志水正司,《古代寺院の成立》,東京:六興出版,1979
(法起寺)
法起寺創建に関する史料
矢田丘陵の南側に古い三つの塔を遠く望むことができ、斑鳩(いかるが)の里独得の心和む風景がそこに展開されている。その中の一つが法起寺(ほつきじ)の三重塔である。この法起寺は、寺地の名から池後寺とも岡本寺とも呼ばれた寺で、創立に関しては二系統の史料が存在する。
その第一は、『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』や『上宮聖徳法王帝説』などで、聖徳太子が七寺を起こしたとして、『資財帳』は、
歳次丁卯(推古十五年)小治田大宮御宇天皇并東宮上宮聖徳法王、法隆学問寺、并四天王寺、中宮尼寺、橘尼寺、蜂岳(はちおか)寺、池後尼寺、葛城尼寺、敬造仕奉、
と述べ、『法王帝説』は、
太子起七寺、四天皇寺、法隆寺、中宮寺、橘寺、蜂岳寺(并彼宮賜川勝秦公)、池後寺、葛木寺(賜葛木臣)
として、七寺の一つに池後寺の名がみえている。そして、前者は推古天皇十五年(六〇七)を示しているのであるが、この年次から思い出されるのが法隆寺金堂の薬師像銘文に刻まれた年代で、その造立の年と資財帳の七寺を起こしたとする年とが一致する訳である。
推古天皇十五年頃、七寺が起こされたというのはおそらく法隆寺系統の伝説であって、ただいある年次にかけて、太子縁(ゆかり)とされた寺名を七つ数えあげて書きならべた史料にすぎず、諸寺がいつどのようにして建立されたかについてはまったく具体性を欠いている。
ゆえに、この机上で造作された疑いの濃い年代と七寺の建立はたやすく信ずるべきではないと思われる。
第二は、『聖徳太子伝私記』の中にあげる法起寺塔露盤銘文で、
上宮太子聖徳皇壬午年二月廿二日臨崩之時、於三山代兄王勅三御願旨、此山(岡)本宮殿宇即処専為作寺、及大倭国田十二町近江国田卅町、至干戊戌年、福亮僧正聖徳御分、敬造弥勒像一軀、構立金堂、至于乙酉年、恵施僧正将竟御願構三立堂塔、丙午年三月露盤営作、
上宮太子聖徳皇、壬午年(六二二)二月二十二日崩(うせます)に臨むとき、山代兄王(やましろえのみこ)に御願の旨を勅りたまう。この山(岡)本の宮の殿字、処に(そのところに)即いて専ら寺を作らんとす。及(なら)びに大倭(やまと)国の田十二町、近江国の田三十町なり。戊戌年(六三八)に至りて福亮僧正、聖徳御分として、弥勒像一軀を敬造し、金堂を構立せり。乙酉年(六八五)に至りて恵施僧正、御願を竟んとして堂塔を構立し、丙午年(七〇六)三月に露盤を営作せり。
とあり、推古天皇三十年(六二二)に太子遺願があり、舒明天皇十年(六三八)に福亮が弥勒像を作り金堂を建て、これを安置する。さらに、天武天皇十四年(六八五)恵施が塔を構築し、慶雲三年(七〇六)に至って露盤をあげて、ようやく塔の完成をみたことを思わせる。
記事としては具体的であり、明確に年月日を伝えている。しかし、遺言の十数年後に金堂を、のち五十年を経て塔を構え、また二十年後に露盤をあげるというのは、いかにも間のびした感が 否めない。また、平安時代に落盤をめぐって紛争があったこともあるため、銘文に疑問を投げる むきもある。だが、疑問の余地はあるとしても、内容が具体性をもち、依拠するところがあった と思われて、露盤銘文の大筋はほぼ信用しておいてよいであろう。
史料上の吟味はこれまでとして、次に発掘調査、建築様式などの実物に即した方面から法起寺をみよう。
法起寺塔の心礎と建築
法起寺の伽藍配置は、法隆寺のそれとは反対の東に塔、西に金堂といういわゆる法起寺式伽藍配置であり、明治三十年の解体修理の折に、塔の心礎が確認された。その心礎は法隆寺のそれとは異なり、基壇面に心礎をすえ、八角形の柱座を造り出していた。そしてさらに八角の柱孔を刻み、その中央に円形の有蓋舎利孔を彫るといった形状を示すものであった。
これまで解説してきた寺の多くは掘立柱の最下に、つまり地中深くに心礎がおかれていたので あるが、それが段々上昇して基壇面に置かれ、しかも、八角形の柱座・柱孔という手のこんだ細工を施していること、また、蓋をもった舎利孔の存在なども技術の進歩を示すものであろう。有蓋舎利孔は、本薬師寺の東塔址の様子などを思い浮かべればよい訳であるが、いずれにしても先にあげた心礎の形状は、法起寺塔の建立が法隆寺塔の再建よりも時代が下るであろうことを示唆している。
