《昭和の日本美術遺産 第二巻 日本画II》,東京:ぎょうせい,1991

塩川京子

パンリアル結成へ

戦後、京都美術界が動き出したのは、昭和二十三年(一 九四八)頃だろうか。パンリアルが結成されたのもこの年である。パンリアル結成の端緒は、山崎隆と三上誠との出会いからであったという(不動茂弥『彼者誰時の肖像』)。山崎隆は、すでに昭和九年、東京の吉岡堅二、福田豊四郎が中心になって結成された新日本画研究会に参加し、のちに歴程美術協会に加わるなどして、早くから日本画における前衛運動に携わっていた。だが彼も当時の若者の例にもれず、昭和十二年徴兵され中国へ駆り出された。翌年負傷のため帰国、十七年再び召集された。帰国中の四年間は、束の間の青春を傾けて新しい日本画に取り組んだ。だが、燃焼もせぬまま戦地へ駆り出された無念さはあとを引いたことだろう。二十一年復員。復員して間もない秋頃、大阪へ行く電車の中か(山崎隆・第三十回パンリアル展パンフレット)、二条城見学会の際か(三上の回想)、彼は三上誠と再会した。そして「何かをやろう」という話になった(不動茂弥前掲書)。

山崎の「何かをやろう」との気持ちの中にはすでに「歴程」を再興しようとする案があった。戦争のために自ら不完全燃焼に終わった青春を再び取り戻そうとの思いもあったろう。同時に「日本画及び日本画壇の退嬰的なアナクロニズム」(山崎隆・前掲展パンフレット)に一石を投じようとしたのである。それに同意した三上は親しい星野真吾を通じ仲間を募っていった。

しかし「歴程」再興は東京側作家との折り合いがつかず不首尾に終わった。再興の話し合い過程の中でも、早い時期から京都側の作家たちの間から東京側に対して懸念があった。次第に京都で独自のグループを作ろうという動きに変わっていった。たびたび会合がもたれた。昭和二十三年一月から三月頃、三上がパンリアルの名称を考えた。「パン=汎、狭義のリアリズムではなく、現代を表現する限りにおいてはアブストラクトをも含む広義な内容を期待しての命名である」と三上は説明している(不動茂弥前掲書)。

三上誠は、昭和十九年京都市立絵画専門学校を卒業後、副手として母校に残った。彼は敗戦後間もなく日記に、日本画壇の旧弊さを攻撃している。そして彼は日本画の題材そのものに対しても疑問を抱いていた。花鳥風月を画題として、鳥や花ばかりを描いているだけの精神でさえ、感傷性、抒情性に陥っていると。加えて無批判に東洋古典に偏重し過ぎているではないか。これでは日本画はいつまでたっても国際的に通用しないではないか。しかも日本画には社会性がない、社会生活と密着したものがない。それれだけではない、現実生活とも繋がりがない、そんなこんなで日本画壇のあらゆる面においての封建的な体質が常に新生の芽を枯らしているのではないか。それでもなお三上は日本画絵具、すなわち膠彩(こうさい)の可能性を信じていた。

昭和二十三年三月、パンリアルが結成された。メンバーは山崎隆、三上誠、青山政吉、八木一夫、鈴木治、星野真吾、田中竜児(進)、不動茂弥の八名であった。このうち青山政吉は絵専では日本画科に籍を置いていたが、洋画を描いていた。八木、鈴木は陶芸家である。パンリアルの段階ではまだ膠彩(日本画)に限定していなかったのである。五月二十一日から二十五日まで、京都丸喜画廊でパンリアル展が開催された。この時星野、不動、田中が不出品であった。

パンリアル美術協会

同展終了後、八木、鈴木はパンリアルを去り、走泥社結成へ向かってゆく。青山も去就に迷っていた。翌二十 四年三月、パンリアル美術協会として“膠彩芸術(日本画)”と限定した前衛集団として出発することを決定したのである。数日後、洋画の青山は退会。この時メンバー(会員)に大野秀隆(俶嵩)、下村良之介、鈴木吉雄、松井章、佐藤勝彦、小郷良一が新しく加わっている。四月三十日、この日パンリアル美術協会宣言文が決定。五月十四日から十九日まで第一回パンリアル展が藤井大丸で開催された。宣言文は三上が会員各自の意見を集約して草案をつくり、当時京大哲学科の学生であった清水純一が成文化した。「曳光は轟き、磒ちた。.....」で始まる文は激しい調子で日本画壇に一撃を与えようとしている。

