志水正司,《續・古代寺院的成立》,六興出版,1982

八角堂の源流 

遙かな中国河南省の登封県嵩山の会善寺に、天宝五年(七四六)の浄蔵禅師身塔として知られる八角塼塔が残っている。これは塼築の単層二重屋根の塔であって、法隆寺夢殿や、栄山寺八角堂の木造の建造物とは必ずしも同等とはいえない。しかしながら、この塼塔には、木造塔の形式が 細部まで踏襲されており、我が国の八角堂とかなりの共通点が認められるのである。

この塔について観察すると、

(1)側面に連子窓と扉を、又、軒には斗・肘木、人字形の束を造り出しており、木造建築の形式 がよく踏襲されている。

(2)屋上には大きな伏鉢・受花・宝珠がのせられている。

ことなどが特徴として認められる。この塼塔の存在から次のような推測が導き出されよう。

(a)当時、このような木造八角塔が数多く造営されていたのであろうこと。しかし現在は消滅してしまっていること。

(b)この塼塔は、当時の木造塔の形式をよく伝えるものであること。

そして更に、そうした中国の木造八角塔の影響のもとに、我が国の夢殿や栄山寺八角堂の造営がなされたものであろう、と推察されるのである(沢村専太郎「嵩山会善寺に於ける浄蔵禅師身塔」『東洋美術史の研究』所収)。

夢殿の呼称

法隆寺東院の八角円堂は「夢殿」の名で親しまれているが、何故、夢殿と呼ばれたのであろうか。『聖徳太子伝暦』『今昔物語集』などには、聖徳太子が夢殿に籠るという説話が多く伝えられている。それらの中の一つ、慶滋保胤の『日本往生極楽記』によってみるに、

太子の宮の中に別殿あり。 夢殿と号づく。一月に三度沐浴して入りたまふ。もし諸の経の疏を制するに、義に滞ることあれば、即ちこの殿に入りたまへり。常に金人ありて、東方より至り、告ぐるに妙義をもってす。

という。これはまことに要を得た叙述であるが、「常に」の箇所を「夢に」とする方が、説話の古形により近づくと思われる。伝えられる説話のほとんどが、こうした類いの内容のものである。

この説話について考えてみると、まず東院夢殿が建立されたのは、実は、聖徳太子 の時代より百年も後のことであるから、これが後世に造作された説話であることは明白であろう。

ついで、夢の中に金人(仏)が出現して示教するというのは、洛陽の白馬寺の伝説にでており、当時の仏教者の間ではすでに著聞のことであった。

ところで、夢殿には、『東院資財帳』に、

上宮王等身観世音菩薩木像壹軀 金薄押

とみえる救世観音像が安置されており、太子の等身像として信仰されていた。時が流れ、聖徳太子こそ救世観音の化身とみなされるようになり、こうした太子信仰のたかまりに支えられて、太子がこの殿堂のうちにあって夢に金人の示教を得たという説話が造作され、人びとの間に語り伝えられて、夢殿の呼称が世に流布することとなったものであろう。

東院の造営 

聖徳太子の営んだ斑鳩宮は、太子没後、その長子山背大兄王とその一族の居住するところとなっていた。しかし、皇極天皇の二年(六四三)、蘇我入鹿の遣わした巨勢徳太等の軍勢によって火が放たれ、灰燼に帰したのであった。 山背大兄王はこの時、一度は生駒山中に遁れたものの、のち斑鳩寺(法隆寺)に入り、一族とともに自経して果て、ここに聖徳太子直系の血筋は悲惨な結末を迎えたのである。しかし、その悲劇も、絶えまなく続けられる政争の中の一つの過去でしかなく、いつか人びとから忘れられ、荒寥とした斑鳩宮跡が残されることとなる。この有様を歎き、かつ聖徳太子を追慕する人びとによって、その宮跡に八角円堂を中心とした、上宮王院が造営されたのであった。それにかかわったひとりが僧行信である。

では、その建立の時期は、いつのころであったか。『法隆寺東院縁起』は、造立年次を天平十 一年(七三九)としている。だが、その記述には疑わしい点が多く、そのままを信ずることはできない。但し、天平宝字五年(七六一)の『法隆寺縁起并資財帳』(東院資財帳)には、瓦葺八角仏 殿(夢殿)・檜皮葺回廊・檜皮葺門二棟・檜皮葺屋三棟・瓦葺講堂(伝法堂)などがあったことが みえているから、少なくともそれ以前に、東院が造営されたことは確実である。

東院の建立に尽力したといわれる行信は、ほかにも聖徳太子の遺品、御製の法華経疏などを探し求めて、東院に奉納したことが、『東院資財帳』からうかがえる。夢殿の東北の隅には、乾漆造りの行信像が安置されており、吊り上がった目、堅く結んだ唇、大きく広がった耳などの風貌は、その行動的な生涯をよく、今日に伝えるものといえよう。

夢殿の建築 

東院伽藍の正堂として、天平期に建立された八角円堂は、寛喜二年(一二三〇)に修理改造が行われた。その結果、次のような点で創建時とは形状に変化が加えられることとなった。

(1)側柱の根元を切り、その分だけ長押も高く打ち直した。

(2)軒組物に斗と通肘木一段を加えて、軒下を賑やかにし、入側柱との繋虹梁も二段とした。

(3)軒の出を延ばした。

(4)桔木を入れ、野小屋を設けて屋根勾配を急にした。

以上の改修によって、今ある如く、堂は荘重な印象を深くしたものの、それまでの簡明な伸びやかさを失ってしまったのである。しかし、内部の石積 みの二重仏壇や、軸部の組物などは、ほぼ当初のままで、かなりの古材が残されていた。

