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  • 12月 22 週一 202508:00
  • 【引用】日本美術思想の帝国主義化─1910-20年代の南画再評価をめぐる一考察-2

次に「新時代」という語が当時の文芸界においてどのような意味合いを持っていたのかを考えてみよう。この語句は、一九一一年から翌年にかけての美術ジャーナリズムに見出すことが出来る。『美術新報』には一九一二年一月号から主筆の坂井犀水による「新時代の作家」と題する連載記事が掲載された。坂井は、新時代の日本人を「西洋文明の空気を呼吸し……新らしく変化した日本人である」としている。またそれゆえに「新時代」の「新日本人」には「新芸術」がなされねばならないとした。同じ『美術新報』は、日本画家に対し次のような苦言を旱してさえいる。つまり、洋画が今日の発展をなしたのは彼らが「比較的多く〔西洋の〕新智識を吸収したる連中にして……比較的優良な脳力を有」していたからであり、それに対し日本画家は「脳力の開発を要せざりし形迹」があり、「又嘗て新世界の曙光に照らされて、洗礼を受くるの機会なかりしが故に、比較的新智識の素養乏しき傾き」があるのだと。
日本画の専門誌である『絵画叢誌』にも「新時代」の語句を見出すことが出来る。西洋的知識を摂取する必要性を訴える論調は共通しているが、「支那美術が日本美術の淵源であり藍本」とした瀧精一への反論であるため、「新時代」をもう一歩つきつめて中国との関連で論じている点が異なっている。「いふ迄もなく支那は日本美術の唯一の母国であつた。……けれども支那の役目は既に終つた。日本美術は、業に已にその母国から離れて、全く独立の状態に立ちつつあるではないか、且つかうなるのは当然の成行と思ふ。……支那は最早や日本を教ゆる資格がない。我日本は、更に別の方法を以て、別の方面に、新時代に適応した智識を求むる必要が迫つて来た。我々の、支那を捨て、欧西の国に向ふのは、穴勝ち新奇を好む俗情にのみ駆られて居る所業でもあるまい。現在に於て、目本の文明は遥かに支那の上にあると思ふ、独り美術ばかりが支那に下るとは到底考え得ないのである」
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日本美術史 日本美術 南畫

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  • 個人分類:日本美術史
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  • 12月 21 週日 202508:00
  • 【引用】日本美術思想の帝国主義化─1910-20年代の南画再評価をめぐる一考察-1

千葉慶
 
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日本美術史 日本美術 南畫

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  • 個人分類:日本美術史
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  • 12月 21 週日 202508:00
  • 【引用】日本美術思想の帝国主義化1910-20年代の南画再評価をめぐる一考察-1(#49787415)

