これらが,植民地での日本人の今は無い古き良き,甘き時代への,単なる追懐の情にすぎないとすれば,別問題である。しかし語られるいかにも破格の洋画家塩月桃甫の像には,学生らの若き青春の掛け替えのない思い出の中の,何かの貴重なシンボルと化しているようなところがある。それは多分,青春が本質的にもつ自由や反抗や不安や,戦時体制が刻々に強まる危機の時代における外地の日本人学生の知的教養の中の,西欧近代的なものへの熱烈な夢や憧僚や個人主義的プライドと,関係があったかもしれない。

昭和14年(1939)の第1回聖戦美術展に塩月がはるばる外地から出品した「渡洋爆撃行」絵や紀元2600年の奉祝記念として,塩月が故郷宮崎の地に取材した連作による台北での個展「日向聖蹟絵画展覧会」(昭和15年)を故意に取り上げて,塩月の事大主義や時局的迎合を批判するのは,いとも簡単である。反対に塩月の教え子とし,またかつての航空機専門の陸軍技術将校としての立場からの『渡洋爆撃行』の絵を直接に見た大賀潔の文章のような,この戦争画に〈反軍思想〉を指摘し,軍はさぞかしこの絵を見て臍をかんだに違いない,とする見方もあった。そもそも明治時代の画家は,黒田清輝も浅井忠も小山正太郎も多くが従軍し,特に山本芳翠などは御用命による従軍画家として日清,日露の両戦役に彩管を大いにふるった。長らく軍属であった画家石川欽一郎が,総督府から記念碑的な戦争記録画を直接に依頼されたであろうことは,当然、考えられる。明治37年(1904)の石川の日露戦争の従軍スケッチに,「当時の戦争画に対する怒りの根底にある」〈兵隊との共感と同情〉を見,石川の戦争に対する批判の姿勢を指摘する立花義彰の意見もあよいわゆる戦争画を,時代の状況や作品の内容,作者の人そのものについて等の考慮ぬきに,ただ描いた描かなかっただけで踏絵のような裁断をするのは,安易にすぎるとしても,しかしなお,つねに戦争の被害者の側からの痛烈な指弾からは,目を背けるわけにはいかない。

また台湾人に好かれた日本人画家と,好かれなかった日本人画家とを対比させて,権力的な差別意識の有無や,人格的個人性の相違を言い立てることも,それ自体この場合にはさほどの意味をもたない。差別意識は統治者である日本人の側だけの問題ではなく,被統治者の台湾の画家たち自身の内側の問題でもあったのである。台湾人側の中上流階層を植民地体制という名の「共犯構造」に組み込みつつ,日本人側は台湾人を懸命に大日本帝国臣民に仕立て上げようとする。しかし「だが,古今東西,植民地支配は支配するものと支配される者との間の一定の差別を前提として行われるのである。」──台湾の美術運動の中核となった,富裕階級出身の東京留学の経歴をもつ若いエリート美術家たちの,本来的な優越感=差別感に触れて,その優越意識の内に支配権力の威嚇に対する屈辱から生じる反抗心と,阿諛追従による立身出世の欲望の両義性のあることを,『台湾美術運動史』の著者は,指摘する。そもそも台展に出品するという行為自体が既にそうであるように,台湾の美術は,統治者側の植民地政策と被統治者の民族自決運動との聞の,相対的な二重のつらい評価にさらされていた。そのことの免れようのない制度的な困難を,説いていたのであった。

留意したいのは,石川や塩月をはじめとする台湾在住の日本人画家が,いずれも同じように,〈内地〉の中央画壇に対する〈外地〉と,本島人(=外地)に対する内地人(=中央)の差別=優越の多重の意識や感覚を内心に抱きつつ,絵を描いていたに相違ないことである。そこに成立した石川欽一郎の風景水彩画の様式や,塩月桃甫のフォーヴィックな油絵の作風は,おそらく,そうした外地の美術家に特有のひずんだ内的屈折をはらんでいたことだろう。そう考えるとき,対照的な二人の画家は,横に並列してその対照を指摘するよりは,むしろ縦に並べてみた方がよい。台湾統治史と日本近代美術史の展開に沿った時間的経過に合わせて,縦に並べて見直してみ る方が判りやすいように思う。水彩画専門であることで石川は,図画師範科卒であることで塩月は,オーソドックスな日本洋画アカデミズム〈中央〉から,いずれも外れている。しかも外地にあることで,中心からいっそう疎外された周辺の位置,これが15歳の年令の聞きはあるにせよ,石川と塩月の全く同じ立脚点であったとみえる。加えて,黒田直系の岡田三郎助,白瀧幾之助,小林万吾らとほぼ初期文展世代の石川の仕事と,有島生馬や小出楢重,田辺至,梅原龍三郎らと同じいわば二科会世代に当る塩月の仕事とは,史的観点からすると,並立的ではなくて継続的な関係にある。石川が去って後の,塩月の差配による台展あるいは府展の西洋画部の審査員の顔触れ(藤島武二,伊原宇三郎,梅原龍三郎,有島生馬,斉藤与里等)は,それまでの小林万吾,南薫造,小沢秋成ら文展審査員や帝国美術院会員を主とするような人選と比べて,確かに史的な聞きを示す。

