(1) 城隍廟碑(乾元二年八月・宋宣和間重刻)浙江縉雲

この碑は一に祈雨碑ともいう。唐の乾元二年(七五九)、李陽冰縉雲に令となり、七月雨らず、八月既望に至って、躬ら雨を神に祈り、神と約して曰く、「五日内に雨らずんばその廟を焚かん。」と。期に至って大雨あり、遂に西山の巓にしてこれを祀ったと。この碑はその事を記したものであるが、宋代に碑は既に断欠して読むを得ざるに至った。今存するものは、宋の宣和五年(一一二三)、縉雲令呉延年が旧拓本を以って重刻したものである。その書については『石墨鐫華』に、

「李陽冰、縉雲県令となり、早に値て城隍に禱り、五日を錦約し雨らずんば将にその廟を焚かんと。期に及びて雨ふる。乃ち廟を遷してその 事を記す。書固に奇、事また奇なり。余その篆を観るに、瘦細にして偉勁、飛動神の若し。欧陽公以為らく、陽冰が他の家に視ぶるに最も痩せたりと。余は謂う、佳処正に此にあり。又云く、世に言うこの石は忘帰台孔子廟の三石と俱に活けり。歳久しくして漸く生じ刻処幾んど合せり。故に細なることかくのごとしと。今、欧公を去ること又四、五百年、寧ぞ無字碑たらざらんや。記に云く、祀典に城隍神なし、呉越にのみ之ありと。欧公に至って云う、天下皆有れども県には猶少しと。今は則ち県としてこれ無きはなし。且、記に云う、西谷より廟を山巓に遷すと。又以って城隍廟は、前朝必ずしも城中にあらざりし也。今、西安府西の村 落の大なる者には多く城隍あり。これその遺意なり。」

と評し、『集古求真』には、

「もと縉雲県にあり。石久しく已に供し、宋の宣和五年(一一二三)、邑令呉延年重刻せり。八行、行十一字。後は重刻の題記、並に官佐の姓名とす。正書。今、行末日に三、四字を損せり。但、猶辺旁を存し、意想して知るべきのみ。『集古録』に云く、字最も痩せ、書するところの他碑と異なりと。海虞県に覆刻本あり。」

と云っている。

(2) 恰亭銘井序(永泰元年五月七六五)湖北江夏

翁覃溪はこれに蹴して云く、

「武昌の恰亭銘は李陽水の篆、李莒の八分書なり。欧陽公は四十六字と云えど、当にこれ五十六字の訛なるべし。然れども今拓本を以って諦視するに、李莒の下に八分の二字あり。則ちこれ五十八字にして五十六字にあらざる也。見るべし欧陽公の時、拓本巳に分明ならざりしを。その下に又八分十二字二行あり。云く、亭在直上西南□□□□之右と、蓋しまた莒が書ならん。而も著録家多く之を失せり。李監の篆書、今、世に伝わるものは多く後人の重摹たり。この刻はこれ真本なり。また常に江水中にあり。必ず水潦に乗じて拓取すべし。而して人蠟を善くせず。往往に紙墨精ならず。然れども已に重んじて宝とするに足れり。」

と。『集古求真』続編に、

「李陽冰の篆書、二十二字、六行に作り、行四字。李莒の隷書、五十六字、八行に作り、行八字。後の三行は一字を低くし、末に小字二短行あり、計十二字。已に漫滅し、惟、西の字見るべし。翁覃溪の云えるに拠れば、亭在西南直上□□□□之右と。則ち八字を見る。殆んど旧拓なり。翁又云く、李莒の下に八分の二字あり已に分明ならずと。余、旧拓を以って之を審にするに実は石紋にして字にあらざる也。陽冰の書するところの諸碑は多く已に真を失せり。城隍廟碑、庾賁徳政碑、及び謙卦の如き、皆宋人の重墓たり。先塋記・李氏三墳記は複刻にあらずと雖また後人の修治を経、徒に形体を具るのみ。惟りこの刻は尚これ原石にして、猶未だ甚だしくは剝落せず、少温の真面を見るに足る。但、武昌の江中に立ち、水涸るるにあらざれば拓すること能わず。故に伝本反って少く、各複刻の通行せるが如くならず。」といっている。

(3) 李氏三墳記 (大暦二年・七六七)陝西西安

 

 

この碑は重刻であるという人もあれば、重刻ではないが、改鑿の迹が あるという人もある。即ち『弇州山人稿』には、

「この碑は李曜卿兄弟の三墓たり。その人皆文学ありて早く仕官せしが、寿ならずして没し、最少弟季卿撰表し、宗人陽水玉を以って之を刻せし也。その石猶故物なり。伝改の譲なし。」

といい、『石墨華』に、

「碑は翻刻にあらずと雖も、字画法具わりて神亡せり。前碑(拪先塋記)と同じきが似し。」

といい、これは重刻ではないが、改鑿を疑い、『庚子銷夏記』には、

「篆書は秦・漢より而後、李陽冰を推して第一手と為す。今、三墳記を観るに、運筆命格、矩法森森として誠に及び易からず。然れども予は曾って陸探微画くところの金滕図の後に於いて陽水の手書を見たり。遒勁の中に逸致翩然たり。また石刻の能く及ぶところにあらざる也。」

と評し、原石なりや、重刻なりやには言及していないが、『金石存』には、

「右、李氏三墳記、李陽冰の書。李氏拪先塋記と同じく今の西安府学にあり。皆大暦二年に建つ。先塋記には宋人重開の歳月あり。この碑には有るなし。」

といい、原石たるの意を明らかにしている。

また『集古求真』にも、

「趙子函は云う、法具わりて神亡せりと。今これを詳審するに、筆法固に秦刻より出で、またその神亡せるを見ず。之を先に較ぶれば実に優勝なりとなす。王弇州いう、石なお故物、伝改の譌なしと。殊だ篤論とす。」

