志水正司,《古代寺院の成立》,東京:六興出版,1979
(創建時の法興寺の伽藍の模型。 橿原市藤原京資料室蔵藤原京1/1000模型の一部。)
創建に関する二つの史料
飛鳥寺は甘橿丘(あまかしのおか)と飛鳥(あすかにます)坐神社のほぼ中間にあり、飛鳥大仏の名で知られ、史跡を訪ねる人々を集めているが、それはまた日本最古の本格的な寺院の遺跡として注目されるからである。
その創建に関する主な史料としては、『日本書紀』と『元興寺伽藍縁起幷流記資財帳(がんごうじがらんえんぎならびにるきしざいちょう)』の二つを挙げることができよう。後者は、天平十九年(七四七)筆録の奥書を持つものの、その前半部分は仏教説話的様相を色濃く示すので、あまり信用はできない。ただ後半部分の塔露盤(とうろばん)銘と丈六光(じょうろくこう)銘を掲載しているところは、若干の加筆を認めなければならないとしても、仮名遣い・用字法に推古朝の古様が残されていて、原文の姿をある程度まで伝えているものとみられ、比較的信用しうる史料といえる。
この縁起と、『日本書紀』の記述との詳細な比較が、福山敏男氏の「飛鳥寺の創立に関する研究」(史学雑誌四五─一〇、のちに『日本建築史研究』に収める)においてなされている。福山氏によって、『日本書紀』の飛鳥寺関係の記述の大部分は、『元興寺縁起』所引の両銘文を利用して書いていることが指摘された。しかし福山氏の論文は『日本書紀』を疑いすぎてはいないだろうか。露盤銘や丈六光銘には現われない記述も、『日本書紀』の記事の中に発見できるので、『日本書紀』にもある程度史料としての信用度を求めることが可能なはずであろう。
飛鳥寺の建立
まず、この『日本書紀』と『元興寺縁起』の二つの史料によって、寺の歴史をたどっていくことにしよう。留意すべき点は、そのつど指摘してゆきたい。
崇峻(すしゅん)天皇即位前紀(用明二年、五八七年)物部(もののべ)氏を討滅する戦いの最中、崇仏派の厩戸皇子(うまやどのおうじ)が、護世四王のための寺塔建立を約して勝利を祈願すると、その後をうけて、蘇我馬子も、
凡諸天王・大神王等、助衛於我、使獲利益、願当奉為諸天与三大神王、起三立寺塔、流通三宝。
凡(おおよ)を諸天王・大神王等、我を助け衛(まも)りて、利益を獲(え)しめたまわば、願(ねが)わくは当(まさ)に諸天と大神王との奉為(おんため)に、寺塔(てら)を起立(た)てて、三宝を流通(つた)えん。
と誓ったと言う。そして戦勝の後、誓願を果すべく、皇子らは難波に四天王寺を造立し、
蘇我大臣、亦依本願於飛鳥地、起法興寺。
蘇我大臣(おおおみ)、亦(また)本願の依に、飛鳥の地に、法興寺を起つ。
となるのである。しかしながら、この飛鳥寺の記事はいかにも四天王寺縁起につけたされたという感が否めない。また、全体として物部氏滅亡の物語の中に現われてくることに加えて、四天王寺縁起自体が、寺格を上げるべく、机上で造作されたものと考えられるのである。
これに関しては、四天王寺の章において明らかにすることにしたいが、以上の点からしても、飛鳥寺の創立時期を、『日本書紀』の伝えるままに受けいれることは難しく、せいぜい、これを前後するころ、蘇我氏によって飛鳥寺の建立が発願された、と推測する程度にとどめるべきであろう。
続いて、崇峻天皇元年紀(五八八年)は、百済より仏舎利が献ぜられたことを伝え、このとき同時に、
僧貽照律師(りようしようりつし)・令威(りょうい)・恵衆(えしゆう)・恵宿(えしゆく)・道厳(どうごん)・令開(りょうけ)等
寺工 太良未太(たらみた)・文賈古子(もんけこし)
鑪盤博士 白昧淳(はくまいじゅん)
瓦博士 麻奈文奴(まなもんぬ)・陽貴文(ようきもん)・俊貴文(りようきもん)・昔麻帝弥(しゃくまたいみ)
画工 白加(びやくか)
も渡来したとある。これと同様の記事は、縁起の露盤銘にも見ることができ、文字遣い・字句の異同はあるが、『日本書紀』のこの部分の記述には、史料として露盤銘が利用されたことを示すものであろう。
