三 用語としての「風景」画
一九〇〇年前後の風景画の表情を前提として、この時期の風景画の表情の特徴をよりあきらかにするために、「風景画」という言葉についてかんがえたい。このことは、風景画を分類する上で、基本的な判断基準となりうるし、言葉はその時期の意識をあきらかにしているからである。
そのことを、「辞書にみる用語の変遷」と「用語としての『風景画』の現れ」という二つの命題について考察する。
(一)辞書にみる用語の変遷
「辞書にみる用語の変遷」については、蘭和辞書あるいは英和辞書および明治期を中心に使用された国語辞典を参照することができる。
明治時代以前において、landshapを「野ノ景色ヲ画イタル繪」、landshapshilderを「『ランドスカップ』ヲ画ク人」というように、すでに「風景画」と「風景画家」について基本的な概念をあきらかにしようとしていることがわかる。また、『和蘭字彙』において、「landshap」に対して「野ノ景色ヲ画イタル繪」とあることは、「景色画」というひとつのまとまりをもつ単語の出現がこの時点において予想されうる。すなわち、「野ノ景色ヲ画イタル繪」から「野」と「...(シ)タル繪」を取り除いてしまえば、「landshap」はただちに「景色画」となりうる。しかし現実に、「景色画」として、「景色」と「画」が結合するのは、明治一〇年代以降のことのようである。彰技堂での本多錦吉郎の訳述講義『油画道志留辺』を、一八八三年(明治一六)坂広が筆記したなかに、「扨油画ヲ学ブニハ景色画を初歩トシ」とあるのなどは、「景色画」の用語使用のはやい例であろう。しかしこの時期、「明治十五年内国絵画共進会規則」第一六条ー歴史上ノ絵ニハ其解説、真景ニハ其地名ヲ記載シテ添へ出スベシー」にみるように、「真景」という言葉がなおも使用され、その内実の意味も失われていないようである。
さらに、明治維新以前の段階で、「景色画家」という言葉が成立してこないことについては、わが国の画家の専門分野としての風景画家という概念が定まっていない時代であってみれば、当然のことであろう。一八七三年(明治六)の『英和字彙』においては、「landscape-painter」に対して「山水畫工」が当てられていることからかんがえると、この「山水畫工」という言葉には近世的な響きがあり、明治時代入ってなお、近世的な要素を引きずっていた一例といえる。その後においても、明治一〇年代に、たとえば前出の『油画道志留辺』などに「山水画家」という言葉がみられる。
「山水」という言葉そのものはなお広く使用された言葉であった。おそらく、明治時代をつうじて、日本画の分野においては風景をあらわす言葉は「山水」ではなかったかとおもわれる。洋画の分野においても、「山水」の残像が影響して、「山と水とがえがかれた風景」画に対して、「山水画」という意識が強く残り、「景色」あるいは「風景」という言葉が定着することを滞らせたといえるのではないだろうか。さきに紹介した岡見千吉郎の《山水》は、まさに「山と水とある風景」画であった。
画家の概念については、一九〇九年(明治四二)の『日本類語大辞典』の「ゑかき」(繪書)の項において、水彩画家、西洋画家(洋画家)、肖像画家などとともに写生画家が表記され、「写生のみなす」画家とされている。「写生」とは本来「もののいきうつし」であり、一八九八年(明治三一)初版発行の『ことばの泉』おいて、「いきうつし」(活写)は「絵画の真にせまりて妙なること」とある。一九二七年(昭和二)初版発行の『言泉』において、「写生」は「絵画.文章などにて、景色・状態などをあるがままに写すこと」とされ、今日の用語例に添うものとなったが、明治四〇年代、風景画家がはたして『日本類語大辞典』記載の洋画家、写生画家のどちらに包含されるのかは分明ではない。しかし、すくなくとも明治末年にあって、一般に「風景画家」が使用頻度がある言葉とはみなされていなかったということはわかる。このことは、後述する用語としての「風景画家」の登場で再度確認されることがらである。
国語辞書において、「風景画」と一「風景画家」が項目にあげられてくるのは、ようやく一九二七年(昭和二)になってからのことである。しかし、「風景画」と「風景画家」が実際に使われだしたのは、次節でふれるように、もっと早い時期のことであった。
「辞書にみる用語の変遷」のなかで、細かい事柄ながらも留意されるべきことは、『和蘭字彙』から『英和對譯袖珍辞書』へと受け継がれる過程で、「野ノ景色ヲ画イタル繪」が「国ノ景色ヲ画キタル繪」となり「野」から「国」への転換がみられることである。このことは、さきに作品の分類においてみたように、明治二〇年代、三〇年代の風景画には、明治美術会系のいわゆる遠望される風景画があり、それらはいわばスメラミコトの国見のように「国の景色」を、かれら洋画家がえがいたことを傍証するものともみられよう。
(二)用語としての「風景画」の現れ
この考察の意図は、「風景画」と「風景画家」という言葉がいつ頃から、どのようなかたちで使用されはじめるようになったのかということである。このことについては、前段で触れるところがあったが、当時の美術家たちの遺した言葉を基本にするならば、「真景」「山水(画)」「景色(画)」という用語の使用例が、明治初年から明治二〇年代をつうじてみとめられる。
