志水正司,《古代寺院の成立》,東京:六興出版,1979。
金堂薬師像銘文の疑問
これまで諸寺の創立にかかる検討の間にいくつかの金石文を取り扱ってきたので、ここで法隆 寺に伝わるその二、三について考察しておきたい。
まず始めに、金堂薬師如来坐像の光背銘である。
池辺大宮治天下天皇大御身労賜時歳
次丙午年召於大王天皇与太子而誓願賜我大
御病太平欲坐故将造寺薬師像作仕奉詔然
当時崩賜造不堪者小治田大宮治天下大王天
皇及東宮聖王大命受賜而歲次丁卯年仕奉
この訓み方(訓みは第三章を参照)は、今のところまだ定まったものはない。金石文を扱う際、留意すべきは書風・文体・語句、さらに内容などの諸点であるので、以下順をおって薬師像の銘文について吟味してゆくことにする。
薬師像銘文の書風を、年代の近い金堂の釈迦三尊像や、宝蔵の戊子年銘小釈迦三尊像の銘文のそれと比較すると、それらよりは新しいものと見なされ、その後に書かれたといわれる『金剛場陀羅尼経』〔丙戌年(六八六)の奥書をもつ〕の書風により近く、時代的共通点を有している。
日本に残存する金石文はわずかなので、中国の書風をも考えあわせると、大陸ではさきに扁平横長の文字が用いられ、隋唐にかけて縦長ののびやかな形に変化する。日本においても同様のことがいえるのであるが、薬師像銘文はすでに縦長の特徴を現わしてきており、隋唐風の影響を考えなければならない。
第二に文体は、丙寅年(六六六)を示す古市の野中寺弥勒半跏思惟像台座銘文のそれに近似している。野中寺弥勒像の年代については、とくに疑いをさしはさむむきはなく、その銘文の文体は、敬語・語順などの点において白鳳期を指示するものといわれている。
たとえば、薬師銘文の大御病太平欲坐故=オホミヤマヒタヒラカナラメトオモホシマスガユエニなどは、いわゆる漢文の語順とは異り、敬語用法になっていることが明白である。
『古事記』研究が進められていた江戸時代には、漢文と国文が混りあった文体が古く行なわれ、後に漢文体が定着したと考えていたが、現在では逆に、最初に漢文風の文章が書かれ、漢文に習熟して後、国語的表記が次第に発達してきたのであろうと見られている。
語句と內容
第三の語句については、銘文中に天皇・聖王・薬師像など、問題視されている語が散見する。
まず、 “天皇” であるが、この称号がわが国においていつから用いられたかについては、今日も歴史上の大きな問題であり、論議の的である。
中国における用例をみると、皇帝を天皇と称したのはかなり年代が下がり、唐の高宗の咸亨五年(六七四)に、
皇帝称天皇 皇后称天后
とみえるが、薬師像銘文はそれより七十年も前のものであるから、中国のこの例とは結びつけて考えることができないようである。
一方、日本において古く天皇を用いた例としてもっとも確実なのは、野中寺弥勒像銘の “中宮天皇” とあるのを初めとする。しかし遡って、いつから天皇が用いられたかは不明のままである。『隋書』倭国伝は文帝の開皇二十年(六〇〇)に倭国遣使を記録しており、それには、
倭王姓阿毎(アマ)字多利思比孤(タリシヒコ)
として、その当時わが国では、アマタラシヒコの号を用いていたことを推測させる。また、それより少し後の大業三年=推古天皇十五年(六〇七)に、国書の中で “日出処天子” を称して煬帝の怒りをかったこともあり、おそらくこの時期に近接する頃から天皇号を使用するようになったと 考えることもできよう。
しかし、天皇を称するようになったことについては、『隋書』に何ら記載はない。『日本書紀』には『隋書』に記された六〇七年の国書については記録がないが、隋から日本に遣わされた使者裴世清が帰国する際、隋皇帝にあてた国書を載せ、
東天皇敬白(つつしみてもうす)西皇帝
