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円山応挙_近世名家肖像.jpg

(圓山應舉像)

新しい表現を求めて

応挙が画を学ぶのに最初に入門したのが石田幽汀であったことは、文鳴、鳳水のいずれもが一致して伝えるところである。幽汀は播州明石郡西浦辺組西岡村(現在明石市魚住町西岡)の橘七左衛門を父として生れ、名を守直といった。京都の裕福な町家石田家の養子となり、その家督をつぐことになったが、探幽系の江戸狩野の系譜をひく鶴沢探鯨(~一七六九)に絵を学び、禁裡絵師となって法眼に叙せられている。遺作としては醍醐寺三宝院の襖絵「葵祭図」「蘇鉄図」などが知られ、狩野派に土佐派を融合した穏和な装飾的作風をみせている。応挙は明和二年(一七六五)頃、大津市園城寺子 院法明院の一室に襖絵「山水図」(落款は仙嶺)を描いているが、同法明院には鶴沢探鯨の嗣子探索(~一七九七)による「群鶴図」をはじめとし、同じく鶴沢派に属する勝山豚舟や大森捜雲の筆による襖 絵が多数残されている。応挙は師の石田幽汀を通じて鶴沢派の画家たちとも親しい間柄だったのだろう。

応挙の画家としての出発点が鶴沢派、すなわち元禄以降京都に逆輸入された探幽系江戸狩野の画系であったことは興味深い。『古画備考』によると、元禄年中、東山院は勅宣によって江戸より探幽門下の狩野探川(本氏は鶴沢)を上洛させ禁中に奉仕させたといわれるが、深川は上洛後探山と改め、嗣子探鯨は姓を鶴沢に復し、鶴沢の名で京画壇に江戸狩野をひろめている。それらは山雪、永納系のいわゆる京狩野が次第に町絵師としていったのに較べて、あらたに官学的権威をもって京画壇に君臨することになった。それはまた幕府の狩野派による全国的画壇支配の布石の一環であったといえなくもない。応挙によって創始された平民芸術、円山派様式の背後には、一面、それが出発点とした官学江戸狩野の封建的体質が、意外と根強く底流していたこともまた事実であった。

白井華陽著『画乗要略』(一八三一刊)はその渡辺始興(一六八三~一七五五)の条で「応挙は常に之(始興)を称して能手と為す」と述べ、応挙が始興の作風を敬慕していたことを伝えているが、東京国立博物館には応挙が始興筆「真写鳥類図巻」を模写したものも残されている。始興は予楽院近衛家熙(一六六七~一七三六)に画家として仕え、狩野派に琳派を加味した瀟洒な作風で知られている。始興の師は知られていないが、作風の上からみると始興もまた鶴沢派に近く、土居次義氏は探山の門下ではなかったかと推測されている。始興はまた自然写生を重視し、牧歌的な田園風俗図や花鳥画に新意をみせ、興福院霊屋襖絵「花鳥図」、大覚寺杉戸絵「農夫図」などを描いた。始興が仕えた家熙は五摂家の筆頭にあたる近衛家第二十一世の当主で、関白摂政歴任のあと落飾して予楽院と称した。和漢の学を兼ね、書画をよくし、特に茶道に造詣深く、侍医山科道安がその口授を筆録した『槐記』が知 られている。貴顕の地位にありながら学究的な知性派で、特に本草学に関心が深く、家熙自身筆をとって作成した精緻な「花木真写図巻」(陽明文庫蔵)が残されている。始興が「真写鳥類図巻」を描き、またその作風に写実的傾向を深めていった背後には予楽院サロンをめぐる近世的実証精神の昂揚が考えられよう。狩野派に琳派を融合し、それらの伝統をふまえながらしかもそれらを近世的写実精神によって市民化してゆくこと、いわば始興によって先鞭をつけられた路線の延長線上に応挙様式の誕生がもたらされたともいえるだろう。

