藤原楚水,《圖解書道史》卷3,東京:省心書房, 1975

六朝以来、碑に書するには多く正書を以って、隷書を以ってするは頗る少なく、篆書を以ってするは殆んどこれを見ず、僅かに、篆額にその名残りをとどむるのみ。而して篆法は全く中絶の状態であった。この時に当り突如として碧落碑というのが現われた。この碑は、韓王元嘉の子 訓等がその姫房氏の為に碧落尊像を龍興観に造り、文を像背に刻したもので、何人の筆であるかは明らかでないが、兎も角問題の碑で、李陽冰の如きも、碑下に信宿して、去らなかったとすら伝えられている。『集古録』に云ㄑ、

「碧落碑は絳州の龍興宮にあり。宮に碧落尊像あり。篆文をばその背に刻せり。故に世伝えて碧落碑と為す。李璿之に拠れば、以って陳惟玉の書と為し、李漢は以って黄公譔の書と為す。孰れか是なるを知るなし。『洛中紀異』に云う、碑文成りて未だ刻せざるとき、二道士あり来りて之を刻せんことを請う。戸を閉づること三日、人声を聞かず。人怪んで戸を破る。二白鳩あり飛去し、而して篆刻宛然たりと。この説尤も怪、世多く信ぜざる也。碑文にいう、有唐五十三譔龍集敦牂と、乃ち高宗の総章三年(六七〇)、歳在庚午也。またいう、哀子李訓・誼・巽・諶、妣妃の為に石像を造ると。唐書を按するに、韓王元嘉の子は訓・誼・巽ありて諶なし。また幼子訥あり。元嘉は則天の垂拱四年(六八八)に殺さる。総章三年に後るること十八年、子の訥あるは怪むに足らず。而も諶なかるべからず。蓋し史官の闕也。」

と。『金石錄』また云ㄑ、

「その詞は則ち唐の宗室黄公巽の述ぶるところ。或はいう陳惟玉の書と。或は云う巽の自書と。皆、知るべきなし。李肇及び李漢並びに言わㄑ、李陽冰この碑を見、徘徊して数日去らざりきと。また言わく、陽冰自らその如かざるを恨み、槌を以って之を撃てり、今欠くるところこれ也と。この説恐らくは然らじ。陽冰は嘗って自らその書を述べ、以って斯翁の後、直ちに小生に至ると謂い、他人の書に於いて蓋し未だ嘗って推許するところあらず。唐人は、大篆は当時見ること罕なりしを以っての故に妄に称説ありしのみ。その実、筆法陽冰に及遠甚也。」と。

『広川書跋』に云ㄑ、 

「字法奇古、行筆精絕、世伝の篆学に類せず。」

と。『書画跋跋』また云ㄑ、

「余は篆書を解せざるも、この碑に於いては絶だ之を愛せり。その筆法、数字の常篆と同じからざるあり、また稍怪異なれども、乍ち之を観れば石鼓文に彷彿たり。ただ字形稍長きのみ。」

と。『金石史』に至っては、の碑至の多ㄑ見るに足らざるを述べ、

「篆書は三代は尚し。下って秦に訖りて絶ゆ。世に伝うるは三代の遺跡は皆、贋作に属せり。独り岐陽の石鼓文、彝器の款識を真と為す。即ち字画、尽くは識るべからざるも、而も古雅前なく、望んで弁ずべし。こ の碑独り怪異奥きを以って、人解すべからず。扁戸化鳩の説ある所以なり。而も点画、形象、結体、命意、雜乱理せず。その高処注遠ㄑ上古之追う能わず、下者は巳に近代の悪趣に堕ち、村学究が、小児に角険の字を教えるが如し。凡俗厭うべし。定めて惟玉輩の書たること疑いなし。唐人は八分に於いても尚、極に造る能わず。況んや、古篆をや。後人伝聞の異に懾れ、眩然として弁ずるなし。遂に敢て軽しく評駁を加えず。知らずや李陽冰の慕習は、盲瞽たるにあらず。定めて謬伝に属す。曷ぞ拠りて断案と為すに足らんや。釈文は至れるものにあらずと雖も、反って唐人の気格を失なわず。但、作字潦倒、未だ称わず。この石深く論ずるに足らず。独り恨む元美を九原より起して之とその議を上下すること能力わざるを、これが為に惘々たり。」