といい、この碑の原刻であることを認めている。

(4) 拪先塋記(大暦二年・七六七)

この碑は原石巳に供し、今、存するのは宋の大中祥符三年(一〇一〇)の翻刻にかかるものであるが、それすら文字の剝泐が少ない。

『金石存』に云く、

「右、唐の李氏拪先塋碑、宋の大中祥符間の重開を経、今また剝落せり。清河郡太夫人以下、文多く卒読すべからず。」

と。『関中金石記』に云く、

「陽冰の書は結体茂美なれども多く六書の義に乖けり。然れども蔡邕が石経、已に別体多し。豈、書家は多く小学を究めざりしか。」

と。また云く、

「篆は聖人虚作せず。隷に依りて以って造るべきにあらず。昔、徐鉉、説文新附を作り、識者多く、その謬を譏りき。独り怪む、陽冰自ら言わく斯翁の後、直ちに小生に至ると。又、石経を刻して大学に立てんことを欲求すと。而るに小学を究めざること此の如し。倘し鴻都の役に任ぜば、未だその張参・唐元度諸人に勝るを見じ。」

と。頗る李陽水が六書の義に通ぜざるを駁撃している。

(5) 般若台銘(大暦七年・七七二)

福州鳥石山の摩崖刻である。『天下輿地碑記』に、

「李陽冰篆、神光寺にあり。般若台記は華厳の頂に刻せり。処州の新駅記、縉雲県の城隍記、鏡水の忘帰台銘と、世、之を宝として四絶とせり。」

といい、『金石文字記』にもまた、

「閩中には絶だ古刻少し。鼓山には題刻麻の如きも、一の唐蹟なし。惟りこの銘、三山にあり最古と為す。又聞く石塔寺に唐の貞元中の碑ありと。余、未だ之を見ず。」

といい、この銘が南方面に於ける最も珍らしいものであることを 述べている。

(6) 謙卦

この碑は書刻の年月が明らかでない。張大用はこれにして、陽冰の篆書は秦相斯を祖とし、筆力之に過ぎたり。舒元輿輩、これを論じて詳なりといっているが、篆書が秦を標準とすべきは言うまでもい。『弇州山人四部稿』に、「李陽水がこの刻は、再登石なりと雖も、居然として残雪漓溜の状あり。これ廷尉の正脈、謙卦に至りては当に人、座右に一紙を置くべ し。」といい、『竹雲題跋』には、「篆学の亡びたる四百余年。斯・喜の妙跡は絶し、唐の李少温に至りて、上、孔轍を追い、下、斯法を襲ぎ、篆学是に於いて中 起せり。謙卦は尤もその奇絶の作にして、運筆、蚕の糸を吐くが如く、骨力、綿に鉄を褒めるが如し。舒元輿が所謂、虫食鳥歩、鉄石隔壁、龍蛇駴解、鱗甲活動せるもの、此に於いて之を見る。僕、書法を論じて、変を求むるに意あるは即ち能変にあらずという。少温の謙卦は謙の字数十、大小篆を兼ね用いて、足らず。又、𧦦を以って謙と為せり。字各々体を異にせりと雖も、然れども変を求むるに意あるを免れず。所以に変尽くれば輒ち窮す。絳雲霄にあり、化工肖物、万古同じからざる所以のものは、変に心なければ也。作書は、但、時に因りて舒巻すれば即ち変化具足す。何ぞ妍同較異、逐字推排を事とし乃ち始めて変とせんや。」

といっているように、陽冰が篆は、唐人の篆書中その尤も勝れたるものであることは認めねばならない。謙の字には嗛慊𧦦の諸字を使用して、その変化を求めたるが如きはあまり感服出来ない。

(7) 聴松

石は江蘇無錫の恵山にあり。『竹雲題跡』に、

「錫山志を按ずるに、慧山寺に石床あり殿前の月台下に在り。長さ五尺 ばかり、広厚之に半ばす。上平かにして偃仰に供すべし。故に石床と名づく。頂側に聴松の二篆字あり。伝うこれ唐の李陽冰が筆なりと。蒼潤にして古色あり、断じて陽水にあらずんば能わず。唐の皮日休の詩に、殿前日暮高風起。松子声声打石床とはこれ也。雍正六年三月、余、志を率い往いてこの書を揚せり。一時観者の列、堵牆の如かりき。蓋塵埋久しきを経過ぎりて払拭せるものあるなく、驟に槌揚を見る。故に遂に驚いて僅事と為せし也。右に楷跋十数行あり。日久しくして磨蝕しまた識るべからず。悵悒良に已むことあらず。」

と。鄰蘇老人題跡また云く、

「此の聴松の二字は、相伝えて李陽冰少温の書とす。按ずるに少温は篆書を以って唐代に鳴る。所謂斯・喜の後、直ちに小生に至ると、その自負小ならず。顧みるに伝世の碑、三墳記、城隍廟、謙卦の如きは、多く重開を経、拪先塋記も久に剝蝕せり。唯この二字は骨気洞達、神味淵永、固に少温にあらざれば弁ぜず。以って碧落碑を視れば、局促たること轅下の駒の如し。」

と。楊氏又云う、

「李少温篆書の李斯後一人たるは代々異議なし。顧みるに今三墳、先塋伝うるは多く後人の重開を経たり。謙卦、城隍廟はその真蹟たりや否や尚未だ定むべからず。此の聴松の二字は名を署せずと雖も、而も龍鳳の姿、神采爛然、断じて他人の以って擬議すべきにあらず。」

と。これを極推している。この外、黄帝祠宇の額がある。

 

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