応挙様式の形成
明和二年(一七六五)筆「雪松図」をみると、応挙はすでにその作品のうちに応挙独自の写実的筆法「付立て」を完成させている。「付立て」とよばれる筆法は、古くから東洋の水墨画技法のうちにあった「没骨法」(形を描くのに輪郭線を用いないで、直接墨面のひろがりとその濃淡によって表現する技法)をさらに進めて、巧みな筆さばきのうちに墨色の濃淡をあらわし、写実的な明暗効果を加える筆法である。筆に水をふくませて平皿の上でよくととのえ、さらにその穂先に濃墨をつけてひと息に花や葉あるいは枝や幹を描くとその筆あとには墨色がとけ合ってごく自然な明暗効果が生まれ る。さらにそれらが乾ききらないうちに適宜に筆を加え、調子がととのえられる。
「雪松図」では、そのような付立ての筆法を駆使してふりつもった雪の柔かい明暗効果をあらわし、下方の太い幹を描くのにも自在な付立ての筆使いで的確にその量感と質感とをとらえている。そこには狩野派による因襲的骨法用筆はもはやまったくみられず、また琳派の画家たちによって描かれる類 型的な松のパターンもみられない。それはおそらく従来東洋で描かれたもののなかで最も写実感を備えた松だろう。老松の主要部をさりげなく大映しにクローズアップし、バランスを考えたトリミング によっていかにもゆったりとした画面構成をとっている。 画面にはただ応挙の眼にとらえられた自然美のみずみずしい印象だけが息づいている。
「付立て」の筆法は、西洋画の写実的な陰影表現のように物体と光源との物理的関係に即してその明暗を追求しようとするものではない。それは、いわば概念的な凹凸効果を備えた用筆技巧の類型にすぎないもので、所詮、墨の濃淡による東洋的な暈どりの効果以上のものではない。しかし、それらが深い自然観察のうらづけと注意深い用筆とによって描かれる場合には、極めて生彩ある現実感があらわされる。しかもそこには巧みに運筆上の緩急や抑揚が示されていて、それらが伝統的な筆意や筆勢としての役割をも担っているのである。いわば、応挙はそれによって円山派独自のあたらしい骨法用筆を創出す ることになったともいえるだろう。
明和年間(一七六四~七二)の初年、応挙はすでに写実的な作風によって上 方画壇に名を知られるようになっていたが、そのころ大津園城寺円満院門主祐常の寵遇をえるようになり、その影響も加わって、さらに静和な古典主義的作風を目指すようになっていった。
祐常は二条吉忠の息で、関白綱平の養子となり、享保十九年(一七三四)得度して円満院に入り、後大僧正に任ぜられたが安永二年(一七七三)十一月二日、五十一歳で没している。応挙より十歳年長である。祐常は本草学に関心が深く、また祐常自身書画を嗜み、月渚と号している。円満院には月渚筆、絹本墨画「水禽図」(宝暦十三年四月)、紙本着色「菊図」などが残されているが、いずれも写実性にとみ、おだやかな品格のある作品である。
応挙は明和三年(一七六六)はじめて応挙の名を名乗ることになるが、その改名自体に応挙様式成立への自覚が示されていたようにも思われる。諱を応挙とし、字を仲選と改めたのは、中国南宋末の画家銭選の作風を慕いその名に因んだものといわれ、それが祐常の示唆によるものであったとする説もある。銭選は字は舜挙、号は玉潭、巽峯、清癨老人などと称し霅川の人で南宋の景定年間(一二六〇~六四)鄉貢進士となったが、南宋が滅んだあとはふたたび元朝に仕えず、専ら詩画に遊んで清逸な 生涯を送った人である。花鳥は北宋の趙昌、人物は北宋の李公麟、山水は南宋の趙伯駒を師としたといわれ、清麗巧密な院体風の画体で知られ、わが国では大徳寺高桐院蔵「牡丹図」などが伝銭選筆として著名である。応挙がその新様式創始の規範として撰んだ銭選様式とは、いわば宋代画院系の理想主義的写実主義を受継ぐものであったことは注目に値する。応挙は眼鏡絵制作によって近世西洋写実技法の洗礼をうけ、また長崎を経て滲透するさまざまな中国清朝の新様式にも触れていたが、応挙自身はそれらの新奇さを避け、その平明な写実主義のよりどころをむしろ宋元時代の古典的写実画に遡って正統づけようとしていた。
応挙が円満院祐常門主の知遇をうけることになったのは門主による「難福図巻」制作の意図がきっかけになったものらしい。「難福図巻」は、天災をあらわす上巻、人災をあらわす中巻、寿福をあらわす下巻の三巻からなり立っていて、上巻の巻首に祐常の序文があり、下巻の巻末に「明和五戊子年仲秋図応挙」の款記と白文方印「応挙之印」とがあって、その完成は明和五年(一七六八)の八月であったことがわかる。祐常の序文には「(前略)人を教ふはしとせんに、今の世にみざることをのぞきて、耳目にちかき事をせむと思ふといへども、筆つたなくして図をなさず、絵師にもとむるも猶其業にかなる人まれなり。ゆえにおほくの年月を経ぬ。ここに洛の藤原応挙図画にたくみにして、わが心にかなふ。故にこのことをかたりて、しらざるをあまねくたづね、みとせばかりのほどに巻をなしぬ(後略)」とあり、明和五年に完成した「難福図巻」の制作に三ケ年を要したといわれるから、応挙が祐常に召致されたのは明和二年前後のことだったのだろう。