その調査の結果にもとづき、復原してみると、創建時は高い凝灰岩の八角基壇上にたち、軒の出が今よりも短く、垂木上に直接に瓦を葺き、緩い勾配の屋根をもつ建物であったことが明らかとなった。又、

(1)側柱に内転びがある。

(2)実肘木つき三斗の、のびやかな肘木に笹繰がある。

(3)隅木を支えて入側柱上に斜め上がりの肘木・斗を使っている。

等の特徴は、天平時代の技法をよく示しているといえる。そして、柱・桁には八角堂にふさわしく断面が八角形の材が用いられていた。なお、仏壇で下成壇上に入側柱を立てて、内陣に一段高 い上成壇を造っているのは、我が国では珍しく、中国の殿堂との関連を思わせるものであろう。

屋根の頂には、金銅製の瓶・蓋・珠がのせられているが、これは西院伽藍の五重塔内にある塑像群の分舎利仏土の舎利塔によく似ている。このことは、本来この八角円堂の建立が、太子の供養のためであったというこころをよく示しているとみることができよう。

栄山寺八角堂の建立

奈良県五条市の鮎の棲む清流、吉野川の岸辺にたち、古くは前山寺と称された栄山寺は、藤原武智麻呂によって創建された、と寺伝は語っている。この寺にも、夢殿と並んでしばしばとりあげられる奈良時代の八角堂が残されている。

この堂については、 承徳二年(一〇九八)八月の栄山寺別当実経の置文(『平安遺文』四巻一三 五五頁)に、

僅所残之八角堂一宇、 是仲麻呂奉為先考先妣(藤原武智麻呂・安倍貞媛)所建立也、

とみえている。尚、天平宝字七年(七六三) 十二月二十日の造円堂所牒(『大日本古文書』 五十四六三)には、次のようにある。

造円堂所牒 造東大寺司
請画機二具(長一丈・広五尺)、
右、依仁部卿宣、所謂如件、故牒、
天平宝字七年十二月廿日 (署名略)
(別筆)「依請判許 判官葛井根道」

これは、藤原仲麻呂の息、仁部卿(民部卿)藤原朝獦の宣によって、造円堂所が造東大寺司に、画機二具の借用を申し出て許可されたことを伝える史料である。福山敏男氏は、先の置文からこの造円堂所牒に着目され、ここにいう円堂こそ栄山寺八角円堂であり、天平宝字七年のころ仲麻呂による造営が進められており、それも、完成に近づきつつあったと推考しておられる。従うべ 見解であろう(福山敏男「栄山寺八角堂の建立年代」『日本建築史の研究』所収)。

しかし、翌天平宝字八年には、仲麻呂の乱がおこり、仲麻呂一族は没落する。その後、間もない天平神護元年(七六五)四月五日の僧綱牒(同五─五一九)によれば、前山寺、殖槻寺に使者を遣わして、仲麻呂の生存中に東大寺より借用していた経論類を捜求・返納させていることが知られ注目される。その中には、涅槃経疏、 花厳経疏などが認められ(同一六─四一八)、時代を先駆けた仲麻呂にふさわしく思われて興味深いものがある。

八角堂の建築 

次に八角堂の建築様式についてやや詳しく見ることにしよう。まず堂を外側から観ていくと、石階を四方につけた八角形の壇上積基壇の上にたち、法隆寺の夢殿の低平な姿に比べて、これは堂の横幅が狭いわりには丈が高く、直立の印象をあたえている。だがそれも、八角の側柱をやや内側に傾け(内転び)、堂の幅を上部で狭めることによって安定感を保たせてある。側柱の内転びは夢殿でも認められ、中国の建築技法の名残りであろう。屋根は本瓦葺で、頂には石製の宝珠・露盤をのせて古朴である。側面の、四面に戸口を設け、他の四面に連子窓をつけている。その連子窓に中柱を入れることにより、直立感を強めているが、 中柱は内法長押で留まり、頭貫と の間に広い白壁をみせている。それがこの堂の明快さを印象づける効果をあげている。

目を軒に転ずると、大斗の角を隅にむけた出三斗であり、その肘木・実肘木が八角の側壁に沿って曲折している。中備には間斗束が用いられて簡明である。

ついで内部からもみると、入側柱は小堂であるため、夢殿が八本であるのに、これは四本である。入側柱から八隅の側へ繋虹梁をかけ、その先端が側柱上で角度を変えて隅木をうけている。この繋虹梁が一木から造り出されているのが特徴である。

屋根の架構は、四本の入側柱上に大斗を置き、その間を四本の虹梁でつなぐ。その虹梁上に、 二個ずつ斗を置き、それらを桁でつないで、ふたたび八角形をつくり、それで隅木・垂木をうけている。誠に巧妙な架構というべきであろう。

総じて、栄山寺八角堂は簡潔で、しかも創意工夫のすみずみにまで行届いた、好ましい古代建であるということができよう。

尚、内陣の八角柱や、天蓋受けの貫・格天井(天蓋)には、彩色美しく、様々な楽器を奏でる蛾眉豊頰の菩薩たち、散華する飛天、花鳥の文様などが描かれていた痕跡が、わずかながら残っている。その描線・彩色は唐風を示しており、題材・画法には、遠く西域に遡るものも認められて、奈良朝の絵画を知る上で、貴重な資料となっている。

五条は大和の国境である。そこに唐文化を憧憬した奈良朝貴族の営んだ仏堂が、そのままの姿 で残っていることに、ひとしお感慨を覚えるのである。

 

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