3. 〈満州〉以前──初期官展における作品例
ただし、以上に述べたことは一般理論であって、〈中国〉を表象する場合と〈満州〉を表象する場合とでは、あるいは〈朝鮮〉を表象する場合、〈台湾〉を表象する場合とでは自ずと異なってくる。自明のことであるが、〈アジア〉は一つではなく、複数 の民族性に分割され、表象/統治されていたのであり、官展においてもその差異が(まったく同じではないものの)反復された。したがって、〈満州〉表象は、独自の様態を持つものとして考察される必要がある。
ところで、地理上の満州が、特に清朝成立以降、中国の一部であることからすれば、〈満州〉表象は、即政治性を帯びざるを得ない。つまり、〈満州〉を〈中国〉と異なる独自性を持った対象として描くことは、満州を中国から切り離し領有しようとする政治的欲望に自ずと結びつくからである。
さて、満州に取材した作品は、早くも1907年の第1回文展に3点登場している。五姓田義松「水師営の会見」、高島信「月夜の斥候」、都鳥英喜「家郷のたより」は、いずれも満州を主戦場とした日露戦争に取材している。このうち、高島・都鳥の作品は、日露戦争の戦場(満州)における日本兵を捉えている。これらは満 州を描いたものでありながら、「満州らしさ」のコードが明確化されていない。対す る五姓田のものは、唱歌にも歌われた乃木希典とロシアの旅順要塞司令官の会見を取り上げて、日本軍将校とロシア軍将校を描いている。やはり、ここでも〈満州〉は視覚化されておらず、〈満州〉イメージはそれ自体として表象されているというよ りは、表象の残余として(日露の間で争われる欲望の対象として)描かれている。翌年の文展に出品された橋本関雪「鉄嶺城外の宿雪」がわずかに満州の風景を描いているが、それは軍の宿営地をスケッチしたものでもある。ここに〈満州〉の独自性が描かれているとすれば、風景上の特色よりも、むしろ日本軍が占領していると いう既成事実が〈満州〉を形作っている。こうした事情は、先の三作品にも共通し た要素である。
この時点での、〈満州〉を〈中国〉と差異化して「満州らしく」表象するコードは、ロシアとの間で所有権を争った場であるという点の強調にあった。当時の日本国民からすれば、満州は単なる中国の一部ではない。「二十億の国帑、十万の英霊」の犠牲においてようやく得た特殊権益なのであるといった表現となる。なお、こうした表現は、特に満州事変以降、この権益の正統性を主張する際のスローガンとして繰り返し登場した。例えば、1939年の満鉄のPRには、大連忠霊塔の写真を背景にした「英魂眠る満州へ父祖濺血の跡を弔へ」という、血なまぐさく扇情的なスローガンが見える。ただし、その後の官展の〈満州〉表象は、日露戦争と関連付けられて登場することはなく、1930年代後半までは、血なまぐささからもむしろ遠ざかっていく傾向にある。
1911年には、満州の玄関口である大連に旅行した青山熊治が、帰国後「ホワンチウ」を文展に出品している。これは、官展出品作の中で、中国人をクローズアップで描いた初めての絵画であり、満州に暮らす人びとを描いた絵画としても嚆 矢である。ちなみに、ホワンチウとは「黄酒」つまり焼酎の一種である(画面手前に酒甕が描かれている)。全体的に筆触を強調したタッチで描かれているため、画面には判然としないところもあるが、大連の街角で上半身をはだけさせた男たちが酒盛りをしている光景は見て取れる。右手前の辮髪の男は路上に座り込み、左から二番目の男は卓上に座り、一番左の男は酩酊している。中央の男は歯をむき出しにして笑っている。背景の壁は漆喰がはがれ、一部レンガが露出しており、荒廃した様子である。なお、この図版ではわからないが、当時の批評によれば、画面全体は「青黒独特の色」で表されており、人物像もまた青黒い肌を持つ存在として描かれたようだ。以上の描写からも明らかなように、青山は大連の男たちを、「野卑」「不潔」「非人間的」なイメージとして描き出している。
