後小路雅弘

日本は、日清講和条約によって台湾を領有、日露戦争から「韓国併合」を経て、「朝鮮」を植民地とし、さらに満州事変を契機に中国東北部へと進出、「満州国」を建国、東アジアに君臨する帝国となった。さらには、日中戦争、そして一九四一年末からの太平洋戦争(大東亜戦争)によって、東南アジアを占領し、各地に軍政を敷いた。

美術の面では、朝鮮、台湾、満州では、官設美術展(官展)を開設し、その成り立ちや有り様は一様ではないものの、帝展の制度に倣い、また帝展審査員を審査員として派遣することで、帝展を規範とする価値体系を作り上げた。こうして官展というシステムを通じて、植民地の美術活動に決定的ともいえる大きな影響を及ぼした。

また、軍事占領した地域では、「聖戦」遂行のために住民の協力が不可欠であり、「民衆宣撫」あるいは「宣撫工作」と呼ばれるプロパガンダが文化行政の形で展開され、各地の美術活動に、短期間ではあっ たが大きな影響を与えた。

小論は、この日本が植民地・占領地として支配した地域の美術活動を展覧会、とりわけ官展を中心に概観し、比較しつつ、その歴史的意味を考察しようとするものである。

 

朝鮮美術展

一九二二年、朝鮮総督府は、官設公募展「朝鮮美術展覧会」を開設する。一九一九年の三・一独立運動を契機に、それまでの軍隊と警察による強権的な統治から、「内鮮融和」を掲げた、原敬内閣の「内地延長主義」による「文化政治」への転換が背景にあったというのがいわば定説となっている。

「朝鮮美展」(当時の略称は「鮮展」。本論では、韓国で一般的な「朝鮮美展」を用いる)は、一九四四年の第二十三回展まで毎年一回の開催を続け た。朝鮮総督府が主催し、帝国美術院展に範をとった運営体制で、「朝鮮人」、日本人どちらも出品できた。設立当初の出品規程には「製作者は朝鮮に本籍を有する者又は展覧会開会迄引続き六月以上朝鮮に居住するもの」とある。この規程も回を重ねる内に変更が加えられ、最終的には、「朝鮮に本籍又は住所を有する者」「朝鮮に三年以上居住したる者」「朝鮮美術展覧会に於て三回以上特選せられたる者」の三項目のいずれかに該当するものに出品資格が与えられた。原則公募による審査を経て入選作品が展示されるが、「鑑査外」の出品(過去、現在の審査員・参与、前回の特選者など)もあった。審査員は、帝展審査員などの日本人が中心に務めたが、東洋画部門には韓国人審査員が見られ、書部門に限り韓国人審査員も多かった。設立当初は、「第一部東洋画」「第二部西洋画及彫刻」「第三部書」のカテゴリーであったが、以後多少の変遷があり、第三回展からは「四君子」(「主として墨色を用いる簡単なる画」と規程にある)が書とともに第三部に組み入れられた。また第十一回になると、「第一部東洋画」と「第二部西洋画」に加え、書に代わり「第三部工芸品」部門が作られた。第十四回からは、第三部が「彫塑・工芸」となった。こうした推移に、「美術」制度移入の揺籃期における揺れが感じられるとともに、日本側の美術観あるいは「朝鮮美術」への認識や期待の変化を見ることができよう。東洋画から伝統的な「四君子」が排除され、西洋美術の影響を受けた日本 画的な表現が主流となり、書は「美術」の枠外に置かれることになる。また工芸部門の設立は、帝展での美術工芸部門の誕生が背景にあるものの、中村義一が指摘するように、柳宗悦の尽力によって朝鮮民族美術館が一九二四年に設立されるなど、朝鮮に固有の伝統美術としての工芸あるいは民芸への関心の高まりを反映したものであろう。しかし、そのこと自体、後の柳宗悦への批判に見られるような、ひとつの植民地主義的な態度(後述するような植民地を過去の伝統とのみ結びつけようとする態度)ともとられた。

展覧会開催の目的については、展覧会規程の冒頭第一章第一条に、ごく簡潔に「朝鮮に於ける美術の発達を裨補する為毎年一回朝鮮美術展覧会を開く」とあって、美術の発達を支援するという目的が謳われている。『第一回朝鮮美術展図録』に朝鮮総督府参事官で、展覧会創設の実務を、主任として手がけた和田一郎の名前で掲載された「序」は、当時の事情や日本側の意識を映し出して興味深い。