それらのうち、もっとも追力があるのはさすがに上巻「天災」の巻の地震、洪水、火災など、直接自然現象や経験から取材された場面である。同じ巻でも、子供をさらう大鷲、旅行者を襲う大蛇となると多分にお伽話めいた誇張が加わってくる。「寿福」を描く下巻が類型的な貴人の飲食遊宴の情景に終ってしまっているのに対し、「人災」を描く中巻には強盗、追剝、心中、拷問など、凄惨な場面が執拗に繰拡げられ、鑑戒の目的からくる誇張が考えられるとしても、また一種の嗜虐趣味のようなものもあって、いたずらに陰惨な刺激を追い求めているような一面がないでもない。なお、本図巻には応挙筆画稿二巻、祐常筆画稿一巻が残されている。
奥文鳴は、応挙がかつて空也堂に「十想図」二幅を描き、その「肪脹血塗ノ醜態、蓬乱青骨ノ汚穢ナル如キハ、邪睨シテ展開ニ忍ヒサラシム」ものがあったことを伝えている。また、巷間にはしばし ば応挙が描いたと伝称する「幽霊図」がみうけられるが、写実によって名を知られる応挙の筆ということで、より一層世間の評判を呼んでいたものらしい。
京都の某家蔵「花鳥写生図巻」三巻(明和八年、一七七一)、および東京国立博物館蔵「蝶写生帖」なども同じ頃の作品で、いずれも精緻な科学的観察によって描かれている。奥文鳴は祐常が応挙に命じて「四時波濤ノ図、及と昆虫草木写真一百幀」を描かせたことを伝えているが、これらの作品もあるいは祐常の命によって描かれたものの一部であったかも知れない。個人蔵「写生帖」は明和八年当時、平生応 挙が所持して直接自然の花鳥虫魚を描きとどめたスケッチブックで、そのほか作画に関する備忘録として中国詩文の抜萃や古画の縮図類が書き留められている。 それらのスケッチのうちには某家蔵「花鳥写生図巻」の原図となったものも含ま れているが、丁寧に浄写された完成作品よりむしろ生彩を感 じさせるものがある。応挙にはほかに老若男女の人体をそれ ぞれ細部にわたって精写した天理大学附属天理図書館蔵「人物正写惣本」三巻。
今日、円満院には「岩頭飛雅図」(明和四年、一七六七)、「雨中山水図屏風」二曲一隻(明和六年、一七六九)、「芭蕉童子図屏風」二曲一隻(明和六年、一七六九)、「牡丹孔雀図」(明和八年、一七七一)、「大瀑布図」(安永元年、一七七二)、「雪景山水図襖」など当時の応挙作品が多数残されている(上記の作品は、 現在、全て円満院を離れ、「岩頭飛雁図」「雨中山水図屏風」「芭蕉童子図屏風」は個人蔵、「牡丹孔雀図」 「大瀑布図」は相国寺承天閣美術館蔵、「雪景山水図襖」は 千葉市美術館蔵となっている)。それらの諸作は応挙様式草創期の作品だけあって、素朴な緊張感にあふ れた力作が多い。
豊饒華麗な孔雀と牡丹、そして太湖石をとり合せ た「牡丹孔雀図」は当時としては多分に異国趣味を含むもので、その頃京坂地方に流行をみせていた南蘋画風の影響を無視することはできない。しかし、 そこには一般の南蘋画風に顕著な癖の強い筆触、奇警な画面構成はみられず、精緻な筆使いによってありのままの自然を追求し、おだやかで安定した画面 構成のうちに雌雄ひとつがいの孔雀をごく自然に情緒的に対応させている。それらはすべて応挙自身自 然写生によって確めることができたものだったのだ ろう。その温雅で清和な古典的画趣は応挙が宋元の院体花鳥画を思慕していたことをうなずかせる。応挙は祐常を介して 畿内の古社寺に蔵せられるそれらの名品に接することができたに違いない。
「雨中山水図屏風」の場合、微細な筆触によって岩肌を克明に彫琢してゆく皴法は、こまやかさのうちにもある種の鋭い圭角をもっていて、 南宗派の筆法ともまた異質である。それらは岩稜の質感と量感とをきわめて明晰に、触知的に肉付けしてゆく。それは応挙が自然写生を通じて創出することができたきわめて即物的な独自の筆法であった。
京都国立博物館蔵「琵琶湖・宇治川写生図巻」は、明和七年(一七七〇)応挙がふところに持ち歩いて直接実景を描きとどめた写生帖である。そこには琵琶湖湖東の三上山や鏡山を望む湖岸風景、膳所城などの実景が自在な筆法で活写され、また字治川の名勝「しし飛び」「米かし」などの渓流風景が写生されている。 渓流からつき出た岩、噛み合う奔流などがそれぞれ個別的にスケッチされているが、いまそれらを自在に描写する筆法自体に注目してみよう。それらの筆法は一見きわめて乱雑であり、無秩序そのものである。その筆は視線が対象をたどるままにあらあらしく岩面を走り、浪とともに躍っている。そこでは既成の筆法は一旦すべて解体され、混沌のうちから実感に即したあらたな筆法が誕生する。「雨中山水図屏風」にみる斬新な筆法は、応挙によるそのような写生体験を経過してはじめて創出されたものだったに違いない。
「芭蕉童子図屏風」のヒントは中国近世絵画に登場する唐子遊びの主題からえたものだろう。しかし、ここで応挙は子供たちの顔も衣裳もすっかり和風に変え、日頃見馴れたかくれんぼ遊びの情景にしてしまう。応挙はむく毛の仔犬たちが無心に戯れあう情景を好んで描いたが、「芭蕉童子図」もまた応挙が得意とした画題の一つであった。幼童が芭蕉の葉かげから覗き見するポースは後年香住の大乗寺の襖絵「郭子儀図」の中にも繰返しとり入れられている。