と。頗る駁撃を加えているが銭侗の跡は寧ろこれを弁護して、

「この碑の書体は必ずしも小篆を純用せざるも、然れどもその用字結体、偏旁仮借、多ㄑ根据あり。」

といい、說文解字によってこれが考証をしている。『金石萃編』には、「有唐一代は篆書碑多くは無し。碧落碑を尤も有名と為す。宋初の郭忠恕が汗簡に編入せし所以なり。今、碑文を取りて汗簡と参較するに、汗簡は筆法みな籀文の遺意を得、この碑は筆画みな易うるに方整を以ってし、留文の面目にあらず。」

といい、『平碑記』にもまた、

「碑陰の李漢が記に、この篆、奇古妙絶と称せり。世に伝う李陽冰これを見て大いに嘆異服膺し、下に処ること旬時、卒に影響を得ず。乃ち熱中、椎を以って之を椎てり。今その損処これ也と。余謂えらく、これ無稽の談也と。少監(李陽冰)自ら謂う、斯(李)喜・(曹)の後、直ちに小生に至ると。また自ら謂う、蒼頡の後生と。その目 千古を空くす。豈またこの碑に俯首せんや。且即ち篆法を以って之を論ずるも、円穏厚重に過ぎざるのみ、安んぞ能く少監の華なるに及ばんや。特り少監に及ばざるのみならず、即ち美原神泉の一碑また高く此を出ずること遠甚なり。千載以下の目、安んぞ欺くべけんや。」

 

と。これらの評に対し、江由敦は別説を出して、

「漢以来、隷草盛行し、篆法は惟り説文解字を習い、古文書は幾んど中絶せり。伝うるところの陽冰二徐及び夢英輩は、大率みな嶧山の一種なり。勻円斉整を以って上と為し、古人の繁簡参差、惟意の適くところのままなるを知らず。 石鼓及び夏周以来の器物の款識を按ずれば、その遺意を推すべし。この碑は相斯の白を超出し、筆法また自ら深穏なり。」

といい、推して李陽冰以上と為しているが、『庚子銷夏記』に、

「細看するに、中に絶佳の字、古篆に譲らざるあり。絶だならざる字は、卑俗咲うべきものあり。」

とあるように、中には往々佳なる字もあるが、要するにその篆法は多 く見るに足るものがない。但これによって唐初の篆法如何を窺うことができ、書史学上また好参考たるを失なわない。即ち篆書はその書体の完成した秦にその標準を置くべきは論を俟たない。始皇東巡の刻石、詔版の文字等、皆学ぶべく、唐の小篆の如きは、唐隷と同じく、今日にあっては殆んど問題とすべき価値はないけれども、書道史上、一応これをも検討しなければならない。乃ち唐代の篆書の大家としては李陽水が尤も著名であり、 尹元凱、袁滋、瞿令問の諸家も名家たるを失なわない。

 

(一) 尹元凱と李陽冰

尹元凱は新旧唐書ともにその伝がある。『旧唐書』巻一九〇中に云く、

「尹元凱は瀛州楽寿の人、初め磁州司倉となり、事に坐して免せられ、乃ち山林に棲遅して仕進を求めず、三十年に垂んとせり。張説、盧蔵用と特に相友とし善し。徴されて右補闕、幷州司馬に拝して卒す。」

と。『新唐書』に記すところも大要同じである。尹元凱の書碑の伝わるものには美原神泉詩碑があって、特に名高い。

その碑は陝西富平にあり、唐の垂拱四年(六八八)四月の刻石にかかり、碑の面と陰とに刻し、碑面には韋元旦の序と、賈言淑の詩、及び無名氏の詩を刻し、碑陰には徐彦伯の序及び詩と、尹元凱、温翁念、李鵬の詩を刻し、書は皆、尹元凱の一手に成っている。即ち碑陰に大唐裕明子書とあるのは、尹元凱のことである。

