4、現代の彫刻教育における「塑造」と「塑像」
現在の日本の美術系大学の彫刻教育においても 「塑像」というのは、古代日本の仏像彫刻というイメージが強く、美術史上の鑑賞の対象でしかない。実際「塑像」は重くて脆いという実状があるが故か、殆どカリキュラムの中に採用されてはいない。いざ制作するとなると、粗土の寸莎との調合や精土の雲母との調合など非常に手間がかかる上、土の乾燥具合や基本的骨格と最終的な表面形体を把握・熟知していなければ、到底完成し得るものではない。必然的に卓越した塑造的造型力を必要とし、基礎的な実習には決して向かない。以前、東京芸術大学大学院保存修復技術において、古典技法の研究ということで制作されたことはあったが、あくまでもそれは古典技法の研究目的であって、現代的な創作目的で制作するのは稀である。現代の創作発表の場においても、「塑像」による技法で制作する作家は皆無に等しい。展覧会出品に際し、移動時の重量に関する考慮や、移動時の際罅割れる可能性があるという欠点が敬遠されているのがその理由である。やはり西洋の「塑造」という造形方法で制作されるのが現状である。
所謂現代塑造とは、原型を粘土で作り上げ、石膏型を取る。その後その石膏型に石膏或いは樹脂を張り込み、石膏像又はFRP像として完成させる。或いはこれらを原型としてブロンズ像に置き換える。また、テラコッタも塑造技法の一つに数えられるが、これも直造りと石膏型を用いたサヤ型抜きとに区別出来る。更にシリコンを使用すれば、石膏像・FRP像・テラコッ夕像を大量生産することも可能である。要するに現代における塑造は、19世紀産業革命以降の工業製品大量生産の為に開発された、新素材による重量軽減・制作工程の短縮・単純化を彫刻技法に応用したものである。それら新技術の開発が、彫刻家にとって純粋な自己の造形表現による創作的自由度をより高いものとし、またその迅速な制作を可能にしている。そういう意味において、現代の彫刻は商業的効率性が重視されている。
しかし、現代的科学技術が発展していない古代において、自然環境や身近な素材を巧みに活用し、精神性の高い造形感覚と現在では未だ解明出来ていない技術・技法により、数多くの傑作が制作されていたという事実には驚愕する。
(唐招提寺 鑑真和上坐像)
5、鑑真和上坐像 「脱活乾漆」
鑑真和上坐像の材質に関して、興味深い材料の誤認識の事実がある。 今でこそ唐招提寺の国宝・鑑真和上坐像は脱活乾漆で制作されているというのが常識であるが、御一新(明治維新)から1935年の時点までの約半世紀間、鑑真和上坐像は「紙張製」であると信じられていたのである。それを覆したのは、1935年3月の奈良美術院による修理により、改めて鑑真和上坐像の材質が夾紵像(脱活乾漆に同じ。中国唐代及び日本の天平時代の呼び名)であると確認されたことである。当時としては日本美術史上の大発見であったらしく、天平時代の美術史及び寺院史の内容を一新する大事件であった。1929年の時点で出版された「日本木彫史 日本文化史叢書3」の記述の中にはまだ「紙製脱活法に依った唐招提寺の鑑真和尚像は......」とあり、やはり当時は「紙張製」であるということが一般認識であったことが伺える。更に、「南都七大寺大鏡」においても「像造上甚だ珍奇な紙張子の像で、材料及像造法の関係から乾漆像に最も近い作風を示すが、又大に異なった所も現れて居る」ともある。その理由は、江戸以前の修理の際、右ひざの欠損部分を紙により修正していたという事実は伝わっていなかった上、明治以後の臨時全国宝物取調局による調査時にその歪んだ修復部分から「紙張製」と判断された。また、「特建国宝目録」(黒板勝美編 岩波書店1927年初版)にも工芸品と分類し「紙製」と記述している。
