上原一明

はじめに

西暦710年、古代日本の首都は藤原京から平城京へ遷都した。二年後の2010年は、奈良・平城京遷都1300年にあたる年である。これに際し奈良県では、平城遷都1300年記念事業を計画しており、以前より進められてきた薬師寺白鳳伽藍の復興や、朱雀門の復原(1991年~1998年)、東院庭園の復原(1998年)、唐招提寺金堂の修復(2000年~2009年)、興福寺中金堂の復原(2010年~2015年予定)、第一次大極殿の復原(2010年完成予定)等、在りし日の平城京の姿を復原し、世界に向けた文化的国際交流の発信地としての役割を担うべく整備している。

八世紀・奈良時代の首都としての平城京は百年にも満たないが、律令体制が確立し、中央集権的国家体制が整った時代である。飛鳥時代から継続していた遣唐使も更に数多く派遣され、帰国僧や来朝帰化人などの功績により、天平文化という日本文化史上最も重要な時代を築いた。その活発な交易の結果、アジア文化の終着点的側面を持つ。このことに関しては、正倉院に奉納保管されていた多くの文物がそれをよく指し示している。更に唐人高僧・鑑真和上の来朝による戒律の整備により、日本は正式な世界基準の仏教を確立する。それは同時に仏像彫刻の様式や技法、使用する材質の変化をも意味する。

本稿は、鑑真和上の来朝が齎した前衛仏教が、いかにして日本の仏像様式の変化に大きく作用したのかを、和上将来品の中から「壇像」と「塑像」を取り上げ、その現代的意義を考察する。更に「脱活乾漆像」の現代観を材料と制作技法の面から考察する。

1、鑑真和上来朝と将来品「壇像」

今夏、奈良県教育委員会文化財保存事務所・唐招提寺出張所の主査である山田宏氏の協力を得て、2000年から開始された唐招提寺金堂平成大修理の現場を見学させて頂く機会を得た。見学当日の8月6日は既に金堂建物の修理はほぼ終了し、金堂を覆う建物も全て解体した状態であり、約9年ぶりに金堂の姿が西ノ京の杜に姿を現し、新たに作られた「平成の甍」が静かに杜を見守る。約一世紀ぶりに修理された金堂の、御本尊である盧舎那仏坐像・千手観音立像・薬師如来立像は未だ須彌壇には鎮座しておらず、堂内は閑散としていた。御本尊は8月末に御入堂する予定であると伺った。これから御本尊をお迎え入れようとする金堂内の空間は、まさにこれから鑑真和上を迎え入れようとする天平時代の大和の空気のような気配さえした。

鑑真和上の来朝に関しては、森克己著「遣唐使」の中で簡略的に紹介されており、その経過を再確認するため記載する。この内容が鑑真和上来朝に関する一般的な認識である。

鑑真は唐揚州竜興寺の僧、元興寺の隆尊が伝戒の師を求めるため、奏請して、遣唐使に随って入唐させた栄叡・普照の懇請によつて来朝を決意した。二僧は入唐するや先ず洛陽大福先寺の道瓐に請うて日本へ行って貰い、在唐十年帰朝しようとして揚州に下ったところ、ちょうど揚州大明寺に在って戒律を講じていた鑑真を知り、これに謁して日本への来化を懇請した。そこで鑑真は東遊の決意をかため、日本渡航を企てたが、海賊の難のため、或いは海上遭難のため、或いは官憲の阻止のため栄叡が捕えられて死んだり、或いは鑑真が保護検束されたり、或いは広州へ漂着し鑑真が両眼を失ったりして挫折すること四回、十余年の旅路を重ね、最後に彼の日本渡航を阻止しようとして竜興寺周囲にめぐらした警備線を突破し、日本遣唐使副使大伴胡麻呂の船に乗り、天平勝宝五年(753.天宝12)ようやく日本に来朝することが出来た。(中略)鑑真は東大寺に戒壇院を建て、ついで唐招 提寺を建てて、戒律の弘通につとめ、東大寺をしてわが仏教界の総本山としての実権を把握させるにいたった(唐大和尚東征伝)。

栄叡・普照らが、第九次遣唐使として唐土に派遣された733年当時の日本の仏教界は、課役を避けるため多くの百姓による私度僧が存在しており、それら民衆の流亡を防ぐため、為政者は授戒の師僧たるべき有資格者を求めていた。当然、当時の仏教をはじめとする文化水準が高かった先進国・唐からの高僧を求めた。唐からの高僧招聘に関しては、このような政治的理由と、最新の仏教事情を取り入れるという文化的理由の両面があった。遣唐使を介し日本への来朝を果たした鑑真和上は、754年2月4日平城京に入京し、聖武天皇・光明皇后らの歓迎を受けた。この時、 鑑真和上が齎した品々は以下の通りである。

1、如来肉舎利三千粒
2、功徳繡普集変一鋪
3、阿弥陀如来像一鋪
4、彫白栴壇千手像一躯
5、繡千手像一鋪
6、救世観音像一鋪
7、薬師弥陀勒菩薩瑞像各一躯
8、同障子
9、大方広仏花厳経八十卷
10、大仏名経十六巻
11、金字大品経一部
12、金字大集経一部
13、南本涅槃経一部四十卷
14、四分律一部六十卷
15、法励師四分疏五十各十卷

