「応挙/呉春」『日本美術絵画全集 第二十二巻 応挙/呉春』集英社 一九七七年四月
穴太村から京都へ
円山応挙の伝歴を知るには、応挙の門人奥文鳴によって書かれた『仙斎円山先生伝』、同じく応挙の門人岡村鳳水によって書かれた『岡村鳳水撰円山応挙伝』の二つの応挙小伝が残されている。前者は応挙が亡くなった寛政七年(一七九五)から六年後の享和元年(一八〇一)に書かれたものであり、後者は文政十二年(一八二九)頃、応挙の没後三十四年程経過してから書かれたものである。
文鳴によれば応挙は京師(京都)の人で、生誕は享保十八年(一七三三)五月一日、その先祖円山氏は丹波国桑田郡穴太村(現在京都府亀岡市曽我部町穴太)で代々農業を営んでいたが、応挙の父藤左衛門の代になって故あって京都に移住したと記されている。普通、京師の人といえば、京都で生れたととるのが自然かもしれない。しかし、もう一人の証人岡村鳳水は明らかに応挙を「穴太村ノ人」とし、「門生或ハ師ヲ平安ノ人ナリト謂フ。是レ特ニ然ラズ。」と記して、ことさら穴太村誕生説を強調しているのが注目される。鳳水本を紹介された梅津次郎氏が指摘されるように、鳳水の出身地は丹波国亀山(現在の亀岡市)で、そこから穴太村までわずか四キロほどの距離であった。鳳水は師の応挙といわば同郷のよしみからも、特にそのことをはっきりさせておきたかったのかもしれない。
穴太村誕生説を強調する鳳水の応挙伝は当然のことながら応挙の穴太村における幼年期エピソードにはじまっている。鳳水によると応挙の父母は、幼い頃から絵を描くことに夢中で農事をかえりみな応挙を、穴太村の金剛寺に預けて僧侶にしようとした。しかし、結局それも不成功に終り、やむなく父母は応挙を京都に出して町家に奉公させ、やがて応挙の画才は周囲の人々に認められるようになり、石田幽汀(一七二一~八六)に入門、本格的に画家になる勉強をはじめるようになった、というのが鳳水による筋立てである。
応挙が少年期に一時期預けられていたといわれる穴太村の寿福山金剛寺(臨済宗天龍寺末)には、天明八年(一七八八)応挙によって描かれた本堂襖絵「波濤図」、「群仙図」、「山水図」が現存する。それらは現在掛軸に改装され、「群仙図」の一部を残すほかは東京および京都の国立博物館に寄託されている。今日、金剛寺には往時の応挙との関係を伝える文書資料は全く失われているが、鳳水が伝えるエピソードには、一概に否定しきれないものも含まれていそうである。文鳴が応挙を京都の人といったのは、応挙が京都で生れたという意味ではなく、ただ、長年京都がその生活の本拠であったことをいっているにすぎなかったのかもしれない。しかし、応挙の京都移住の事情になると、文鳴の記述は「父藤左衛門某故アツテ居ヲ輦下ニ移ス」ときわめて明確である。これによれば応挙だけが単身京都に出されたのではなく、応挙は一家の京都移住にともなって京都に出たことになる。『扶桑名画伝』が引用する「円山応立家記」によると、応挙の父円山藤左衛門について、「本氏丸山、上京以後、円山二改ム」と注し、応挙の父もまた京都に出たことになっている。
「円山応立家記」は応挙の上京について「十七八歳頃、上京シテ、石田幽汀之門人トナリ、画法ヲ学ブ」と記している。明治期の円山派の画家久保田米僊の談話(「円山応挙の眼鏡絵」『骨董協会雑誌』第四号 一八九九)によれば、応挙の上京を十一、二歳の頃とし、金子静枝著「円山応挙」(『少年世界』三巻一七号 一八九七)は延享四年(一七四七)応挙十六歳とするがいずれも根拠を明らかにしていない。応挙の幼年期についてはなお曖昧な点が少なくないが、筆者は誕生地に関しては鳳水説をとり、応挙 その少年期を穴太村で過したことを認めた上で、十五、六歳、あるいはもう少し早い時期に父藤左 衛門にしたがって京都に移ったのではないかと推定しておきたい。
