奈良文化財研究所編,《奈良の寺一世界遺産を歩く》,岩波書店,2003。
3.講堂は平城宮の宮殿だった
宮殿を寺に改造
いまは覆屋をかけて解体修理が行われている金堂、その北側に建っているのが講堂です。これも奈良時代の建物ですが、もともとは寺院建築ではありません。実は、現存する唯一の平城宮の宮殿です。平城宮の「東朝集殿」と呼ばれる建物を移築したのです。
平城宮には正門である朱雀門の北と、朱雀門の東にある壬生門の北にそれぞれ広大な区画が広がっていました。東の区画は奈良時代の前後で二時期の遺構があり、後半には、南から朝集殿院、朝堂院、大極殿院と建物が続きます。朝集殿院には朝集殿が二棟、朝堂院には朝堂が一二棟ありました。高位高官の役人は毎朝出勤すると、まず朝集殿に入って衣服を改め、定刻になると朝堂の決められた席に進み、政務をとることになっていました。また大極殿院には、天皇が儀式や政務を行う大極殿がありました。
朝集殿は出勤してきた役人が衣服を整える建物だったわけです。南北に細長い建物で、東西対称に二棟ありました。このうち東側のものが東朝集殿です。鑑真が在世中の七六一(天平宝字五)年ごろ、唐招提寺に移築されたとみられています。
講堂は明治時代にも解体修理されました。この時、蟇股という部材に古い番付が残されているのが見つかりました。番付とは、建物を解体した時にどこの部材であるかがわかるように書き記した墨書で、「東一条四」などと記されています。これによって当初の建物の配置が復元され、東朝集殿の移築が裏付けられました。
唯一残った宮殿建築
もっとも、東朝集殿を運んでそのまま講堂にしたわけではありません。やはり解体修理に伴う調査で、移築時の改造の様子もわかりました。屋根は切妻造から入母屋造に変更されています。東朝集殿は壁がほとんどない建物だったので、柱の間に扉や連子窓も加えました。また、建物の両わきと背面に軒廊を取り付け、僧の住まいの僧房や食堂と結びました。このように、役所の建物から寺にふさわしい形態へ改造したのです。
平城宮の東朝集殿跡も発掘されています。その結果、基壇(基礎)の表面を飾る化粧石は凝灰岩だったこと、基壇の西側(正面)と東側(背面)に階段が三つずつ張り出していたことなどが確認されました。一方、現在の講堂は、基壇の正面に幅が三間の大きな階段が一つ、背面と両側面に幅一間の小さな階段が一つずつ、それぞれ取り付いています(一間は二本の柱の間隔)。お寺の講堂として使いやすいように、階段の配置も東朝集殿とは違うものになったわけです。
このときの平城宮の発掘では問題点も浮かび上がり ました。移築した後、新しい東朝集殿を建てた形跡がなかったことです。移築してから奈良時代末までの二〇年余り、空白期ができてしまうのです。それとも基壇はそのままで、新しい建物を建てたのでしょうか。これについては軒瓦の様式をもとにした否定的な考え方もあります(5節参照)。
講堂は鎌倉時代にも大改造がありました。貫や組物などの変更点も多くあり、屋根が高い、重量感のある外観に一新されたのでした。
このように、唐招提寺講堂は文献、解体修理、発掘などの成果を通して、建物の歴史的な変遷をたどることができます。二棟しかない奈良時代の講堂の一つであるとともに、唯一の宮殿建築として非常に貴重で、まさに世界遺産にふさわしい建築といえるでしょう。講堂の変遷については、奈文研の平城宮跡資料館に各段階の精巧な建築模型が展示されています。
(石橋茂登)
4.もとは新田部親王の邸宅
天武天皇第七皇子
唐招提寺は、奈良時代の平城京の住所で表すと「右京五条二坊」に位置しています。創建は七五九(天平宝字三)年、奈良時代の後半です。この場所はもともとは、新田 部親王の邸宅でした。現存している唐招提寺創建時の建物は、金堂、講堂、経蔵、宝蔵の四棟ですが、通説では、講堂は鑑真存命中、金堂は没後に建てられたとされています。また、現存する校倉造の経蔵と宝蔵(ともに国宝)を、新田部親王邸の名残と考える研究者もいます。経蔵の当初は切妻造だった校倉が、寄棟造に改造されているためです。経蔵も宝蔵も、中近世に大きく改造されていましたが、昭和の修理で天平時代の姿に復元されました。
新田部親王は生年が不明ですが、天武天皇の第七皇子で、母は藤原鎌足の娘の五百重娘す。奈良時代前半に軍事関係の要職を歴任し、政治の舞台で活躍しました。藤原氏によって仕組まれたとされる七二九(天平元)年の「長屋王の変」では、天武天皇の孫で、おいに当たる長屋王の「罪」を糾弾する一人になっています。
亡くなったのは、七三五(天平七)年。政界の中心人物として、葬儀は丁重に営まれたようです。ところが、新田部親王の二人の子、道祖王と塩焼王は七五七(天平宝字元)年に起きた「橘奈良麻呂の変」など度重なる政変に巻き込まれて、道祖王は悲惨な死を遂げ、彼らの邸宅は政府に没収されてしまいました。唐から苦難の末に来日した鑑真がその土地を譲り受け、唐招提寺を建立したのです。
平城京の高級住宅街
私たちが暮らす街には様々な顔があります。名前を聞いただけで土地柄が思い浮かぶこともよくあることです。落ち着いた高級住宅街、にぎやかな繁華街、古ぼけた下町の路地裏......。その住所から、それぞれ建物の形や色、人々の姿や音や匂いをイメージし、思い描くことができます。平城京にもそのような様々な場所がありました。
平城京の人口は二〇万人とか一〇万人とか、さらに六万人ほどとか、いろいろな説があります。「正倉院文書」や木簡などの史料から、住人の名前や地位が判明することがあります。これによると、貴族層である五位以上の人々は平城京の五条より北に屋敷を構えていたようです。旧奈良そごうデパート建設にともなう発掘調査で明らかにされた長屋王の邸宅など、平城京の北側に有力者が居住するのは、勤務先である平城宮への通勤に便利なことが理由の一つとして考えられます。職住近接の高級住宅街です。反対に、南には繁華街である市場(東市と西市)があり、下級役人やその他の人々が集住する下町があったと考えられます。
新田部親王邸は長屋王邸のように、高級住宅街の一角に広大な面積を有していました。ところが、奈良時代には貴族の邸宅がその主人の死後に寺院へと姿を変える例があります。平城遷都の立役者藤原不比等の邸宅が、娘の光明皇后の住まいを経て、総国分尼寺である法華寺になったことは広く知られています。新田部親王邸も主亡き後、唐の最新の仏教文化を伝える場所 へと変化したのです。
境内の部分的な発掘調査によって、奈良時代前半の溝跡や塀の跡、木簡や瓦が発見されています。親王の邸宅の痕跡が地中に眠っていることが明らかにされたわけです。
(金田明夫)
5.創建の時期について
鑑真在世中の姿は?
