奈良文化財研究所編,《奈良の寺一世界遺産を歩く》,岩波書店,2003。
3.西僧房の火災跡
伽藍の大半が焼ける
「薬師寺縁起」によると、薬師寺は平安時代の九七三(天禄四)年、火災にあい、金堂と東西両塔は類焼を免れましたが、講堂をはじめとする伽藍の大半が焼けました。火災は食殿から出火、講堂、僧房、回廊、経蔵、鐘楼、中門、南大門を焼失するという大きなものでした。伽藍の再建には約四〇年を要しましたが、さらに一五二八(享禄元)年、兵火のため金堂、西塔、講堂、中門、僧房などが焼亡しています。金堂は一六〇〇(慶長五)年に再建、一九七五年に興福寺に移建され、同寺の仮金堂となりました。薬師寺の現金堂は一九七六年、西塔は八一年に再建されています。
最初の火災から千年後の一九七三(昭和四八)年、伽藍西北の西僧房跡で発掘調査が行われました。そこに、この火災の跡が生々しく残っていて、発掘作業はまるで火事場の検証といった感じでした。
僧房はお坊さんが住む長屋形式の集合住宅。西僧房は東西に長く、南に大房、北に小子房が並行して並んでいました。建物の大きさは、東西方向の間口がともに一八間(柱一九本)、南北方向の奥行きは大房が四間(柱五本)、小子房が二間(柱三本)で、大房と小子房の間は中庭です。大房と中庭と小子房の間口二間分を南北の壁で仕切り、できた区画の一単位を「房」と呼んでいました。
西僧房は九房あり、一房は東西六メートル、南北三二メートルで、一九二平方メートルです。房の中はさらに壁で間仕切りし、いくつかの部屋に分けています。大房は三部屋(南から前室、中室、後室)に、小子房は二部屋に分け、中庭も西側の仕切り壁を利用して東西一間(柱二本)、南北三間(柱四本)の付属棟を設けていました。
出土品から生活を垣間見る
東から七番目の房では、小さな金銅仏が無残な残骸となって発見されました。何も持ち出せなかったほどの大火だったのでしょう。でも、火に強い焼き物は往時の形をとどめて残っていました。
焼き物は、前室と中室の東壁付近、後室の 西壁付近に集中して、折り重なって発見されました。もともと棚に収められていたようで す。それぞれの房の前室の焼き物は、当時貴重品だった唐の白磁や国産の緑釉陶器とともに灰釉陶器の花瓶、奈良時代から伝えられた奈良三彩の多口瓶、火舎香炉、仏花器で構成されていました。前室は法要に使う仏器の収納庫だったので す。
一方、中室の焼き物は食膳具と煮炊き具、灯明器で構成され、食膳具の数や品質から見ると、ここには高僧と弟子の二人が起居をともにしていたようです。後室には多量の土師器、黒色土器の食器、煮炊き具、国産陶器、輸入陶磁器の食器が収められていました。僧たちの食器などを収める物品庫だったと思われます。
焼き物の出土状況と部屋割りの遺構から見て一つの房には七一八人の僧が暮らしていたようです。当時の僧房での生活の一端がこのようにわかりましたが、もう一つ注目されるのは、奈良三彩の仏器が二五〇年もの間、守り伝えられ、しかも房ごとに管理が任されていたことです。
近年、八世紀末から九世紀前半の関東地方の集落跡で、より古い時代の三彩の小壺などの出土が増えています。民間仏教の普及を物語る村落内寺院や仏教関連の遺物も発見されています。薬師寺僧房での三彩仏器のあり方から判断すると、それらの三彩は、村に入って教導した僧たちの伝道具と見るべきでしょう。
(巽淳一郎)
(薬師寺講堂,薬師如來像)
4.金堂の本尊・如来台座
シルクロードの終着駅として
天平文化は「シルクロードの終着駅」といわれます。東西文化が融合した国 際色豊かな姿をいうのでしょう。正倉院の宝物がよくそのように呼ばれますが、薬師寺金堂もその典型です。
本尊の銅造薬師如来坐像の台座に注目してみましょう。本体と同じ金銅製で、正面、奥行きとも約三・三メートル、高さ約一・五メートル。上部、中央(腰部)、下部の三部が別々に鋳造されています。台座の形は須弥座といい、仏教説話で世界の中央にそびえ立つ高い山とされる須弥山をかたどったものです。ところが、台座には仏教だけではなく、様々な美術的要素を取り入れた文様や鬼神像などが浮き彫りされています。
まず、最上段に描かれているのは葡萄唐草文、中国の唐代の鏡や敦煌の石窟の天井画など、東アジアに広く見られる装飾文様です。その下段は菱形や楕円形の宝華文で、イランのササン朝美術に用いられる装飾意匠です。須弥座の中心に描かれている人物像は南洋系の鬼人像です。
さらに興味深いのは、その下段の四神像です。四神は東の守護神の青龍、西の白虎、南の朱雀、北の玄武を指し、墓域を守るために描かれたものです。
四神像といえば、近年色鮮やかな朱雀が確認されて話題になったキトラ古墳や高松塚古墳など、古墳の墓室に描かれた四神像が連想されます。薬師寺の四神は青龍と白虎が高松塚古墳と同じ南向き。キトラ古墳は白虎が北向きな点が異なっています(高松塚古墳は剥落したせいか、朱雀はありませんでした)。
道教思想の受け入れ