「風景画」という言葉は一八九七年(明治三〇)に初出を見、「風景画家」については、一九〇〇年(明治三三)に初出をみるということが現時点でわかる。この「風景画」と「風景画家」という言葉が掲載された雑誌は、いずれも『美術評論』であり、『美術評論』の創刊は一八九七年(明治三〇)一一月一四日であることから、創刊と同時に、「風景画」さらにそれ以後には「風景画家」の使用がみられるということになる。
『美術評論』は大村西崖を主筆とし、森鴎外、久米桂一郎、岩村透らを中心に東京美術学校の関係者による作品批評、展覧会、その他美術・美術史関係の記事を掲載した美術雑誌である。一九〇〇年(明治三三)三月一〇日には終刊をむかえた。わずか三年という短い期間の活動とはいえ、内容的には、東京美術学校、白馬会を対象にした批評活動をおこなった。このことからも想像できるように、「風景画」さらには「風景画家」という言葉が意識されて使われたのは、おもに白馬会系の画家たちを対象としていたといえる。
実際にどのようなかたちで、こうした「風景画」「風景画家」という用語がつかわれ、それに対して「山水図」「景色画」という言葉がどのような位置に定められようとしたのかについて、具体的なそれぞれの用語の使用例を比較してみたい。
まず、一八九七年の『美術評論』第二号に掲載された和田英作の《海辺の松林》(田山花袋記念館蔵)についての批評をみてみる。この作品は第二回白馬会展に出品された。その展覧会出品作品について、それぞれが筆名で言いたいことを自由に述べる批評欄のなかで「風景画」の言葉の初出をみることになる。そのなかで一曲氏この筆名は誰なのか特定できないが「憶ふに風景畫などは、作家が其場所と位置との撰擇だに謬らざれば、其景其儘にて充分趣味のある者にして。なまじい高尚とか何とか妙に気取りて、幼稚なる想像力もて實景を漫に取捨増減して、奇變の山水圖を作るよりは、遙かに數倍の妙味ありて、余は風景畫は兎角自然に限ると思ふ。」と述べている。「山水図」についての否定的な見解と、それに対して「風景画」の「あるがままの自然」の描写の姿勢を積極的に評価するという態度がよみとれる。
こうした批評には、森鴎外が述べた、前の年の一八九六年(明治二九)一〇月開催の第一回白馬会展についての批評の一文「世には南派の作總て自然の一邊にのみ拘泥せるが如く思へるものもなきにあらねど」とあることを考えあわせるならば、美術用語としての「風景画」の現れは、白馬会の画家たちにおいて、「自然の一邊」を「漫に取捨増減」することなく「其儘」えがくような作品が出現したことと軌を一にしていたことがあきらかになる。
ただし、「自然の一邊」を「あるがままの自然」としてえがいた作品に対してのみ「風景画」という名称を冠したということではない。がしかし、「自然の一邊」をえがいたような作品の出現が、「風景画」という言葉の現れのきっかけになったということは考えられる。このときにおそらく、「山水図」という言葉は日本画に限定され、洋画の世界からは消失していくことになるのであろう。
言葉としての「風景画家」はこれよりもやや遅れるようである。一九〇〇年(明治三三)「月、同じ『美術評論』誌上において、鏡泉こと岩村透は「十七世紀の和蘭土風景畫家」について紹介の記事を掲載している。このなかで「景色畫」「風景畫」「山水畫」さらに「景色畫家」「風景畫家」という言葉が頻繁に使用される。この岩村透の文章を注意深くよむならば、「山水畫」「景色畫」「風景畫」という三様の言葉の対比が浮き彫りにされてくる。
まず、つぎの一文において「山水畫」と「風景畫」の内容が対比的に理解される。「ロイスダエルと云ふ畫人は中々自信の強い人で自然を師として誰も師匠に就かなかった位ひの人であるが併し貧乏には打勝つ術もなく従來の自然を本尊とした風景畫を廢してエヴァヂンゲン風の山水畫を製造し始めた。此時より後は溪流、瀑布、深山、幽谷續々畫室から出て來て諸方に散った。」とある。山水とはまさに明治時代の辞典にあるように「山ト水トアル景色」であり、「餘り變化のない」「和蘭土の平土に住慣れ」たひとびとはこの目新しい山水画を買った。しかし岩村は、「自然の研窮の側より見れば初期の作に吾人の敬仰すべきもの多く」と語り、明治三〇年代の日本において、ロイスダールの「自然を本尊とした風景畫」をこそとるべきである、とあえて付言した。
「景色畫」と「風景畫」との対比はそれほど明確ではない。むしろこの「景色畫」と「風景畫」については混用されていて、岩村自身も判然とせず、明確に区別をして使っているようには思えないところもある。しかしホッベマについて「人為的技巧もて製造した所謂景色畫なるものの古則を破って誠實に自然の形象を描寫する眞正の風景畫を開發した......」と述べるとき、「風景画」という言葉を「景色画」に対して新鮮なイメージと概念を与えていることはあきらかである。
「辞書にみる用語の変遷」においてみたように、「風景画」および「風景画家」が一般化してくるのは昭和に入ってからのことで、前述したように、一九二七年(昭和二)の国語辞典『言泉』に、「風景画」および「風景画家」の項目をみることができる。
島崎藤村の『家』において、風景画家が小説中の点景として登場してくるのは、一九一〇年(明治四三)の読売新聞紙上のことであった。風景画家の言葉が普及するはじまりとおもわれる。また言葉における風景画家の普及の背景には、明治三〇年代の水彩画の広まりも考慮すべきであろう。大下藤次郎(一八七〇〜一九一一)の『水彩画之栞』が刊行されたのは一九〇一年(明治三四)であり、この年のうちに、六版、二万部が売れたという。田山花袋が失意の田舎教師にしばしば水彩の筆で風景をスケッチさせたのは、一九〇九年(明治四二)のことであった。
