金貴粉
はじめに
朝鮮美術展覧会(以下朝鮮美展)は、一九二二年から一九四四年まで朝鮮総督府によって開催された朝鮮における初めての官設展覧会である。一九一九年の三・一独立運動後に着任した斎藤実総督はそれまでとられていた「武断政治」から「文化政治」への転換をうち出し、朝鮮美展の開催もその一環として行われた。
朝鮮美展において書は、「第三部 書」として、絵画や彫刻等とともに部門の一つとして位置づけられた。日本の官展には存在しなかった書部門が一九二二年、朝鮮美展の開設当初から朝鮮では設置されたのである。しかしわずか十年後には廃止される。当時の日本の官展において書が除外される中、朝鮮ではなぜ書部門が設置、そして廃止されたのか。この過程を考察することにより、当時の書家や画家たちの書に対する認識を明らかにすることができると考える。朝鮮美展に関する研究は、近年、美術分野を中心に進展が見られ る。その多くは朝鮮美術を植民地支配による影響という点から分析するもので、日本の官展との制度的比較に関する研究や、絵画における「ローカルカラー(地方色、郷土色)」に関する研究などが中心ではあるが、注目すべき成果が出始めている。
中でも喜多恵美子氏による朝鮮における「美術」受容についての考察や五十嵐公一氏による書部門が朝鮮美展において設置された背景についての研究、李東拲氏による出品作家の書風に着目した研究は本発表の課題と特に関連する先行研究としてあげられる。しかし、いずれも書部門のあり方を考察するうえで重要な、審査員ならびに出品者の書認識に関する詳細な考察がなされておらず、それらが残された課題となっている。
本稿では、日本、韓国における先行研究をふまえ、また残された課題を認識したうえで、朝鮮美展に存在した書部門に着目し、その設立と廃止に至る経緯を追うことで、当時の書家たちの書認識の変容とその背景について考察する。
一、朝鮮美展における書部門設置の経緯
朝鮮美展の出品ジャンルは、第一部東洋画、第二部西洋画、そして第三部には書部が設定され、第一部と第二部の審査員には、当時、日本の官展において名を馳せていた、黒田清輝や川合玉堂などの有名作家たちが名を連ねることになった。
朝鮮において、初めての審査褒賞制が取られた唯一の官展である朝鮮美展は、一九一〇年代から徐々に書画団体の結成等において、近代的な様相を帯びてきていた朝鮮人による書画界にも、少なからず影響を及ぼすことになった。当時、日本は、「近代化」という価値観をもって、価値の序列化をはかっていったが、日本を通して受容された「美術」もまた「近代化」を示す一つの指標となっていくことになり、朝鮮美展の登場は、伝統的な書画界に身をおく作家たちの「近代化」への欲望を促すものであった
実際に、書画団体に参加していた多くの朝鮮人たちが、朝鮮美展にも積極的に関わっていくことになる。それは、金惠信氏が指摘するように、支配側の「遅れた朝鮮(美術)の近代化への使命」と被支配側の「近代化への願望」が出会った、「植民地文化行政の華」であったといえよう。
朝鮮美展において書部門は、一九二二年の開設と同時に、第三部に設けられ、一九三一年に廃止されるまで、十回を数えた。朝鮮美展の構成は当初、第一部東洋画・四君子、第二部西洋画・彫刻、第三部書であったが、その後、一九二四年の第三回展では第三部に四君子が編入され、第一部東洋画、第二部西洋画・彫刻、第三部書および四君子となった。第十一回で書と彫刻が廃止されることにより、四君子は第一部東洋画に戻り、第三部が工芸品となった。ここでは書と同様、植民地期以前から存在する四君子もまた不安定な位置に置かれたことがわかる。
それではなぜ、設立当初から書部門を除外せず、十回であっても朝鮮美展の中に設置したのだろうか。さらに当時、日本の官展には書部門が設置されていなかったが、日本における書の位置がそのまま植民地朝鮮においても移植されたといえるのだろうか。
以上の点について明らかにするため、まず書部門が朝鮮美展において設置された理由について次に見ていく。朝鮮においてその一席を占めることになった背景について、総督府官僚の和田一郎は第一回の朝鮮美展図録において次のようにのべている。
「初期の展覧会に於て、陳列品は之を東洋畫西洋畫彫刻及書とし、主として朝鮮に本籍又は住所を有する者の製(ママ)作品に限られたのであった。之に関して一部の論難を招いたのは第一に何故に朝鮮の工藝品をも加えざりしか、第二に廣く朝鮮外に於ける美術家の出品を容れざりし理由如何、第三に書は美術品とすべきものに非ずの三点であった。……」
当時、書道は、日本国内でも、官展や東京美術学校において、「書は美術ではない」との理由から除外されていたため、開設当初より書部門の設置については異論が出ていたことが伺える。それを敢えて設置した理由については、続けて次のように述べられている。
「……書は美術なりや否に付ては世上幾多の議論もある、然し吾等は書を美術として何等支障はないと考える、何故かと言へば少くとも東洋に於ては沿革上書畫は其の體を同じくして象形と日ふ、則ち畫の意であるのである、散じては自然の形象を體現し集まりては無限の思想を包含し、其の風姿は筆者の個性を表顕して静的形状より動的形状即ち心手の活動に因る力の軌跡を成し、線條墨色に因る輪郭の美は実に沈静典雅を極め、看る者をして神徃気来せしむるの概があるからである。」
ここでは、「書」も「美術」に入れられるべき「画」であることを理由としてあげており、「美術」における価値の序列化に組みいれることができるとの意向を示している。しかし、それならば、日本における官展でも、書道を組み入れるべきであるとの意見が示されても不思議ではないが、官展において書道は除外され、日本ではあくまでも「美術」から外れたものとして存在していく。ここには、朝鮮の書部門開設に際し、明らかな意図があると思われる。その点について、中村義一氏は、東洋画の他に「書」と「四君子」を含んだ三部制をとることにより、朝鮮古来の雑多な民衆美術よりは高級な鑑賞絵画をそこに意図的に吸収し、奨励しようという狙いがあったとのべる。この指摘は、前述した和田が序文中に続けて述べる「沈滞した朝鮮の美術界」、「幼稚なる朝鮮美術の保育助長」といった言葉に裏付けられるように、劣った朝鮮の美術を「保育助長」しようとする停滞史観に重なる。
さらに書部門が朝鮮においては加えられた理由として、当時の書画界を担う主要人物が「美術」ではなく、「書画」を体得し、重きを置いていたということがいえる。五十嵐公一氏は「書画協会」、「書画研究会」等の組織に属する書画家や朝鮮総督府中枢顧問などの要職を歴任し、書部門の審査員にも名を連ねた李完用が、「書画」という伝統的な枠組みの中にいたため、そこから外れ、「絵画」のみを尊重し「書」を省みないという日本が示した新たな枠組みに抵抗を示したからであると指摘する。ここから朝鮮美展が開設される一九二二年には、日本を通した新たな概念である「美術」とそれまで培われてきた「書画」概念の比重が後者により置かれていたことがわかる。

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