千葉慶 はじめに一八八〇年代から九〇年代において日本美術のカノンから排除された、漢画の一種である南画(文人画)は、一九一〇年代以降に再評価がなされた。この再評価の要因については、酒井哲朗が同時代の後期印象派受容の関わりをすでに指摘している。南画は後期印象派・表現主義と似ているとされることによって、西洋美術に匹敵する「近代的」美術として論じられるようになったのである。なお一九一〇年代から二〇年代は、南画ブームが画壇を席捲する。このブームに関しては、一九九〇年代に宮城県美術館・群馬県立近代美術館などが企画展を開催しており、洋画・日本画の垣根を越えたブームの全体像が具体的な作例によって明らかになりつつある。本稿はこれら先行研究の成果を踏まえた上で、南画再評価の政治的意味を歴史的文脈に則して再考する。そこで、先行研究では必ずしも重視されてこなかった南画再評価に関する先駆的学術論文である田中豊蔵「南画新論」(『国華』一九一二〜一三年)を起点に、同時代における日本の帝国化という歴史的コンテクストに南画の再評価言説を位置付けなおし、南画を「近代的」美術と位置づける実践が、第一に当時の文芸界・学界・画壇において誰に対しどのような呼びかけをなしたのか、第二にそれがどのような文化的応答を引き起こしたのかを考察してみようと思う。 一.「南画新論」と日本美術思想の帝国主義化「南画新論」は、一九一二年三月、五月、六月、九月、一九一三年三月、五月、一〇月の七回に渡って、『国華』に断続的に掲載された。この論文の大きな特徴は、これまで岡倉天心やフェノロサらによって日本美術のカノンから排除されていた南画の徹底的な再評価にある。周知のように、フェノロサは一八八二年の『美術真説』で欧米の絵画概念と合い入れない詩画一体の文人画様式を批判したほか、一八八五年の講演でも「支那文人画の輸入により大いに人民の気韻好尚が傷つけられた」とした。天心も東京美術学校の日本美術史講義(一八九〇〜九三)で、南画を「支那崇拝」「支那癖」と罵倒した。また、一八八九年の美術展批評では、文人趣味を「王侯貴紳の玩弄」であるとし、よって「開明生活の必要物にして国民観念の代表物たる美術」にふさわしくないとした。南画はその中国的性質により「国民観念の代表物たる美術」から排除された。実際、天心は、自らが一八八九年に創刊した「美術は国の精華」をモットーにした日本美術史研究誌『国華』、同年に開校した官立の東京美術学校において、南画を「美術」から排除した。一八八〇年代から九〇年代は、憲法発布や国会開設に代表される国民国家制度の、そして美術制度の確立期である。美術制度は、日本が「世界の一等国」に相応しい文化性を持つことを欧米に対して示すために導入された。そのため日本美術思想は、一国の「国民文化」を論じなければならず、南画(内なる中国文化)は「国民文化」の夾雑物とされ排除されたのである。ところで、日本美術の捉え方は、日露戦争によって欧米諸国の一角に勝利し、不平等条約を改正し、日本が「世界の一等国」としての自意識を確立していく過程で変化する。夏目漱石は一九一三年の「模倣と独立」と題する講演で、日本は、古くは中国、今は西洋の模倣ばかりしているが、日露戦争の勝利によって軍人が「インデペンデント」であることが証明された。そろそろ「西洋に対して日本が芸術においてもインデペンデントであるという事ももう証明されても可い時である」と論じた。日露戦争後の日本の国是は、欧米並を目指し欧米を模倣することから、欧米に対抗し乗り越え得る独自性の追求へと変化したのである。しかも世紀転換期から一九一〇年代にかけて、日本は、台湾・朝鮮という植民地を有し、中国の一角に満鉄という排他的利権を有すことで、本国以外の「東洋」の地に文化的政治的経済的覇権を追求する帝国と化した。日本の帝国化は日本美術思想にも大きな影響を与えた。官製の美術史である『稿本日本帝国美術略史』の序文(一八九九年執筆)は、日本美術を「日本特有の趣致を有する」のはもちろん「その骨子たる嘗て東洋美術の粋を集めて構成したるもの」に他ならないと再定義した。以後の日本美術思想は、「東洋の代表」としての日本の自画像を積極的に論じる傾向、換言すれば中国を含む「東洋」の文化を積極的に日本の歴史的文化的資産目録に組み入れようとする膨張主義的傾向へと変容する。これを日本美術思想の帝国主義化と呼ぶことにする。田中豊蔵の「南画新論」が『国華』に掲載された一九一〇年代初頭には、日本の帝国化に伴ってさまざまな学問分野で東洋研究が盛んになったのと同様、美術界でも東洋研究が盛んになった。大村西崖が中心となって一九〇八年から発行された『東洋美術大観』は、一九一〇年から中国美術編が刊行され始めた。同年に西崖は失敗したものの中国への取材旅行を計画している。さらに、辛亥革命に伴い中国から羅振玉などの学者が日本に亡命し、彼らと提携した内藤湖南などにより京都の支那学が勃興した。そして彼らを媒介にして多くの中国絵画が請来された。また『国華』の主幹・瀧精一は一九一〇年に京大の調査隊に同行して中国へ取材旅行に出かけている。それに伴って『国華』では一九一〇年から翌年にかけて中国美術関連記事が増え始めた。ここで注目しておきたいのは、日本の東洋研究(主に中国研究)が欧米列強諸国と競合関係にあったことである。瀧は「支那美術の流行」というエッセイで世界的な中国美術研究の流行を指摘している。東洋研究の進展は、「支那美術が日本美術の淵源であり藍本」であるということを西洋の研究者に認識させたと瀧は論じた。なおこの意見は「日本美術は東洋美術の粋を集めたもの」という説を切り崩し、「日本美術は支那美術に比して大いに劣つて居る」という解釈を引き起こす可能性があるという批判を直ちに浴びた量。そのため、このような解釈が定説化されることを避けるためにも、日本人による、日本美術に都合のよい中国美術の再定義が必要とされるに至る。こうした学界の状況のもとで「南画新論」は書かれた。南画は、「東洋の代表」としての日本を世界的に示すためにも、日本美術の前段階である「東洋美術」として日本美術史の中にもう一度、定位される必要があったのである。 
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  • 個人分類:日本美術史
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  • 12月 20 週六 202508:00
  • 【展覽】台南市美術館:福爾摩沙時代─臺灣近現代美術的知識啟蒙-2