として、いかにも対隋外交を契機とする天皇号の使用を思わせるのであるが、『日本書紀』は文 字を後で書き変えていく作業もするため、『日本書紀』によっては何の結論も出てこないのである。
今日の学界の動向としては、天皇号は大化改新以後にできたとする見解と、推古朝頃から用いられたとする立場との二説が存在し、一向に決着をみる様子がないのが実情である。
近年の研究の傾向は、いかなるところから “天皇” という名称が現われてきたのであるかを中心として議論が展開されるようになってきている。このところ、相次いで天皇号に関する論文が三つ、雑誌「思想」に発表されている。ひとつは栗原朋信氏の「東アジア史からみた天皇号の成立」(思想六二七)で、氏は、後漢の周礼注の中に天上にいる絶対者を、
昊天上帝=皇帝=天皇大帝
と表現していることから、こうしたものに由来して天皇号が用いられたという見解を述べておられる。さらに栗原氏は、最初には百済において日本の皇帝に対する敬称として用いられたのであ ろう、という説も提唱しておられる。
次に福永光司氏が「天皇と紫宮と真人─中国古代の神道」(思想六三七)において、天皇号は中国の古代の神道、つまり道教から採用されたものであるとしておられる。五世紀末から六世紀前半の道教の学者陶弘景の著書のうちに天皇と紫宮と真人がみえ、この影響を受けて天皇の名が出てきたのではないかというのであるが、日本古代において果たして、道教がそれ程深く影響を及ぼしていたか疑問視されるところであろう。
三番目に宮崎市定氏の「天皇なる称号の由来について」(思想六四六)があり、氏は日本には道教の影響は少なかったと考えられ、今少し別の観点から考察しなければならないと福永説を批判し、皇帝より一段下がった “天王” という称号が、中国では五胡十六国時代、北方系民族間において用いられていたことを指摘され、これが日本に影響を及ぼして “天皇” に変化したのであり、その変化は推古朝であろうと述べておられる。
以上、儒教、道教、実際の北方系民族の政治習俗からなど、諸説はあるが、まだ結論を下すには十分とはいえない。このように、天皇号の由来さえも明らかでない時に、いつからこれが日本で用いられたかを考えることはなお問題が多いであろう。福山敏男氏などは “天皇” の文字がみえるのは時代としてふさわしくないと明言した上で、ここから薬師像銘文などを疑おうとする立場にある一人である。これも一つの見解ではあろうが、まだ “天皇” に関しては、今少し研究が進められた後でなければ結論を出すことは困難であろうと思われる。
次に “聖王” であるが、東宮聖王、つまり聖徳太子を指すことはあきらかである。しかし、東宮である太子を “聖王” と呼ぶのは不自然であることから、仏教学者境野黄洋氏らは、太子薨去後の尊称であろうと考えたのであったが、六〇七年には太子はいまだ存命であり、それならば、薬師像銘はこれより後に製作されたということにもなるが、それでよいのであろうか。
家永三郎氏は、 “聖王” と呼ばれた人物がもう一人、朝鮮にいたことを指摘しておられる。『百済本紀』は、
智識英邁、能断事。国人称為三聖王。
智識英邁にして、能く事を断ず。国人称して聖王となす。
といい、百済王明の没後、人々はこの王を尊んで聖王、すなわち聖明王と呼んだことを伝えている。聖明王の時代は、わが国へ仏教が伝来した頃、五三八年を前後する頃であり、 “聖王” はその少し後から用いられていたことになる。なお『宋書』夷蛮伝訶羅陀国元嘉七年(四三〇)表に、
伏承、聖王信重三宝、興立塔寺。
伏して承るに、聖王は三宝を信じ重んじて、塔寺を興立す。
として、東南アジアの訶羅陀国よりの書状に、仏法を厚く重んじると噂に高い中国皇帝をさして、 “聖王” と呼んでいる書き出しがみえている。仏法を信奉した人物を聖王と称える例はこのように東南アジア、朝鮮に発見できる。