16、光統律師四分疏百廿紙
17、鏡中記二本
18、智周師菩薩戒疏五卷
19、霊溪釈子菩薩戒疏二卷
20、天台止観法門玄義文句各十卷
21、四教義十二卷
22、次第禅門十一卷
23、行法花懺法一卷
24、小止観一卷
25、六妙門一卷
26、明了論一卷
27、定寶律師飾宗義記九卷
28、補釈飾宗記一卷
29、戒疏二本各一卷
30、観音寺高律師義記二本十卷
31、南山宣律師含注戒本一卷及疏

32、行事抄五本
33、渇磨疏等二本
34、懐素律師戒本疏四卷
35、大覚律師批記十四卷
36、音訓二本
37、比丘尼伝二本四卷
38、玄奘法師西域記一本十二卷

39、終南山宣律師閔中創開戒壇図一卷
40、法鉄律師尼戒本一卷及疏二卷合四十八卷
41、玉環水精手幡四口
42、金珠
43、菩提子三斗
44、青蓮花葉廿茎
45、玳瑁畳子八面
46、天竺革履二緬
47、王右軍真跡行書一帖
48、小王真跡三帖
49、天竺朱和等雜体書五十帖
50、阿育王塔樣金堂塔一区

鑑真和上将来品の多くは経典だが、わずかながら仏像も確認できる。ここで注目したいのは、「4、彫白栴壇千手像一躯」と、「7、薬師弥陀勒菩薩瑞像各一躯」である。いずれも船舶による輸送である為、大きな仏像であるとは考えられない。おそらく像高40センチ前後の念持仏程度の大きさであろう。「薬師弥陀勒菩薩瑞像各一躯」とは、薬師如来・阿弥陀如来・弥勒菩薩各仏像がそれぞれ一躯ずつという意味であるが、特に材質については言及していない。「瑞像」と記述しており、瑞兆、吉兆、瑞徴を表わしていることから、壇像ではなく金銅仏を示していると考えられる。

「彫白栴壇千手像一躯」とは、白檀で彫られた千手観音像一躯という意味で、所謂千手観音の壇像である。一般的な千手観音像のそのほとんどは、実際に千臂の手を有してはいない。実際に千臂或いはそれに近い数を有しているのは、唐招提寺や藤井寺の千手観音くらいであり、通常42で制作されている。 しかしながら、一尺強程度の大きさで42臂全ての手を一木から彫出することは、より緻密で技術的・構造的に非常に困難を極める。よって胸前で合掌する2臂は立体的に彫出されていたにせよ、それ以外の40臂は光背と一体化されたレリーフ状に作られていたのではないかと考えられる。或いは、40臂総てを立体的に彫出していたとすれば、それらは唐招提寺や藤井寺の千手観音のように1臂1臂彫刻したものを本体に差し込む非常に繊細な構造になっていたと考えられる。

壇像とは、檀木(白檀.栴檀等香木)を用いた仏像で、頭上から台座に至る全てを壇木の中から彫出したものであり、仏典ではインドの王が最上級の栴檀香木を用い釈迦像を造ったことが始まりであると伝えられている。インド南部の特産品である香木は香気を発し、油気のある緻密な木肌には生命力さえ感じ、その木に宿る霊的感覚を借りて仏を表現するものである。そして、その表面は漆など塗装を施さず、木肌を顕わにし香木自体の香りを楽しむ。したがって、例えば法隆寺大宝蔵院に収められている国宝・観音菩薩立像(九面観音)に代表されるように、顔面の欠けた頭頂化仏を除いた、頭上周辺の化仏や揺れる耳飾、体躯の装身具、右手の数珠、左手の水瓶、そして体中を包み込む天衣に至る全ての容姿が、一本の白檀から彫出されている。木から彫り出したというより、むしろ木から現れてきたという表現がふさわしい。非常に高度な木彫技術を以って制作されている。

しかし、白檀は非常に貴重な上、材自体の質量が小さい為、等身大の彫像の彫刻は不可能に近い。その壇像の精神をそのまま等身大の大きさで表現したのが、萱の木などで作られた所謂唐招提寺派木彫群の諸像である。壇像の精神とは、極力接木をせず、木材そのものの容積から彫出する彫造法である。しかも木心乾漆のような母体となる木の像の表面に漆で盛り付け・塗装せず、木肌そのものを生かし、木材本来の性格を前面に表すことである。

日本にはこの法隆寺観音菩薩立像(像高37.6cm)以外にも、唐からの請来品は数多く残されている。665年の遣唐使帰朝の際持ち帰った可能性が高いとされる、奈良県多武峰(とうのみね)伝来のインド仏像の面貌様式で表現された十一面観音立像(像高42.1cm東京国立博物館蔵)や、山口県神福寺の十一面観音立像(像高44.7cm)などは、この時代の盛唐からの請来品の逸品である。山口にこのような請来品が存在しているという事実は、唐から九州を経た平城京までのルート上にあるため、何らかの理由で請来されたのであろうということは想像に難しくない。

 

文章標籤
全站熱搜
創作者介紹
創作者 生之 的頭像
生之

Ahura

生之 發表在 痞客邦 留言(4) 人氣(6)