国鉄(JR)京都駅から山陰本線で保津川渓谷にそって北上、約三、四十分の亀岡駅で下車、車で摂丹街道を四キロほど南に走ってバス停穴太口を右折すれば穴太村である。つきあたりが西国二十一 番札所の穴太寺で、その門前を左に迂回して犬飼川にかかる小幡橋を渡るとすぐ左手に小幡神社がある。同神社には応挙の筆による絵馬「神馬図」一面があり、応挙の嗣子応瑞によって次のような由来が記されている。この絵馬一面は祖父藤左衛門がかつて応挙に命じて描かせたものであるが、装飾(絵 馬としての体裁の意か)が備わらないままに応挙が没してしまった。今年享和三年(一八〇三)、両人の遺志を逐い絵馬として完成させ、応挙の遺印を捺して奉献する、と。
小幡神社の右側の路地を入り、しばらくして右に折れると江戸時代元文三年(一七三八)再建時以来の楼門を構えた金剛寺があらわれる。さすがに禅寺らしくこざっぱりした閑静なたたずまいである。穴太村は、犬飼川をへだてて西穴太と東穴太に分れるが、応挙の先祖は小幡神社や金剛寺がある西穴 太の地に関係が深かったらしい。
現在、東穴太の穴太寺門前を右に行くと五十メートルほどの所に「円山応挙生誕地」と刻した大き石碑が立っている。これは明治四十四年円山利一によって建てられたものであるが、応挙生誕地としての確かな根拠があった訳ではないらしい。円山利一については、金子静枝編「円山応挙家譜」(『京都美術協会雑誌』二七号 一八九四)は応挙の兄円山藤兵衛の子孫と伝えている。
最近筆者は、京都在住の円山応祥氏より同家所蔵円山家文書のうちに丸山家の家系をメモした未紹介の「書付」があるのを提示された。何故かそれらは引き裂かれて三枚の紙片だけとなり、しかもその一部が失われていて全体を復元することができなくなっている。またその一紙には「此書付之写明 治三年十二月二円満院宮奉差上置」と記した小紙片が貼付けられている。記述の形式にもやや不分明なところがあり、解読に苦しむところも少なくないが、それらによると、丸山家の遠祖は大嶋姓で、その一族には禄高三拾五石余で秀吉に仕え慶長三年六月五日に城州伏見で没した権太夫(仙嶺宗逸)、慶長五年関ヶ原の合戦で討死した太郎治、元和元年大坂の陣で卒した六郎左衛門(賢山智実)などがあったという。同族中、禄高二十五石余の甚太夫(英種良栄 寛永十年正月二十日卒)が姓を円山と改め、 甚太夫の三男治郎左衛門(登雲良仙 元禄十五年八月二日卒)は寛永二十年禄高三石で分家し、ついでその次男が治良兵衛(享保七年二月三日卒)、治良兵衛の次男が応挙の父藤左衛門にあたることになっている。
大坂の陣で四散した豊臣方の侍たちが丹波に逃れ、百姓として住み着くというケースは考えられな いことではない。亀岡市は、もと丹波国の東端京都に隣接する石高五万石譜代大名亀山藩の城下町亀 山のことで、明治二年、伊勢国亀山との混同をさけて亀岡と改称された。 保津川流域にひろがるほぼ 三角形の亀岡盆地は、幽邃な保津渓谷を遡行しつめたところに開けるおだやかな小盆地で、三面をな だらかな山なみにとりまかれ、かつてはさながら桃源郷の感があったことと思われる。古くから丹州国侍、地侍、丹波衆の名が知られ、大坂の陣に豊臣方について戦った土豪たちも少なくなかったとい われ、江戸幕府がそれらを警戒して細分統治入組支配を施し、御料、幕領、藩領、社寺領が交錯する土地柄であったという。 穴太村はその西方丹波高原の山麓に近いあたりに位置しているが、応挙の師石田幽汀が禁裡絵師になって法眼に叙せられたとき、禁裡絵師としての領地が桑田郡の穴太村であっ たという所伝があるのも興味深い。