この碑は『金石録』以来、載録するものが多く、清朝に入っては、 『金石文字記』を始めその著録は更に少なくない。 『金石文字記』に云く、

「碑は両面、その一面は雲陽主簿明台子徐彥伯字光の序、裕明子河東尹元凱字或、左司郎中温翁念字敬祖、天官員外郎李鵬字至遠の各詩一首、五言十二句。その一面は美原県尉□□旦字烜の序。内三人は皆一字を以 って字とせり。」

と。顧亭林のこの記は碑面と碑陰とを前後しているが、記すところには誤りがない。『関中金石記』には、

「右詩刻、面陰みな文あり。垂拱四年戊子四月の造なり。趙徳父が四年を以って元年に作れるは非なり、韋元旦は、史にその両たび県尉となり、一は東阿に、一は感義たるを称し、而して美原に及ばず。尹元凱は、史に瀛州楽寿の人たるを称せども、碑には河間といえり。地理志に云う、深州に楽寿県あもと瀛州に隷し、大暦中来属すと。則ちその時、楽寿は猶瀛州に属せし也。又、河間も瀛州に属せり。元旦等は史に或はその字を著さず、並にこの碑に詳なり。」

と述べている。『潜研堂金 石文跋尾』はこれを記すこと稍詳に、且、正確である。云く、「右、美原神泉詩、韋元旦製序、賈言淑、及び無名氏の 詩各一篇を、碑の正面に刻し、徐彥伯の序、尹元凱、温翁念、李鵬の詩各一篇を、碑の背面に刻せり。元旦・元凱は史に皆伝あれども、その字を失載せり。彥伯は、史に称す名は、洪、字を以って顕わると。碑によれば乃ち名は彦伯にして字は光なり。李至遠は、史に称す初名は鵬、大父素立、使を奉ず。因って至遠を名とすと。按ずるに素立は高宗の朝に卒せり。この碑は武后の初に立つ。尚仍ち初名にして、至遠を以って字と為せり。則ち初名鵬にして、後、至遠と改めしにあらず。蓋し後来字を以って行なわれ、その字、或は素立の命ずる所に出でしならん。史家伝聞その実を失せるのみ。温翁念は彦博の孫、官、太僕少卿に至れり。宰相世系表に見ゆ。その字の敬祖は、表にまた載せず。」

と。銭侗はこの碑にして、

「美原神泉碑は、字体頗る石鼓文を学べり。但、挺健の気に乏し。その用字は多く説文に本づく。然れどもまた六書に乖違せるものあり。」

と述べている。この外、楊守敬の『平碑記』にも、

「詩は即ち序の陰に刻せり。篆法、石鼓より出ず。また佳刻也。」

と評している。

李陽冰については、『述書賦』に、「吾家世業。趙郡李君。嶧山並鶩。宣父同群。洞於字学。古今通文。家伝孝義。意感風雲。」とあって、蒙の注に、

「李陽水は趙郡の人、父の雍門は湖城の令。冰兄弟五人、皆詞学を負い、 小篆に工なり。初め李斯の嶧山碑を師とし、後、仲尼の呉季札墓誌を見て便ち変化開闔、虎の如く龍の如く、勁利豪爽、風行雨集、文字の本、悉く心胸にあり。識者之を蒼頡の後身と為す。」

とあり、又呂総の『続書評』には、「李陽冰書は若古釵物。力有 万夫。李斯之後一人而巳」といい、李肇の『唐国史補』には、

「李陽冰小篆を善くし、自ら言う斯翁の後、直ちに小生に至る。曹喜・蔡邕は言うに足らざる也。」といったと記し、『金壺記』にもまた、

「李陽冰、尤も書学に精し。その豪駿墨勁、当時の人、之を筆虎と曰えり。」とあり、李陽冰が唐代第一の篆書の大家であったことは何人も異論のないところである。顔魯公の書碑には李陽水の篆額が多いが、その外、諸家の碑に陽冰の額は少くない。李陽水の篆書の刻石の伝わるものには、城隍廟碑、恰亭銘井序、李氏三墳記、拪先塋記、般若台記、謙卦、聴松、等がある。

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