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応挙様式の確立

明和年間応挙を寵遇した円満院祐常門主は安永二年(一七七三)十一月二日に示寂しているが、その頃になると応挙は四十代に入り、様式的にも円熟期に入る。

奥文鳴の『仙斎円山先生伝』によると、応挙は安永年中、後桃園院女御御所盛化門院に「東山西山「名所図屏風」着色画、女院御所恭礼門院に「荷花図黒戸」着色画、大女院御所開明門院に「乗合船図襖」着色画、「山水図屏風」着色画をそれぞれ描いている。文鳴によれば応挙はそれ以後も屢々禁裡の用命に応じて作画していたようで、ことに寛政二年(一七九〇)内裏造営にあたっては一門を率いて障壁画制作にあたったことが知られている。

安永年間(一七七二~八一)応挙は様式完成期の円熟した筆法によって数多くの力作を残している。中でも安永二年筆「雲龍図屏風」、安永五年筆円光寺蔵重要文化財、紙本墨画、六曲一双「雨竹風竹図屏風」、同年筆根津美術館蔵「藤花図屏風」は制作年代の明らかな安永期屏風絵の三部作ということができるかもしれない。「雲龍図屏風」は濃密な楷体水墨画の頂点をみせ、「雨竹風竹図屏風」は蕭散な減筆体水墨画の、そして「藤花図屏風」は清麗な彩色画の極致を示すものといえよう。

安永年間に描かれた掛幅の作品として注目されるものに着色画では「飛雁芙蓉・寒菊水禽図」双幅、「郭子儀祝賀図」などがあり、行体の水墨もしくは淡彩画に「蘆鴨図」、「花鳥人物図」がある。

三井総領家(北家)に所蔵される国宝「雪松図屏風」 六曲一双には年紀がみられないが、おそらく安永末年から天明初年前後の作品と思われる。「雪松図屏風」を所蔵する三井家は、いうまでもなく十七世紀後半以来、江戸、京都、大坂の三都にわたって大規模な呉服・両替店を経営する富商で、とくにその京都本店は西陣織の直買仕入店として栄え、円山応挙に衣裳模様の下絵を描かせるなど、有力な得意先の一つであった。「雪松図屏風」には、明るく清浄な雪の朝の印象がきわめて写実的に表出されているとともに、富商三井家の大広間を飾るにふさわしい荘重な装飾美があふれている。

応挙は早くから三井家に出入りしていたらしく、明和八年(一七七一)に描かれた「写生帖」に「夏六月於三井殿写」と注記して蓮花をスケッチしたものが見出される。今日同北家には「雪松図屏風」をはじめとして「山水図屏風」六曲一双(安永二年、一七七三)、「郭子儀祝賀図」など数多くの応挙作品が伝えられているが、それらは北家の四代三井高美(一七一五~八二)、五代三井高清(一七四二~一八〇二)、の時代に描かれたものらしい。なかでも出家して一成と称した高美はとくに応挙と親しかったらしく、北家に伝えられる「夕涼みの図」は安永元年、一成(高美)が隠居所で裸になってくつろいでいるところを応挙が速写したものといわれている。一成の裸身をのびやかな一筆でとらえ、団扇を指でクルクルまわしている様子などが軽爽に活写される。応挙は図中に「さつはりとはらひはてたるまるはたか さそやすゝしく世をわたるらむ」と自作の狂歌を書き付けている。一成は天明二年 十一月十五日に亡くなるが、応挙はその一周忌に「水仙図」一幅を描いて一成の霊に手向けた。絹本着色の静和な小品で、「恭写時花一幀奠 一成律老直右 天明癸卯仲冬応挙拝」と款し、白文方印「応挙之印」が捺されている。

応挙はその頃同じく三井本家六軒の内の一家南家四代の三井高業(一七四七~九九)とも親交があった。高業は商用のため江戸京都を往来するかたわら書画文芸を嗜んだ風流人で、大坂の狂歌師栗柯亭木端の弟子となって仙果亭嘉栗と号し、また紀文太郎と称して自ら浄瑠璃にも筆をとっている。大田南畝、平秩東作、円山応挙ら文人や画家と交わって博学多才であったといわれる。応挙は安永六年(一七七七)、嘉栗によって撰された『狂歌奈羅飛乃岡』に挿図を描いているが(同書は嘉栗の師木端とその門人たち の狂歌を集めたもので、安永二年に没した木端を追慕して嘉栗によって刊行された。以上は三井高陽氏の御教示による)、応挙のほかに与謝蕪村、勝部如春斎、森周峯、森狙仙、福原五岳、高嵩谷なども筆をとり、嘉栗自身の絵もある。森周峯(一七三八~一八二三)は森狙仙(一七四七~一八二)の兄で、狙仙は猿や鹿など写実的な動物画を描いて森派の祖となっている。応挙は当時森家と親しかったらしく、前出の「写生帖」中には周峯所蔵の林良筆「孔雀図」を応挙が模した図がある。