唐招提寺の創建については、二つの大きく異なった見方があります。一つは、金堂・講堂・食堂・三面僧房など主要な建物は、鑑真が没した七六三(天平宝字七)年にはほとんど完成していたという考え。他の一つは、鑑真在世中は講堂と若干の建物があっただけで、弟子の如宝の時代の奈良末から平安前期ごろに伽藍全体が完成したという考えです。『奈良六大寺大観12』(岩波書店、一九六九年)によると、天平宝字三(七五九)年説宝亀年間(七七〇─七八〇)説、延暦年間(七八二─八〇六)説、弘仁年間(八一〇─八二四)説の四説があります。「唐招提寺建立縁起」(八三五年)には金堂の造立者として「少僧都唐如宝」の名があり、鑑真とともに来日した如宝(?─八一五)の活躍時期や、金堂の仏像の様式などの解釈から意見が分かれているのです。最近は後者が有力ですが、境内から出土した瓦の年代観からみると、次のように通説とは別の見方も指摘できます。
瓦をめぐって
唐招提寺の瓦は次のように分類できます。
第一に、前節で紹介されている通り、唐招提寺は新田部親王の旧宅を施入して造営されました。新田部親王邸の創建瓦は長屋王邸の瓦と同じく、桶巻作りと呼ばれる古式の製作技法による軒平瓦と思われ、それは幾 何学文様の軒瓦です。
第二に、円や弧線の単純な文様の軒瓦が多く出土し、軒平瓦は一枚作り です。一枚作りは奈良時代に一般化する製作技法 です。この瓦は七三五(天平七)年の新田部親王の没年ごろか、長男の塩焼王の時代のものです。第三が、唐招提寺講堂の建立年代に関係する瓦です。3節で述べたように、講堂は平城宮の東朝集殿を移したものです。移したのは七六一(天平宝字五)年の「平城宮改作」(「続日本紀」)の時と考えられていました。しかし、東朝集殿の発掘では、朝集殿創建(七四五年ごろ)の軒瓦のみ出土し、天平宝字年間(七五七─七六五)に改作されたという痕跡はありません。つまり、東朝集殿を移した時期(講堂の建立時期)は、通説のように鑑真在世中ではなく、平城宮廃絶後の長岡宮の時代(七八四─七九四)と考えるのが妥当ではないでしょうか。
さらに第四に、金堂の建立年代を示す瓦があります。金堂の創建瓦は、一九八八─九四年の防災施設事業に伴う発掘調査で明らかになり、それは蓮華文軒丸瓦と唐草文軒平瓦の組み合わせです。軒丸瓦は西大寺・西隆寺と同じ笵(型)を用いて作られています。この軒瓦のセットは宝亀年間(七七〇─七八〇)製作のものとしてよいものです。この組み合わせの軒瓦の笵型は、長岡宮の時代にも唐招提寺で一部使用された可能性はありますが、平安時代初期になる と、遠く丹波国分寺へ笵型がセットで移動することになり、再び唐招提寺に戻って来ることはありません。このことから、やはり通説とはちがって金堂は講堂より先に建てられたと考えられるのです。
第五に、平安時代初期の唐招提寺造営に関する瓦です。唐招提寺の古代瓦の中で、弘仁年間(八一〇─八二四)に製作されたと考えてよい軒瓦は一種類くらいでしょう。ところが、同寺にはもっと古い、平城度と同笵の瓦(同じ型で作られた瓦)が、軒丸瓦・軒平瓦ともそれぞれ十七種以上もあるのです。
唐朝提寺では八一〇(弘仁元)年に平城上皇が塔を建立しています。一方、「唐招提寺建立緣起」には、平城上皇は平城宮の「王宮」を毀して、「長廊」を作ったとされています。平城宮の東朝集殿を唐招提寺に移した際、そして平城上皇が王宮を毀して長廊を作っだ際に、平城宮の礎石、柱と共に屋根瓦が 唐招提寺に運び込まれたと考えると、理解できます。
(山崎信二)

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