高松塚古墳とキトラ古墳の墓室の天井には天体図が描かれていました。四神も天道教思想の受け入れ天体図も、不老長寿を求める神仙思想や、そのほかの民俗信仰が融合してできた中国古来の道教の宇宙観が反映された図像と考えられます。つまり、薬師寺本尊の台座は、仏教思想を根底に据えながら、装飾の一部に道教思想を採り入れているわけで、「神仏混交」をもじって言えば「仏道混交」の台座といえるでしょう。
同様な現象は、法隆寺に伝えられる玉虫厨子にも認められます。玉虫厨子は、須弥座の背面に須弥山世界図を描いています。ところが、同じ面に三本脚の烏のすむ日輪と蛙のすむ月輪、仙人や天馬など、神仙思想とかかわりの深い題材も描かれているのです。
なぜ、仏像の台座に神仙思想とかかわりの深い図像がみられるのでしょうか。奈良時代の仏教は国家鎮護の宗教として隆盛しました。しかし、藤原京跡や平城京跡でのこれまでの発掘調査によって、意外にも道教的な信仰が盛んであったことが明らかになっています。雨乞いのために生け贄にされた馬、病気平癒を願う呪文をしたためた木簡、罪や穢れを移して溝に流した人形などは、道教に基づいた様々な祭りが都で広く行われていたことを物語っています。
国家から個人に至るまで、自らの安寧を保つためには、仏教や道教などあらゆる信仰を広く受け入れていたのが、当時の宗教の実情だったのでしょう。そのような状況が、薬師寺本尊の 台座にも現れているのではないでしょうか。
(豊島直博)
5.瓦は語る
薬師寺論争の決め手
薬師寺(平城薬師寺)と、藤原京の薬師寺(本薬師寺)をめぐる「薬師寺論争」についてもう一度ふれましょう。論点の一つは、平城薬師寺の堂塔は本薬師寺から移されたのか(移建説)、新築か(非移建説)という問題でした。もう少し詳しく言うと、建物に関する「移建・非移建」論争と、本尊の薬師如来が本薬師寺から移されたのか、平城京で造られたのかをめぐる「移座・非移座」論争があることになります。「移建・移座」説は平城薬師寺は白鳳文化に属するという白鳳文化説となり、「非移建・非移座」説は天平文化説となるわけです。ただ、平城薬師寺は本薬師寺とうり二つに造られているため、非移建説でも建築様式としては白鳳様式としているので、少々込み入っていますが。
1節で紹介したように、現在は移建説はほぼ否定されました。発掘調査の成果ですが、中でも重要な役割を果たしたのが瓦の研究でした。
軒先に使う瓦には文様があり、軒丸瓦は蓮の花の蓮華文、軒平瓦は唐草文というのが古代では普通です。文様をつけるには、「瓦笵」とよぶ木型を使います。お菓子の落雁を作るのと同じように、木型に粘土を詰めて文様を出すのです。木製の瓦には時々、木目や傷があり、これが瓦に付きます。丁寧に観察すると、瓦に付いた木目や傷から、同じ瓦笵から作られた瓦(同笵瓦)かどうかがわかります。文様は似ていても、同笵瓦とは限りません。
平城薬師寺からは膨大な瓦が出土しました。そのなかで、造営当初の軒瓦は白鳳様式で、本薬師寺跡から採集された軒瓦と「同笵瓦」と判断されました。瓦だけが藤原京から運ばれることはありません。建物を解体し、建築部材の一部として瓦も移動したと考えられ、まず移建説が有利になりました。しかし、本薬師寺跡からは奈良時代の瓦も採集されていました。奈良時代にも屋根が修理されたことを示し、だから建物は残っていたと、非移建説を主張する学者も負けていませんでした。
改造された瓦笵
一九九〇年代に本薬師寺跡を発掘すると、「二つの薬師寺の創建瓦は同笵」という見方は覆ってしまいました。正確に言うと、軒丸瓦は同笵でしたが、軒平瓦は瓦笵が違っていたのです。軒平瓦を比べると、本薬師寺の方が文様に力があり、また唐草の渦巻きが繰り返しになるべきところが平城薬師寺では時々狂っていました。まねしようと して、しそこねたのです。
軒丸瓦の方は二つの薬師寺で一つの瓦を長期にわたって使ったため、徐々に文様が崩れたことが見てとれます。最後は、複弁蓮華文だったのが、似ても似つかない単弁蓮華文に改造されていました。瓦を削ったのです。さらに、本薬師寺からは朱の付いた奈良時代の平城薬師寺の同笵瓦も見つかりました。平城薬師寺の建立より後に本薬師寺が補修を受けたことは確実で、すると建物は残っていたことになります。
ところで、これとは別に、意外なことがわかりました。本薬師寺の西塔跡から平城薬師寺の創建瓦が大量に出土したのです。西塔は本薬師寺が完成した六九八年に建っていたのか、もっと後の平城薬師寺建立の七一八(養老二)年以降なのか疑問が出てきました。
そこで思い出されたのが、金堂が完成した後、その南東に九重塔を建設しているときに焼失してしまった飛鳥の大官大寺です。本来は金堂の南西にも塔を建てようとし たが、一度に二つは無理なので、東側の塔から先に着工したのではないかと考えられています。本薬師寺も実は、同じように東塔だけを先行して建て、その後で西塔を建てる計画だった、ということはないでしょうか。ひそやかな憶測です。
(花谷浩)

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