志水正司,《續・古代寺院的成立》,六興出版,1982

当麻寺は、藤原京からみて西、夕日の沈みゆく二上山のふもとの寺である。 古代寺院の中にあって、東西両塔が揃って残り、 古寺の雰囲気がまのあたりにしのばれる貴重な存在であり、また、中将姫が蓮の糸で織ったというとうとい当麻曼荼羅を伝えることでも知られている。古代の氏寺とその信仰のすがたを追想させる寺として親しまれているのである。

東塔の建築

はじめに、東の三重塔から観ていくことにしよう。

軒の組物は三手先で、肘木は笹繰をもち、力強くのびやかであり、 斗は高すぎず、その間隔も ゆったりしている。支輪の傾斜も緩やかであり、軒深く、おおらかな奈良朝の風格が感じられる塔である。

この東塔は、各層の逓減率が大きく古様を示すが、とくに二層から二間にされており、この点、他に類例をみない。 そして、その逓減法については、浅野清氏の興味深い指摘がある。即ち、

三層 二層 初層

三  四  三

      四

三  四  三

初層の中の柱間と、両脇の柱間と寸法の比が四対三で、中の柱間の四が二層の柱間の寸法に、脇の間の三が三層の柱間に用いられているという、周到な比例関係が存在するのである(三層は 中世に改造)。 

ここで細部にわたるが、三手先の組み方に注目すると、 

(1)尾垂木を二手先目の秤肘木にかけており、一手先目には斗が上下に三個揃っている。

(2)二手先目の肘木は隅で留めになるが、その上の支輪桁は直交して鼻を延ばし、木口を垂直に切り落としている。

など特徴があり、後者についてだけみれば、室生寺塔より技術的に進んでいるようにも認められよう。

尚、相輪は、西塔とともに八輪であり、魚骨のような特異な意匠の水煙をつけている。

西塔の建築 

次に西塔であるが、肘木は笹繰がなく短く、斗は丈が高い。その間隔もつまってまとまりすぎ、力強さ、おおらかさを欠いている。 これは、西塔の年代が、東塔より下降していることを示すものであろう。更に、西塔は東塔とは異なり、各層とも三間としており、逓減が少なく、上方がやや重い印象は否めない。

又、三手先の組み方は、東塔と同様であるが、初層には間斗束が用いられている。更に、二手 先目の肘木も隅留めにせず、その先端を延ばし肘木の形に造り斗をのせて、直交して延ばされた 支輪桁を受ける、という変化が認められる。これらの点で東塔より一歩進んだ技法がとりいれられており、醍醐寺五重塔へ近づく過程を示しているといえる。

加えて、地垂木の勾配が緩くて、別に野屋根があったとみられるのは、平安朝を指示しよう。その相輪は東塔と同じく八輪で、唐草文をあしらい、その先端に宝珠様のふくらみをつけた、優美な意匠の水煙をもっている。

本堂の建築 

当麻寺本堂は、当麻曼荼羅を安置していることから、曼荼羅堂とも呼ばれ、金堂・講堂の西方に東面して建っている。昭和三十年代の解体修理によって、この本堂の変遷には次のような過程があったと推定されている。

(1)最初は、桁行七間・梁行四間の寄棟造の堂であった。

(2)前方に広い孫庇がとりつけられた。

(3)そののち、最初の堂の身舎の部分のみを残し(このとき周囲の庇と孫庇は取除かれた)、前面に梁行二間の礼堂を設け、その周囲に庇を廻らして、現在の七間・六間の平面とした。その小屋組は、前身堂・礼堂の棟木の上 に、更に大梁を架け渡し、束を立てて、棟木を架け、全体を覆う寄棟造の野屋根を支えるというものであった。

尚、本堂のこの改修は、礼堂棟木の墨書銘から、永暦二年(一一六一)のことと知られている。

ところで、最初の堂は、二重虹梁蟇股を架けた五間・二間の身舎の四方に、繋虹梁を用いて庇を廻らした七間・四間の寄棟造、化粧屋根裏の建物であった。その身舎の側面中央の柱から、半分の長さの虹梁を、内側の大虹梁に丁字形に架け渡し、その虹梁の上にも蟇股・斗・肘木を置いて側面の母屋桁を支 えている。そして母屋桁の交点でも隅木をうける。こうした寄棟造の架構法は、素朴古風な技法と認められよう。そこで、この前身堂の年代を考えるため、特徴を挙げてみよう。

