次に「新時代」という語が当時の文芸界においてどのような意味合いを持っていたのかを考えてみよう。この語句は、一九一一年から翌年にかけての美術ジャーナリズムに見出すことが出来る。『美術新報』には一九一二年一月号から主筆の坂井犀水による「新時代の作家」と題する連載記事が掲載された。坂井は、新時代の日本人を「西洋文明の空気を呼吸し……新らしく変化した日本人である」としている。またそれゆえに「新時代」の「新日本人」には「新芸術」がなされねばならないとした。同じ『美術新報』は、日本画家に対し次のような苦言を旱してさえいる。つまり、洋画が今日の発展をなしたのは彼らが「比較的多く〔西洋の〕新智識を吸収したる連中にして……比較的優良な脳力を有」していたからであり、それに対し日本画家は「脳力の開発を要せざりし形迹」があり、「又嘗て新世界の曙光に照らされて、洗礼を受くるの機会なかりしが故に、比較的新智識の素養乏しき傾き」があるのだと。

日本画の専門誌である『絵画叢誌』にも「新時代」の語句を見出すことが出来る。西洋的知識を摂取する必要性を訴える論調は共通しているが、「支那美術が日本美術の淵源であり藍本」とした瀧精一への反論であるため、「新時代」をもう一歩つきつめて中国との関連で論じている点が異なっている。「いふ迄もなく支那は日本美術の唯一の母国であつた。……けれども支那の役目は既に終つた。日本美術は、業に已にその母国から離れて、全く独立の状態に立ちつつあるではないか、且つかうなるのは当然の成行と思ふ。……支那は最早や日本を教ゆる資格がない。我日本は、更に別の方法を以て、別の方面に、新時代に適応した智識を求むる必要が迫つて来た。我々の、支那を捨て、欧西の国に向ふのは、穴勝ち新奇を好む俗情にのみ駆られて居る所業でもあるまい。現在に於て、目本の文明は遥かに支那の上にあると思ふ、独り美術ばかりが支那に下るとは到底考え得ないのである」

一九一〇年代の文芸界における「新時代」とはつまり、前章で参照した漱石の「模倣と独立」の整理に倣えば、日露戦争以後、日本が「世界の一等国」となり中国と西洋からの「独立」を目指す時代を指している。新時代に適応した西洋的知識の摂取は、かつての文化的母国である中国と日本を差異化する指標であり日本の優位性を保証した。

なお、新時代における西洋的知識の摂取は直ちに西洋「模倣」を指すものとはされなかった。次に見るのは、夏目漱石が一九〇八年に発表した小説『三四郎』である。漱石は作品中で「新時代の青年」に自らの立場を次のように語らせている。

「新らしき西洋の圧迫は社会の上に於ても文芸の上に於ても、我等新時代の青年に取つては旧き日本の圧迫と同じく苦痛である。/我々は西洋の文芸を研究するものである。然し研究は何所迄も研究である。その文芸の下に屈従するのとは根本的に相違がある。我々は西洋の文芸に囚はれんが為に、これを研究するのではない。囚はれたる心を解脱せしめんが為に、これを研究してゐるのである。此方便に合せざる文芸は如何なる威圧のもとに強ひらるるとも学ぶ事を敢てせざるの自信と決心とを有して居る。/我々は此自信と決心とを有するの点に於て普通の人間とは異つてゐる」

漱石の描く「新時代の青年」は、当時の『国華』(一九〇八年二月号)が漱石を評した「西洋文学を研究して新日本文学に貢献せる」作家誓というイメージにほど近い。もちろん、この「新時代青年」は漱石自身を指してはいない。むしろこのイメージは漱石が彼の弟子世代から得たものといった方がよい。漱石自身は、青年の演説にある、「旧き日本の圧追」(文壇やアカデミーを支配する旧世代)の側に位置づけられていたと見る方が適当だろう。『三四郎』は本郷文化圏に取材した小説であり、「新時代の青年」とは端的には東大の男性エリートたちを指している、田中豊蔵が『三四郎』発表当時、まさに東大の支那文学科の学生であり、のちに漱石の門下である阿部次郎や小宮曲豆隆などと「リップス会一で親交を結ぶことや、「南画新論」連載当時の『国華』主幹であった瀧精一が漱石と友人であったことなどから考え、漱石のいう「新時代の青年」は田中自身の抱く世代意識に近い位置にあったのではなかろうか、「新時代の青年」にとって、西洋的知識の摂取は「西洋」の束縛から解脱する手段であった。この主題は後の独立美術協会(一九三〇〜)や『近代の超克』(一九四二)にも引き継がれる。

ところで、「南画新論」は田中にとって身近な読者共同体にだけ向けられたものではない。それは「新時代の吾等」という共感の共同体の範囲を社会的に拡人させる言説装置となり得た。この衒学的な論文に共感できない読者は時代遅れで「素養乏しき」人間、つまり「支那崇拝」や「西洋崇拝」にとらわれた旧時代の主体と見なされたが、共感できれば、「普通の人間」とは違い西洋的知識を自由に操る、新時代」の主体を気取ることができ、南画の「近代性」を理解することで西洋から「独立」するための文化資源を得ることが出来たのである。

 

