二、書部門の概要

1. 書部門の審査員

前述した通り、朝鮮美展では第一部の東洋画と第二部の西洋画の審査員に当時、日本の官展で活躍していた川合玉堂などの有名作家たちが名を連ねていたが、果たして書部門ではどのような人物がその審査にあたっていたのだろうか。各年の書部門(四君子は第一回から第二回までは、第一部に含まれる)の審査員は次の通りである。

第一回(一九二二年):李完用、朴泳孝、朴箕陽、金圭鎮、丁大有、金敦熙(以上第三部書)川合玉堂、李道榮、徐丙五(以上第一部四君子)

第二回(一九二三年):田口茂一郎(米舫)、李完用、朴泳孝、朴箕陽、金圭鎮、丁大有、金敦熙(以上第三部書)小室翠雲、李道榮、徐丙五(以上第一部四君子)

第三回(一九二四年):田口茂一郎(米舫)、李完用、朴泳孝、金圭鎮、丁大有、金敦熙

第四回(一九二五年):田口茂一郎(米舫)、李完用、朴泳孝、金圭鎮、金敦熙、閔丙奭

第五回(一九二六年):田口茂一郎(米舫)、金圭鎮、金敦熙

第六回(一九二七年):今泉雄作、金圭鎮、金敦熙

第七回(一九二八年):加藤登太郎(旭嶺)、金敦熙、徐丙五

第八回(一九二九年):長尾雨山、金敦熙、徐丙五

第九回(一九三〇年):長尾雨山、金敦熙

第十回(一九三一年):杉渓六橋、金敦熙

これらの審査員を見ると、書家だけではなく、第一回から四回までは政治家もその名を連ねていることがわかる。また、他部門と異なり、日本人審査員の参加は二回目以降からで、朝鮮人審査員が第一回目から加わっている。特に金敦熙は第一回から十回目まで審査を担当していた。

こうした審査員の人選について、金恵信氏は「そのほとんどは美術とは専門的な関わりのない人物で、実際には文化政策の重要行事である朝鮮美展を滞りなく運ぶための政治的配慮による人選にすぎなかった」と述べる)。それは、併合当時韓国の内閣総理大臣だった李完用や文人貴族の朴箕陽などが加わっていることによる。

確かに金恵信氏が指摘するように親日派と呼ばれる日本の植民地政策に協力的な人物を選ぶことで「朝鮮美展を滞りなく運ぶための政治的配慮」があったと考えられる。また中村義一氏も「書・四君子の審査委員に韓国側の権威者をもってきた」とその政治的意図を指摘している。

しかし、従来言われてきたように「政治的配慮」のみがその理由としてあげられるのだろうか。

朝鮮王朝時代における旧支配者層であった彼ら自身が、日本を通した「美術」との積極的な関わりはなかったとはいえ、教養としての書は当然体得していた。実際に彼らは書の担い手であったのであり、審査員に名を連ねることに周囲から異論が唱えられることはなかったという理由も考えねばならない。

また、李龜烈氏は植民地期朝鮮における書の担い手について、「一九三〇年代までのみを見ても、今日のような職業書芸家は何人かを除き、ほとんど存在していなかった。書芸家という言葉もなかった」と指摘している。

この時期は「職業書芸家」自体が展覧会制度の導入によって徐々に生み出されている時であり、画と違い、書の担い手については植民地期知識人や政治家などと明確に分化していなかったと考えられるのである。

さらに、李東拲氏は、中国や日本以上に朝鮮では伝統的に書画が一体のものと認識されてきた点が大きかったからであると指摘する。特に四君子の場合は、高潔な精神を重要視する文人画の代表的な素材ということで朝鮮美展の他の部門と異なり、審査員や出品者の大部分が朝鮮人で構成されていたことをあげる。その上で朝鮮美展以前にすでに活動していた書画団体の作家を、植民地文化政策の一環として抱き込んでいこうという意図が隠れていたと指摘する。実際に第一回から十回まで審査員であった金敦熙は、一九一八年に書画協会創立発起人の一人として参加し、一九二一年には第四代会長に選出されている。官職としては大韓帝国末期に法部検事を経て、中枢院の嘱託を勤めた。書は篆・隷・楷・行・草の五体に長けており、比田井天来『朝鮮書道靑華』編纂に協力した人物でもある。

以上のように、総督府では書画団体で活躍する書家の協力を得ながら文化政策を遂行していった。その際、朝鮮人の書認識が、書画を一体とし、より精神面に重きを置く点において、日本人の認識とやや異なることを把握していた。朝鮮人審査員を登用した理由として、その価値観を強く持つ朝鮮人出品者をより多く得るためであったことも考えられる。

それでは、書部門における日本人審査員はどのように選出されたのだろうか。当時の新聞記事を見ると、第二回から五回まで審査員を務めた田口米舫については半井学務課長談として「昨年東京での平和博書道審査員に始まり、主任審査員の所任にあたった専門家である。」と紹介されている。また、『朝鮮日報』においても、「『書画研究』、『書勢』等の雑誌撰者として斯道の振興に貢献」していることを高く評価し、その選定理由としている。

また、同記事には続けて「朝鮮内の審査員については、昨年の一般世評を参考にして目下研究中でこれについても速やかに発表することとする。」とあり、朝鮮人審査員よりも日本人審査員が先に決まっていたことがわかる。

その後第六回には東京美術学校教授、東京帝室博物館美術部長等を歴任した今泉雄作が審査員を任された。古美術に対する造詣が深く、書や画もよくしていたとされるが、他部門と異なり、必ずしも日本の第一線で活躍する作家というわけではなかった。吉田千鶴子氏によると、派遣審査員の人選は当時、東京美術学校校長であった正木直彦に一任されていたという)。当時日本の官展において書部門がなかったため、その選出は他部門の審査員選出に多大な影響力を持つ正木の人脈であったことが予想される。

今泉雄作の派遣だけではなく、第八回と九回の審査員を務めた長尾雨山も東京高等師範学校教授兼文部省図書官であったことや、中国への遊学後に平安書道会副会長等を歴任したことから、正木や総督府関係に近い立場にいた有識者が審査員として選出された可能性が高いと考えられる。

それではなぜ、日本人審査員が必要とされていたのだろうか。これは出品資格者が朝鮮人と六カ月以上朝鮮に住む日本人に与えられていたことによる。次に書部門への出品(受鑑査点数)と入選点数を通して、書部門の実態について見ていきたい。.

2. 書部門への出品(受鑑査点数)と入選点数

書部門では【表1】の通り、第二回までは、出品点数が一人二点以内で、三回目以降は三点以内となった。具体的な出品と入選点数は次の通りである。

第一部から第三部までの出品点数を見ると、第一部東洋画以外はほぼ横ばいか増加していることがわかる。特に西洋画部に至っては、第一回では一一四点であったのにも関わらず、第十回を数える頃には八二一点と約八倍になっている。それに伴い、第一回では七九点であった入選点数も、第十回では二〇三点となっている。その他、第一部東洋画、第二部彫刻部門でも各出品点数に比例した入選点数となっている。

しかし、第三部書部門、四君子部門においては、一九二六年に開催された第五回で大幅に入選点数を減らし、その後、やや増加したが四君子に至っては、それ以前までの入選率に戻ることなく第十回を迎えている。果たしてこうした数値の背景には何があったのだろうか。そしてなぜ、書部門が廃止に至ったのだろうか。次にその経緯について見ていきたい。

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