当時の展覧会評には、「決して拙くはない。然し話されるのが嫌だ。此人の絵は何時も事柄を語ると云ふ事が主で、物の気分とか、其場面の雰囲気とかは零だ」(白馬将軍『日本及日本人』1911.11)、「然しわざとらしい色の使ひ方は、少し考物ではあるまいか。多少病的思想を免れない」(『東京毎日新聞』1911.10.23)、「僕は何だか 悪達者を見せ付けられるやうで、色も変な感じだし、チツとも感心しない」(『美術新報』1911.11.17)といった不快感の表明が大多数を占めた。こうした言説に現れた違和感(雰囲気ゼロ、病的、変な感じ)は、この絵画が官展という場のコードにそぐわなかったことを示しているだろう。つまり、この絵画は、むき出しの満州を官展の(帝国の新領土としての)〈満州〉表象として馴致できていないのである。あるいは、〈中国〉と差異化することができていないことからすれば、〈満州〉以前というべきなのかもしれない(ただし、当然のことながら、差異化のパターンは、特に人物像のレベルでは完成することがなかったように思われる)。
なお、以後の官展において、「ホワンチウ」のようなタイプの〈満州〉表象が登場することはついになかった。「ホワンチウ」が描き出した青黒い肌の大連の男たちは、世俗的「未開」表象の定番である「不潔」というコードを踏み越えた表現となっている。単に「不潔」だけであるならば、「未開」の徴として馴致され、好奇の対象として、官展の表象空間に収まることができたはずである。実際、広本季與丸は、「不潔」な裏街にいる女性二人を描いた「満州娘」を、第15回帝展(1934年)に出品している。この絵画に対して、当時の批評家は、「題材として我々に興味あるものを運ぶと言ふ事は画家としてやはり賞せられていゝ事である」(林健治郎『美之国』1934.11)と述べた。美術家の仕事とは、官展の鑑賞者の「興味あるもの」を運ぶこと、つまり「帝国臣民」があらかじめ期待している〈満州〉に対する好奇心を満たす「戦利品」を中央に持ち帰ってくることにあるといわんばかりである。
すんなりと〈満州〉表象として官展に収まった「満州娘」と、二度と官展に現れることのなかった「ホワンチウ」との差は、表象の対象化/馴致の度合いにかかっている。前者は、視線を鑑賞者の方からそらし脱力した女性が描きこまれ、好奇心という名の窃視症的欲望を安全に満たしてくれる。しかし、後者に描かれた筋骨隆々の男性たちは、鑑賞者にはわからない言葉(中国語)で盛んに語り合い、しかも酒に酔っている。また、こちらを向いている一人の男の視線は、今にも鑑賞者と合いそうな様子である。そして、うっかり目が合おうものならば、何が起こるかわから ないという危険性が描きこまれているように見える。
なお、大連を舞台にした平野万里の小説「殖民地の夜」(『スバル』1910.10)は、「ホワンチウ」以上にはっきりと、満州及びそこに住まう人びとを危険な存在として描いている。
墓地の様に暗い公園──街はづれに広がつたアカシヤの深い森林──を囲む石垣を思ひ出すものは、そこに恐れの源を見出すだらう。もしそこで野獣の様な唸り声を聞くことがあつたら、それは、昼の労れに死の様に眠つてゐる支那苦力の夢である。侮蔑と冷遇との的である支那苦力の怨みに顫へぬものは無いだらう、而してアアク灯の光りの及ばぬ暗黒圏内で遂行せられた幾多の残忍なる犯罪を想像して顫へぬものも無いだらう
他人の土地に押し入って強引に作り上げた植民地を歩く行為は、常に危険と恐怖とが隣り合わせであるはずなのである。現地人の「怨み」に苛まれ、自己の行為の疚しさに向き合わなくてはならない。そして、いつどこで復讐されるかわからないという「恐れ」の幻想に「顫へ」が止まることなどない。
もちろん、「ホワンチウ」は絵画であって、ここに描かれた男たちが、会場でこの絵画を見ている鑑賞者に襲い掛かってくる心配はない。しかし、この絵画は、例えば夏目漱石が大連を旅した際、個人的な日記に書き込んだ、以下のようなエピソードを追体験させるイメージではなかっただろうか。