応挙はその頃、同じく京都を中心として三都にわたって呉服、紙、塗物問屋を多角経営する富商柏原家にも出入していたようで、今日洛東遺芳館として保存される京都市東山区問屋町五条の同家旧邸には天明末年の筆と推定される応挙筆「稚松図小襖」、呉春筆「山水図襖・群鴨図襖」をはじめとして円山派の作品が数多く残されている。

天明年間(一七八一~八九)、応挙は屢々社寺書院の障壁画制作を依頼されるようになるが、制作年代の明らかな作品として次のようなものがある。

天明四年(一七八四) 東京国立博物館内応挙館「老松図床貼付・竹・梅図襖」「蘆雁・桂図襖」 (愛知県明眼院旧蔵)
天明五年(一七八五) 和歌山県草堂寺「雪梅図壁貼付・襖」「竹図襖」「松月図小襖」
天明六年(一七八六)和歌山県無量寺「山水図襖」「波上群仙図襖」「飛鶴図」
天明七年(一七八七) 東京国立博物館「山水図襖」(京都市帰雲院旧蔵)香川県金刀比羅宮表書院「遊虎図襖」「遊鶴図襖」兵庫県大乗寺 「山水図襖」「郭子儀図襖」
天明八年(一七八八) 京都府金剛寺「波濤図」「群仙図」「山水図襖・床貼付」
寛政三年(一七九一) 京都市東本願寺桜下亭「稚松図襖・床貼付・壁貼付」「竹雀図襖」 「墨梅図壁貼付・襖」
寛政六年(一七九四) 香川県金刀比羅宮表書院「瀑布図床貼付」「竹林七賢図襖」「山水図襖」
寛政七年(一七九五) 兵庫県大乗寺「松に孔雀図襖」

以上のうち、大乗寺「郭子儀図襖」が金地着色画であるほかは殆んどの作品が水墨画であり、また、金刀比羅宮襖絵諸図などにみられるように一部の作品にはなお謹直な楷体表現をみせているが、概し天明以降の作品には淡泊な行体表現が多くなる。そこでは初期作にみられた精緻な写実的追求よりも、むしろ温雅な情趣性と整美された装飾的な形式美の表出に主眼がおかれるようになり、東本願寺桜下亭襖絵などにみる洗練された減筆体の用筆には、応挙晩年期の円熟した境地が示されている。

応挙は皆川淇園と親しかったが、『淇園文集』(初編巻之二)中「梅渓紀行」によると、天明八年(一七八八)正月二十八日、淇園は友人香山適園や門人米谷金城、それに応挙や呉春を誘って伏見の梅渓に遊んでいる。一行は方広寺門前の茶店に集合、下男に酒樽をかつがせて出発し、途中応挙の案内で深草の石峯寺に寄って伊藤若冲が作った石造羅漢を見物、時々一杯やりながら春色雪の如き南郊の晴日を楽しんだ。文中、応挙が遠眼鏡をとりだして淇園に貸し、皆もかわるがわるそれを手にして遠望を楽しんだ記事がみえる。奥文鳴は応挙について「平素幽静ニ嗜ミ、特ニ梅花ヲ愛ス。春初毎ニ徒弟ヲ携テ、伏見梅渓ヲ探テ賞観日ヲ移ス。」と伝えているが、草堂寺本堂「雪梅図」、東本願寺桜下亭書院にみる「梅林図」は、それらの心象風景が結実したものだったのだろう。

天明年間に描かれた屏風絵としては『円山派画集』(審美書院 一九〇七)に掲載される某家蔵「夏冬山水図屏風」(天明四年、一七八四) や某家蔵「韓愈雪行図屏風」(天明七年、一七八七)があり、また大和文華館蔵「四季山水図屏風」 (天明七年、一七八七)が知られている。東京国立博物館蔵「秋冬山水図屏風」も年紀はないがそれに近い晩年作とみられる。狩野派から出発した応挙には、「韓愈雪行図屏風」にみられるように中国人物中国山水を描くものが少なくないが、一方、自然写生を通じて身近な大和山水にも抒情的な新しい境地を開いている。それらは大和文華館蔵「四季山水図屏風」や、「秋冬山水図屏風」にみられるように親しみ深い京都近郊風景の印象が主題とされている。応挙が取り上げる山水図の主題は文人好みの幽邃な煙霞山水ではなくて、むしろ都市の町人たちが一日の行楽を求めて散策するきわめて人間的な田園風景であった。