筆者は、飛鳥仏教は南方系の影響を受けたものと考えているため、 “聖王” の由来にもこうした『宋書』などの記事を重視するものである。しかし、皇太子に相当する人を、 “聖王” としている点で問題は残されている。やはり生存中の太子をさして “聖王” と呼ぶことは可能性の少ないこととみなければならない。
三番目に “薬師像” である。福山敏男氏は、「法隆寺の金石文に関する二、三の問題」(夢殿一三)の中で、中国においては北魏以来、隋に至るまで、薬師造像の例はなく、儀鳳三年(六七八)の造像銘「造薬師象」を初見とすることを考えれば、飛鳥時代にわが国で薬師像が造られることは不自然であると指摘しておられる。氏はさらに、日本における薬師像は天武天皇七年(六七八)鋳像の、山田寺講堂のそれが確実な最初の例であると考えられた。
これに対して最近、井上光貞氏は竜門古陽洞からは、北魏孝昌元年(五二五)の「比丘尼僧造弥勒、観音、薬師像記」が発見されており、南朝でも宋以後、薬師経の信仰が行われていた事実がある、と福山説を批判された(『日本の歴史 3 飛鳥の朝廷』二一五頁)。しかしこれは、中国の金石文百例ほどのうち、二~三例しかない極めて珍しい実例であり、さらにその稀なものが日本に伝来する確率はかなり少ないといわねばならない。従ってこれをもって飛鳥時代に薬師信仰がすでにあったことを証明するには至っていないのである。
以上とりあげたように、その語句において薬師像銘文はあまりにも不自然なものが揃いすぎていることがあきらかになったと思う。
つづいて内容の面から考えると、まず池辺大宮治天下天皇、すなわち用明天皇の崩御の年月日が「当時崩賜」と非常に曖昧である点が指摘される。仏教においては、命日は極めて重要視すべきものであり、「その時、崩じ賜う」としか記していないことは実に奇妙である。まして、故人の供養のための造像であれば、その命日がはっきりしないことはいっそう銘文に疑念を抱かせる要因となろう。
また、あえて銘文から解釈していけば、用明天皇の没年は丙午年となるが、これは『記.紀』の丁未年崩の記載と矛盾するのである。ということは、丙午年は天皇が病いを得た年であり、 その翌年崩御ということになるのであろうが、先にも述べた通り、命日が明記されていない点が やはり問題である。
また、造像銘文に普通あるべきはずの “願意の表白” がみられないのである。故人の後生の安楽を祈り、あわせてその供養参加者らに仏教的恩恵を願う章句はまったく認められず、単に造像の記録にとどまり、寺の由緒を物語っているにすぎない。薬師像銘文が銘文としての内容をまったく整えていないことは、この銘文を信用しがたいとする根拠となってくる訳である。
金堂薬師像の疑問
これまで検討した通り、薬師像銘文には疑問の点があまりにも多すぎて、史料的価値をもつ金石文として取り扱うことはできないのである。そしてその銘文をもつ薬師像そのものにも、いくつかの疑問が投げかけられている。これは彫刻史における問題ゆえ、ここでは詳しくはふれないが、一つは、独尊像が有する宝珠形の頭光背である。これは、斉・周・隋様式を示し、わが国にこの様式が影響を及ぼすのは白鳳期であって飛鳥期ではない。第二は、町田甲一氏が擬古作説を提唱されていることである(「法隆寺金堂薬師像の擬古作ることを論ず」国華九五一)。町田氏は、この像の形はいかにも古そうに見えるが、写し崩れがみられると述べておられる。また、鋳造技法の面から千沢禎治氏らが、金堂釈迦三尊像が幾度となく鋳かけ直して後に出来上がっているのに比して、ただ一度で鋳上がっている薬師像は、格段の技術進歩が認められると指摘しておられる。やはり、一度で金銅仏像を鋳造する技術は白鳳期を待たねばならないと考えられ、このように薬師像は銘文ばかりでなく、像もまた白鳳期の特徴を示しており、飛鳥期の製作には大きな疑問がかけられているのである。