その隣の室から絃歌の声が出る。覗いて見た時に恐くなった。正面にtableがあって、その右に真黒な大きな顔の支那人が一生懸命声を出して拍子木のようなものを左に持ち右に噬竹のようなものを一本持ってtableをたたく。Tableの前に十四、五の女が立って歌っている。盲目だか何だか異様な面をした奴が懸命に胡弓を摺っていた。Tableの左方には女が三人並んでいた。その部屋の前の部屋では真中に卓を置いて汚い丼を置いて二、三人食っている。何事か分らず
すぐそばに「異様な面をした」他者がおり、何をしているかも、何をしゃべっているかも分からない。もちろん、漱石の目の前にいた「支那人」たちは、漱石を怖がらせようなどとは、思ってもいないだろう。しかし、漱石は思わず「怖くなっ」てしまった。それはなぜか。「不可解」が眼前に迫っているという状況が、彼を不安に陥れ、恐怖を与えたのである。
ただし、漱石は当時新聞に連載していた「満韓ところどころ」では、こうした恐怖感を前面に押し出すことはなく、満州に住まう人びとを「不潔」なものとして理解/対象化している 。例えば、大連のクーリーは次のように描写された。船が飯田河岸の様な石垣へ横にピタリと着くんだから海とは思へない。河岸の上には人が沢山並んでゐる。けれども其大分は支那のクーリーで、一人見ても汚な らしいが、二人寄ると猶見苦しい漱石は対象から距離を置き、「不潔」というコードに収めることで、それを馴致し たのである。「ホワンチウ」には、こうした対象化/馴致の操作が存在していない。 したがって、鑑賞者たちは、「異様」で「不可解」な恐怖の対象と直に向き合わざる を得なくなってしまうのである。評論家によるこの絵画の非難は、まさにここに生 ずる不愉快感が結晶したものといえよう。いわば、「ホワンチウ」は、図らずも官展 の表象システム内では馴致不能な表象の臨界に達してしまった。換言するならば、次節で述べる、幻想の「楽土」表象は、「ホワンチウ」的な恐怖の反復を禁止し、あらかじめ不在のものであるかのごとく官展の空間から葬り去ることで初めて可能になったのである。
4.「約束の土地」としての〈満州〉
ステレオタイプ的な〈満州〉表象を端的に表すキーワードは、「楽土」である。この言葉自体は、もちろんいわゆる「満州国」建国後に多用されるスローガンであり、1910年代の美術家たちがこの言葉からインスピレーションを受けて制作したわけではない。しかし、「楽土」の意味内容である、「約束の土地」「理想郷」といったイ メージの萌芽はすでに、日露戦争前後には登場している。
例えば、山室信一が紹介している、戸水寛人『東亜旅行談』(1903 年)には、次のような文言がある。
今日はまだ開けていない原野は沢山あるけれども、これを悉く開いたら農作物の みについて言いましても満州は世界の大富源といっても宜しいのです〔…〕その ほかに鉱山も随分沢山有りますから、満州を占領するものは宝の庫を掌握するも のであります
戸水は日露開戦を強硬に主張した主戦派・東大七博士の一人であり、ロシアにバイカル以東の土地の割譲を迫ったことから「バイカル博士」の異名を取った。戸水は満州を「世界の大富源」あるいは未開拓の「宝庫」として位置づけている。また、『立身到富・海外渡航案内』(1911 年)は、「地味豊饒にして産物の夥多なる此 満州は、実に東洋の大富源地である。天然物無限の宝庫である。年々五十万の人口 を増殖する日本人は、強いて遥々と南米や南洋まで出掛けなくとも、手近い所に満州がある。満州の宝を握るのは、日本人の他に無いのである」と、人口問題という 不安をテコにして、さらなる満州への欲望を焚きつけている。
満州には「無限の宝」が眠っている。しかも、誰もまだ手をつけていない。つまり、満州は無主の地である。19世紀的帝国主義の論理において、無主の地は「合法的な領土侵略の対象」であって、領有権はいち早く手をつけた者に与えられると考えられていた。同様の論理は、幕末の日本が直面した当のものでもあった。