宝暦年間(一七五一~六四)、応挙は一時期眼鏡絵を描いていたことがあった。眼鏡絵というのは、その頃長崎を通じて輸入され珍奇な舶来玩具としてもてはやされていた覗機械(のぞきからくり)に使用される絵のことで、反射鏡と凸レンズを組合せた簡単な装置にセットして覗き見る仕掛けになっている。眼鏡絵の画法は十八世紀オランダ銅版画の画法によるもので、洋画の写実的な透視遠近法と陰影法を用いたもの であったから、従来の東洋画にはみられない迫真的な表現によって人々を驚かせていたのである。 それらは本来オランダ製によるものであるが、当時わが国に舶載された眼鏡絵の中には中国の蘇州あたりで模製されたものが多く、図様も「姑蘇万年橋」 「西湖風景」など中国風景を主題としたもの が少なくなかった。したがってそれらの多くは正しい西洋画の透視画法を伝えたものとはいえず、ま そこにみられる遠近効果には興味本位に誇張された表現が目立つのもやむをえないことであった。 当時、多くの人々が、西洋画法にみる写実的表現を単に舶来のものめずらしい奇巧としてのみとらえ、 美的な鑑賞作品としてとり上げようとしなかったのも、そのようなゆがめられた西洋画法摂取のあり 方自体に一因があったと考えられる。

応挙筆と伝称される眼鏡絵はかなり数多く伝えられているが、玩具品としての性格から落款がある訳ではなく、模製の類似品も少なくない。 外山卯三郎著『応挙洋風画集』(芸術学研究会 一九三六)所収旧塩見家蔵眼鏡絵「たなばた祭」「大文字」「四条河原夕涼」などは、その犀利な筆法と内容の抒情性などからみて、後年の応挙画の世界に最も近い雰囲気を備えている。

『応挙洋風画集』によると、某家所蔵「眼鏡絵画帖」には応挙門人森徹山による「右先師応挙真筆証」との極書があり、それらのなかには「姑蘇万年橋図」などのように中国製木版眼鏡絵を模写したものも見出されるが、その多くは「京大仏図」「妓楼閣図」にみられるようにわが国の名勝風俗に取材し新図である。筆法については銅版画の刻線をまねたものがあるかと思うと、なお東洋的な筆使いも混用され、また透視遠近法の適用も概して素朴で、風景表現として充分にこなしきれていないものが多い。

応挙はまもなく眼鏡絵制作から遠ざかるようになるが、応挙はもともと奇趣を売る玩具製品としての眼鏡絵と鑑賞絵画としての本絵とをはっきり区別して考えていたように思われる。したがって、応挙が鑑賞絵画としての本絵を制作する場合、やはり依然として従来の伝統的な東洋画法を基本として 制作しようとした。応挙はあくまでも毛筆を主体とした東洋画法に立脚しながら、ごく自然に写実感 を加味してゆく方向を選んだのである。

応挙による西洋画法への理解が未熟であったことも事実だろうが、一面、そこには西洋画法からの意識的な離反の意図さえ感じとられ、生活に密着した伝統的絵画観の根強さを感じとらずにはいられない。その後の応挙の作品にはむしろ逆遠近法さえ用いられているのが注目される。

その後安永年間に入ると東北の秋田では、江戸の物産学者平賀源内の示唆によって小田野直武や佐 竹曙山らによるいわゆる秋田蘭画がおこっている。彼等は実用の上から理論的に学びとられた西洋画法を、さらに鑑賞絵画の上にも積極的にとり入れていこうとした。秋田蘭画をはじめとする関東の洋風画家たちと関西の応挙との間では、西洋画法を摂取する意識の上でかなりの相違があったように思われる。しかし、応挙によるそのような消極的な姿勢にもかかわらず、眼鏡絵制作の経験がその後の 応挙様式形成におよぼした影響もまた決して少なくはなかったのである。それ以来、応挙が描く山水図には視点を低くとった画面構成が多くなり、また土坡や山路を折りたたんでゆく奥行きの表現にも 巧みに透視的空間が組み込まれていたりする。また、樹石や鳥獣の描写にもマッスとしての質量感の 表現が著しくなってくる。応挙によって創案された付立ての筆法もまた、西洋画法にみる立体的明暗表現が刺激になっていなかったとはいえないだろう。