(1)柱が上方で細まっており、古風である。

(2)尺度に奈良尺が用いられている。

しかしながら一方で、

(3)蟇股・虹梁の形にやや崩れがみられる。

(4)桁の断面が馬蹄形になっている。

などの点を勘案すると、天平末か、平安初の建立と推察される。

なお、最初の堂の造営には天平後半の掘立柱建築二棟ほどの古材が転用されていることも付言 しておきたい。

本堂中央には、木造漆塗りの偏平六角形の厨子が据えられ、当麻曼荼羅を納めている。この厨子については、板扉裏に仁治三年(一二四二)の銘があることから、かつては鎌倉時代のものとみられたこともあった。しかしそれは修理改装銘であり、昭和三十年代の修理にともなう調査によって、この厨子の構成や、天井・柱などの金銀泥絵、軒板の平文は、奈良朝の古様を示していることが確認され、最初の曼荼羅堂建立と同時のものであろうことが明らかになったのである。

尚、金堂・講堂はいずれも、鎌倉時代の再建である。

金堂の仏像 

金堂の本尊、弥勒像は宣字座に結跏趺坐する丈六像で、塑像であるが、後世、その塑土の表面に布を貼り、その上から漆箔をおいたものである。又、両手先、懸裳が木造であるなど後世の補修が多い。膝高の両脚部、量感豊かな胴体部、丸く大きめの頭 部の三部分が、有機的な接合ではなく、むしろ、ブロック状の造形をなしている。衣文もおおまかで、素朴な力強さを感じさせることから、隋・新羅の影響を受けた、天武朝前後の作と考えうるであろう。

像の左右に、石組の柄穴が認められ、元来、脇侍をともなう三尊形式であったのだろうが、今は、痕跡を留めるばかりである。

四隅には、脱活乾漆で、特異な風貌の四天王立像がある。いずれも補修が多く、特に多聞天な どは完全に後世の木彫補作である。持国天、増長天、広目天などの原形を留めている部分についてみると、筋肉的な顔の表情、縮れた髭の写実的表現、そして直立姿勢や、服制などから、隋・新羅の影響がここにも考えられ、本尊とあまり隔たらぬ、白鳳後半期の製作と思われる。

当麻寺の創立 

ここで当麻寺の創立について、考察しておこう。当麻寺の創建については、鎌倉時代以後の、かなり伝説的造作の多い縁起類があるにすぎず、確かなことをそこから知ることは、不可能に近い。そこで、わずかに残存する遺物によって推察をすすめると、

(1)仏像 先に述べたように、金堂の弥勒坐像は、その様式から白鳳時代のものであり、又、四天王像も、本尊とあまり時代の隔たらぬころの作と認められる。

(2)梵鐘 東の鐘楼にかかっている梵鐘は、丈長の端正な姿をしており、洗練された竜頭、側面の唐草文・蓮華文など、大陸風を倣って古様である。こうした特徴から白鳳時代後半の製作と年代を推測することができよう。

(3)石灯籠 金堂前に立っており、胴張りのある竿、中台に彫り出された古朴な蓮弁は、これが白鳳期のものであることを示している。

(4)瓦 面違い鋸歯文を廻らす複弁蓮華文軒丸瓦が出土している。この瓦によって、川原寺創建 にやや近い年代が考えられよう。

(5)塼仏残欠 講堂解体時に発見されたもので、川原寺・山田寺と同型式を示しており、白鳳期の作と認められる。

などの指摘が可能である。そして、以上の遺物は当麻寺 が白鳳期に建立されたことを指し示しているといえるのである。

当麻氏は、用明天皇の皇子麻呂古王の後裔と伝承され、 大和西南に本貫をおく一豪族として、大和朝廷に参加したものと考えられる。とくに壬申の乱において、国見・広麻呂らの功があったことから、大夫の列に入り朝廷で重きをなすようになった。

そして、国見が天武天皇の崩御に殯宮で左右兵衛の事を話し、 また、智徳がその大葬にあたり皇祖等の騰極次第(日嗣)を誄し、さらに持統天皇の大葬に誄し、文武天皇の大葬にも誄するなど、当麻氏の活動が目立って史書に多くなる。また楯が天武天皇十年(六八一)に遣新羅小使となっているのも注目されよう。こうした当麻氏の隆運の時期に、当麻寺の創建のあったことが考えられるのである。

尚、この当麻寺の創立について考えるときには、年代も近接する同じ当麻の里の、

1、染野の石光寺。心柱・石蓋・舎利孔と三段の円孔を整えた、白鳳時代の心礎が残存し、当麻寺と類同の塼仏片を出土している。

2、加守廃寺。若干の礎石をとどめ、鋸歯文をめぐらす複弁蓮華文軒丸瓦と上縁に鋸歯文をもつ葡萄唐草文軒平瓦を出土している。

などをも、併せて考察すべきであろう。

 

創作者介紹
創作者 生之 的頭像
生之

Ahura

生之 發表在 痞客邦 留言(0) 人氣(5)