四、書家が志向する場

多くの書画家が朝鮮美展に参加したが、参加しない人物もいた。それは当時、書家、鑑識家として活躍していた呉世昌である。呉世昌は、当時、書画協会の多くの主要作家たちが朝鮮美展に積極的に参与していったのにも関わらず、第一回展に出品、入選後は出品していない。なぜ呉世昌は朝鮮美展を活動の場として選択しなかったのだろうか。この点について、先行研究では、朝鮮美展を齋藤実総督による「文化政策」の一環に過ぎないと考えた呉世昌が、出品を拒否し、関係を絶ったという見方が提示されている。

一方で当時、他のどの作家よりも、書画研究をよくし、高い鑑識眼を持ち得ていた呉世昌は、当時の日本による書画研究の状況をより深く把握していた。それは、呉世昌文庫に所蔵される日本書道雑誌の数の多さからも窺うことができる。

呉世昌は、当初から朝鮮美展の書部門について、以上のような性格を認識しており、彼自身の学書過程を根拠に、そこから学ぶべきものはないとの見解をもっていたのではないだろうか。次に朝鮮美展の書部門に対する呉世昌の認識について考察していきたい。

呉世昌は一九一九年の三・一独立運動に関わり、三年間の投獄、仮釈放された後の一九二二年に第一回の朝鮮美展に出品をし、入選している。これについて、入選後の呉世昌にインタビューをした記事が、一九二二年六月の『毎日申報』に残されている。

今回、美展に入選し、再審査した結果、二等を受賞された呉世昌氏を東大門外の孫義菴の葬儀所に訪問した。氏は今、五十九歳の老齢であり、白髪まじりの顔に熱情があふれた笑顔で「私は、もともと書を書くのが好きで、十歳の時から学んできました。私の先人は隷書を得意としましたが、私は特に篆字を好んで学びました。実は、今回の展覧会に出品をしようということは考えてもおりませんでしたし、監獄から出て以来、孫秉熙氏の葬儀のため、特に空いた時間も無かったのですが、書画協会の方から熱心に出品を勧められ、そのまま勝てずに、わずかな時間を得て、家に帰った時に書きました。まさか入選するとは思いもせずに出品したのですが、各新聞にも発表となり、また入選通知書並びに優待券まで送られ、不甲斐ないものですが、当選の栄光を得ることになったのは、とても感激する次第です。」と言われた。(原文・韓文)

このように呉世昌は当初、忙しさを理由に、第一回朝鮮美展に出品を考えていなかったことが窺える。その出品要請は、書画協会に会員として関わっていたことから、書画協会の方から熱心な要請を受けたとされるが、朝鮮美展への出品要請は、そもそも書画協会の会員に対し、総督府の方から促されていた。それは、朝鮮美展の主要画家の一人であった李鍾愚が解放後、朝鮮美展を回顧し、「当時、書画協会の会員たち宛てに総督府からの一種のお触れのような手紙がばらまかれた。今度、日本の帝展のような展覧会を京城で創設するので積極的に協力するようにという内容だった」と述べていることからもいえる。

このように朝鮮内の書画界の協力を得ることは、総督府が具体的に朝鮮美展の開設準備を進めていく上で、まず取り組まなければならないことであった。総督府は、朝鮮美展が併合後に移り住んだ日本人中心の行事となれば、「芸術上の日鮮融和を図る」という「文化政策」の意図の実現に支障を来すと恐れていたからである。ゆえに、呉世昌においても、間接的には総督府による要請によって、朝鮮美展に参加したということになる。この時、仮釈放をされていた身としては、朝鮮美展に協力せざるを得ない状況であったことは、想像に難くない。