金堂釈迦三尊像銘文の検討
次に、金堂釈迦三尊像銘について検討を加えることにしよう。銘文は次の通りである。
法興元卅一年歳次辛巳十二月、鬼前太后崩、明年正月廿二日、上宮法皇枕病弗悆、于食王后仍以労疾、並著於床時、王后王子等及与諸臣深懐愁毒、共相発願、仰依三宝、当造釈像尺寸王身。蒙此願力転病延寿安住世間。若是定業以背世者、往登浄土早昇妙果。二月廿一日癸酉王后即世、翌日法皇登遐。癸未年三月中、如願敬造釈迦尊像并俠侍及荘厳具竟。乗斯微福、信道知識、現在安隠、出生入死随奉三主、紹隆三宝遂共彼岸。普遍六道法界含識、得脱苦縁同趣菩提。使司馬鞍首止利仏師造。
法興元(のはじめの)三十一年、歳次辛巳(六二一)の十二月に鬼前太后崩(うせま)しぬ。明年(あくる)正月二十二日に、上宮法皇枕病して悆(い)えず。于食王后仍以(これにより)て労して、並(なら)びて床に著けり。時に王后王子等(たち)、諸臣と深く愁毒(うれいいたみ)を懐(いだ)きて、共に相願を発て、「仰ぎて三宝により、当(まさ)に釈像(しゃか)の尺寸の王身なるを造らん。此の願力を蒙りて病を転(めぐら)し寿(いのち)を延(の)べて、世間に安住せん。 若し是定業(これさだまれるごう)にて世に背かば、浄土に往登(ゆきのぼ)りて早く妙果に昇らん」と。二月二十一日癸酉に王后即世(うせま)しぬ。翌日に法皇も登遐(うせま)しぬ。癸未年(六二三)三月の中に、願の如く釈迦尊像幷(ならび)に俠侍と、荘厳具(しょうごんぐ)とを敬造(うやまいつく)り竟(おわ)りぬ。斯の微福に乗(じょう)じて、道を信ける知識、現在安穏(あんのん)にして、生を出で死に入るも三主に随い奉り、三宝を紹隆(おこ)して、遂に彼岸を共にせん。六道に普遍(あまね)き法界の含識、苦縁を脱(のが)れ得て、同じく菩提に趣(おもむ)かん。司馬鞍首止利(くらつくりのおびととり)仏師をして造らしむ。
これについても、いくつか疑問点はあるけれども、何らかの釈明が可能であると考える筆者は、一応この銘文は信用する立場にあることを、まず述べておく。
疑問点の第一は、書き出しの “法興元卅一年” である。福山敏男氏は先の論文で、わが国の年制定は大化改新以後からで、それより五十余年以前に年号が定められたとは考えがたいとされた。しかし、崇峻天皇四年辛亥年(五九一)に、法興寺(飛鳥寺)が創立され、これを元年とすれば、それより三十一年後の推古天皇二十九年は確かに辛巳年(六二一)にあたっているのである。また、鎌倉時代に書かれた『日本書紀』の註釈書『釈日本紀』の中に、「伊予湯岡(いよのゆのおかの)碑文」が引用されている。これも、
法興六年十月歲在丙辰
と書き出されているが、先の考え方でいって、 法興六年の干支は丙辰年であり、何ら矛盾がない。従ってこの二例からみて、法興寺創立の年を基準とし、年次を数える方法が当時実際に行われていたと解してもさしつかえないと考えられるのである。
これに関連して、家永三郎氏が『新羅本紀』において、肇(はじめ)て仏法を行い、また始めて年号を称した(五三六)、王の諡号(おくりな)が法興王となっていることを指摘されている。こうした新羅の影響を考慮すれば、 飛鳥期の日本に、法興という年号が存在したとみることは可能であろう。
