四 画題の変遷

一八九七(明治三〇)から一九〇〇年(明治三三)にかけて、「風景画」という言葉が美術用語として登場する事情をみてきたが、その登場は、白馬会流の「あるがままの自然」をえがいた風景画が登場する時期である。この登場は、作品の画題の変遷ともかさなっている。

一八九七年から一九〇〇年までの当時の有力な美術展覧会における画題のうち、単に「山水」「景色」「風景」という題名を冠した作品の出品の状況をみてみる。このうち白馬会とも提携して展覧会を開催した日本絵画協会は、一八九一年(明治二四)設立の日本青年絵画協会が一八九六年(明治二九)に日本絵画協会と名称を改めたもので、日本画家の集まりである。そのため風景一般を指し示す作品の題名としては、「山水」が使用されている。

問題は、同じ洋画家の団体である明治美術会と白馬会のそれぞれの展覧会における風景一般を指し示す用語として、どのような変化がみられるのかということである。

一八九七年の時点で、白馬会展に関しては、出品目録に、「景色」あるいは「風景」という標題をもった作品が一点もみられない。すなわち、一八九六年、一八九七年開催の第一回、第二回白馬会展においては、いわゆる風景画としての題名は、具体的な地名であり、季節や天候をあらわす言葉が使用され、その作品の標題をみれば、おおよそその作品の内容が判断されるというような、作品に即した直截的な題名であった。

一八九八年(明治三一)の第三回白馬会展、明治美術会創立一〇年紀念展では、「風景」という題名はなく、白馬会展、明治美術会展ともに「景色」という題名のみである。それが、一八九九年(明治三二)の第四回白馬会展を境に、「風景」という題名に一変する。一八九九年、一九〇〇年の明治美術会展についての目録等の資料については不十分な点を残しているが、しかしそれでもひとつの事実を指摘することができる。それは、「風景」という作品の題名が、一八九九年の第四同白馬会展を境にして突如としてあらわれてくるという事実である。

この事実もまた、これまで問題としてきた言葉としての「風景画」が使用されてくる事情とかさなりあう事実である。この時期、あるがままの自然をえがくということに対して、もはや説明する必要がなくなり、えがかれるモチーフは当然自然の一辺であってよく、具体的な固有名詞は必要でなくなったわけである。絵画表現の主題として、自然そのものが対象とされるようになった事情を反映している。

 

おわりに

以上みてきたように、一九〇〇年前後の風景画は、小風景すなわち自然主義的風景画に、人物がえがきこまれない、いわば「自然の一辺」をえがいたような風景画を中心に展開されていくことになる。このことは、新しい意識として、あちたな革袋すなわち言葉・用語を必要とした。そのことが、「風景画」という言葉の登場であった。そうした言葉と作品の現実のまじわりを、われわれは一八九九年の第四回白馬会展、一九〇〇年前後の風景画において目の当りにすることができたのである。

しかし、なにゆえ「風景」という言葉が、最終的に「画」に結びつき風景画として登場してきたのか、ということは明確にはなっていない。風景という言葉は、八世紀の漢詩集『懐風藻』および『万葉集』にみられ、中世、近世を通しても使用されてきた言葉である。一八九四年(明治二七)に公刊された志賀重昂の『日本風景論』が九年間に一五版を重ねるほどのベストセラーになり、そこでしめされたさまざまな「日本風景」が、単なる名所旧跡をはるかに越えた内容を含んで、あらたに立ちあらわれてきたことは、「風景」という古い言葉に新しい意味が盛られたことをかんがえさせる。そのことが「風景」という言葉を風景画に転化させたことに関係があるかもしれない。

日本近代洋画史において、一九〇〇年前後を境として、「あるがままの自然」をえがくことが画家の意識にはっきりと自覚されてきたことは、とくに白馬会の画家たちの作品にそのことが自覚されたことは、これまで述べてきたところであるが、そこには「景色」から「風景」という用語の転換をともなっていた。そして歴史性と思想性から離れた「あるがままの自然」をえがいた風景画が、絵画の固有な領域として出現したのである。

しかし現実には、はじめに述べたように、その風景画も「様式化される風景画」という傾向を秘めていたというべきである。これは近代風景画の成立に働いた別の条件の検討が必要となってくる。表現の変化のみならず、広い意味での日本の近代画家の制度にも関係するのであろう。

(本稿は、平成五年一〇月、慶應義塾大学における第四四回美学会全国大会の研究発表にもとついている。)

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