源豊宗,《日本美術史論究3》,京都:思文閣,1980。

唐草文様

唐草文様(からくさもんよう)は、日本の文様の中でも一ばんポピュラーな意匠として、さかんに行なわれている、と思われるかもしれない。だが実は唐草文様は、その名が示しているように「唐」のものであり、しかもその行なわれた範囲──時代的にも対象的にも──には限界がある。そこにこの唐草文様の、日本美術史における格別な意味がひそんでいる。

唐草文様といえば、唐草を取扱った文様ということのようであるが、実は 唐草なるものがすでに文様そのものなので、唐草とだけで、それが一種の文様であることを意味するのである。こころみに唐草を定義すると、次のようになる。

(A)曲線の波状的展開を主軸として、

(B)この主軸に沿って互生的に分枝が派生している文様型式。

この定義から唐草は、第一に波状的な連続展開であること、したがってその展開方式が屈折的なジグザグとはちがって、曲線的な流暢な感覚をおびていることが、まずその特色としてあげられる。このことはまたS字つなぎの文様や、いわゆる雷文つなぎ(メアンデル文様)と根本的に異なることを注意しなければならない。S字のつなぎは一個ずつに運動の終始があって、連鎖的であってもスムーズな流動性をもたない断続的展開である。メアンデル文様は展開が直角的で信屈である。夢殿観音の宝珠形光背の円光部の外圏の唐草は典型的なパルメット唐草だが、内圏のはS字つなぎである。

第二に、この波状曲線の主軸から互生的に蔓状の小枝が分岐し、主軸の波状線の単純さに変化を、即ち美的多様性を与えているのが、その重要な条件である。この互生的分枝はつねに主線と逆方向の曲線をおび、一面において主線の運動方向に一種の抵抗感を与えて、しかもそれがなめらかな波状的ライト・モティフと調和しているだけに、見る者にこころよい緊張をもたらすのである。

この様な唐草文様は、我が国には推古時代、朝鮮から伝来した仏教美術にはじめて見出される。法隆寺金堂釈迦三尊の金銅舟形光背の中央、同心円の一ばん外側にみられるのが我が国では最古の遺例であろう。紐状の波状曲線から互生する四枚ないし五枚の重なりあった笹の葉状の弁が、起伏する波の谷間を埋めている。この種の唐草は御物四十八体仏の光背にも多く見られ、白鳳時代の推古の伝統を受けついだ様式の作品にはよく行なわれている。いうまでもなく推古様式は朝鮮を通じて北魏の様式を学んだのであるが、この種の唐草は北魏では普通に行なわれていた。

この日本の推古・白鳳に行なわれた唐草は以前は忍冬(にんどう)唐草とよばれていた。英語のhoneysuckle ornamentの訳語である。そのためにこの唐草が忍冬(和名スイカズラ)を文様化したような誤解をひろげている。しかし近ごろはpalmetteという名称がむしろ多くつかわれてきた。パルメットの意味については多少問題はあるが、要するに椰子(palm)の葉の形から来ているのである。椰子はアッシリアを中心としたオリエントの民族において、その常食とした果実(ココナット)を恵んでくれるので、それは生命の樹であり、聖なる樹であった。アッシリアのニムルード出土のパネル浮彫に見られる椰子の聖樹を囲む椰子葉文様は、いわゆるパルメット文様の発生を物がたる好個の資料である。ここでパルメット文様の成立について、少しく説明を加えなければならない。

第1111図でわかるように、パルメットは、椰子樹の頭部から放射したその巨きな羽状複葉の扇状のシルエットを、文様としての基本形態とする。ところがこの様なパルメットの基本形態が発生するには、重要な前段階を通過しなくてはならなかった。それはエジプトで古王朝以来、永遠の生命の象徴として尊ばれてきたロータス(睡蓮)の文様化した扇状的側面形式である。エジプト文化に憧憬していたオリエント人が、このロータス文様を、早くからとりいれていたことはいうまでもない。そして多分紀元前十世紀頃には、このロータスの側面型と椰子との混同が始まったと思われる。アッシリア文化の伝統が優勢であ ったオリエントにおいては、この混同は区別し難いまでに発展した。ギリシャに辿りついて更に洗練を加えられたこの文様形式は、アンテミオン(花形)の名で呼ばれている。