この時期まで、日本には寺院と呼ぶべきものは存在しておらず、宮殿建築といえど、 板葺(いたぶき)が多またく、瓦を焼き、かつこれをもって屋根を葺いた雄大な伽藍建築の技術は、まさに大陸からの新風であった。これらの技術者を得て、元年紀はさらに、
壊飛鳥衣縫造祖樹葉之家、始作法興寺。此地名飛鳥真神原,亦名飛鳥苫田。
飛鳥衣縫造(きぬぬいみやつこ)が祖、樹葉の家を壊(こぼ)ちて、始めて法興寺を作る。此の地を飛鳥の真神原(まかみのはらな)と名づく。亦(また)は飛鳥の苫田(とまた)と名づく。
と続けている。ここにおいて、飛鳥寺建立の地が決められたのであろう。"始作"とはあるが、この年着工と解するよりも、寺地が選定されたとする方が、後の記録を読む上でも妥当であろうと考える。
すなわち、崇峻五年紀(五九二年)の、
起大法興寺仏堂与歩廊。
大法興寺の仏堂(ぶつどう)と歩廊(ほろう)とを起(た)つ。
をもって、伽藍建築が着工されたと解するのである。この記述をもって、 飛鳥寺の仏殿=金堂と廻廊が完成したと見るならば、その金堂に納められたはずの本尊が、十数年も後になってようやく、作られたことは、不自然である。そこから、推古十七年(六〇九)の仏像は、この時完成した仏堂に納めるためのものではなかった、という説も生まれてきた訳である。しかし、法興寺の美称として冠せられた"大"の文字は、後世的な用字法といえるのであり、"大法興寺"の部分を、後世の加筆と疑えば、この記述全体も、後世加筆されたのではないかとの説も出されるはずであろう。故に、この部分によって本尊論を云々するのは、非常な危険が孕まれていることを、注意しなければならないと思う。ともかく崇峻五年を着工の時とすれば、後の記事も無理なく受けとめることが可能になろう。
翌推古天皇元年紀には、
以仏舎利、置于法興寺刹柱礎中。建刹柱。
仏(ほとけ)の舎利(しやり)を以て、法興寺の柱の礎の中に置く。刹柱を建つ。
とあり、仏舎利を心礎の中に納め、その上に塔の心柱を建てたことを伝えて、塔の起工を示している。
その塔の完成は、推古四年紀(五九六年)に、
法興寺造竟。
法興寺、造り竟(おわ)りぬ。
と見え、塔露盤銘も、丙辰年(五九六年)を示している。 両者を対照してみるとき『日本書紀』のいう「法興寺造竟」とは、寺全体を意味するのではなく、塔の完成を指すことが判明するであろう。さらに、
則以大臣男善徳臣拝寺司。是日慧慈・慧聡二僧、始住於法興寺。
則ち大臣の男善徳(ぜんとこ)臣を以て寺司(てらのつかさ)に拝(め)す。是の日に、慧慈(高句麗僧)、慧聡(百済僧)、二(ふたり)の僧、始めて法興寺に住(はべ)る。
の記事が続くのであるが、この事実が果たして、塔の完成と同時点であったか否かは、他に比較検討する史料がないため、これ以上追求しがたく、塔の完成を前後する頃、僧侶も住めるような施設建造もあわせて進行しており、寺院の中心を塔とするならば、推古天皇四年(五九六)ごろにようやく、飛鳥寺は寺としての体裁を整えつつあったものと考えておきたい。金堂・塔・廻廊等に続く附属建築物の建設は、この後も、営々と続けられていたであろうことは、昭和の発掘調査において、飛鳥寺が他に類例をみない程の壮大な伽藍を有していたことからみても、推察されるところである。
丈六仏像の造立
推古十三年紀(六〇五年)には、
以始造銅繡丈六仏像、各一軀。乃命鞍作鳥、為造仏之工。
始(はじ)めて銅・繡(ぬいもの)の丈六(じょうろく)の仏像、各一軀(はしら)を造る。乃(すなわ)ち鞍作鳥(くらつくりのとり)に命(おお)せて、仏造りまつる工(たくみ)とす。
とあり、ここで、銅仏・繡仏各一体ずつを作ることが発願され、これを伝え聞いた高句麗(こうくり)王は、黄金三百両の貢上を申し出るのである。
