台湾美術展
台湾は、朝鮮より早く、日清戦争の講和条約によって、一八九五年清朝から日本に割譲された。台湾美術展は、朝鮮美術展の設立にも刺激され、在台湾の石川欽一郎、塩月桃甫、郷原古統ら日本人美術教師と新聞関係者などの日本人有志が計画を練り、一九二七年に開設されたが、日中戦争のあおりを受けて一九三七年には開かれず、名称や組織を改めて翌年再開した。前期は、台湾教育会の主催で、計十回開催され、「台展」と略称される。後期は、台湾総督府文教局の主催で六 回開催、略称は「府展」である。朝鮮美展とは異なり一貫して東洋画と西洋画の二部性をとった。審査員は、第一回台展では、在台湾日本人美術教師が務め、第二回展以降、帝展審査員を中心に、松林桂月や藤島武二ら日本画壇の有力者が招かれた。また、台湾人画家で審査員を務めたのはわずかに三名で、陳進と廖繼春が六回展から八回展、顔水龍が第八回展の審査員を務めた。
台湾教育会が開催した台湾美術展から、総督府が直接開催する府展 への転換について、総督府自身が、次のように述べている。「爾来回を重ねること十回、台湾教育会主催の下に逐年進歩の一路をたどって 来たのであるが時代の趨勢はいつまでも単なる小団体の主催で止まることが出来ず、昭和十三年から国費をもって開催することに決し官展第一回を開くに至った」と、ここで正式な官設の展覧会に質的な転換を図ったことを宣言し、その目的に言及して、「島民に対する美術趣 味の養成と国民的情操陶冶に資せん」という台展開設当初の目的に加 え、「日本の歴史を知り、日本の美術を語り、之を日常生活に取り入れるところに真の皇国民たらしめる道を見出すことが出来るのであって、単に作家の作品発表の機会以上に深い意義を持つのである」と、拡大していく戦争という時局を背景に、その目的が「皇民化」にあることを明確に述べている。そこでは、そもそも、「美術趣味の養成と国民的情操陶冶」は、日本が領有した「楽土」に「安業の日々」を送る島民が、芸術を欲しているのに何もないという認識からきていることが述べられている。日本が領有したことで楽園となり、未開の地を 文明化するという植民地支配の論理は、作品にも色濃く映し出された。
台湾在住の画家、立石鐵臣が、台湾の美術の発展のためには、官設公募美術展よりもまず、日本美術の古典を展示する美術館と美術研究教育機関が必要であると主張するのは理に適っているように思われるが、台湾においては、朝鮮に作られたような「日本現代美術館」が作られることはなかったし、美術教育機関は、結局朝鮮にも台湾にも作られることはなかった。こうしたことは、日本の意図が、純粋な芸術文化の振興とは別のところにあったことを示すものだろう。植民地の官展の中で上昇を志す人は、独学でなければ、結局東京美術学校を中心に日本の美術学校へ留学するしかなかった。そこでは、美術学校の教育や、師弟関係を通じた、美術学校を頂点とする価値体系が機能する。帝展を範とし、審査員を通じて系列化、序列化した植民地の官展は、人的なネットワークの面でも東京中心の価値体系に組み込まれていたのである。
なお、台湾総督府にも、朝鮮総督府同様、植民地支配を象徴する壁画が展示された。岡田三郎助の《北白川宮殿下澳底上陸》である。日清講和条約の後、台湾における武力による抵抗を鎮圧するため軍を率いて上陸する北白川宮と、台湾に没した北白川宮を祀った台湾神宮を画題とした、二面からなるこの壁画は、戦争末期の台北空襲によって総督府が炎上した際に焼失したと思われる。
満州国美術展
一九三一年の満州事変以後、中国東北部を占領した日本軍の強い影響下に建国された満州国(当時の表記は「満洲国」)では、朝鮮、台湾 と同じように官設公募展である「満洲国美術展覧会」(満展)が開催 された。この展覧会については、本書に別に論考が収められているため、ここでは詳述しない(南洋群島についても同様の理由で言及しない。)。展覧会は、前身の「訪日宣詔紀年美術展」の後、第七回まで毎年開催されているが、朝鮮、台湾が植民地であり、満州国は建前上、あくまで国家であったことから、日本との関係は、前者のような中央と地方という関係ではなく、あくまで形式上、国家対国家の関係とする必要があったことが展覧会の在り方に影響を及ぼしている。
また、ここでも公的な空間に、壁画が、それも台湾と同様に岡田三郎助の作品が展示された。この満州国国務院総務庁に飾られた岡田の《五族協和》(一九三六年)が描き出す「日本人、漢人、朝鮮人、満州人、蒙古人」の満州に住む五つの民族が協力して友好的に暮らすイメージは、建国十周年を記念す切手の図柄にも使われ、満州国のスローガンの視覚的な象徴として一般にも流布した。