応挙が眼鏡絵を描いていた宝暦年間(一七五一~六四)、上方画壇には中国清朝絵画の写実的作風を伝える沈銓の画風が流行しはじめていた。

沈銓は中国呉興(浙江省)の出身で、字を衡之といい、南蘋と号した。享保十六年(一七三一)三日長崎に着き、享保十八年九月十八日に帰国したが、その間に長崎の唐通事熊斐に画法を伝えている。沈銓の画風は明代浙派の花鳥画の流れをくむもので、また明末以来中国画壇に参透しはじめた西洋画の影響をうかがわせるものもあり、禽獣の描写には精緻な毛描きや写実的な立体感の表出をみせながら一方樹石や水波の描写には筆あたりの強い鉤勒(こうろく)を用いている。沈銓には、それらの濃密着彩画のほかに、筆意を誇張した減筆体の水墨画や指頭画も見うけられ、その多面的な作域によって多くの追従者を生んでいる。

熊斐(一七一二~七二)は本姓を神代(くましろ)、名を斐、字は淇瞻、繡江の号があるが、一般には熊斐と称している。代々長崎の唐通事を勤めた家柄で、沈銓に絵を学び、その門下には江戸から長崎に遊学した宋紫石(一七一五~八六)、黄檗僧の鶴亭(一七二二~八五)などがあり、宋紫石は関東に、鶴亭は関西にそれぞれ南蘋画風を伝えている。

宋紫石は本姓を楠本氏といい、江戸に生れ、名は幸八郎、字は君赫、号を雪渓といった。元文四年(一七三九)長崎を訪れ、熊斐について南蘋画風を学んだが、さらに宝暦八年(一七五八)長崎に来朝した清人宋紫岩に画法を学び、のち漢名を宋紫石と称するようになった。江戸に南蘋画風をひろめ、杉田玄白や平賀源内など先進的な洋学者とも親交があって西洋画にも関心をみせ、当時平賀源内が所持していた洋書ヨンストン編著 『紅毛禽獣魚介虫譜』のなかからその「獅子図」を模した作品もある。

鶴亭は長崎の人で、はじめの名を浄博、字は恵達、のちに名を浄光、字を海眼と改めた。長崎の聖福寺四世岳宋に黄檗の教えを受けるかたわら、熊斐に絵を学び、二十代の中頃には京畿に移り、その後宇治の黄檗山万福寺紫雲院に住した。その作風は南蘋画風をよく消化して、なお独自の清和な潤いをみせている。

鶴亭は池大雅とも親しく、また木村蒹葭堂も鶴亭に学んだことがあった。鶴亭によって京坂に伝えられた南蘋画風は、清朝絵画の新様式を伝える斬新な写実的表現によって上方画壇に流行し、南宗系の画家たちの間にも南蘋画風を学ぶ者が少なくなかった。そのころ応挙に先立って写実に着眼し、ユニークな個性的作風をみせた伊藤若冲(一七一六~一八〇〇)も南蘋派の花鳥画に負うところが少なくなく、南宗派の蕪村(一七一六~八三)もまた一時期南蘋様式の影響をうけていたことがある。

新しい写実的表現を求める応挙もまた南蘋画風を意欲的に学ぼうとしていたが、応挙の場合に注目されるのは、南蘋様式がもつ濃密な異国的表現を避け、より自然で平明な表現を求めようとした点である。『画乗要略』は、応挙が南蘋画をみて、画中に描かれた樹木と黄鳥とのバランスの不自然さを批判したことがあったと伝えている。そのエピソードは、応挙の作画姿勢がまず何よりも応挙自身の写生体験を重視するものであったことを示している。

当時、南蘋派をはじめとする長崎系諸派の画家たちの一部には、ことさら粗荒な筆触を用い、また人の意表を衝く奇抜な画面構成を試みる傾向が目立ちはじめていた。応挙もまたその初期、夏雲、仙嶺落款の時代には、それらの影響をうけた作品がないではなかったが、やがて応挙自身の様式的自覚にともない、おだやかで自然な表現を求めるようになっていった。

奥文鳴が伝える応挙の画論に「豪放磊落気韻生動ノ如キハ、写形純熟ノ後自然二意会スへシ。」(『仙斎円山先生伝』)とあるのは、応挙自身その過去への反省にもとづくところだったのかもしれない。

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