次に上宮法皇の “法皇” であるが、福山氏はこれに対しても、天皇に準ずる語であるから太子信仰の隆盛となった後世の称号であろうとみて、この銘文中に、 “法皇” が現われているのは適当でないと考えられた。しかしながら、聖徳太子が義疏(ぎそ)を作ったという法華経・維摩経の中に “法王” の語が見えており、当時中国では帝王を皇帝と号していたことから、王を皇と書き変えることは十分予想されるので、飛鳥期の日本においても “法皇” と書くことはありえたのではなかろうか。
以上のように考えれば、 “法興元卅一年” “法皇” についての疑問は一応釈明され、釈迦三尊像銘文を飛鳥時代当時のものとみなすことができようと思う。
残された問題点
この釈迦三尊像銘文に関しては、その真偽にかかわるのではないが、未だ解決されていない問題が他に二点ほどあるので、ここに考察しておくことにする。
一つは “鬼前太后” であり、その指し示す人物は、『天寿国繍帳』銘からみて聖徳太子の母にして、用明天皇の妃孔部間人(あなほべはしひと)皇女であろうが、なぜ “鬼前” と記したのかはその意味するところ不明である。一説によれば、 “鬼前” は太后の名にかかるのではなく、魄=朔、すなわち、ツイタチ死去を示す日付ではなかろうかという。しかし、間人太后は『繡帳』銘から廿一日没と考えられ、一日以外を “魄” と書くことはなく、この説は用い難い。
家永三郎氏は、その理由にはふれず “カムサキ” と仮訓された。それでは中国において “鬼” の字はいかように用いられたのであったか。鬼とは隠れたる人、鬼籍に入った、つまり冥界に生まれかわった人を示すことばであり、これは仏教・道教ともに同じように使われている。用明天皇は太后より少し前に薨じており、隠れたる前の天皇の皇后、ゆえに鬼前としたのではなかろうか。太后という意味は定着していないとしても、読み方は “キゼンノオホキサキ” がよかろうと思われる。
しかし、鬼の思想は先にもあげた通り、仏教にも道教にも存在するものである。わが国のいう “鬼” が、そのいずれに由来するかは今のところ判断はつかないが、仮りに道教の影響下にありとするならば、天皇号の源流もこの方面からきているとする説が成り立つかもしれない。
今一つは “于食王后” のよみかたである。上の文章に続けて “弗悆(ココロカラズ)于食” と読み、 “食事がうまくとれないので” と解釈する説もあるが、 “弗悆” はやはり “不予” で天子の病いを意味する語と考え(註)、前の文段の末尾につながって、このあとで文が一度、切れていると見るのが妥当であろう。
それならば、 “于食” の読み方が問題になってくるが、これまでは “カシハデ” と訓じていた。しかし “食” のみでカシハデと読めるため、 “于” の役割が浮き上がってしまうことになる。カシハデと読めば、太子の妃膳部菩岐々(かしわでほきき)美郎女(みのいらつめ)と推測することができるが、この人物は銘文に従えばここで没していることになる。だが、他の史料からして、この妃はこれより後まで生存していたらしいことが知られるのである。
筆者は “于食” はウジと読んで、敏達天皇と推古天皇の間に生まれた太子妃の一人、菟道貝鮹(うじのかいたこ)皇皇女を示すものと考えている。かつて久米邦武氏が “ウジ” と訓じた例もあったが、現在この説はあまり省みられていないようである。菟道貝鮹皇女は、早いうちに没し、また、子女もいなかった関係で、史料上からは早々に消えている女性である。しかし、もっとも素直な訓は、ウジであろうと思われる。
このように、釈迦三尊像銘文については、訓みの方でいまだ明らかでない点はあるが、従来問題にされてきた “法興” “法皇” に関しては釈明が可能であることから、この銘文をあえて後世のものと疑う必要はないと、考えるものである。
(註)
履中紀六年三月条
三月壬午朔丙申、天皇玉體不悆、水土弗調、崩于稚桜宮。
欽明紀三十二年四月条
夏四月戊寅朔壬辰、天皇寢疾不豫。