奈良文化財研究所編,《奈良の寺一世界遺産を歩く》,岩波書店,2003。

1.二つの薬師寺

白鳳か天平か、「薬師寺論争」

若草山をバックに東塔と西塔の二つの塔が並ぶ薬師寺の伽藍は、古都奈良を代表する風景です。薬師寺は本来、六八〇(天武九)年に天武天皇が皇后(後の持統天皇)の病気平癒のため発願し、藤原京に創建されました。その遺跡は橿原市城殿町にあります。平城遷都に伴って七一八(養老二)年に現在地(奈良市西ノ京町)に移されました。

だから、薬師寺は二つあります。創建の薬師寺を本薬師寺、今の薬師寺を平城薬師寺と呼びます。平城薬師寺には創建時の建物として東塔が残り、本尊の薬師三尊像も一三〇〇年変わらぬ慈愛に満ちたまなざしを注いでいます。

東塔と本尊は本薬師寺から移されたのか、それとも平城薬師寺で新たに造られたのでしょう発願から平城京に移るまでは約四〇年ですから、どちらでも大差ないように思えるかもしれません。しかし、建築・美術の様式で考えると、大宝の遣唐使(七〇一年任命。七〇四年帰国)以前か以後かでは、唐文化受容の問題がからみ、大きな問題となってきます。本薬師寺から移したのなら白鳳様式、平城薬師寺での新造なら天平様式に属することになり、様式上の解釈が違ってくるわけです。そこで明治以後、「薬師寺論争」と呼ばれる激しい論争が起こりました。

従来は、二つの薬師寺の伽藍配置は全く同じで、瓦も同じと見られていました。平城薬師寺の建物は本薬師寺から移建され、瓦も一緒に運ばれたと考える移建説の研究者が多かったようです。

移建説が否定される 

ところが、平城薬師寺の創建時の様子が、近年の金堂や西塔などの復元に伴う発掘調査で、かなり分かってきました。また、一九九〇年代には本薬師寺跡が発掘されました。成果は衝撃的でした。二つの薬師寺とも、金堂と塔の礎石配置は同じと分かっていましたが、中門と回廊の構造は違っていたのです。移建は不可能ということが判明しました。

本薬師寺跡は現在国の特別史跡。金堂と東西両塔の土壇と礎石が残っています。舎利を納めた孔は、東塔の心礎(心柱の礎石)にあるのに対し、平城薬師寺では西塔の心礎でした。発掘では、本薬師寺東塔の基壇は一辺の長さが一四・二メートル、高さ一四五メートル、平城薬師寺は一三・六五メートル、一・四メートルで規模はほとんど一致しています。

本薬師寺と平城薬師寺の創建時の軒瓦も、同じではありませんでした。軒瓦のうち軒丸瓦は、同じ木型から文様をつけた同笵のものでしたが、軒平瓦はよく似てはいるものの、別笵だったのです。さらに、本薬師寺跡では、創建時の瓦が大量に出土し、移建された痕跡はありませんでした。平城薬師寺の瓦の文様は伽藍配置と同様、本薬師寺の瓦の文様をできるだけ忠実に踏襲しようとしたのでしょう。

本薬師寺の発掘では、最初に金堂が建設されたこと、東塔のものと思われる建築部材の伐採年が年輪年代法で六九五年だったこともわかりました。本薬師寺の完成は六九八年とされていて、ちょうど合います。出土した瓦には奈良時代の瓦も混じり、本薬師寺が手厚く維持管理されていた状況もかいま見えました。本尊の問題はまだ決着していないようですが、建物の移建説はほぼ否定されました。でも、後世の研究者を悩ませるほど、うり二つの伽藍を平城京に造ったのはなぜかという問題は残っています。悩みはつきません。

(花谷浩)

2.東塔・西塔の塑像 

釈迦の生涯を表わす八相像 

今、薬師寺では東西二つの塔が並び立ち、奈良・西ノ京のシンボルとして静かな趣をたたえています。けれども室町時代の一五二八(享禄元)年、大和の人・筒井順興(順慶の祖父)の乱で西塔が焼け落ちて以来、東塔のみの期間が長い間続きました。

一九三四(昭和九)年、西塔跡に建てられていた文殊堂を撤去する際に発掘調査が行われたとき、塑像の破片が五二点、見つかりました。塑像は、木あるいは銅の針金などを芯にして粘土で形を作った土の造形です。一九七六年になると、西塔の再建に先立って再び発掘調査が行われました。大きな収穫は新たに一八六五点に及ぶ塑像の破片が発見されたことです。

「薬師寺縁起」によれば、東西両塔には釈迦在世時の重要な出来事を八つ選んだ「釈迦八相」の像が安置されていました。八相は釈迦の前半生を表す因相と、後半生を表す果相に分かれます。薬師寺では東塔に因相(入胎・受生・受楽・苦行)が、西塔に果相(成道・転法輪・涅槃・分舎利)が表されました。

成道は釈迦が苦行の林を出て悟りを開く場面、転法輪は最初の説法を行う場面、涅槃は入滅の場面、分舎利は荼毘に付された釈迦の遺骨 である舎利を分ける場面です。このうち分舎利はふつう八相に含まれることはありません。でも、仏塔が本来は舎利を納めた塚であること、舎利を納めるための孔が東塔ではなく西塔の心柱の礎石にあることを考えれば、その理由もうなずけるのではないでしょうか。釈迦の生涯の物語は、東塔に始まり、西塔に終わることになります。

火災のおかげで遺る

奈良時代の創建から現在まで一 三〇〇年近くたつ東塔は何度か修理されています。このうち、江戸時代の一六四四(正保元)年に、地震などによる傷みがひどくなったために改修され、この時、八相像は取り外されました。幸い、塑像の芯となった木は保存されました。表面の粘土はすっかりはがれ落ちていましたが、一六〇点もあり、座像ばかりでなく立像や動物像があったことがわかります。

一方、火災にあった西塔では粘土が焼き物のようになり、塑像そのものの姿をとどめました。頭髪、指先、耳、衣服のひだ、胸飾りなど細やかな造形の様子を見ることができます。法隆寺五重塔の初層に現に安置されている有名な塑像群を参考に想像すれば、薬師寺の二つの塔も険しい山岳を背景に、釈迦の生涯を表した大小様々な塑像が劇場風に展開して並んでいたことでしょう。

法隆寺五重塔の塑像は、奈良時代(七四七年)に作成された同寺の「法隆寺伽藍縁起幷流記資財帳」にある表現にちなんで塔本塑像と呼ばれているものです。山岳を背景に、塔の北面は涅槃、南面は弥勒、東面は維摩と文殊の問答、西面は分舎利をテーマとする塑像群が安置され、制作は七一一年とされます。

残念なことに、薬師寺では、見つかった塑像の破片の一つひとつが、どの場面でどんな役柄を演じていたのかを明らかにすることはできません。ただ、その中に涅槃の場面に置かれていたと推定できるものがあります。四センチ余りの小さな破片ですが、大きく口を開けて慟哭する表情からは、釈迦の死を悼む弟子の悲しみが今でも聞こえてくるようです。

(次山淳)

 

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