応挙の母は、丹波国篠山藩の家臣上田何某の女であったと伝えられることからも、農家としては一応の家格を保っていたのだろう。
応挙は次男として生れ、藤兵衛と称した兄があったらしい。兄藤兵衛については前出の金子静枝編「円山応挙家譜」に記載されているだけで、ほかに知るところがない。
応挙は幼名を岩治郎といったが、ほかに与吉(前掲久保田米僊「円山応挙の眼鏡絵」)の名も伝えられる。長じて諱を氐、字を仲均といい、通称は主水で、その初期には一嘯、夏雲、仙嶺(僊嶺)としばしばその号を変えている。 明和三年(一七六六、三十四歳)諱を応挙、字を仲選、号を僊斎(儃斎)と改めてからは、以後作品の款記には一貫して応挙の諱を用いるようになった。
前田香雪著『後素談叢』巻三「円山応挙」によると「寛延二己巳(一七四九、応挙十七歳)円山岩二郎画」と記した粗画をみたとあり、また年紀はないが「洛陽山人円岩二写」と記した作品があったことから、十七、八歳の頃にはすでに京都に出ていたものとされる。また宝暦五年乙亥(一七五五、応挙二十三歳) の年紀がある「群雁図」に「円一嘯写」の落款があり、明和元年甲申(一七六四、応挙三十二歳)の年紀がある作品に夏雲の落款があったことを伝えている。明和二年乙酉(一七六五、応挙三十三歳)の年紀をもつ作品に仙嶺の落款を多くみることは知られるところで、翌明和三年の年紀をもつ作品にはもはや仙嶺落款をみないことから、仙嶺落款が用いられたのは明和二年以前のごく短い期間に限られていたものと考えられる。
なお、円山応祥氏蔵「円山累世印譜」は「画鬼」「醜」の印文を収録し、また同印譜の末尾に貼付された応挙略伝には初名を志徳とし、雪亭の号をあげている。また、大江資衡編『友詩』(安永三年、一七七四)は応挙作の「七絶」をあげて蘭渓の号を録し(田中喜作「応挙の別号」「画説』五五号 一九四一)、個人蔵扇面墨画「山水図」には「平安仙嶺」の款記に「比叡難忘」の朱文方印が捺されているという(猪熊信男「応挙のかわり印『比叡難忘』」『日本美術工芸』二五三号 一九五九)。姓は、はじめ藤原氏を用い、後年源氏に改めたらしい。明和四年の春に描かれた円満院蔵「岩頭飛雁図」に「藤応挙写」とあり、天明二年版『平安人物志』もなお藤氏とあるが、天明甲辰(四年、一七八四)仲夏の年紀をもつ祇園会月鉾絵の落款にはすでに「源応挙」となっている。「円山累世印譜」 末尾に貼付される応挙略伝には安永四年に源姓に改めたと記されているが、何らかの根拠があるのだろうか。もそれが正しいとすると『平安人物志』の記載が誤っていたことになる。
上京後の応挙の動勢については確かな記録がないが、前掲久保田米僊の談話が次のような伝聞を伝えている。「十一、二歳の頃京都に出て四条新町東へ入る岩城と云へる呉服店の小廝(こぞう)となりしが、後転じて四条柳馬場東へ入る中島勘兵衛と云へる玩弄物商(おもちゃや)の家に仕へ人形の彩色などをなし居たり。是ぞ応挙が絵筆を握りたる始めなるべし。中島は其頃御所又は公卿などへ出入し、上等の玩弄物を製せしもの故、自然画家などゝも往来せしなるべく、応挙も此家に居て画を学び始めて夏雲と号す。後仙嶺と改め遂に応挙と号せしなり」、金子静枝著「円山応挙」によれば、中島勘兵衛の没後、その会葬者の姓名を記録する 「やま帳」とよばれるものの筆者が応挙と大雅で、その裡面に二人の名が記されたものがあったが、元治元年(一八六四)の兵火によって焼失したとある。あとで触れるように、応挙が眼鏡絵を描いたのは、この中島勘兵衛(尾張屋)の注文をうけたものといわれている。