三.「南画新論」から新南画・東洋主義へ

一九一〇年代から二〇年代の画壇には南画プームが起こっている。この時期以降には、田中以外にもさまざまな論者によって南画と後期印象派・表現主義の類似が語られ、南画は西洋近代美術同様あるいはそれ以上に「近代的」であるという言説が画壇で支配的となった。またこれと前後して、「新時代」の洋画家による、南画からヒントを得た非写実的で人格主義的な油絵が盛んに制作されるようになった。洋画壇の南画再評価は反官展的動向と結びつく面もあった。「新時代」の画家たちの目には南画の非写実主義が、官展の主流の写実主義や外光派の対極である、後期印象派や表現主義同様に魅力的に映ったのである。また今村紫紅を始めとする日本美術院周辺の日本両家の間でも旧来の南画の漢学趣昧とは違う、後期印象派を経由した新しい意匠の南画が制作された。『中央美術』一九一七年七月号はこの流行を受けて、「新南画を!之れ現時日本画界の若い作家の胸中に漲り起こる声である」という一文で始まる「新南画」の特集記事を組んだ。同記事は新南画の作家として目本画家では今村紫紅、横山大観、寺崎廣業、結城素明、平福百穂、橋本関雪、富田渓仙、安田靱彦、小林古径、洋画家では小杉未醒、満谷国四郎、森田恒友を挙げている。新南画は、「若い作家」の運動であるとされながら、美術院の重鎮で「北画」の系譜をひく横山大観がそこに含まれるとされるなど定義が曖昧である。また、新南画の作家とされた人びとに様式的観点から明確な共通点を見出すことは難しい、ただ、新南画という言辞は、この動きが旧に対する)「新時代」「新日本人」「新芸術」と結びつけて理解されていた証しである。なおこの特集号では「思想界の先達が近時南宗画の研究に指を染め始めた事も新機運蔚興の動力となつてゐる」ことが自覚されている。田中豊蔵が意図した「将来の日本画の立脚地の一部となり得る」ような「新時代」の南画新解釈がこの流行の一端を担っていたことがわかる。『国華』も一九一七年一一月号で瀧精一「大和絵及び南画の復興」、滄涼子(田中豊蔵)「所謂南画的新傾向に就て」を掲載し新南画を論じている。田中はこの新傾向を後期印象派以後の「近代西洋芸術界における非写実的なる新運動」と結びつけ、日本の画壇に特殊な現象ではなく、「新世紀に入つて以来全世界を貰流する大潮流の一支脈」とした。

新南画の制作は、東洋美術至上主義論を派生させた。新南画を制作した画家の一人である萬鉄五郎は、一九二〇年代になって新南画を理論的に「東洋主義」と位置付けなおしている。彼には東洋美術は西洋美術を先駆けているゆえに西洋に対して東洋は文化的優位性に立つという信念があった。その信念は、南画の精神に新しき生命を与えることで、自分たちが世界の画壇における本流に立てる可能性があるという主張に繋がる。彼の主張は、漱石の「模倣と独立」を援用して言い換えるならば、日本の画家は西洋から「独立」し逆に西洋が「模倣」するような存在になるべきとする主張である。なお彼の説は根拠なしに述べられたのではない。南画を近代芸術であるとした田中豊蔵の「南画新論」や近代芸術の「非写実的傾向」は東洋においては「初手から」自明のことであるとする「所謂南画的新傾向について」のような学術的研究は彼の論を強力に支える根拠になり得た。以後の南画論の東洋至上主義はエスカレートしていく傾向にあり、批評家の梅沢精一は二〇世紀の西洋美術は必ずや東洋文人画に憧憬し心服するであろうと評した。さらに、南画家の橋本関雪は、一九二四年の『南画への道程』で「南画の世界的位置とその優越」を宣言するに至る。

なお、この時代の南画論には西洋に対する東洋の優位の主張だけでなく、日本を中国に対して優位に位置付け「東洋の代表」とする主張が含まれていた。そこには「日本美術は支那美術に比して大いに劣つて居る」という説を否認しようとする無意識的欲望が存在していたのではないか。以下に挙げる「中国は文化的に衰退している」とする言説は当時の中国に対する論者なりの客観的認識であると同時に、彼らが暗に望む中国像である。例えば、中村不折は一九一三年の『支那絵画史』で「東洋の絵画は、支那大陸を以て其所生の母となす」としつつ、「現代の支那は、其国運の傾けると共に墨林芸園に於ても、亦頗る寂寞を極め」ていると主張することを忘れなかった。瀧精一も「清朝の文人画は明末程に善いものがない代りに、日本に於ては江戸時代の中期以降それが立派に発達を遂げた。現在に於ては支那は文人画のみならず、他の画も甚だしく衰微してゐる」とした。また、梅沢精一は一九一九年の『日本南画史』の中で「世界の五大強国の一にして、東洋文明の指導者」である日本は、偏狭なる日本主義を棄てて東洋人の趣味としての南画を描くべきだと主張した。中国を日本中心の全体性である「東洋」に語り組み入れるこの種の南画論は、一九一〇年代後半以降「民族自決権」を脅かす行為に対する批判的風潮が世界的に高まり中国に対する新たな形での非公式支配の方法が模索されるようになるにつれて、政治的な有用性が生じていったと思われる。この傾向は小室翠雲らの大東南宗院(一九四一)の活動にも見出すことが出来るだろう。

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