建築の面から見ると、雲形斗拱、胴張りのある円柱、皿板など、法隆寺様式といわれる特徴を見出すことができる。
また注目すべきは、法起寺三重塔の各層の平面が、法隆寺五重塔の初層・三層・五層の平面の規模と同じであるという点である。これは、この塔が再建された法隆寺五重塔から計画されたもの、すなわち、法隆寺塔よりも後に造立されたものであることを示していることになろう。加えて塔の第三層は、かつては側柱が中間に二本の三間の構造であったが、のちの調査で両側に柱を建て、中央に一本という二間の構造であったことが、旧材の痕跡によって確かめられ、昭和修理のときには旧状に復原されている。
こうなると、現法隆寺の第五層の構造とも完全に合致することになり、先に述べたように、法隆寺のプランを基にした設計であったことを、さらに裏付けている。
以上が全体の姿に関するものであるが、細部の検討に移ると、まずもっとも特徴的なのが雲形斗栱である。法隆寺のそれと比較すると、細かい点に相違のあることが発見できる。
第一に、法起寺の雲形斗栱では、側面の刻文が省略されている。第二に、舌といわれるものが消え、さらに先端部の半円形の彫り込みも省略されてしまっている。 第三に、全体の寸法のわりにはつけ根の部分が広くできている。軒にむかって細長く斗栱がのびている場合には、のびやかな美しさをみせるのであるが、こうした斗栱であると、何となく力んだ武骨な感じの印象を免がれないと思われる。 力学的に幾分かは丈夫であろうが、洗練度においてやや劣るという感覚は衆目の一致するところではなかろうか。
次に、法隆寺には八角形を示す原始的な鬼斗(菊斗)があり、法輪寺にもこれがあるが、法起寺に至ると “原始的” という語は省かねばならない。つまり鬼斗らしい鬼斗、正方形の斗として現われてくるのである。とすれば、法起寺の創立年代の下降を示す材料になろう。しかし、法起寺の鬼斗の用材は、もっとも古い時代からあったものとは考えがたく、せいぜい遡っても中世の材と思われるのである。鬼斗は比較的風雨に晒される部分にあることを考えあわせると、後世、修理の手がはいったことを推察させ、鬼斗があるからといって、ただちに法起寺は新しいと判断す ることはできないであろう。鬼斗を論拠として法起寺創建の年代を推し測ることは早計といわなければなるまい。
法起寺の瓦
つぎに瓦について見ると、二種類の組み合せに大別することができる。一つは素弁蓮華文の軒丸瓦と重弧文の軒平瓦、いま一つは複弁蓮華文の軒丸瓦と忍冬文の軒平瓦との組み合せである。
再建された法隆寺の瓦は後者の組み合せと一致しており、法隆寺の塔を模倣して、さらに瓦も法隆寺風のそれを用いたものと考えられる。
前者の組み合せは一段と素朴で古い印象を与える。ここから想起されるのが、法起寺露盤銘文にその金堂が舒明天皇十年に建立されたと記していたことである。このより素朴な瓦は、法起寺金堂に用いられていたものではあるまいか。要するに、塔と金堂が古さの点で異なる瓦をもっていたことになろう。建物によって異なる瓦を有していたことについては、次に解説する法輪寺の発掘調査においても認められる。
法起寺については、これまで述べた程度以上のことは今日判明していないのであるが、昭和三十五年以来続けられている発掘調査によって、最近、現法起寺とは方位のやや異なる建物群の跡が発見されている。すなわち寺の境内や寺と隣接した西方の地点から、北約二十度西に偏した溝や柵の跡と思われるものが確認され、しかも、それらは寺が建つ以前の遺構とみられるのである。これらは岡本宮址かと推定されており、聖徳太子が法華経を講説したのは飛鳥岡本宮ではなく、実はここ斑鳩岡本宮であったのではあるまいかと考えられてきている。しかし、まだ調査は十分とはいいがたく、今後の報告を待たねばならないのが現状である。
法輪寺創建に関する史料
法輪寺は法琳寺とも、また、近くに井戸のあることから御井寺(みいでら)・三井寺ともいわれている。寺の創立については、これも二系統の伝承をもっている。その第一は、『聖徳太子伝私記巻子本』におさめられている「御井寺勘録」であり、それは、
小治田宮御宇天皇御代様(歳次壬午)、上宮太子起居不安、于時太子願平復、即令男山背大兄王并由義王等、始立此寺也、所以高橋朝臣預寺事者、膳三穂娘、為三太子妃矣云々
小治田宮御宇天皇の御代(歳次壬午=六二二)、 上宮太子起居安からず。時に太子平復を願い、即ち男山背大兄王并びに由義王等をして、始めて此寺を立つ。高橋朝臣の寺事を預る所以は、膳三穂娘の太子妃なればなり云々。
