三、書部門廃止論の高まり
朝鮮美展において書部門が廃止に至ったのは、先行研究では「書ハ美術ナラズ」とする日本の状況が植民地朝鮮の美術概念にも移植されたという指摘に終始してきた。しかし、廃止に至る経緯を慎重に見ていくと、当時の朝鮮人と日本人間にある書認識の違いが見えてくるのである。次にその経緯を見ていきたい。
朝鮮美展は三回目を数えると同時に、それまで第一部の東洋画におかれていた「四君子」が、第三部の書部門に移動することになり、五回目を数える頃には、書と四君子を美術ではないとの理由で、朝鮮美展から除外していく声が高まっていった。
それに関する記事は、一九二六年、第五回の朝鮮美展を開催する前に相次いで出された。「書と四君子は素人藝術に不過」、「書と四君子美展に出品は不可」、「四君子を除くべきだという畫友会の建議案」、「四君子除外問題」がそれらである。その理由として四君子と書は、東・西洋画並びに彫刻等と共に陳列、展覧するに、その性質が異なるためであるとしている。また、その芸術味が少ないという意見も出されていた。
ここで「四君子を除くべきだという畫友会の建議案」(『毎日申報』一九二六年三月一七日)の記事を見ていこう。
十六日に当局に提出
価値は認めるが性質が異なる
朝鮮美術展覧会で書と四君子を除外してほしいと京城にいる画家達で組織された画友茶話会から総督府当局に陳情しようとする茶話会では左記の建議案を作成後、李漢福、加藤松林、竪山坦、禿恵、松田正雄、廣井高雲、大舘長節等、七氏を建議委員として十六日に陳情書を当局に提出したという。
建議書
一.朝鮮美術展覧会において書と四君子を除外するようにお願いいたします。その理由は四君子と書は、その価値を認めると同時にこれを東・西洋画ならびに彫刻などと共に陳列、展覧に供する性質ではないものであると考えるためである。
二.朝鮮美術展覧会の評議員には堂々とした順序と段階をふむ出品作家たちも各部の典型に基づいて評議員に選ぶようにしてください。
以上の二点の条項を聞き、真の誠意を示していただきたく、ここに建議いたします。(原文・韓文)
こうした意見は、李漢福、李象範、そして数人の日本人作家を中心とする、東洋画家たちと金昌燮等の西洋画家から出された。これに対し、当時の朝鮮総督府の平井学務課長は、陳述書の通りに今年の朝鮮美展を行うとすると遅滞するので、この問題を保留にするとの応答をしている。
この問題に関して、書芸家たちの応答は、見られないが、その後、一九三〇年代に入り、「書・四君子は、封建時代の遺物であり、消滅するものとみられる。」や、「書画という言葉自体が、ソンビの余技やサランバン趣味を連想させ、書と四君子の文人趣味を批判し、書と四君子が絵画、彫刻等と共に展示場におかれることは、美術が有閑階級の自家享楽に過ぎないものであると曲解することに寄与するに過ぎない。」というように、書が植民地期以前の忌避すべき封建制度を象徴するものとして捉えられていき、「美術」に象徴される「近代的な」日本を受け入れるべきだという意見がますます多く出されていった。その中で書部門は廃止され、四君子は第一部の東洋画に組み入れられ、代わりに工芸部が新たに設置されることになっていく。
ここで注目すべきことは、書や四君子が「封建時代の遺物」、「ソンビの余技」、「サランバン趣味」と主張されるように前近代的なものを示す対象として見られているということである。確かに日本人によって強調されるだけではなく、そこには李漢福や李象範といった朝鮮人も含まれている。だからといって朝鮮人自らが書を「前近代的なもの」として積極的に除外したという事実のみで日本と同じ経緯で廃止したと考えることはできないのではないか。なぜなら李漢福は、東京美術学校の日本画科で学んでおり、「書ハ美術ナラズ」とする日本の感覚と重なっていると考えられるからである。彼らがそうした日本人と同様の主張をする背景には、美術教育経歴が多分に関係しており、植民地期以降、朝鮮では総督府によって美術学校がつくられず、「近代的な」美術学校で技術を身につけるためには、日本にわたり、美術学校に入学する他なかったからである。
李漢福は、その中で朝鮮美術展覧会の東洋画部門、書部門の両方に出品し、どちらも優秀な成績を修めている。第二回朝鮮美術展覧会への出品作「篆文般若波羅密多心経」などが確認できる。果たして李が入選した時の心情はいかなるものであったのか。李は第三回の朝鮮美展における自身の作品入賞に関して取材を受け、それに答えている。
東洋画と書のどちらにも入賞した李漢福氏は静かに微笑みながら「何、それほどのことではありません。私は第一回の展覧会において書では四等をとり、第二回では三等を受賞し、東洋画においても第一回展で三等を受賞しました。書は長いこと構想した上で二幅を大体半日ほどで書き上げます。東洋画はおよそ一年間構想し、三週間で描いております。一般に東洋画や書はもちろんのこと、年を重ねることによって筆致が厳格になり、第一回の時にはここに文人墨客が多かったのですが、今回は純粋美術として入れられたようです。私が篆書を研究するのには中国書家の呉昌碩氏の書を多く見てきており、氏はこれまでにないほどの素晴らしい書家です。また、私が東京美術学校にいた時に、時々田口米舫氏に教わりました。この度の展覧会は日本の第一回文展よりもずっと幼稚であります。書画界においても日本とは比較になりません。」と言う。氏は現在、ポソン高等普通学校とフィムン高等普通学校で教佃をとる二七歳の青年である(原文・韓文)
李漢福は一八九七年に朝鮮で生まれ、趙錫晋、安中植のもとで朝鮮の伝統画法を学んだ後、一九一八年、日本に渡り外国人として初めて東京美術学校日本画科を卒業した。インタビューで答えているように、書は日本では田口米舫に師事し、呉昌碩の篆書に長けた。東洋画においても花鳥、山水を得意とした。書画協会の会員であり、一九二二年から一九二九年まで朝鮮美展に書と東洋画を出品していた。以上の経歴から、李は日本の美術教育のもとで当時の日本における書認識に重なる価値観を踏襲していたと考えられるのである。

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