「吾々は日本画壇の退嬰的アナクロニズムに対してこゝに宣言する。眼玉を抉りとれ。四畳半の陰影にかすんだ視覚をすてゝ、社会の現実を凝視する知性と、意慾に燃えた目を養おう。
感傷を踏みにじれ。因襲の殿堂を破壊して、広い科学的文化的視野から伝統の力強い生命を発掘し、世界的地盤から古典を再検討しよう。
温床をぶち壊せ。隠然たる重壓の牙城をなす封建的ギルド機構を打破して、自由な芸術の芽生えを育てよう。......」

山崎や三上の日頃の鬱積を一気に詰め込んで吐き出したような文章であった。それはまた同志として集った全会員の叫びであったのかもしれない。

第一回展には、十一名の会員全員が二~三点の作品を出品している。五月十五日付の夕刊京都には「従来の日本画の概念を完全に打破した作品には若い情熱と時代の苦悩がうかがわれ、折柄の雨にもかかわらず場内には熱心な鑑賞者がおしかけ大きく注目をひいた」とある。同じく十五日付の夕刊新大阪には「......実作面では彼らの意欲はまだ具体化されておらず、むしろ油彩──ことに前衛絵画への追随と誤解される面が多い。しかし星野真吾「カケラ」にしても立体感を欠き技術的に多くの難点を含みながらも戦後世代の切実な苦悩だけは受取れ、......」などなど彼らの意欲を評価している。

またパンリアル美術協会にはブレーンともいうべき研究者グループが会友として名を連ねていた。当時、ほとんどは京大の学生であった。その他京大の助手であった北島常道、京大講師の上野照夫などがいた。なかでも上野照夫は、パンリアルの理論的指導者として会員たちの信頼も厚く、終生パンリアルとかかわりを持ち続けた。また彼はパンリアルへ批判的な面々に対しても新聞誌で大いに擁護した。

パンリアルの作家たちに共通していたのは、伝統の打破であり、新しきものの創生であった。戦後の社会が混沌としていたように、それぞれの作品は、新しきものを 求めるが故にあらゆる流派が混じり合い、強烈で激しく、悪くいえば雑然としていたという。しかし彼らの熱気は鑑賞者にじかに伝わってきた。“何か”が今まさに行われようとしていたのだ。

昭和三十年、パンリアル展は東京に進出した。十月三十日から十一月三日までナビス画廊で開催され、来場者の中では、「前衛の作品としては非常に弱い」(瀬木慎一)、「全般的に見てやや類型的なものが感じられる。自分のそれぞれのフォルムをもっと作らないといけない」(今泉篤男)、「京都の日本画はモダンですね」(久富貢)などといった評があり、パンリアルの活動が定着したというべきであろうか。

「パンリアルが京都に生れて十年になりました。その期間を顧みますと、初めは日本画壇の因習打破を目指して遮二無二に突進し、次は芸術の核心に触れようと慎重な探求を重ねています。そして近年ようやくそれぞれにはっきりしたのがつかめるようになりました」(昭和三十三年第十六回パンリアル展目録)。

パンフレットに謳うようにこの頃がパンリアルの全盛期であった。各作家が各々個性を発揮しており、グループとしての色彩は、次第に影をひそめていた。三上誠をはじめとして、星野真吾、不動茂弥、下村良之介、大野秀隆(俶嵩)、野村耕などがパンリアルで活躍した人々である。