と伝え、推古天皇三十年(六二二)に聖徳太子の遺願によりこの寺を建て、膳三穂娘が太子妃であった関係から高橋朝臣が寺のことを預かったとみえている。しかし、この記述はやや具体性を欠き、いつ造立せられたかも、また、妃の関係から高橋朝臣がこれを預かったというが山背大兄王・由義王らの関与のほども不明である。
第二は、『上宮聖徳太子伝補嗣記』で、
斑鳩寺被災之後、衆人不得定寺地、故百済入師率衆人、造葛野蜂岡寺、令造三川內高井寺、百済聞師、円明師、下氷君雑物等三人合造三井寺。
斑鳩寺災を被るのち、衆人寺地を定めることを得ず。故に百済入師衆人を率いて、葛野の蜂岡寺を造らしめ、川内の高井寺を造らしむ。百済聞師・円明師・下氷君雑物(しもつひのきみくさもの)等三人、合わせ三井寺を造れり。
といい、法隆寺被災の後、蜂岡寺(広隆寺)高井寺(高井田廃寺か)などとともに建立された寺院の一つとしてあらわれているだけで、これもまことに漠然とした内容でしかない。ただ法隆寺焼失の後、しばらくして造立されたという点に関しては、法輪寺塔が示す特徴と一致している。
従って、後者の記述は何らかの拠りどころがあって作成されたものであるのかもしれないが、双方とも寺の建立を語る史料として用いるには、はなはだ頼りないものである。故に法輪寺については、現在残されている寺塔そのものから、その建立を推測していく以外方法がないのである。
法輪寺塔の心礎
法輪寺の伽藍配置は法隆寺式を示し、三重塔心礎については種々検討されてきたのであったが、これまで云々されていたのは、実は近世のものであったことが最近になって判明した。
昭和十九年、雷火によって焼亡した塔の焼け跡の下を、昭和四十七年に調査したところ、従前の塔の基壇面に据えられていた心礎の下から、さらに古い心礎が発見されたのである。この地中深くに発掘された礎石は、さらりとした表面をもち、その上に掘立柱を立て、心柱の周囲を根巻き粘土によって固定していたと考えられる。つまり、これまで扱ってきた心礎のように、礎石そのものに柱孔を細工したという方法をとっていないのである。しかし、有蓋の舎利孔は刻みこまれている。こうした心礎の形式は、法起寺のそれより素朴な様相を伝えており、従って法起寺の塔よりは年代が古く構築せられたものと推測される。
江戸時代に、この心礎の舎利孔からとり出したと伝えられる金銅製の舎利容器が、今日、法輪寺に収蔵されているが、これはこの古い礎石の舎利孔にほどよく納まるので、おそらく三重塔建立当時のものと考えられる。
昭和十九年の塔焼失以前の塔について、建築様式から法隆寺よりは新しく、法起寺よりは古い年代をもつであろうと推測されていたが、心礎の状況はこれと矛盾するものではなく、さらに出土した瓦の様子からも、この建築の順序は妥当であることが明白となってきている。
(法輪寺)
法輪寺の瓦
瓦は法起寺のそれと同様な組み合せの二系統、つまり素弁蓮華文軒丸瓦と重弧文軒平瓦、複弁蓮華文軒丸瓦と忍冬文軒平瓦であった。このうち後者は、塔の周辺から出土するので、おそらくは塔に用いられた瓦であり、法隆寺五重塔の瓦と共通する特徴をもっているところから、法輪寺の塔も再建法隆寺の塔の建立と平行する時期に構築が進められたのであろうと推測される。
一方の素弁蓮華文瓦の組み合せは、いまだ用途については不明確である。発掘調査の結果では、この系統の瓦は塔の基壇の下からも出土しているというのであるから、塔の築かれる以前に、法輪寺には何らかの建物があったと思われるのであるが、その建物についての検討は進行しておらず、法輪寺の創立についての疑問は、まだ残されたままであるといわなければならない状況である。
なお、法輪寺に残る幾多の仏像のうち、特に注目される二体について、若干の説明を加えておきたい。一つは寺伝に虚空蔵菩薩と呼ばれる像で、当初は観音像として造られたものと思われる。樟の一木造であるこの立像は、処々修理が施され、彩色もほとんど剥落してはいるものの、全体から受ける印象は、百済観音像などと共通するものがあり、白鳳の彫刻としての特色をよく伝えているといえる。いま一体の薬師坐像も、同じく樟の一木造で、全体の構成は法隆寺金堂の釈迦像に似ているが、これも顔面や衣文のやわらかな表現など、やはり白鳳期の特徴を有している。したがって、飛鳥仏的な古様をとどめてはいるものの、その製作は、白鳳時代にかかるものであろうと推察されるのである。