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水野敬三郎

四、北円堂諸像と運慶様式

北円堂中尊像をみる時、それまでの日本彫刻史上におけるさまざまの要素が、その姿の中に包摂されていることに気づく。

衲衣の下に、へりが胸前を斜めに横切る内衣をあらわしているのは、いわゆる白鳳彫刻にみるところで、当麻寺金堂弥勒仏像、薬師寺金堂薬師如来像、蟹満寺釈迦如来像などを思い起させる。衣のひだが大きく高くうねるのは天平時代の乾漆塑造といった捻塑像に通ずるものであり、衲衣の胸前の縁に下層の納衣を少し懸ける点や、右脚の上に三角形の折返しをあらわすことなどは、たとえば室生寺の釈迦如来坐像のような平安時代初期の彫刻に似た形をみることができる。

【引用】興福寺北円堂の鎌倉再興造像と運慶-4

古典に立ちかえり、そこから形をかりて新たな表現を求めること は、運慶の若年期以来の方法であった。それはむしろ運慶以前、運慶を育んだ奈良仏師の十二世紀半ば頃からの傾向であったといえる。仁平元年(一一五一)銘の長岳寺阿弥陀三尊像が天平あるいは平 安初期の仏像にまなびながら、当時支配的であった定朝様からの離脱の烽火を挙げたことはよく知られているが、これも奈良仏師の手になるものかと思われる。青年期の運慶の作である安元二年(一一七六)の円成寺大日如来像の高髻は東寺講堂五菩薩像など平安初期の密教像に範をとったものであるし、文治二年(一一八六)の願成就院阿弥陀如来像では、長岳寺像で試みられた天平復古、平安初期への復古をさらに徹底させて、定朝様の残滓を全く払いのけた新たな運慶独自の 株式をうち出した。ここには藤原時代式のゆるやかな面のとり方、なだらかに整えられた曲線はしりぞけられ、強く張り出した曲面と錯雑 する曲線が、肥満した雄大な体を構成する。豊かな量感と現実感に富んだ流動する衣褶が、たくましい、実在感にあふれた新たな仏のイメージをつくり出している。古典研究の成果を自家薬籠中のものとして、独自の表現に達したのである。

【引用】興福寺北円堂の鎌倉再興造像と運慶-4

運慶様式の基本はすでに願成就院像において定まったといえる。しかし運慶の古典研究、それを自らの制作に生かすことは晩年まで続けられたのであろう。父康慶の主催する文治四年から翌年へかけての興福寺南円堂復興造仏は治承焼失の旧像復興がことに意識されたものであり、建久七年(一一九六)の康慶統率下の東大寺大仏殿脇侍、四天王像の再興にもその意識ははたらいたであろう。建久八年の運慶工房による東寺講堂諸像の修理、翌年の元興寺中門二天を模した神護寺中門二天の造立、建仁三年(一二〇三)頃、東寺講堂の三中尊を模した神護寺講堂大日如来、金剛薩埵、不動明王の造立なども彼の古典研究を深めたにちがいない。滝山寺の梵天帝釈天像は、東寺講堂のそれらを立たせた形であり、そこに東寺講堂像修理との関連が考えられる。

【引用】興福寺北円堂の鎌倉再興造像と運慶-4

北円堂中尊像では新たに胸前に内衣をあらわした形がみられる。これが白鳳彫刻からかりた形であることは前に述べたが、これに関連して興味深いのは、後に長子湛慶が九条道家のために大安寺釈迦如来像を模して釈迦像を造立したことである。大安寺釈迦は天智天皇の時代に造られた乾漆造の像で、十二世紀の『七大寺日記』によると現存の薬師寺金堂本尊に劣らぬ名作と讃えられ、かつて仏師康尚・定朝もそれを模作したことがあった。運慶もおそらく白鳳時代のこの像にまなぶところがあったと想像され、北円堂中尊の内衣もあるいはそれのあらわれかもしれない。この像の造形の基本にも何かの影を落しているかとさえも想像されるのである。

養老五年(七二一)創建の北円堂当初像は塑造であったという(『七大寺巡礼私記』)。しかし治承の兵火に失われた像は寛治六年(一〇九二)に供養された再興像で、当初像はそれ以前、永承四年(一〇四九)に焼亡してしまっていた。その鎌倉再興に当たっては、天平の旧像の忠実な再現を求められた南円堂像の場合とちがって、表現は運慶の自由に任せられるところが多かったと考えてよい。

中尊弥勒像は、二十年前の願成就院阿弥陀像より顔も体もやせて、スマートになっている。肩を少し落して腕をゆったりとひろげ、より自然みをました楽な身のこなしのうちに確固たる安定感がある。その点、願成就院像が平安初期彫刻の圧倒的な量感を受けついだのに対し、こちらは白鳳天平の古典彫刻に通ずる趣があるといえよう。ここで注目されるのは、願成就院像に比べて顔や体軀のはり、あるいは像自体の量感は控え目であるが、胸腹部の両脇の深いくぼみや、両腕・両脚の構えによって、奥行の深い大きな彫刻空間を造り出していることである。このような方向は円成寺大日如来像や願成就院像にも 見られた。滝山寺像の体部から離れて大きくうねる天衣の扱いにも彫刻空間の形成が意識されているといえるし、東大寺南大門二王像の構 えや天衣の処理にもそのみごとな達成がうかがわれる。北円堂弥勒像では、像の顔や体軀のはりが抑えられ、そのことがより強く意識され ているといえよう。

この像の表情はまことに厳しい。正治の滝山寺に至るまでの諸像の表情には撥溂とした強さがあるが、そこにかすかな甘さがあったことも否めない。ここではその甘さが影をひそめて、むしろ暗ささえ感じさせる。その鋭いまなざしは、現実をきびしく凝視する老境の運慶自身のそれであるかのようである。

【引用】興福寺北円堂の鎌倉再興造像と運慶-4

無著・世親像は、そのような運慶の目が写し出した肖像彫刻の傑作である。これは像主が遠い過去のインドの高僧であるとはいえ、人間の彫刻であるから、そこに卓抜な写実的巧技を云々してもよかろう。 全体の塊量的表現や衣褶のさばきの性格表現への参与は、天平時代の興福寺十大弟子像にまなぶところが多かったと思われる。しかし中尊像と同様に両腋や腹部に深く刻まれた衣文、両腕や両袖のつくる空間は、雄大な体を包んでまさに巨大な充実した彫刻空間である。それは運慶独自の彫刻空間と呼んでよい。建永元年(一二〇六)の重源没後まもなく造られたと思われる東大寺俊乗堂重源上人像にも同質の彫刻空間を見ることができると私は考えている。また江戸時代の『山州名跡志』に運慶・湛慶合作と伝える六波羅蜜寺の地蔵菩薩坐像 もこれに近いものをもつといえよう。

運慶の彫刻は、それまでの日本の彫刻史の集大成のうえに独自の様式を打ち出したものといえるが、北円堂の諸像はその晩年に到達し運慶自身の彫刻の集大成でもあったのである。

 

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