東南アジア 

一九四一年十二月八日マレー半島やフィリピンに攻撃を加えた日本軍は、短期間の内に東南アジアのほぼ全域を占領し、軍政を敷いた。軍政の実態は、地域によって状況も異なり、占領した軍隊の方針も一様ではなく、一律に述べることはできない。ここでは、文化行政が組織的に行われたオランダ領東インド(当時「蘭印」、現在のインドネシア)のジャワ島を中心に、三年半と短期間ではあったが、各地に強い衝撃を与えた日本軍政の美術分野における実態と美術史上の役割を考察したい。

東南アジアの近代美術は、一九三〇年代に、各地で自覚的な近代美術運動が動き始める。マニラでは「十三人の近代人たち」が、シンガポールでは華人美術研究会が、バンコクとハノイでは美術学校を拠点に学生たちが、そしてジャワではプルサギ(インドネシア画家協会)が活動を始めていたが、ようやく動き始めた各地の近代美術運動は、日本軍の侵攻によって頓挫することになる。

ジャワでは、一九四三年四月に、啓民文化指導所が「三百年に亙るオランダ植民政策に虐げられて来たジャワ五千万民衆に適正な精神的導向を与え、皇国の精神的文化的雰囲気を醸成浸透せしめることは大東亜建設の根本要件なるに鑑み、主として芸能文化の面から民衆の啓蒙自覚を促すべく」創設された。事業方針として、「伝統芸能の保護育成」「純正文化の昂揚」「日本文化の普及」「啓蒙宣伝」など六項目を掲げ、組織的には「本部、事業部、文学部、音楽部、美術部、演劇部の六部を置き」「専ら原住民を職員とし日本人は指導委員として」「両者協力して事業を運営」するとしている。

美術工芸部長はブルサギの会長であったアグス・ジャヤ、指導委員は河野鷹思、山本正、小野佐世男らであった。年二回の公募展「新ジャワ美術展」が最終的に第五回展(昭和二十年四月二十九日五月十日)まで開催されたほか、軍政開始当初から「明治節奉祝美術展」(昭和十八年十一月)や「大東亜一周年記念ジャワ絵画展」「ジャワ生活美 術展」などの公募展が大規模に開催され、指導委員を始めとする日本人画家の展覧会も不定期に開催されている。展覧会は、いずれも盛況であったと伝えられ、十日間で一万人を越える入場者があったともいわれる。強制的な動員もあっただろうし、当時の軍政側の数字をそのまま信じるわけにはいかないが、一定の影響力はあったと見てよいだろう。展覧会のほかに重要だったのは、教育機関としての役割である。啓民文化指導所には、美術クラスがあり、二十歳未満の若者を実技試験で選抜して美術教育を行った。それまで、美術教育機関がなかったインドネシアでは、最初の美術学校の役割を果たした。

ここでも、植民地の官展同様、授賞制度を通してローカルカラーが推奨された。オランダ植民地時代の「美しいインド」と呼ばれた理想化された熱帯風景に代わって、農作業をする人びとが好んで描かれた。アグス・ジャヤに見られるような仏教やヒンドゥ的な世界観を反映したり説話を描いたり、ジャワ神秘主義的な作品も現れた。軍政期に「天才少年」と称えられたカルトノ・ユドクスモが、その後伝統美術の特質を活かした独自の装飾主義に至ったのも、軍政期の遺産といえるか もしれない。

一方、「熱帯の表現主義」として国際的な活躍をしたアファンディは初個展のために、リアリズムに基づいた哲学的ともいえる作品《彼は来て、待って、去った》(一九四四年ジョグジャカルタ、アファンディ美術館蔵)を描いたが、日本軍の検閲によって、それを展示することは禁じられ、さらに個展も中止を余儀なくされた。軍政期のジャワでは食料始めあらゆる物資が不足していたが、そうした悲惨な現実を描き出すことは許されなかったのである。

日本の敗戦の二日後インドネシアは独立を宣言、再侵略を狙ったオランダとの厳しい独立戦争を、さらに数年戦わなければならなかった。多くの美術家は古都ジョグジャカルタに集い、プロパガンダ戦を戦ったが、その際、軍政期に小野佐世男らが街頭で描いた「聖戦遂行」のためのプロパガンダの方法が活用された。

その他の占領地では、目立った美術活動は展開されなかった。とりわけ、シンガポールでは、いわゆる「大粛正」によって、華人美術研究会の会長張汝器を始めとする中心的なメンバーは収容所に没し、唯一の美術学校であった南洋美術専科学校は閉校し、当地の美術活動は壊滅的な打撃を受けた。

日仏の二重支配を受けたフランス領インドシナ(仏印)では、現代日本美術展が開催され、また仏印現代美術展が日本を巡回した。さらにハノイから三名の画家が招かれ日本各地を旅行し、日本の美術家と交流した。

日本が間接的な支配を行ったタイでは、バンコクの日本文化会館において一九四二年と四三年に現地のアーティストのための公募美術展を開催したと言われる。昭和前期、東南アジアから日本への美術留学 生はほとんどいなかった。少なくとも留学経験を生かして帰国後美術家としての足跡を母国の美術史に残した人物は、タイのチト・ブアブットしかいない。太平洋戦争中の東京美術学校で学んだこの画家は、祖国にはない四季の美しさを印象派風の様式で描いて、タイに初めて印象派の様式を伝えたばかりでなく、帰国後、東京美術学校のカリキュラムに基づいてポーチャン美術学校を再建した。

フィリピンでは、ヴィクトリオ・エダデスを中心に結成されたモダニズムのグループ「十三人の近代人たち」が日本の占領によって活動停止に追い込まれた。エダデスは、大政翼賛的な組織であるカリバピ(新生比島奉仕団)の主任芸術家として、二度の公募美術展(National Art Contest)を主催した。第一回展はホセ・リサールの命日を記念して一九四三年十二月二十九日に、第二回展はその生誕を記念して一九四四年六月十九日に開幕、日本文化会館において開催された。軍政期に評価された作品として、軍政期前の作品だが、ガロ・オカンポ《褐色の聖母》がある。ゴーガンに触発され、フィリピンの農婦を聖母として描いたこの作品は、「大東亜」の画家が描くべき作品として、軍政関係者に高い評価を受けた。

日本軍政の、東南アジア近代美術史に果たした役割を、一概に論じ得ないことは、すでに述べたとおりである。英領マラヤやシンガポールの華人社会に育ちつつあった近代美術の芽は、暴力的に踏みにじられ、壊滅的な打撃を受けた。一方、インドネシアでは、美術教育の機会を与え、展覧会で美術に触れる機会が増えるなど一定の役割を果たした。もちろん、そのことをもって戦争そのものを肯定するわけにはいかない。いずれにしろ、いまだ十分とは言えない各国の近代美 術史研究の進展が、日本軍政の役割をよりはっきりと明らかにするこ とだろう。日本の側も、東南アジアの近代美術史への無理解から脱し、軍政期の美術史研究に共同であたる必要があることを痛切に感じる。

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