〈外光派の影響を受けた田園的写実主義〉と称されたような,台湾に普及した石川流の水彩画は,ちょうど明治30年代の日本における水彩画の一般社会や学校普通教育の現場での大流行が,外光派風西洋絵画の趣味の社会的浸透にとってまことに都合のよい下栴えになったのと,同様の意義をもつものであったかもしれない。そうして大正中期以降に始まる台湾人美術学生の東京遊学によって,彼らが学び台湾に移植したものは,東京美術学校と文展の主流を占める日本的アカデミズムの西洋油彩画であった。石川は帰国後も台湾の教え子に向けて,文・帝展を主とする例 年の上野の美術情報を,「台湾日日新報」を通してその都度詳細に送りつづけていた。台展はまさしく,文・帝展の遥かな出屈に他ならなかった。石川のそれとはまた異なる塩月の役柄の史的な意義は,そのような台展内に,藤島武二や梅原龍三郎らを審査員として招くことを通して,彼らの芸術のもつ絵画史的意義に相応するような新しいものを,持ち込もうとしたところにある。これら大家の実物の作品に直接に触れる稀有の機会を,台展が台湾の社会に提供していたのである。第1回台展と同時に催された「台展参考館」が日本画と洋画の名作26点を,文部省から借り出して参考陳列していたし,また昭和7年の6回展でも一流洋画家による「洋画参考作品展」が台湾日日新報の主催で聞かれてもいた。こうした啓蒙的活動は,昭和6年(1931)と8年に塩月らの協力によって実現した,独立美術展創設の頃の台北巡回展のような,より新しい近代主義絵画の台湾移入につながる意義をもっていた。

独立展出品を目指す数人の若い日本人美術家が新興洋画協会展を開いて,〈前衛部隊〉などと呼ばれていたのが,昭和10年(1935)の前後である。内地から届く美術雑誌や画集等によって,フォーヴイズム以後の新興絵画の動向は,彼らの絵に色濃く反映していた。中にははるばる東上して独立美術夏期講習会に参加する者もあった。台展は,専ら台湾人の美術家ばかりではなく,少なくない日本人画家を育てていたのである。「会場に入って,僕は今東京に居るのではないか?と自分を疑った」と内地から来た独立美術協会の一画家が,新興洋画展の感想を新聞にそう書いていたほど,そこには,〈中央〉の近代都市文化の感覚が投影していたのである。日台の男女の若者ら6人によるシュルレアリスムの同人詩誌『風車』が,先鋭化し複雑に分裂しつつ弾圧されていった民族文化運動の合間に,生まれてすぐに消えたのもこの時分であった。パリ帰りの劉啓祥が二科展で二科賞を受け,銀座で個展を開いたのが昭和11年(1936)モダニズムと純粋絵画を求める,東京帰りの台湾人画家5人によるムーヴ洋画集団が,中川一政や玉村善之助の声援を受けて昭和13年(1938)に結成された。

1930年代前から当局は内地のプロレタリア文化運動の台湾への波及に神経をとがらせ,昭和5年(1930)の台湾の文芸雑誌『伍人報』『台湾戦線』を禁圧し,また翌6年には台湾と日本の双方の文学者による組織である台湾文芸作家協会を,同種の活動として弾圧していた。芸術活動の徹底的な統制弾圧によって日本のプロレタリア芸術運動が,多くの検挙者や脱退者や転向者を出して解体したのが,昭和9年(1934)である。その年の5月に台北市で警察の監視下に台湾文芸連盟の結成大会が聞かれた。連盟は次の年には左翼系日本人作家の結び、ついた『台湾新文学』を生み,やがて姿を消し去る。昭和12年(1937)には台湾人の母語使用が制限され,新聞の漢文欄が全面禁止された。10回展を数えた台展が,総督府による府展として改組されたのがその前年である。マンネリ化した展覧会それ自体の改革の要因を含みながらも,これが,総督府の武官総督制の再開と同調し,中央の帝展改組に相応するものであったことは,いうまでもない。南進基地化や皇民化を強力に押し進める植民地政策は,戦時体制の緊張の中で,府展美術を含む一切の文化活動から,台湾民族解放主義を根絶していた。

中央と地方とが極端に引き裂かれた,日本であって日本でない外地の植民地台湾で,日本と台湾の交錯した変則的な美術史を国運と共に背負い,その生涯の画業をそこで成した石川欽一郎や塩月桃甫らほど,躍進期の日本近代美術史の運命を典型的に示す画家はいなかった,と言えるかもしれない。

 

文章標籤
全站熱搜
創作者介紹
創作者 生之 的頭像
生之

Ahura

生之 發表在 痞客邦 留言(1) 人氣(2)