鈴木敬,《明代絵画史研究・浙派》,東京:木耳社,1968。

すでにやや冗漫にすぎるほど元代絵画について、ことに浙江地方の元代絵画について考察を加え、戴文進画には元代絵画様式が複雑に集成されていることを述べた。本稿に入るにさきだって、戴文進画風の成立と関連するものとして戴進以前の画院絵画について、洪武より宣徳にいたる画院絵画に一瞥をあたえ、さらに少しく触れておいた元代絵画と戴進画の間におくべきものとしての浙派の先行様式、前浙派の形成にも簡単な考察を加えることとする。

画史類にあらわれた画家の師承関係、その専科等をみると、明初の画家の取上げた山水画では元末の四大家もしくは董源、巨然、米家山形式等を継承するものが多く、馬遠、夏珪派、盛懋系に属するものがそれに次ぎ、道釈人物画、三友、四君子等のうちの一科を専門にするものも入りまじっている。このことは明初の画家達の画風 が元末画壇一般の傾向をうけついでいることを示すが、これら明初の画家達の作品は、一部をのぞいて現存するものはきわめて少なく、その画風を具体的に検討することは不可能に近い。したがって、例えば元初の馬夏系画人の画風と、浙派の基本的描写形式の一つとなった地方化され形式化された馬遠、夏珪様式との間にどのような差異があるのか的確には指摘できないうらみがある。したがって本稿では、明初画人のうちでも画史類を通じてややその画風を窺知できる画院関係の画家をとりあげ、その筆墨法や画風上の系譜を辿ることとした。

明初の洪武画院の画家として第一にあげなければならないのは趙原(元)である。趙原は字を善長、号を丹林といい、その原籍については「無聲詩史」の姑蘇説、夏文彦の山東説等があるが、王逢の「梧溪集」にみる「題趙善長爲李原復所画山水」の詩の一部に「斉東趙原呉下客」とあることや合谿草堂図の自題に「営城(山東臨溜)趙元爲玉山主人作合谿草堂図」とあることからみても、図絵宝鑑の記述に信をおくべきであろう。その山水画は董源を私淑したものであり、したがって南宗画系に属するものと考えられる。「無聲詩史」は「画は王右丞、北苑を師とする」というが、姜紹書の論画家としての立場を考えればこの場合の王維私淑説はとるにたりないし、むしろ明末の李日華が「恬致堂詩話」の中でその山水が王蒙と雁行すると述べている点を重視し、趙原を王蒙画派の画人と考えて不可ないであろう。李日華にやや遅れる惲南田も黄鶴山樵一派の中に王豪とともに趙元を配している。

趙原 合谿草堂圖

趙元を南宗画系の人物とする見解は同時代の王行の詩文によってもかなり広く行なわれていたとみることがで きるが、たんにこのような王蒙流の山水画風を得意としただけでなく北宗的画法を取入れたものであったことは既出の「梧渓集」ほか二三の詩文によっても明らかとなる。これらの詩文より推測される趙原山水画は、王蒙風、すなわち、通常われわれが目にする所謂王蒙画風とは異なって奇峰、秀崖の連るものであり、明らかに北方系山水画の自然景が取入れられている。趙原画の遺例の図録類に収載されるものは数点あるが、実査したものには故宮博物院の渓亭秋色図一軸しかなく、この図の真偽に関してもなお幾つかの問題がのこされている。私見では後世の模作と考えられ、しかも模写者の個人的筆描がかなり加味されていると推測されるが、原本では明らかに王蒙風の法のほかに元代絵画に共通する粗な水墨画法が多分に加味されていたことは疑いえない。肥瘦のはげしい炎のように曲折して流れる濃墨線がそれを代表する。このような筆描形式を示すもう一つの遺例としては、蕭寿民氏の中国古画集第一冊に収められている山中茅屋図があり、他の諸図は少しく形式を異にしているが、斯る筆描形式の存在は、高房山画を臨した鍾觀図についての王行の長詩によっても推察することができる。とすれば趙原もまた元末南宗画風継承者の中におくことができると同時に、李郭様式の折衷化が明初にまで及んでいた 一証左ともなるわけである。

洪武画院の周位については「明画録」、「無聲詩史」ともに画院における逸話を伝えるだけであって、その画風を窺知できる一片の材料をも与えてくれない。また著録される画跡も「佩文斎書画譜」の美人剖瓜図一軸あるのみである。しかしながら「宮掖の画壁は多くその手に出ず」という「明画録」の記述を拡大解釈すれば、元代壁画山水と同じく郭系の構図とやや粗い水墨技法を得意とした画人という推測もできる。彼の作品としては九華印室旧蔵の漁翁対話図一軸が喧伝されたが、元来、款印のないこの作品について伝称の当否を判断することはかなりの困難がともなう。樹葉にみる非常に早い筆速や、遠山、懸崖の界線、人物の衣褶線等には狂態派の張平山の筆致と共通するものが多く、呉小仙以降の浙派画人の制作と考えた方がよいようではあるが、この種の縦逸な水墨画作品 に周位筆の伝称を与えたことは、周位の画風を推定する手掛かりとなるかもしれない。

洪武期には、このほか孫文宗、沈希遠、陳遇、陳遠、朱芾、王仲玉、盛著、相禮等の画家が活躍していた。これらの画家達を永楽期以降の所謂"画院"の画工とすることにはなお未解決の点ものこされているが、沈希遠についてはわずかに馬遠を宗としたことが分かるにすぎず、孫文宗については写真に工であったこと、王仲玉に関しては能画をもって召されたと記されているにすぎない。また相禮は黄子久流の山水画を得意とした文人画家、朱芾も同様、詩、四体書行草にも巧みであった文人画家であるが、その画の描写形式については明らかでない。俞剣華氏の記述に従って、洪武画院の画家について記せば、この画院の特異な性格としてこのような文人画家の出現が特筆されるが、士大夫出身でありながら写貌にすぐれていたため召されたものに陳遇、陳遠の兄弟がある。写真および風俗人物画家を国初の宮廷が必要としたのは各王朝に共通する現象であり、当時適当な職業画家がなかったため起用されたものであろうか。洪武画院においては文人系の画人と職業画師が並立していたとみるべきである。以上あげた画院画家に比べてやや画家としての閲歴の明らかなものは盛著である。元の院体系の一派に属する盛懋の従子であり、その画には盛子昭の影響が強かったと伝える。

このように洪武画院の画人達を列挙し、乏しい資料を通して考察すると、明確な指導理念の下で画院に画家達が集められたとする推定は成立しない。画院ではいわば元時代末期の画壇の諸形式が雑然と行なわれていたようであって浙派の先行形式と考えられるものも現われず、画院の体として抽出すべき様式的特色もなかったように思われる。

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