特に重要なことは、「西洋」がこの地をまだ精査していないという事実にあった。例えば、東洋学の泰斗・白鳥庫吉は「西洋に於ける東洋学者の近況一斑」(『学燈』1908.1)で次のように述べている。
終に一言して置きたいことは、西洋人がまだ手を付けていない所は、極東の朝鮮満州であるから、此範囲は是非日本人でやらなければならぬ。殊に日本人はこの地方に充分研究の便宜を有つて居るのであるから、精細にやりとげれば、西洋人に向ていさゝか誇称することも出来るのである
満州を手中に入れるものが日本の他にあるとすれば、西洋諸国に違いないとの思 いは、当時の知識人に共有されたものであろう。出来るだけ早く、「精細」に研究を やり遂げてしまえば、換言すれば日本にとって都合の良い〈満州〉を作り上げてし まえば、西洋に対して先取権を主張することができるのである。
同様の主張は、同時代の美術界にも存在する。例えば、洋画家の湯浅一郎は「オリエンタリズム」(『美術新報』1913.8)において、白鳥同様に「亜細亜といひ、東洋と云つても〔…〕印度、支那、日本の如き極東の事情は余り着手されて居らぬ」と指摘し、「欧羅巴美術の旧套を脱して亜細亜趣味東洋趣味の新らしい殖民地を開拓しようとする」オリエンタリスト画家への注目を促している。それは、彼によれば 次のような事情による。
日本でも風景画家として知られて居る人々もあるが〔…〕概して沈滞してゐるから、何とか現状を打破する方法を講じなければならない。それには日常余り目に慣れたる日本内地よりは、朝鮮とか台湾とか、又は満州あたりへ出かけて、直ちに新らしい自然を捉へるのが最も便宜だらうと思ふ、又極く必要なことだと思ふ。何となれば東洋のことは東洋の人が研究することは当然のことと信ずる故、我が美術家も一段の努力を以て東洋方面の研究に従事して一面には其趣味を保存し、一面には益々其芸術を発展せしめんことを望むのである
建前の上では、湯浅は、沈滞した画壇に新風を吹き込むために、「新らしい自然」を描くことを奨めている。しかし、満州に関する諸家の意見の間にこれを置けば、この文言の指すところは明白となる。つまり、湯浅は「東洋の人」という資格において、日本の「我が美術家」が「西洋」に先んじて、満州を始めとする「東洋」を研究し、戸水のいう「宝」を早々に「芸術」の空間の中へ領有することを当然視し、また奨めてもいるのである。
なお、湯浅のエッセイと同年の第7回文展(1913年)には、辻永「満州」が出品されている。辻は、この出品によって、タイトルに「満州」を冠した作品を官展に出品した最初の美術家となった。辻が描き出したのは、地平線の向こうまで広がる農地、遮蔽物のない広大な満州の大地であり、遥か先まで繋がる一本道を馬車に乗ってこちらに向かってくる一人の農夫の姿である。そして、何よりも鑑賞者の目を引き付けたであろうものは、満州の大地にかかる巨大な虹の姿である。
農地にかかる虹を描いたジャン=フランソワ・ミレー「春」(1868~73年)を反転してほとんどそのままトレースしたような辻の絵画に、画壇の沈滞を打ち破 るほどの様式的新しさがあったとは考えにくい。しかしながら、結論から言えば、 辻の絵画は決定的に新しいのである。
虹はそれだけでも希望を連想させる記号であるが、そこに「満州」の名が冠されることで、この絵画は「満州へ行けば希望が待っている」というメッセージを発信することになる。辻は、ミレー風のロマン主義的風景画に「満州」というタイトル をつけ加えただけで、これまで馴致されることのなかった〈満州〉を、「約束の土地」「理想郷」というコードの中に幽閉することに初めて成功したのである。以後、1910年代の官展では、農業と結びついた〈満州〉表象が続くことになる。例えば、耕作する現地の人びとを描いた劉栄楓「満州」(1915年)、手付かずの原野を描いた山本森之助「満州の一部」(1917年)、農耕に使用されるロバを描いた長尾己「満州の驢馬」(1919 年)が出品されている。また、鶴田吾郎「ハルピン郊外の秋」(1927年)は馬の放牧を描いている。いずれも、青山の「ホワンチウ」ではなく、辻の「満州」の路線に沿う作品群であるといえよう。