しかし右に述べたパルメットは、むしろ個別的な花形扇状文とみるべきであるが、これが連続波状文と結合した時、「パルメット唐草」が成立したのでるあ。扇状花文としてのパルメットが連結されて、帯状の形式をとったのは、すでに前述のニムルード出土の浮彫に見られるが、それは紐状の直線に極めて素朴に連結されているに過ぎない。オリエントではギリシァ以前に、その様な場合、流暢典雅な波状的展開形式 をとることはなかった。U字つなぎか、さもなければS字つなぎの程度の断続展開であった。

世界において最初にこの典雅な波状展開の文様を発明したのはギリシア文化であった。それは、紀元前六世紀末期の製作とされる陶器にパルメット唐草が出現している。しかし最も多いのは木蔦文の唐草である。こまかな波状の軸線の両側に、木蔦(ivy)の心臓形の葉と小粒の実の房とが一つおきに互生している。これは勿論、木蔦唐草というべきであろう。もっともこの際、この様な典雅なデザインを産み出したギリシャ文化の基盤には、紀元前二〇〇〇年というような時期に、その黄金時代を過ごしたクレタ文化が存在したことを忘れてはならない。クレタ時代にはすでに流暢な曲線運動の美に対する志向が現われていたし、木蔦の蔓性の曲線美を知っていた。或いは木蔦の著しく伸び育つ性質に旺盛な生命力の信仰が結びついたのかもしれないが、木蔦はギリシァでは、葡萄がディオニュソスと結びつく以前に、たとえばその冠にいち早く用いられている。この木蔦唐草は、紀元前四世紀に入って葡萄唐草を産み出してくる。否、葡萄唐草の黄金時代を迎えたのである。

このギリシァ的唐草がオリエントに輸入されると、オリエント人は、彼らの恐らく信仰的性格ともからんで、かつギリシァ人の自然主義的精神とは異なる抽象的志向からも、木蔦や葡萄の代わりに主としてパルメットが盛んに行なわれてきた。多分、ギリシャで発達した典雅な唐草文は、陶器の流伝にともなって入っていた。シドンで発見されたアレキサンドロス時代という三つの石棺に見られる葡萄唐草文には、オリエントにおけるその発展をうかがわせる。ただし、パルメット唐草への転調は、必ずしもオリエント人が、その手柄の凡てを私することはできない。ギリシャでは前述のように、すでにパルメット唐草は木蔦に圧倒されていた。

アテネの美術館にある紀元前六四〇年頃の作と推定されるアンフォラに施されたS字つなぎの両端には、典型的なパルメット文が見られるが、このアンフォラのパルメットは、扇状パルメットを半蔵した形式で、東洋ではむしろ、この半截パルメットがより多く愛好された。この半蔵パルメットを唐草に結びつけたのはオリエントであった。オリエントではそれが愛好された。恐らくパルメットに対する本質的な宗教感情が濃厚だったからであろう。この事はパルメット唐草が、時代は相当下るが、コプトやビザンチンのような、より多くオリエントに起源をもつ美術に盛行している現象からも推定していい。そしてクラシックの世界でも、後までも花やかな葡萄唐草が続いていた一面に、パルメットがそれに対抗するだけの力を持ち得たのは、キリスト教信仰の内部にあるオリエント的なものが存在したからである。

このようなパルメット文様が(唐草型式も単独型も共に)アジアのはるか東方に向かっ流伝してきたのである。すでにインドの記元前三世紀に建てられた阿育王のビハールの牛頭記念柱の台に見られるパルメットは、アレキサンドロスのインド遠征によるギリシァ文化を反映して、内反りと外反りとの両種が、何れも全扇状において交互に並置されている。しかし、オリエント的様式のままでも、いわばヘレニズムを媒介としなくても、直接に伝来していることは、その地理的関係からも当然であろう。恐らく西暦紀元の前後と思われアフガニスタン出土の象牙の透彫には、明らかに典型的なパルメット唐草が行なわれている。前述のように、私は恐らくオリエントで発達したパル メット唐草が、一方ではギリシャの方向に、そしてエトルリアにも伝えられ、一方ではイランを超えて東アジアにもたらされて行ったと見ていいのではないかと考える。そして、イラン文化が支配的であったシルクロードにおいては、概ねオリエントで発達したパルメット唐草が行なわれた。中国や日本のパルメットがその系譜に属することはいうまでもない。スタインが楼蘭の遺址で発見した木造建築材に彫刻されたパルメット唐草は、アフガニスタンのそれ、法隆寺の透彫金銅幡のそれなどと、ほとんど同一である。