また、次に考えられる理由としては、審査褒賞制をとった朝鮮美展の性格に対する拒否感があったのではないかと考えられる。審査褒賞制は、書画協会展(以下協展)においてもとられていなかった制度であり、朝鮮王朝時代から続く、呉世昌が培ってきた書画観とは別のものであったのではないだろうか。つまり、互いの書画作品を観覧し、愉しむということではなく、そこで優劣をつけるということに拒否感を抱いていたのではないかということである。それは、朝鮮美展が設立された後に、書画人たちが書画を愉しむ場として設定された「漢衕雅集」の存在からもいえる。そのことは、現在、呉世昌文庫に残されている『漢衕雅集帖』の序文において詳しい。「漢衕雅集」は、近来、ソウルにおける文士達の集いが荒廃してしまい、これを再び復活させようと一九二四年から行ったものであった。その集いは、全部で五回を数え、それを「漢衕雅集」と呼ぶことにしたとされる。『漢衕雅集帖』は、一九二五年正月に呉世昌宅で、朴漢泳を始めとし、金敦煕、高羲東、李琦、李道榮、崔南善が集った時に作られたものであった。

ここに名を連ねている人物は、呉世昌と交遊があったというだけではなく、金敦煕、高羲東など、当時、書画界の中心的な役割を担っていた者も含まれていることから、彼らが朝鮮美展や協展とは別の場所も志向していたことがわかる。そして、それが、彼らの書画認識において、書画をたしなむ自然な場所であったのではないかと思われる。従って、呉世昌自身もそう認識していたと考えられる。

また、朝鮮美展の審査員には、書画協会の金敦煕が中心に関わっていたことを見ると、ともに書画をたしなむ仲間から優劣をつけられることに対しても、それを忌避していたのではないかと考えられる。

以上の点から、呉世昌は彼自身の書画観をもって、朝鮮美展を活動の場とせず、協展やその他、個人的な書画の集いをその主な作品公開の場としていたのだと考えられるのである。

 

おわりに

以上、朝鮮美展に置かれた書部門設置と廃止に至る経緯から植民地期朝鮮における書家の書認識の変容とその背景について考察した。

書部門の審査員に朝鮮人が選出された点について先行研究では、李完用といった当時の親日政治家が担っていたことに対し、「そのほとんどは美術とは専門的な関わりのない人物で、実際には文化政策の重要行事である朝鮮美展を滞りなく運ぶための政治的配慮による人選にすぎなかった」とする指摘がなされていた。しかし、植民地期以前の書の担い手が士大夫や中人階層といった階層出身者であったことをふまえて考えると、「政治的配慮」だけではなく、当時の国政を担う者達にとっての当然の教養であり、職業書芸家と明確に分離されていない時期であったからこそ可能であったのではないかと考えられた。

また、これまでの先行研究では書部門廃止に至った経緯は当時日本国内でおかれた書の位置の影響を受けたと指摘されていたが、単に「書ハ美術ナラズ」とする「美術か否か」という論点ではなく、美術が内地の官展に比べ、技術的に優れているかどうかという点が重視されたといえた。それは、第五回の朝鮮美展後に朝鮮人を含む書画人から出された「書は素人芸術」とする点からも明らかになった。さらに「書は東洋画、西洋画に比べ芸術味が少ない」と芸術性について批評されるだけではなく、書や四君子は、植民地期以前の「近代化」されていない忌むべき封建制を象徴するものとしても捉えられ、批判が加えられていったことがわかった。その中で李漢福ら若手画家たちは「美術」という新たな概念導入により、書・四君子をその比較から「芸術ではない」、「価値は認めるが陳列、展覧に供する性質ではない」とする認識を示した。書認識は当時の学書過程が多分に影響しており、日本における書認識と同様の認識を示していたと考えられた。

一方、旧士大夫・中人層の書家は植民地期においてもあえて伝統的な書認識を保持し、活動の場を朝鮮美展以外に求めた。それが「近代化」される朝鮮において、彼ら自身が選択した芸術観であった。

かくて書は、植民地支配を正当化する「近代化」という価値に覆い尽くされない異他の圏域となって残されることとなったのである。

 

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