興味深いのは、ここまで挙げた〈満州〉表象の中に、日本人が描かれていないことである。たとえ、どれだけ〈満州〉に対する農業移民誘致の言説が繰り返されても、1930年代初頭まで、満鉄職員を始めとする都市人口が20万人であるのに対して、満州在住の日本人農業経営者人口は2000人程度に止まり続けていた。それが増加するのは、満州国建国後に推進された「百万戸移住計画」(1935年)以後のことである。
実際、官展作品においてもはっきりと分かる形で日本人農業移民が描かれるのは、1939年以後である。吉開伊喜蔵「大陸に播く」(1939年)、古川順三「大陸の土」(1939年)は、いずれも満州の大地に種を播き、耕す男を主題にした彫刻である。また、田中忠雄「開拓地の家族」(1940年)、和田歳一「開拓先遣隊」(1942年)、岡村芳男「北辺盛夏」(1943年)は家族を挙げて農業に従事する開拓村の人びとを描いている。
ところで、官展に最初に登場した満州開拓民の表象が、吉開「大陸に播く」にしても、古川「大陸の土」にしても、男性の単独像であるのは象徴的である。吉開作品における男性像が「大陸」に種を播き、古川作品における男性像がファリックな鍬を「大陸の土」に突き立てる様は、これらの作品が、日本を男性に、大陸=満州を女性に見立て、性的支配として日本の満州支配を物語化しているようにすら見える。実際、戦時期の官展には、「大地」「大陸」を女性像で表象する、渡辺徹「大地」(1941年)と堀進二「大陸」(1943年)が出品されている。
周知のように、アウグストゥス時代の「平和の祭壇」(BC9年)に描かれた「大地」の寓意像を挙げるまでもなく、西洋美術においては、古代より女性像の形で「大地」を象徴することが慣例的に行なわれてきた。若桑みどりによれば、「大地」を女性で表すことは、先史時代においては、普遍的な「自然・大地」の豊穣を司る至高神に関連していた。そこには女性への敬意が確実に含まれていた。しかし、ローマ共和制末期から帝政期にかけて、家父長制が支配的になると、それらの表象は、支配者である男性の「領土の豊穣」のエンブレムとして帝国の栄光化のために奉仕するようになってしまったのである。もちろん、戦時期の官展に現れた「大地」「大陸」を寓意する女性像は、ローマ以降の系譜に連なる、女性を自然、男性を文明として見立て、前者による後者の征服/支配を正統化し賛美する家父長制社会のイデ オロギーに根差した表象である。
また、田中の「開拓地の家族」などは、そのまま満州移民の宣伝に使えそうな主題であるが、子供と豚の多産という記号によって、〈満州〉の豊穣さをにこ やかに言祝ぐ実際の宣伝広告とは異なり、彼(女)らの表情は、決してにこやかではない。「約束の土地」という表象/言説を信じて、ついに満州に来てしまった彼(女)らの表情は、幻想の中に住まう幸せでいっぱいであるよりはむしろ、現実に直面したことによって悲壮感を連想させかねない決意に充ちたものとなっている。幻想は影絵のようなもので、対象化/距離化によって初めて成立するもので あり、幻想の光源に立ちいってしまったとたんに霧消してしまう。田中の作品は、もちろん、農業移民を英雄として描いたモニュメントである。しかしながら、逆説的に〈満州〉幻想の崩壊を予感してもいる。

謝謝好友分享! 推1 早安! 善行,讓人一生平順; 善言,讓人溫暖; 善念,讓人心寬! 祝福好友周未平順、心寬!
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