ケラ美術協会

パンリアルの作家たちより一回りほど若い作家たちがちょうどこの頃京都市立美術大学(旧絵専)で日本画を学んでおり、卒業と相前後して、新制作展に出品していた。彼らが新制作に出品したのは当時の美大の教員に上村松篁、秋野不矩、石本正といった新制作の作家たちが多くいたととも関係していたのであろう。ところが、彼らの間から、新制作展に出品するために下見会などをすることの矛盾や、公募展そのものに対する疑問も湧いてきた。「公募展に作品を出品するということは、審査されて入選か、落選かが決まる。落選すれば展覧会に作品を並べてもらえない。──もっと純粋に、作品だけで勝負したい」(岩田重義「点描、ケラ美術展の仲間」月刊誌『京都』昭和五十九年七月号)、それ故「一発やってみるか!!」(岩田重義前掲書)ということになり、新しいグループ作りが極秘裡に進められていった。同窓生たちに参加を呼びかけていたが、結局、船越修、西井正気、松井祥太郎、 中塚弘、浜田泰介、野村久之、楠田信吾、岩田重義、物部隆一、久保田壱重朗、榊健、名合孝之、中尾一郎の十三名が参加することとなった。

この会を理論的にバックアップしたのは当時京都市立美術大学助教授だった木村重信で、会の命名も彼が名付け親となった。会の名は「ケラ」。ケラとはラテン語の単位、細胞の意味。ケラ美術協会は昭和三十四年十二月二十三日、発会式が開かれた。京都市美術館前のアリーナという軽食兼喫茶店で、招待した客の数も少なく、実に質素なものだったらしい。それだけにいっそう会員たちの意気は上がった。

「二〇世紀後半は宇宙時代だ。地球上の争いのごときは、宇宙からみれば夫婦げんかにすぎない。ましてや日本の、しかもこの中の画壇の動きに至ては、まるで大海に浮かぶ水泡のようなものだ。われわれはこのような画壇の因襲を強烈な情熱で打破せんとする。...(中略)...
1. あらゆるスタイルにとらわれず、真に創造的な絵画をつくること。
2. 宇宙時代にふさわしい真のテーマを見出すこと。
3. 二〇才台の熱と意気とを武器に既成の概念に戦いをいどむこと。...(後略)...」この宣言文も木村重信が書いた。


第一回展は昭和三十五年七月、京都市美術館で開催された。ケラのメンバーはすべて日本画専攻であったが、彼らのほとんどは日本画の枠をはみ出していた。まだパンリアルのメンバーたちには膠彩に対するこだわりが設立時にはあった(次第に彼らの中から薄らいでいった)が、ケラの会員たちは膠彩は言うに及ばず、ありとあらゆる画材を駆使しており、ほとんどが抽象表現であった。彼らもまた、日本画という概念に縛られている限り、日本画(?)が国際的に通用しないことを暗に示したのである。いや、彼らはすでに日本画という言葉を使用していない。現代を表現するのに日本画、洋画の区別は必要なかったのである。ケラは三十八年十月まで十回の展覧会を催した。その間、より広い制作の場を求めたケラの会員たちは、一篤志家の好意により、比叡山ドライブウェイの途中にある山中を無償で借り受け、「北白川美術村」と名付けたアトリエ集団を建設した。住人は楠田信吾、岩田重義、榊健、中尾一郎、その他立体の福島敬恭、児玉正美などがいた。北白川美術村はマスコミでも大きく取り上げられたりして、有名になった。そして彼らは著名なアメリカのコレクター、ジョン・G・パワーズに認められ、楠田、岩田(他に福島、児玉)がアメリカに招待されることになった。そして三十九年一月十九日、京大楽友会館での壮行会にて、木村重信はケラ美術協会の解散を発表したのである。突然の解散のようにみえた。しかしケラのメンバーにとっては予定の行動であった。グループ最高潮の時が潮時であるとの信念で。

それぞれの細胞(ケラ)はまたもとの一個の細胞(ケラ)に戻った。して彼らは独自に細胞分裂を始めていった。ある者は立体作家に、ある者は商業デザインの分野へと。

パンリアルのメンバーたちも下村良之介を除いてすべてパンリアルを出ていった。現在のパンリアルは往時のそれとは会の性格も違っている。一つは戦後の混乱期に日本画の危機が叫ばれている最中、敢然と立ち上がり、もう一つは六十年安保闘争の前夜、騒然とした世情の中から起こった。こうしてみると京都の日本画は世の中の動きに、敏感に反応していたのである。

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