奈良文化財研究所編,《奈良の寺一世界遺産を歩く》,岩波書店,2003。
1.金堂の修復
柱が傾く
西ノ京のこんもりとした緑の中に、大きな箱を伏せたように鉄骨の建物が出現したのは二〇〇一年春のことでした。唐招提寺金堂の修復が始まったのです。鉄骨の建物ですっぽりと覆われた金堂は現在、一八九八(明治三一)年以来、約百年ぶりに本格的な修復工事が行われています。
唐招提寺を訪れたことのある人なら誰しも、樹林の中に白く延びた参道の清楚なたたずまいの奥に、どっしりと構える金堂の姿を思い浮かべるでしょう。大きく落ち着いた瓦葺の屋根、太い一本一本の部材がゆったりと構成された深い軒、立ち並ぶ量感ある円柱。まさに千数百年を生きて今日まで伝えられてきた古代建築の姿です。
唐招提寺は七五九(天平宝字三)年、唐の高僧、鑑真によって開かれ、最初に建てられたのは講堂でした。金堂の正確な建立年代は不明ですが、奈良時代の仏堂形式をよく伝える第一級の文化遺産として国宝に指定されています。私たちが見慣れたこの金堂は、近ごろ屋根が波打ち、軒が少し垂れて、たしかに修理の時期は近づいていました。しかし、それほど大がかりになるとはだれもが気付かなかったでしょう。
それは建物を眺めただけではわかりません。三次元レーザースキャナを使って図に表してみて初めて、状況をとらえることができるのですが、なんと柱が今にも倒れそうに内側に傾いていたのです。頭上で腕のように天井を受けている肘木も、それに連れて転びそうです。以前かこの現象が確認されていたそうですが、傾斜がすすみ、いよいよ根本的な手だてが必要になってきたというわけです。
精密な調査・研究に基づいて
修復は、一九九八年からまず二年が かりで建物全体の傷み具合を知ることから始まりました。修理の方針や方法を検討するための、いわば精密検査です。従来おこなわれてきた、建物の状況を観察し、経験によって判断する伝統的な診断とともに、最新の構造解析システムも導入されました。平城宮跡の朱雀門や大極殿の復元研究で採用した検討方法も採り入れられ、より発展させています。
千数百年の長い時間が経過するなかで、屋根や軒の重さが柱や梁にどう作用してきたか、大地震や大風にはどのような動きを見せるのか、といった点が徹底的に究明されました。柱の傾きについても、原因が次第に明らかになってきました。軒から上の荷重がバランスよく流れないため、柱の頭部が内側に押されて周辺が変形したものと認められたのです。
実は、歴史ある建物にはよくあることですが、この金堂の場合も、屋根を構成する部分はたびたび修理を受け、その形が大きく三回変化してきたことがわかっています。おそらく、いつの時代もこの柱の傾きに悩まされてきたのでしょう。鎌倉時代、江戸時代、明治時代にそれぞれ大きな修理が施されました。ある意味でそれは、未熟さを残した天平建築のもつ宿命かもしれません。けれども、この現象をそのままにしておくことはできません。文化財の修復は、これまでの修理の歴史も尊重しながら、建物の弱点を補強し、様々な工夫を施して未来に伝えようとします。
修復は現在、詳細な調査がおこなわれて二〇〇一年度から解体作業が進んでいます。これから補強対策の検討が続けられて組上げにかかり、全体の事業が終わるのは二〇〇九年度。明治以来の蓄積をもつ奈良県教育委員会の専門家たち、また建築や美術などの多くの研究者が協力して取り組んでいます。
(木村勉)
2.戒壇院はいつ建てられたか
鑑真がもたらした戒壇
唐招提寺の優美な金堂の西に、築地塀に囲まれた戒壇院があります。ひっそりとした内部には石の三重基壇があり、宝塔がのっています。もとはお堂が建っていました。
戒壇とは授戒をおこなう場所、すなわち仏門に入る者に戒律を授ける場所です。現在、戒壇は日本以外では中国、朝鮮半島などでみられ、起源はインドまでさかのぼる可能性があります。日本の戒壇は鑑真一行がもたらしたものです。奈良時代初めには授戒制度が確立していなかったため、出家がたやすくでき、僧侶の悪事も横行しました。政府は、唐から戒律を伝授できる高僧を迎え、戒儀を整えることにしました。こうして迎えたのが鑑真一行です。
鑑真(六八八─七六三)は中国・揚州の人で、日本律宗の祖。一四歳で出家し、律・天台を学びました。戒律の講座を一三〇回開き、「一切経」を三万三千巻書写し、弟子は四万人余りといわれています。名声は高く、揚州の大明寺で興福寺の僧・栄叡と普照からの要請を受け、弟子たちが難色を示す中、自ら渡海を決意。失明するなどの困難を乗り越えて、六回目の渡航で来日し、法進、思託、如宝ら七人の随行者とともに七五三(天平勝宝五)年、平城京に入京したのでした。彼らが日本に渡る苦難の旅は有名です。
来日早々の七五四(天平勝宝六)年、鑑真一行は東大寺大仏殿前に戒壇を設け、聖武天皇に菩薩戒を授けます。これにより、正式に戒を受けないと国家公認の僧と認められなくなりました。続いて、大仏殿西側に天皇受戒の壇土を移して東大寺戒壇院が構えられます。
しかし、これらの寺で行われる授戒は国家の統制下にありました。鑑真一行は、国家権力から独立し、純粋に戒律を説きたいと考えました。こうして七五九(天平宝字三)年に彼らが創建した寺院が、唐招提寺でした。「招提」とは道場という意味です。
二説ある創建年代
では、唐招提寺の戒壇院はすぐ造られたのでしょうか。実は戒壇院の年代に関しては、創建当初説と鎌倉時代の一二八四(弘安七)年説の、大きく二説があります。戒壇に関する記載が平安時代にはなく、史料的には「弘安七年再興」というのが最も古い一方、平安時代以前の史料にも「壇場」「壇地」など、戒壇に関連したような言葉が出てくるからです。
謎を探るべく、現在の戒壇の宝塔が造られた一九七八(昭和五三)年に、奈良国立文化財研究 所(当時)が発掘調査をしました。戒壇の封土層から、大正期の修理土層(近代)、元禄期の盛土層(江戸時代)、版築土層および地山層がみつかりました。版築土層は土を突き固めた層、地山は自然のままの土層のことです。版築土層と地山は、創建時の戒壇の封土と推定できました。しかし、肝心の創建時期に関する所見は得られず、謎は解けませんでした。
さて、弘安七年建立の戒壇堂は、一五九六(慶長元)年に地震で倒壊します。徳川綱吉の母、桂昌院の寄進により、一六九六(元禄九)年に再建されました。元禄年間(一六八八─一七〇四)の修繕状況を示した唐招提寺伽藍図には、立派な戒壇堂のある戒壇院が描かれています。しかし、この戒壇堂も一八四八(嘉永元)年に焼失し、以後、再建されることなく、現代に至っています。現在、覆屋はありませんが、授戒の儀式は露天戒壇で行われています。
(平澤麻衣子)

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