応挙は天明年間の中頃以来、妙法院宮真仁法親王の知遇をうけるようになる。真仁法親王(一七六八~一八〇五)は光格天皇の兄にあたられ、安永七年十一歳で妙法院に入寺され、天明六年天台座主に任ぜられている。村田春海の『織錦舎随筆』によると「妙法院宮は、当今の御いろせの御子におはしますなるが、から大和のみやびことをこのませたまひて、品いやしききはにても、その名きこえたる人々をば、ゆかしがらせ給ひて、歌人の中には伴蒿蹊、小沢蘆庵など、常にめしあつめさせ給へり」とある。妙法院サロンに招致された文人のうちには儒者の皆川淇園、村瀬栲亭、詩人の釈慈周(六如)らも見出される。応挙の推挙によってその門人呉春、月僊なども出入するようになり、妙法院白書院には呉春筆「山水図襖」、月僊筆「群仙図」などが残されている。

天明七年(一七八七)元日より同年八月十六日にいたる真仁法親王の日記が知られているが、それによると当時応挙は屢々院に参上し、絵手本、襖絵、杉戸絵、扇面などの制作を命ぜられている。また、同日記中、小沢蘆庵が応挙を介して妙法院の庭園拝見を願い出た記事があり、応挙が蘆庵と相談だったことがわかる。

小沢蘆庵(一七二三~一八〇一)は、牢人小沢実邦の末子で堂上歌人冷泉為村に和歌を学び、鷹司家に仕えたが明和二年(一七六五)出仕を止められ、以来京都に住んで歌道に専念した。「うたは人の声なり。おもふことあれば声にいづるをうたといへり」と説き、いわゆる「ただごとのうた」を主唱した。賀茂真淵一派の擬古的な歌風を排し、自然な感情を日常的な平易な言葉ですなおに詠みあげることを主張しているが、庵の歌論には絵画における応挙の主張と共通するところがあって興味深い。蘆庵の歌に「春深き井手のわたりの夕ま暮、霞む汀にかわず鳴なり」「里の犬の声のみ月の空に澄みて、 人はしづまる宇治の山蔭」などがあるが、それらはそのまま応挙画の世界を詠みあげたもののように も思われる。

応挙は南画家の大雅や蕪村などとは違って、遠路の旅行は好まなかったらしい。南紀の草堂寺や無量寺の襖絵は門人長沢蘆雪に託してとどけさせたという所伝があるが、讃岐の金刀比羅宮、但馬の大乗寺、尾張の明眼院などの襖絵も応挙が現地を訪れたという確かな証拠はなく、京都で制作されて送とどけられた可能性が強い。

駿河国、原(静岡県沼津市郊外)の資産家植松家の当主蘭渓(与右衛門)は妙心寺海福院住職斯経和尚を介して応挙と相識となり、息子の季英(応令)を京都に出して応挙に入門させた程であったが、植松家に残される応挙書簡によると、応挙は蘭渓から再三富士見物の誘いをうけながら遂にそれを果さなかったらしい。応挙の場合、未知の土地に新鮮な奇勝を求めるというよりは、馴れ親しんだ畿内の風物を繰返しとり上げ、むしろ平凡な日常的風景のなかに温和な抒情性をうたいこもうとしていたように思われる。

文鳴によると、寛政五年(一七九三)応挙は健康を害して歩行することも困難になり、また眼も悪くして次第に揮毫もむつかしくなっていたといわれる。しかし、なお応挙は寛政六年十月には金刀比羅宮表書院二室に「山水図」、「竹林七賢図」の大作を描き、また没年の寛政七年四月には大乗寺客殿一室に「松に孔雀図襖」の大作を描いている。それらは病中、小康をえて揮毫したものなのだろうか。いずれも筆力の衰えをみせない充実した力作で、晩年病に伏してなおそれらの大作を完成させることができた気力に驚かされる。

水戸の立原翠軒は、寛政七年の四月、京都に滞在していたが、水戸の岡野逢原に宛てた書簡に「此方(京都)にも只今は書画名画も無御座候。円山主水などは目疾にてかかれ不申候」と述べている。寛政四年以来、皆川淇園によって毎年春秋開かれていた東山新書画展観にもこの年には不出品だったらしい。応挙の絶筆と称されている「保津川図屏風」は寛政七年七月の款記があるが、さすがに筆力の衰えをかくせない。あるいは門弟の助力をえて完成をみたものではなかったかとも考えられる。文鳴は応挙の終焉について「乙卯ノ夏ニ逮テ病勢加重シ、秋七月十七日暁天家ニ終ル。享年六十三。」と記している。京都市中京区四条大宮の悟真寺(浄土宗華頂山末)に葬られ、法号を円誉無三一妙居士と号した。応挙の墓石にみる「源応挙墓」の四字は妙法院真仁法親王の筆である。現在悟真寺は同市右京区太秦の地に移されている。

応挙の妻は京都の儒医木下萱斎直一の娘で三男三女があったが、長子応瑞(字は儀鳳、通称初め右近、後主水と改める)があとを嗣ぎ、次男は夭折、三男応受(字は君賚、通称直一、水石と号す)が母方木下氏を嗣いでいる。

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