しかし、日本にパルメットが姿を見せるのは仏教美術以前である。早くも古墳時代の馬具にそれが現われている。静岡県御小家原や神奈川県室ノ木などの古墳から発見された金鋼の杏葉は、その優秀な作例である。しかしそれは、連続波状の唐草型式ではない。尤もそれらは仏教美術が日本に始まる推古時代より年代的に先行しているとは限らないが、仏教美術と無関係に伝来している実例として注意をひく。パルメットは聖なる蓮と、聖なる椰子とに起源をもち、その何れかを意識するかは別として、この文様は宗教的な象徴的意味を有していたことは、後世においてもパルメットが、宗教的事物の意匠に行なわれていることからも明らかである。恐らく我が古墳時代の武人達も、生命の安全への、もしくは勝利への祈りを、この意匠にかけていたことであろう。

仏教美術の伝来はパルメットの伝来であった。法隆寺金堂の釈迦三尊は、推古三十一年(六二三)その前年にな くなられた聖徳太子のため、止利仏師によって作られたものであるが、この三尊の光背に立派なパルメット唐草が施されており、脇侍菩薩の宝冠の正面にはハート形の枠の中に五弁の扇状パルメットがあらわされている。後者は一見、楓様の形をしているが、この単独パルメット文も、当時盛んに用いられ、法隆寺初期の軒丸瓦は六弁蓮華の各々の表面に、このパルメット文が浮き出ている。この時期のパルメットは、その各弁の先端が鋭く尖っていることが注意すべき特徴である。この鋭さは推古芸術の様式とその性格を共通する。法隆寺に伝来し四十八体仏の光背には、数多くのパルメットの作例を求めることができる。そして四十八体仏の多くが綜合的にみて、白鳳時代、即ち七世紀の後半期の作と考えられるに拘わらず、そのパルメットの鋭利な切先には、なおそこに推古的様式が、根強くはたらいている事実を物語っているのである。

我が国に伝えられたパルメットは、各弁が放射状に遊離している普通の楓型の外に、各弁の先端がむしろ丸みをおび、多少の欠刻はあるが、ほとんど接続して銀杏の葉の様な型式をとるものが、稀ではあるが時に見出される。創建法隆寺の遺址から出土した軒丸瓦が、この型式のパルメット唐草である。第115図は四十八体仏の光背の一つであるが、銀杏型に属する一例である。これはパルメットがオリエントで発生した時、椰子意識に重心があった社会の中で形成された型式の伝統として、早くから存在している。

パルメット唐草の美しい作例は、再建法隆寺に用いた軒平瓦である。軸線が複線となって、その節々から繊細な曲線をもつ小枝が分岐している。忍冬の細長い形科の花をふと連想させるような姿は、事実は何のいわれもない忍冬の名を、このパルメットに呼び慣れてきた理由でもある。しかし、夢殿観音像の光背の円光部の外圏に施されているパルメット唐草は、恐らくこの種の唐草文の中でも最も荘麗な作例の一としてあげていいであろう。豊かなふくらみをもった波状線の一湾一湾を充たした、三願の百合状の婉曲な反りを示すパルメットの「花形」が、実に典雅な感性を匂わせている。内圏のS字つなぎの虺文とも見られる文様も、その宛転流麗な運動感は、極めてすぐれた芸術感覚の持主を想定しめずにはおかない。ただし推古時代という仏教美術の世界に、はじめて眼を開いた当時の日本の作家に、これだけの芸術的表現力を肯定することは、当を得たものとはいえない。