ところで、『日本書紀』は、この銅仏が翌年の推古十四年に完成したと伝えている。しかし、丈六光銘によれば、王は黄金を日本に送ろうとはしたものの、たまたまこれを送る便宜がなく、三年を経た戊辰の年、つまり推古十六年に、隋使の裴世清(はいせいせい)らが高句麗を経由して日本に至るとき持たせてよこしたとある。そして黄金の届いたその明年、推古十七年(六〇九)に仏像の鍍金(ときん)が終わり完成したとみえているのである。
『日本書紀』の編者は、隋使が黄金を届けたという記事を読み落として、隋使来日の明年を、十三年発願の明年と誤って接続させたものであろう。これは『日本書紀』編者の史料の読み誤りの一例であると同時に、『日本書紀』が丈六光銘を史料として用いていた、という事実の裏付けともなるわけである。
以上述べたところから判るように、飛鳥大仏は六〇六年完成とする諸書も多いのであるが、現在最も信用のおける史料によれば、六〇九年完成を採用すべきことは明白であろう。
また、この完成した丈六銅仏が、金堂の扉より高く、堂内に納めることができなかったため、戸を壊すべしとの声の中で、鞍作鳥がみごとに安坐せしめた逸話が付記されている。これは、飛鳥寺にかかわる話と考えられぬこともないのであるが、他の飛鳥寺関係史料には、まったく現われてこない物語である。
鞍作鳥は丈六仏像作成などの功により、近江国坂田に水田二十町を与えられ、この田をもって坂田寺を建立することになる。鳥が秀れた工であったことを伝えるこの説話は、坂田寺縁起の中で語られてこそふさわしいのではあるまいか。『日本書紀』の編者は、飛鳥寺の記述に際して元興寺の縁起を中心にすえながら、ここへ来て、坂田寺の縁起に関する史料をも接続させたのであろうか。
飛鳥の地にあった寺ゆえに、飛鳥寺の名で呼ばれ、後に法興寺(ほうこうじ)、また平城京に移転して後は元興寺と名を変えることになるが、飛鳥に本元興寺として残存した創建当時の伽藍は、建久七年(一一九六)雷火により焼失する。 この時、本尊も大破し、今日に至るまで幾度かの修復が加えられてきたのであるが、いま見るように、無残な姿に変わりはてて、往時のよすがは、ごく一部分をとどめるのみとなった。
飛鳥寺の発掘調査
飛鳥寺の伽藍配置が明らかにされたのは、昭和三十一年から三十二年にかけての、水利工事のための事前発掘調査によってのことであった。この時始めて、飛鳥寺が従来発掘された諸寺とは、まったく異なった伽藍配置をもっていたことが判明したのである。すなわち、塔を中心として、北と東・西と三つの金堂を有する形式をとり、中金堂(北側)と塔は、法隆寺のそれとほぼ同大であることが確認された。したがって、飛鳥寺の敷地は法隆寺よりやや広いことになるのである。
この一塔三金堂形式は、わが国においては他に例を見いだせないのであるが、平壌郊外、清岩里の高句麗時代の寺址には、中央に八角の建物をもつ三金堂形式が確認されており、また清岩里に近い上五里廃寺址る、似た様式であったことが知られている。
基壇に関しては、塔と中金堂は壇上積基壇(だんじょうづみきだん)で、すぐ雨落溝が配置されているが、東西金堂は重成(じゅうせい)基壇をもち、上成基壇と雨落溝の間にもう一つ、点々と小礎石を配した下成基壇がある。重成基壇は法隆寺の金堂・塔にも見られ、古式を示すものとしても、中の小礎石の用途が不明であり、わが国の他の寺跡からも類例は報告されていない。これがかりに、軒先にさしこまれた支柱の礎石とすれば、建築上ははなはだ美観をそこね、かつまた必要性もさしてないと考えられるのであ るが、将来、この東西金堂の復原が如何になされるか専門家の判断を待つところである。しかし、この下成基壇に小礎石をもつ方式は、先の清岩里廃寺址などには見出されており、飛鳥寺が高句麗など半島諸国の影響多大であったことを示す一例証ともなっている。
