閒。
十三日午前七時塔山線の汽車に乘りて伐木地に向ふ。哩餘にして下車、阿里山の最高峰に上る。開農臺に達す、海拔八千四百尺、眺望絕佳、千山萬嶽、脈々層々として新高の最高峰に朝宗する狀、畫圖も及ばす、惜むらくは白雲已に生じて之を鎖せることを。同行者中更に進んで最高點たる海拔八千七百尺の後藤岩を攀づる者ありき。
自開農臺望新高山、不見、脈々層々積翠重。千山萬嶽此朝宗。雲烟縹渺深封處。便是新高第一峰。
山を下り、復汽車に乘りて深林間を通過し、塔山を經て眠月に至り伐材、集材、搬材の現業を目擊す。伐木の狀實に壯觀を極む。午後一時宿舍に還る。
十四日午前六時宿舍を立出で歸路に就く、平遮那まで深林間を徒步す。鐵路は往返迂回、山頂を下るが故に山徑を徒步すれば汽車に先だちて克く數哩の前方に至るべし。永山君先導、一々樹葉を採りて樹種を說明せらる。千古の森林間を往く。靈氣人を襲ふの感あり。
老檜摩天晝尚昏。莓苔千古被枯根。斧斤不入深山裏。冷氣侵肌宿霧繁。
平遮那より汽車に乘る。此日亦晴朗、谷間より遙かに新高第一峰を瞥見するを得なり。山靈夫れ知るある乎、遂に予等をして其の秀容を一揖せめたり。汽車は山復山を盤廻して驅下す頗る快、一回脫線したるも幸の事なきを得たり。因て思ふ、向後蕃地開發の步を進むるに從ひ、鐵路を改良し、山上に市街を築き、學校を設け、以て在臺內地人の保健を圖ること、猶ほ印度のダーヂリンやシラムの如くならしめんこと決して遠き日に非ざるべしと。午後二時嘉義着、直ちに製材所に至る、鋸機、自働搬送裝置等凡て他に見ざる所とす。阿里山往還三日、天氣晴朗、遺憾なく愉快に、新見聞を縱にするを得たるは誠に天幸と云ふべく、又永山場長の終始懇切なる接邁に深く感謝の意を表せざるを得ず。

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