【展覽】台南市美術館:福爾摩沙時代─臺灣近現代美術的知識啟蒙

Since the arrival of the Dutch and Spanish, and through the early Qing establishment of urban centers, Japan’s relocation of its colonial capital, and the postwar arrival of the Kuomintang government, Taiwan has accumulated diverse historical and cultural legacies amid frequent political shifts and ethnic exchanges, revealing dynamic, hybrid maritime characteristics. Since the Age of Discovery, encounters with diverse cultures—and the subsequent wave of modernization—have not only propelled Taiwan onto the global stage but also sparked an inward cultural turn. This shift has paved a way for a new culture that transcends borders and embodies openness, introspection, and progress. Much like sculptor Huang Tu-shui’s century-old call to create a “Formosa Era,” this call has not faded with time but instead has become a vital beacon in shaping our local identity and intellectual enlightenment.
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福爾摩沙時代 台南市美術館 台南市 台灣美術史 台灣美術

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  • 個人分類:看展
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  • 12月 19 週五 202508:00
  • 【引用】風景画の成立─日本近代洋画の場合-3

四 画題の変遷
一八九七(明治三〇)から一九〇〇年(明治三三)にかけて、「風景画」という言葉が美術用語として登場する事情をみてきたが、その登場は、白馬会流の「あるがままの自然」をえがいた風景画が登場する時期である。この登場は、作品の画題の変遷ともかさなっている。
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  • 個人分類:日本美術史
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  • 12月 18 週四 202508:00
  • 【引用】風景画の成立─日本近代洋画の場合-2

三 用語としての「風景」画
一九〇〇年前後の風景画の表情を前提として、この時期の風景画の表情の特徴をよりあきらかにするために、「風景画」という言葉についてかんがえたい。このことは、風景画を分類する上で、基本的な判断基準となりうるし、言葉はその時期の意識をあきらかにしているからである。
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日本美術史 風景畫

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  • 個人分類:日本美術史
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  • 12月 18 週四 202508:00
  • 【引用】風景画の成立日本近代洋画の場合-2(#49785144)

三 用語としての「風景」画一九〇〇年前後の風景画の表情を前提として、この時期の風景画の表情の特徴をよりあきらかにするために、「風景画」という言葉についてかんがえたい。このことは、風景画を分類する上で、基本的な判断基準となりうるし、言葉はその時期の意識をあきらかにしているからである。そのことを、「辞書にみる用語の変遷」と「用語としての『風景画』の現れ」という二つの命題について考察する。(一)辞書にみる用語の変遷「辞書にみる用語の変遷」については、蘭和辞書あるいは英和辞書および明治期を中心に使用された国語辞典を参照することができる。明治時代以前において、landshapを「野ノ景色ヲ画イタル繪」、landshapshilderを「『ランドスカップ』ヲ画ク人」というように、すでに「風景画」と「風景画家」について基本的な概念をあきらかにしようとしていることがわかる。また、『和蘭字彙』において、「landshap」に対して「野ノ景色ヲ画イタル繪」とあることは、「景色画」というひとつのまとまりをもつ単語の出現がこの時点において予想されうる。すなわち、「野ノ景色ヲ画イタル繪」から「野」と「...(シ)タル繪」を取り除いてしまえば、「landshap」はただちに「景色画」となりうる。しかし現実に、「景色画」として、「景色」と「画」が結合するのは、明治一〇年代以降のことのようである。彰技堂での本多錦吉郎の訳述講義『油画道志留辺』を、一八八三年(明治一六)坂広が筆記したなかに、「扨油画ヲ学ブニハ景色画を初歩トシ」とあるのなどは、「景色画」の用語使用のはやい例であろう。しかしこの時期、「明治十五年内国絵画共進会規則」第一六条ー歴史上ノ絵ニハ其解説、真景ニハ其地名ヲ記載シテ添へ出スベシー」にみるように、「真景」という言葉がなおも使用され、その内実の意味も失われていないようである。さらに、明治維新以前の段階で、「景色画家」という言葉が成立してこないことについては、わが国の画家の専門分野としての風景画家という概念が定まっていない時代であってみれば、当然のことであろう。一八七三年(明治六)の『英和字彙』においては、「landscape-painter」に対して「山水畫工」が当てられていることからかんがえると、この「山水畫工」という言葉には近世的な響きがあり、明治時代入ってなお、近世的な要素を引きずっていた一例といえる。その後においても、明治一〇年代に、たとえば前出の『油画道志留辺』などに「山水画家」という言葉がみられる。「山水」という言葉そのものはなお広く使用された言葉であった。おそらく、明治時代をつうじて、日本画の分野においては風景をあらわす言葉は「山水」ではなかったかとおもわれる。洋画の分野においても、「山水」の残像が影響して、「山と水とがえがかれた風景」画に対して、「山水画」という意識が強く残り、「景色」あるいは「風景」という言葉が定着することを滞らせたといえるのではないだろうか。さきに紹介した岡見千吉郎の《山水》は、まさに「山と水とある風景」画であった。画家の概念については、一九〇九年(明治四二)の『日本類語大辞典』の「ゑかき」(繪書)の項において、水彩画家、西洋画家(洋画家)、肖像画家などとともに写生画家が表記され、「写生のみなす」画家とされている。「写生」とは本来「もののいきうつし」であり、一八九八年(明治三一)初版発行の『ことばの泉』おいて、「いきうつし」(活写)は「絵画の真にせまりて妙なること」とある。一九二七年(昭和二)初版発行の『言泉』において、「写生」は「絵画.文章などにて、景色・状態などをあるがままに写すこと」とされ、今日の用語例に添うものとなったが、明治四〇年代、風景画家がはたして『日本類語大辞典』記載の洋画家、写生画家のどちらに包含されるのかは分明ではない。しかし、すくなくとも明治末年にあって、一般に「風景画家」が使用頻度がある言葉とはみなされていなかったということはわかる。このことは、後述する用語としての「風景画家」の登場で再度確認されることがらである。国語辞書において、「風景画」と一「風景画家」が項目にあげられてくるのは、ようやく一九二七年(昭和二)になってからのことである。しかし、「風景画」と「風景画家」が実際に使われだしたのは、次節でふれるように、もっと早い時期のことであった。
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  • 個人分類:日本美術史
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  • 12月 17 週三 202508:00
  • 【引用】風景画の成立─日本近代洋画の場合-1