次に、塔の心礎は地下二メートルほどの深部にあり、他の多くの例とは異なる方孔をなしており、さらに側部に龕状の小孔をうがち、かつては舎利を納めていたものであろう。建久の雷火焼失後、心礎周囲を掘り返し収集した出土品を、改めて心礎の上方に埋納した石櫃(いしびつ)内の木箱と周辺からは、仏舎利をはじめ勾玉(まがたま)・管玉(くだま)などの玉類、金環、銅馬鈴(ばれい)、鉄挂甲(けいこう)などが発見された。これらは、六世紀を中心とする後期古墳にみられる副葬品とまったく同種類のものである。仏教を尊び、大陸文化を受容して寺院を建立する一方で、舎利に対する心情において、日本古来の伝統を捨てきれずにいた当時の日本人の姿を、ここにかいま見ることができるのである。これはまた仏 舎利が納められ、寺としての様相を整えたのが六世紀最末期という飛鳥寺の造営時期を如実に示す証拠ともなろう。
飛鳥寺の瓦
さらに瓦であるが、発掘によって出土した文様瓦は多種であった。が、飛鳥時代の創建瓦は素 弁蓮華文(そぺんれんげもん)軒丸瓦であり、その中にも二形式があったものと考えられている。その一つは、十葉で中房が小さく薄肉で弁端が桜花状の整ったもの、いま一つは十一葉・九葉で、弁端が角張り先端に点珠のあるものである。
前者は百済の当時の都、扶余(ふよ)の諸寺址より出土する軒丸瓦と同系統のものである。ただし、扶余出土のものは八葉に限られているが、飛鳥寺のそれは十葉である点のみが異なっている。この事実は、百済より瓦博士が来日していることからも十分納得のゆくことである。後者の十一葉・ 九葉といった奇数の花弁をもつ軒丸瓦は、やや形式化したものとみられよう。そして一部の瓦の製法には、わが国の須恵器作りの工人の手になるものと見なければならない特徴が示されている(同心円文内型の使用など)。 これは、百済の瓦師たちの指導のもと、陶部(すえつくりべ)も動員を受け、瓦造りに参加した事実のあったことを物語るものであろう。
日本にすでにあった技術を基礎に、大陸の新技法を果敢に受容していったのは、心礎や基壇作成に参画したらしい石凝部(いしごりべ)なども同様であったろう。国家的大事業として、飛鳥寺の建立には陶部・石凝部なども動員をうけ、百済工人の技術を学びとり、短期間のうちに独自の製作を開始したものであろう。
飛鳥大仏
つぎに、『元興寺縁起』・『日本書紀』が伝えるところの飛鳥寺に安置されていた銅造丈六仏像について述べておきたい。先の発掘調査の際、現在の飛鳥寺安居院の釈迦像の下部からは、花崗岩の須弥座が現われた。この事実から、飛鳥寺創建の昔から今日に至るまで、丈六仏像がこの須弥座の上に坐していたものと考えることができる。しかし、残念なことに雷火にあったために、そのほとんどが熔解し、わずかに額から目の下までの、顔の上半分と右手指の一部のみが当時のものといわれている。
この極めて乏しい材料から、往時の姿を復原することは容易でない。しかし、『日本書紀』はこの像を鞍作鳥の作と伝えており、また、法隆寺金堂の釈迦三尊像も、その光背銘文から同じ止利の手になるものと知られている。同一の仏師が近い時期に製作した仏像であるならば、この両者に共通する点があってよいはずで、現在残る飛鳥大仏の箇所を比較すると、眼は双方とも後世の仏像に見られる入定相(にゅうじょうそう)の半眼ではなく、つぶらに見開かれた杏仁形(きょうにんぎょう)を示している。また、抽象的な感を与える弧線を描く眉も一致している。この二点以上のことは、今日では述べようが ないのであるが、比較的、法隆寺の釈迦三尊像に近い姿をしていたのではないか、と推測するこ とができる。つけ加えるならば、このいわゆる止利様式は中国の北魏後期、東西魏様式の影響下にあると考えられ、竜門(りゅうも)賓陽洞(ひんようどう)釈迦像に源流を求めることが可能である。
以上概観したように、飛鳥寺は百済・高句麗・中国からおしよせる大陸仏教文化を、積極的か つ多様に吸収しつつも、なお古来よりの風習・伝統をもあわせ伝える寺として、わが国初期仏教 文化の様相を端的に表現しており、やがて花開く仏教の時代の先駆をなしたと言えるであろう。