七世紀の推古白鳳の時代に、さしも流行したパルメット文は、白鳳末にかかると次第に下火になって行った。第一には、新しい種類の唐草が、パルメットの座をゆさぶりはじめたのである。第二には、そのような新しい風潮が、従来のパルメットの性格を内部から崩して行ったのである。白鳳時代はその芸術様式が、推古時代と異なり直接隋唐の様式を受容した所に、大きな転換が現われたのであるが、その隋唐様式は、イランを中心とする西方の、いわば官能的性格をもった文化が、積極的に中国に浸透してきた時代である。その新しい競争者が葡萄唐草である。葡萄唐草はさきにもちょっと触れたが、ギリシァで紀元前四世紀に発生した。それは逸早く東にも波及し、ガンダーラでもその実例が見出される。中国にも北魏時代には、非常に素朴なその唐草が行なわれた例を求められる。しかし、それが時代の顕著な現象として美術史的意義を持ってくるのは、海獣葡萄鏡などにうかがわれるように、むしろ七世紀に入ってからである。そして日本にも徐ろに葡萄唐草の意匠が始まってくる。白鳳末と覚しき瓦に葡萄の施されているのが、近年数例報告されている。しかし我が国における葡萄唐草といえば、何人の脳裏にも思い浮かぶのは薬師寺金堂の本尊の台座である。恐らく七二〇年代の作と推定されるが、そこには全く新しい芸術感覚が奏でられている。

しかし、この葡萄唐草が我が国に定着しない間に、また新しい意匠が追っかけて輸入されてきた。それが鎌倉時代以後までも永く仏教関係の装飾意匠となった宝相華文様である。正倉院には天平十四年(七四二)の年記をもつ葡萄唐草文を織り出した金光明経のがあるが、天平は圧倒的に宝相華の時代であった。もと興福寺西金堂に安置されていた八部衆の着衣に画かれている文様は、天平六年(七三四)造立のままと見られるが、それにはすでに宝相華文が用いられている。恐らくローマ文化の所産であるローゼット文(全開した花文)に起源をもつと思われる。宝相華は、葡萄以上に感性的な花やかさをもっていたので、人気が多かったのであろう。そしてパルメットは次第に自らを変質しつつ影をうすくして行った。人間的な柔軟な表現をもとめた白鳳の感性は、先ずパルメットの尖った厳しい切先を露の玉のような丸みにかえてきた。持統天皇の藤原京出土の軒平瓦に施されているパルメット唐草は、白鳳化したその早い作例である。それは夢殿観音の垂髪の手形の推古的尖鋭性と、中宮寺弥勒像のそれの白鳳的婉曲性との対照を思わせる。 それと共に波状の軸線から分岐している花弁状のパーム意匠は 消失して、単なる蕨手状になり、それがパルメットからの展開であることを忘却させている。法隆寺五重塔心礎 から発見された舎利容器の外蓋のパルメット文透彫は、明白な白鳳的変容を示していた。この事は、今の五重塔 が推古時代の創建でないことを告白する一つの資料でもあった。パルメット唐草は、かくして本来の形式を失っ て行ったが、ただ軒平瓦の文様としてのみ、推古に始まったその伝統が、変質を重ねているが、まるで軒平瓦そ のものの宿命ででもあるかのように、今日に至るまで続いているのは面白い。 しかし、パルメットは、いわば推古・白鳳だけの命であった。

葡萄唐草や宝相華唐草については、他日稿を新たにして語りたいと思っているが、唐草という、その規則的な構造には、日本民族の芸術的感覚は、必ずしも和しなかった。輸入されてきたそれらの意匠が、新鮮で好奇心を刺した間は喜んで受け容れている。しかし、日本人が自らの芸術的欲求としては、唐草を装飾意匠としては用いなかった。あれほど仏教関係の用途に盛んに行なわれた宝相華文様でさえも、儀礼的な場合を例外として、さまで親しまれなかった。日本の工芸意匠として認められる藤原以後の遺品には、ほとんど絵画的意匠が支配的である。高野山の沢千鳥螺鈿蒔絵唐櫃も絵画的であり、鶴ヶ岡八幡宮の難菊螺鈿蒔絵硯箱もそうである。藤原時代十一世紀になって、唐様式の意匠が廃れた後の和鏡の文様が、全く規則的構造から離れて絵画的意匠に変わってしまったのも、この日本民族的芸術性を物語るものである。蓋し規則的構造のもつ固苦しさは、日本人にはなじめないものであった。そして唐草の波状的展開は、草仮名の自由な旋律的展開とちがって、に寄する波のう ねりの単調な規則性が、却って動揺と不安とを感じさせるように、唐草の絶え間ないうねりには、静かな安らぎを愛する日本民族にとっては異質的なものであった。そこに唐草が、文字通り「唐」のものとしてのみ理解されてきた所以でもある。(昭和四十七年一月『日本美術工芸』第四〇〇号)

 

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