松本誠一
 
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日本美術史 日本美術 風景畫 洋畫

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  • 個人分類:日本美術史
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  • 12月 17 週三 202508:00
  • 【引用】風景画の成立日本近代洋画の場合-1(#49785132)

松本誠一 はじめに一九〇〇年(明治三三)前後を境とし、日本近代洋画史における風景画は、その形式も内容も変化の様相をつよくしめすようである。そうした近代洋画史に変化をもたらしたのが、一八九三年(明治二六)にフランスから帰国した黒田清輝の存在であった。画塾天真道場、洋画団体白馬会の結成と活動をつうじて、かれの色彩の明るさに端的にみとめられるあたらしい画法は、新派、紫派とよばれ、それ以前の洋画が旧派、脂派とみなされることになる。本稿では、この一九〇〇年(明治三三)前後を境とした日本近代洋画史における変化の様相を、風景画の分野において考察しようとするものである。そのことにより近代洋画史における或る特質をみいだすことができると思われる。 一 前提日本近代洋画史において、岡田三郎助は黒田清輝、久米桂一郎らとともに近代洋画のアカデミズムを形成し、その頂点に位置した画家であった。黒田は、作品制作の理念の提示と美術行政において手腕を発揮し、久米は美術理論の啓蒙でその役割を果した。それに対し岡田は、作品制作の行為をつうじてアカデミズム形成の主要な柱となった。一般に、岡田三郎助は婦人像、裸婦像をえがいた画家として知られているが、実は、画業の過半は風景画の制作である。私は『美術史』第=二二冊において、岡田三郎助の風景画を問題とし、一九三八年(昭和一三)、岡田が最晩年にえがいた風景画の代表作《河口湖畔》について、その「安定した構図」の由来を解明し、かれの風景画において構成的で安定した形式が成立した過程をかんがえた。こうした風景画における「安定した構図」への志向は、ひとり岡田においてのみならず、この時代の周辺の一部の画家においても、同様にみとめられるところであった。とくに官展系の画家についてそのことがいわれる。
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  • 個人分類:日本美術史
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  • 12月 16 週二 202508:00
  • 【引用】昭和前半期の美術 植民地・占領地の美術-3

東南アジア 
一九四一年十二月八日マレー半島やフィリピンに攻撃を加えた日本軍は、短期間の内に東南アジアのほぼ全域を占領し、軍政を敷いた。軍政の実態は、地域によって状況も異なり、占領した軍隊の方針も一様ではなく、一律に述べることはできない。ここでは、文化行政が組織的に行われたオランダ領東インド(当時「蘭印」、現在のインドネシア)のジャワ島を中心に、三年半と短期間ではあったが、各地に強い衝撃を与えた日本軍政の美術分野における実態と美術史上の役割を考察したい。
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