2 鏡としての他者
先にも述べたように、韓国は最も身近な隣国であるにもかかわらず、その激しい近代・現代史は言うに及ばず、ごく日常的な習慣や身振りにいたるまで、その歴史的、文化的差異が広く理解されているとは言いがたい。それも、韓国近代史の真ん中に1910年から1945年にわたる日本の植民地時代があり、しかもこのことは、日本の社会に対しても常に鏡のように自らを映し出していることを忘却しがちである。もちろんこれは筆者自身も含めての話だが、これ以上ない重要な鏡の役割を持っていることを改めて深く認識すべきなのであろうが、先にも述べたように私たちに深く染み込んでいる無意識化された脱亜によって、他者として容易に浮かび上がってこない困難さがあるのは否定できないと思われる。
ちなみにインターネットで朝鮮や韓国の美術に関わる書籍をみる限りでは、その数は決して多いとは言えず、とくに近代の韓国美術を扱った本格的な研究書は、金恵信(キム・ヘシン)著、2005年発行『韓国近代美術研究植民地期「朝鮮美術展覧会」にみる異文化支配と文化表象』(ブリュッケ)などごく最近のことである。これだけ対東アジアのことがらが政治的課題になっているにもかかわらず、真の「他者」としての研究と交流はまだ始まったばかりと言わざるを得ない。少なくとも、対東アジアについて何事かを声高に言う前に、まだ私たちはなにも知らない、ということを率直に認めるところから出発すべきなのかもしれない。とくに前著の副題にもあるように、「異文化支配と文化表象」とはまさに「鏡としての他者」そのものに他ならないからである。
さて、筆者にとっても以前から関心のあった事柄に、たとえば光州ビエンナーレなどにみられる活気と盛況ぶりがある。ソウル国立大学教授の金英那氏の講演によれば、1995年に開催された第一回光州ビエンナーレの観客は160万人、1997年の二回目は91万人であった。日本では考えられない数字である。
光州という土地は、1980年の軍事政府による光州人民の大虐殺があったところで、民主化運動の傷ましい記憶として人々の記憶に残っている都市である。国際的な現代美術展の開催にふさわしい場所として、政治的に決定されたそうだが、そのような経緯を考えると、現代美術が韓国の人々と密接な関係にあることは容易に想像できる。金英那氏は「韓国人の現代美術に対する理解を立証することはできないが、韓国人が今や同時代の芸術や文化をより受け入れるようになったことを示している。」と述べているように、日本と比べて、現代美術の活況とその国際的な広がりは、韓国の近代・現代美術のあり方をたどってみることによって、ある程度理解ができると思われる。そして、そのことは美術教育にも深く関係していることはもちろんのこと、韓国と日本のそれぞれの近代の事情を照らし合わせるとき、さまざまなことが見えてくるのではないだろうか。
そこで、金英那氏の講演を参考にしながら、戦後の韓国の美術状況をたどってみたい。
1945年の終戦の後、1950年朝鮮戦争勃発、そして1953年の南北分断を経て、激動の朝鮮半島をめぐってある程度の安定をみるのが50年代の半ばである。
戦後期の反日感晴にもかかわらず、美術教育においては60年代にいたっても日本の影響が根強く残っていた。1922年からはじまる朝鮮総督府運営の朝鮮美術展覧会(「鮮展」)は、1946年から韓国教育省の主催で国家美術展覧会(「国展」)と名称を変え、1979年まで毎年開かれることになる。しかし、「国展」は「鮮展」から続く保守的なアカデミズムから脱却できず、その受賞作品のほとんどが女性や老人を描いたものであった。
金恵信は、「韓国近代美術におけるジェンダー/植民地期官農の女性イメージをめぐって」と題する論文で以下のように述べている。
…韓国が日本によって植民地化され…る過程からは、被支配者を劣ったもの、未発達なもの、女性的なものにし、支配するために利用してきた典型的なオリエンタリズムのヘゲモニー関係があらわれている。しかし、被支配者も同じオリエント、同じアジアである構造で、韓国から見ると、日本は脱亜入欧を果たすために「西洋」をまとっただけの存在だったのではないだろうか。そこからは、西洋に対する劣等感とアジアに対する優越感の問でゆれていた帝国日本の顔が見え隠れする。自分がアジアの一員であることを忘れようとした日本に必要だったのは、遅れた近隣諸国から日本を区別してくれる「みすぼらしいアジアの象徴」だった。
日本の植民地政策のなかで重要な役割を果たしてきた女性像は、戦後期にあっても美術教育の指導者たちの多くが日本への留学生であったこともあり、ねじれたオリエンタリズムの残津が続いていたと思われる。
しかし、50年代後半からは、若い作家達の強力な反発を受けることになる。そこではまず、日本の影響から脱すること(日本を否定すること)、そしてそのために、韓国の文化的、民族的な伝統に基づいたアイデンティティをどのように形成するのかということ、さらには、世界的な現代美術の動向に遅れないこと、このような三つの課題がほぼ同時に韓国の作家たちに持ちあがったのである。折しもヨーロッパではアンフォルメルの嵐があり、その後アメリカの抽象表現主義、そしてミニマリズムにいたるモダニズム芸術のもっともハードな時代に遭遇するのである。