「朝鮮の美術は曾て三国時代より高麗時代に亘りて非常なる発達を為し、次で李朝時代の初期に於ても尚燦然たる光華を放って居ったのであるが、其の中葉以来漸次陵夷して復た振はず、遂に制度の廃弛時運の衰微に伴ひ殆んど昔日の観を失ふに至ったのは寔に遺憾に勝へぬ次第である」というように、過去には、すばらしかったこの地の美術も今は衰えてしまったことがまず強調される。続いて、しかし「帝国の始政以後、庶政齊し暹み文明の恵沢年と共に洽く、各種の方面に於て著しき変化を示しつつある」と日本の治世がこの地を近代化していることを謳い、さらに「従来この重要なる美術の関係に付て余り積極的施設を講ぜられたものの無かったのは残念であったが、朝鮮美展を開催することで「施政に色沢あり、光輝あり、自然に厚味も加はって 行く」のであり、この事業が「一般世間から」非常に喜ばれ成功した のは「当然」であると自賛している。

ここにあるのは、遅れた地域を近代化するという植民地支配一般を 正当化する論理であり、同時に植民地をすでに衰えた栄光の過去に封じ込め、現在の自らの強大な力と対比的に強調する、これまた常套的オリエンタリズムの反映であり、植民地支配の論理であろう。

この「序」はさらに朝鮮美展に対する批判に答えようとする。その批判とは(1)工芸部門のないこと、(2)出品資格に居住地の制限があること、(3)美術ではない書部門があること、であると述べた上で、(1)は設備上の問題、(2)は「幼稚なる朝鮮美術」を「保育助長」するための当然の措置、いわば一種のアファーマティブ・アクションであると説明し、(3)では、東洋の伝統においては書は美術であることが強調されている。日本を盟主とするアジア主義的な世界観を根底に置いていることがわかる。

さて、総督府が「文化政治の一つの花」と位置づける朝鮮美展であるが、その実態はどうであろうか。

第一回展と第十九回展(最後の図録が発行された)を比較すると、東洋画は、第一回の出品 入選ではなく審査対象数)一九五点に対し、第十九回は一四五点と減っているが、入選の韓国人は二九人から、四〇人へと増加している。西洋画は、一一四点から八三四点と出品が大幅に増え、第一回の韓国人入選者がわずか三名であったのが、第十九回展では八二名と激増、全入選者中の割合も四割に達している。ちなみに第十九回展の工芸は日本人一七名に対し韓国人三八名、彫塑は日本人三名に対し、韓国人一〇名と、韓国人の方が断然多くなっている。

展覧会設立当初には、とくに西洋画での韓国人入選者が極端に少ないことから、そもそも朝鮮美展は、在住日本人のために創設された展 覧会であったという見方もされているが、回を重ねていく中で、東洋画と西洋画の立場は逆転し、西洋画の出品が大きく増え、韓国人の入選者の割合も大幅に増加し、西洋画の人口が大きく増えたことは疑いない。少なくとも結果的に見て、西洋画の普及という点で、朝鮮美展 の果たした役割が大きかったことは間違いないだろう。その政治的な意図にもかかわらず(あるいは、それゆえに)、朝鮮美展は当地の美術の振興に一定の役割を果たした。解放後の韓国美術は、それを基盤に(多くは朝鮮美展における美術のあり方を厳しく批判するようなやり方であったが)展開することになる。

 

ミュージアムと公共空間 

官展以外では、いくつかの王宮内にミュージアムが作られたことが目立つが、ここでは、とくに徳寿宮内の石造殿(ソウルで最初の本格的な西洋建築)において、一九三三年より一九四四年まで同時代の日本美術の常設展示 「李王家徳寿宮日本美術品展示」が行われたことに注目したい。この展示は、一九三八年には隣接する新館における朝鮮古美術の展示と併せて李王家美術館として制度上整えられた。日本国内にもなかった同時代の美術の優品の常設展示は、日本の優れ た「現代」と植民地の衰退した栄光の「過去」を対比的に示すという、朝鮮美展の意図と同様の図式をよりはっきりと示すだけでなく、李成市が指摘するように、秘すべき朝鮮王朝の聖なる象徴空間を大衆に開いた上で、そこに日本の現代を朝鮮の過去との対比の中で示すという、きわめて政治的に練り上げられたプロジェクトであった。なお、この展示品の一部を李王家が購入して日本美術コレクションを形成したが、近年日韓両国でその一部(日本画と工芸)が公開され、注目を集めた。

さらに、展覧会ではないが、美術展示という意味では、 景福宮内に建てられた朝鮮総督府内の和田三造の壁画にも注目する必要がある。日韓の羽衣伝説をテーマに描かれた大壁画は、日本の支配を象徴し、王宮を見下ろすような偉容を誇る近代的な建築の中で、そこを訪れるものに「内鮮一体」を強く印象づけた。

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