脱活乾漆とは、まず芯棒を作りその周りに粘土を可塑する。完成表面に近い所まで粘土で造形し、その表面全体に漆を染み込ませた麻布を何層も重ねる。そして層と層との間には漆に小麦粉を混ぜた麦漆で接着させる。大きさに見合った厚みになり十分硬化した後、背中や後頭部に切り込み窓を開け、中の粘土を取り出す。内部を木材で補強した後、再び切り込み窓を戻し漆に大鋸屑を混ぜた木糞漆で表面を仕上げる。所謂張子の状態となり、軽量且つ頑丈となる。現代的感覚で言えば、FRP像のようなものである。日本においては天平時代にその多くの傑作が生まれている。その代表的なものが、東大寺法華堂の不空羂索観音立像、梵天・帝釈天立像、金剛力士立像2躯、四天王立像や、興福寺の八部衆立像8躯、十大弟子立像6躯、当麻寺の四天王立像、藤井寺の千手観音坐像等が挙げられる。いずれも国宝に指定されている。
鑑真和上坐像は、天平宝字七年(763年)三月、唐僧忍義が夢によって和上入滅の兆候を知り、思託に命じて作らせたと伝えられる。唐招提寺における脱活乾漆像は、この鑑真和上坐像と金堂本尊盧舎那仏坐像のみである。他は、木心乾漆による金堂千手観音及び薬師如来や、所謂唐招提寺派木彫群と呼ばれる壇像風一木造りの木彫である。鑑真和上坐像と盧舎那仏坐像は共に和上寂後、その弟子達によって像造されている。いずれも唐招提寺の精神的支柱である二像のみが脱活乾漆像であるということは、大きな意味を持つものと思われる。鑑真及びその随行した唐の僧達の多くは、中国揚州の出身であることにその意味を求めることができる。
(東大寺法華堂 不空羂索観音)
歴史的文化都市である揚州は、繁栄した経済の中、多くの手工業が盛んに文化を育んでいた。銅器、漆器、絹織物、家具、金銀器、竹製器具など、漆器製品に関しては歴史的に名声が高く、品目が非常に多くその数量も莫大であり、「繁花似錦」(花は錦の如し)の四字熟語に例えられ る。歴史的文献の記録と考古学的に発掘された資料によると、戦国時代(前403年~前221年)に既に揚州に漆器が生産されていた。1955年揚州で戦国時代の漆器の盆一枚が出土し、1976年同じく揚州で戦国時代の漆器の盆二枚が出土した。前漢の時期まで、揚州の彩色上絵の漆器は すでに非常に発達しており、その技術の巧みな完璧さ、色の鮮やかな美しさ、湖南長沙馬王堆漢墓で出土された漆器と同様に美しい。専門家の研究によると、50年代から、揚州の漢代の墓の中で出土された漆器製品は数万件にも達する。飲食の用具として碗、皿、壷、匙など。日常品として鏡台、箱、枕、物差しなど。竹製品や書斎で使用する文房具類、その他に琴、土偶、硯、箱、棺やマスクなどの葬儀と埋葬の用具がある。工芸品は彩色上絵、針刻、金箔、金銀象 嵌がある。彫刻では木像、脱活乾漆夾紵像、銅像、竹像、皮像が出土されている。
漆の街ともいえる揚州において、大量の漆を使用する脱活乾漆は盛んに制作されていた。本来中国では祭事の際、その地域縁の神仏像を神輿に載せて街を練り歩くが、その神像自体の重量軽減を考慮に入れ、軽量且つ丈夫な脱活乾漆像が考案された。これは漆器技術の応用から来ている。日本には鑑真和上来朝以前から、脱活乾漆の技法は既に伝わっていたが、その後脱活乾漆像では最大となる唐招提寺・盧舎那仏を頂点として以後、徐々に木心乾漆像や壇像風一木木彫へと像造方法が変化して行く。それは、鑑真和上が齎した盛唐の最新式仏像である「彫白栴壇千手像一躯」にみられる壇像彫刻の精神が、次第に日本における仏像像造の主流へと変化して行く分岐点となっていることを物語っている。
以後日本の仏像は、桧という日本の良質な木材を中心とする木彫仏を主流とし、11世紀平安時代の定朝による木寄法の確立が木彫による像の巨大化を可能にし、更に12世紀鎌倉時代の慶派へとダイナミックに進化してゆく。鑑真和上が齎した前衛仏像様式は、古代日本の文化的様式に大きな影響を与えただけでなく、中世以後の日本の精神文化にまで影響を与えたその功績は大きい。
