來源:奈良文化財研究所編,《奈良の寺一世界遺産を歩く》,岩波書店,2003。
5. 最古の木造建築
昭和の大修理
法隆寺五重塔の心柱の伐採年代が年輪年代法に基づいて五九四年だとわかったことは、建築、考古その他関係学界に大きな衝撃を与えました。若草伽藍の発見で決着 がついたかにみえた法隆寺再建・非再建論争の再燃を余儀なくさせたのです。ただ、法隆寺金堂・五重塔が世界最古の木造建築であることに変わりはありません。世界最古であるにもかかわらず、建築当初の材料の残りがきわめてよい。後の時代のものよりもよい。さらに驚かされる事実があります。
一九三四(昭和九)年、文部省(現・文部科学省)は法隆寺国宝保存事業部を組織し、戦争をはさんで五六年まで金堂などの国宝建造物を集中的に解体修理しました。さらにその後奈良県教育委員会が引き継いで、八五年までにすべての指定文化財の修理が行われました。これは法隆寺昭和大修理といわれ、文化財に対する保存の手法、法律や行政の仕組みの基礎をつくった、とされています。その昭和の大修理が行われるまで、金堂・五重塔とも軒廻りなどには部分的に解体され補修されていた個所はありましたが、主要な部分は一度も解体されたことがなく、創建当時そのままの姿だったのです。どうしてこのような奇跡的なことが可能だったのでしょうか。
一丁材の使用
一つは材料が太いこと。太さは構造の安定に大きな役割を果たします。もう一つ理由があります。飛鳥時代の建物と奈良時代以降の建物では、構造原理が異なるのです。飛鳥時代には金堂・塔のような中心的な建物は、建物全体あるいは少なくとも身舎と呼ばれる中心部分は、途中に継手のない一丁材で組み上げています。次ページの図は金堂の構造図ですが、黒く塗った横材が一丁材です。初重の中心部分と二重全体が一丁材で組み上げられていることがわかります。五重塔は心柱以外はすべて一丁材です。
一丁材で組み上げた建築は構造的にとても強いのです。しかし、欠点もあります。大きな建物が建てられないことです。天然の材料である木材を使用する限り、材の長さには限界があります。したがって建物の規模も制約を受けます。金堂のように中心部分だけ一丁材とした構造では間口が約一五メートル、建物全体を一丁材としたものでは約一〇メートルが限界です。
時代の変化とともに、より大きな建物が求められました。奈良時代になって、新技術が大陸から輸入され、少なくとも間口の広さは材料の制約を受けなくなりました。軒を支える組物や軒の改良、虹梁(アーチ)の採用などによって可能となったのです。でも、これにも弱点があります。機械でも同じですが、構造が複雑になるほど、故障が起こる可能性が高くなります。短期間なら問題は出にくくても、長期間となると大きな問題となる場合が多いのです。
建築の進歩と建築技術の進歩は別途に考えるべきだ、とつくづく思わされます。確かに大規模建築が建てられるようになったのは八世紀、奈良時代になってからなのですから、それが技術の進歩であることに間違いはない。しかし構造が複雑化した分、補修などの維持管理面では後退しました。世界最古の建築が、もっとも良好な保存状態で現代まで残されているという現実に、建築の進歩とは何なのか、法隆寺に行くたびに考えさせられることです。
(村田健一)
6. 金堂の落書き
天井や台座の裏側に
絵師や大工の職人たちが筆慣らしに描いた漫画風の絵が、古代建築の屋根裏や仏像の台座裏など、表からは見えないところで発見されることがあります。とくに法隆寺金堂の天井の落書きが有名です。金堂の天井の、下からは見えない部分には、人の顔、動物、文様の試し絵文字など多数の落書きが残っています。有名なのは、てんぐのような高い鼻の人物で、伎楽面をつけた顔と見られているものです。五重塔の天井にもあり、七世紀末ごろの絵画遺品として高い価値が認められています。
さて先年、金堂の阿弥陀如来坐像の台座を解体した時も、興味深い絵が見つかりました。
この台座の脚部の天板は建物の扉を再利用したものです。天板の裏側の隠れた部分に、スケッチ風に走りがきした人物が墨痕鮮やかに残っていました。「まあ、こんなところに」と、調査員らから驚きのため息が漏れました。細い墨線に巧みな筆さばきで、頑丈な体格の壮年男性の立像が描かれていたのです。猪首の上の頭部は念を入れて描いています。顔をややもたげ、額に三本の皺があり、眉は太くしり下がりです。目は大きく開いた垂れ目で、高い鼻の下で小さな口を結んでいます。頭に冠のようなものを被り、両耳のところに鳥の羽根のようなものを立てています。
高句麗人を思わせる装い
服装は上下に分かれるツー・ピースです。だぶつき気味の長い筒袖に腕組みした両手を突っ込み、腰のあたりで上着をぴったりと締め、裾が腿のあたりで大きく開いています。合わせの衿は向かって右側の衿を上にして、腰の帯が垂れ下がっています。下はだぶだぶのズボンのような袴です。踵を合わせる足は、おそらく革靴をはいているのでしょう。
阿弥陀如来坐像は鎌倉時代の作品ですが、絵が描かれた台座脚部は七世紀半ばのものとされています。扉板を台座に作りかえる時に、絵師か仏師、あるいは絵心のある職人がスケッチしたものと思われます。人物が仏像や寺院関係者ではないので、周辺にいる世俗の人物がモデルになった可能性があります。
七世紀の服装を知る手掛かりはあまりなく、高松塚古墳の壁画や中宮寺の天寿国繍帳、埴輪の衣装などが参考にされています。それらの資料では上着の衿は丸衿で、上着と袴や裳の間にスカートのようなヒラミ(褶)という着物をつけています。でも、絵の人物は合わせ衿の上着にヒラミを着けていません。鳥の羽根らしい被り物を着けているのは、日本人の服装ではなさそうです。細かな説明は省きますが、この服装は四─六世紀の高句麗の壁画古墳に描かれた男性の服装と大変よく似ており、高句麗人を描いたのではないかと考えられます。
日本の仏教は百済から伝わったとされていますが、高句麗とのかかわりも無視できません。とくに法隆寺では聖徳太子が師と仰いだ高句麗の僧・慧慈との深い関係が伝えられ、その後も著名な高句麗僧が渡来してきましたから、法隆寺の建立に高句麗の職人たちが携わったことが想像できます。モデルとして、威張って職人に指示する高句麗の工事監督に思いをはせることも楽しいことではないでしょうか。
(町田章)

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