植民地のローカルカラー
主に制度的な面から官展を中心に植民地の美術状況の概略を見てきた。そこで描かれた作品の内容はどのようなものであっただろうか。 日本人審査員がことあるごとに力説しているのは、その作品に「ローカルカラー」あるいは「地方色」「郷土色」がなければならないということであった。日本にとって好ましい植民地における美術、支配者としての日本が期待する表現は、官展の権威を背景に、具体的には、展覧会制度、とりわけ授賞制度や審査員の言説を通して、植民地の画家に広められていく。そこで称揚された作品内容はどのようなもので あっただろうか。
金英那は、朝鮮美展に出品された作品を、「伝統服を身にまとった朝鮮の女性や伝統的な風俗、あるいは牧歌的な田舎を題材にした絵画であり、日本人審査委員の目をひくエキゾチックな朝鮮の姿」であるとし、朝鮮美展における「郷土色」を代表する作家のひとりとされる李仁星を例に郷土色について考察を行っている。それが、朝鮮の画家による植民地権力の異国趣味に迎合した「自己周辺化(=自己オリエンタリズム)」としての側面(植民主義)と、そこに回収され得ない真摯な民族的アイデンティティの追求(民族主義)の両面が(たんなる二項対立ではなく)あったと考える。
日本人は、とりわけ朝鮮に対して、金英那も指摘するように、日本の過去、古代文化の生きた姿を見ようとする傾向が強い。日本からの視点で、日本文化の故郷であり、かつ、古代のまま時間が止まった国として見られが ちな朝鮮の姿は、そのまま植民地の論理、つまり日本と祖先を同じくしているが(「日鮮同祖論」)、停滞し、近代化の助けを待つ国の イメージと結びつく。
一方、台湾でも「ローカルカラー」を求め られる状況や植民地主義的な政治性は同じだったが、台湾の場合、台湾の地方色は、日本の古代文化ではなく、もっとはっきりと「原始性」に求められた。当時「蕃人」あるいは「高砂族」と呼ばれた先住民(今日の台湾では「原住民」と言う)は、内地人(日本人)を頂点とするヒエラルキーの中で、本島人(漢民族系台湾人)より劣位に置かれ、さらにその中で、「熟蕃」(漢民族との同化が進ん先住民)と「生蕃」(山間部や離島に住む「文明化」されてない住民)に階層化されていた。「生蕃」は、人口的にも圧倒的に少数者であったにもかかわらず(一九四〇年頃で3%以下)、台湾を代表するイメージとして、日本人画家から、そして「本島人」である台湾人画家からも、しばしば画題とされた。そこでは、多くの場合、その「原始性」がもっぱら台湾の地方色として強調される。「蕃人はこのような産業政策において、常にその「原始性」を保たなければならない。しかもそれは、蕃人自身が持つ固有の原始性ではなく、植民地政府にコントロールされる原始性でなければならないのである。」と廖瑾瑗は指摘している。
台湾地方色のもうひとつの特徴は、その「南国性」の強調である。都市風景が取り上げられる場合にも、ことさらその南国らしさが強調されている。そこに は、その後、日本が目指そうとする「南方」が擬似的にイメージされているかのようであり、さらには「南方共栄圏」が仮想されているようにも見える。
さらに、台湾が朝鮮の場合と異なるのは、その地方色の追求が東洋画の中でなされたことで、近年台湾におい ても日本においても台湾東洋画の「地方色」をテーマにした興味深い展覧会が開かれた(ここでは日本時代の記憶を呼び起こす「地方色」を使わず「地域色彩」ということばが用いられた。また戦後「東洋画」も同様の理由で使われず「膠彩画」が一般的な用語となっている。)。植民地行政の一環として開催される官設公募美術展という制度の中で、日本側の異国趣味的な関心を満たし、あるいは隠された政治的意図に呼応しつつ、「地方色」が作品のテーマとして植民地の美術家た ちによって追求されるべき課題となった。植民地の抑圧的な構造の中で描き出された「地方色」には、いわば自己オリエンタリズムにすぎないものとする否定的な見方も少なくない。そこに、内発的な自己像の表出を見いだせるか否かは意見の分かれるところだが、結局は個々の作品の検証によるしかない。ただ、第二次世界大戦を経て独立を勝ち取り、新に国民国家を建設していくアジア諸国においては、美術においても、国家的、民族的なアイデンティティの探求は、長く重要な 課題で有り続けた。そこに植民地時代の「地方色」から続く問題意識や、自己像の探求の自律的な展開を見いだしていくことは重要だろう。
