《昭和の文化遺産 第一巻 日本画I》,東京:ぎょうせい,1991
野地耕一郎
はじめに
戦争の時代へと傾斜していった昭和初期。急速な社会 情勢に伴って、美術もまた変転を余儀なくされたのであった。そうした時流の中で、突然、美術界を揺さぶったのが、昭和十年(一九三五)五月二十八日、時の文部大臣松田源治によって発表された「帝国美術院改組」であった。
松田改組
このいわゆる「松田改組」の発表は、表面上これに立つ同年二月の議会で政友会代議士大口喜六が行った帝展に対する「爆弾的抗議」に応える措置として出された ものであった。その折の質疑は概ね次のようなものであ った。
「(略)技巧が益々巧ニナッテ、精神ニ欠ケテ居ル、 是ハドウ云フ訳ダカト云フコトヲ私ハ考へタイ、之ニハ帝展ト云フモノヲ余程根本カラ、御改革ナサラナケレバ イカヌト思フ、(略)学者ノ間ニモ識者ノ間ニモ一大非難ガアル、ソレカラ中ニスッテ居ル人モ私等ニ愬ヘテ、 是ヂャイケマセヌト云フ」
これに対して「私モ帝展ノコトニ付テハ考へテ居リマス」と答えた松田文相は、これを契機に直ちに改組計画をスタートさせたのだが、実は文相のこの答弁には前があった。
というのは、帝展における膨れ上がった無鑑査作家の問題(審査を経ずに永久出品の特権を持つ者の作品が、帝展末期には全出品数の三分の一を占めたこと)や、それに伴う帝展の沈滞化が以前から関係者の間で取り沙汰されており、その解決策として帝国美術院に在野団体を糾合し、その主催する展覧会である帝展を最も権威ある唯一の公募展とすることがしばしば論じ合われてのであった。それに時代の大きな流れから文化の統制をも目指していた当局にとってみれば、美術界の一本化は秘かに希うところでもあったのである。
そのためには日本画では当然、日本美術院(院展)と青龍社の二大在野団体の合流が不可欠の条件であったわけで ある。そこでまず大正八年(一九一九)の帝展発足以来、会員を固辞し続けている院展の総帥横山大観を抱き込むことがはかられた。大観の東洋主義的芸術観に好意を寄せ、すでに大観と親交を結んでいたとされる松田文相にすれば、官野合同の実現には内心深く期するところがあのであろう。だからこそ、大口代議士の抗議に対して自信に満ちた答弁が可能であったわけである。
ともあれ、議会での質疑応答の後、文相の「帝展改組案」立案の命を受けた添田文部政務次官は、赤間専門学務局長に和田英作東京美術学校長を加えた三人で協議を開始した。そしてまず、赤間専門局長と和田美校校長が大観のもとを訪れ、院展の参加を要請した。
それを受けた大観は、さっそく院展の主要同人である小林古径、安田靫彦、前田青邨の三人と相談し、その結果、院展はそのまま存続させること、帝国美術院会員を再銓衡すること、無鑑査作家を見直すこと、及び発表前に改組事実を漏洩せぬことなどの諸条件を提出した。さらに、大観案による新帝国美術院会員の定数は全部会併せて二十名で、そのうち第一部(日本画)の前会員八名から 選ばれていたのは、川合玉堂と鏑木清方のみであった。
当時、帝国美術院の会員定数は年毎に増加していただけに、これを見た赤間専門局長と当の玉堂は驚き、交渉の末、定数五十名とする玉堂案に落ち着いたのであった。
こうして昭和十年五月、「松田改組」案による新帝国 美術院官制が閣議決定され、この新組織の眼目である人が発表された。院長には、これまでの正木直彦に代わって清水澄(枢密顧問官法学博士)が任命され、第一部(日本画)会員は次の二十名であった。
会員─竹内栖鳳、川合玉堂、荒木十畝、小室翠雲、結城素明、菊池契月、鏑木清方、西山翠嶂、松岡映丘、川村曼舟、松林桂月、西村五雲、土田麦僊(以上前会員)、横山大観、安田靫彦、小林古径、前田青邨、冨田渓仙(以上院展同人)、川端龍子(青龍社)、橋本関雪(旧帝展委員)。
この他、第二部(西洋画)、第三部(彫塑)、第四部(工芸)を併せた会員四十九名のうち二十九名は旧帝国美術院会員のすべてが再任されているが、残りの会員二十名──うち日本画は六名──は在野団体の指導的作家が選抜されているところに、この改組の特徴があった。第一部の人事を見ても、この改組で大観の出した条件は大筋で守られ、院展の主要同人が会員に任命されていることから「大観の帝展乗っ取り」とさえ言われたほどであった。当時の大観の動向から察すると、明治の文展以来の因縁(新派と旧派との対立から野に下った院展の経緯)をここで一挙に解決しようという腹積もりがあったとみい。
ともあれ、新組織発表にあたって出された文部大臣談は次のとおりで、改組に対する当局の意図がどの辺りに あったのかがうかがえる。
「我が国の美術が年と共に隆盛の域に進みつゝあることは、我が文運伸張の上に於て寔に慶賀すべきことで ある。先年帝国美術院が設置せられ、爾来永きに亙つて克く其の功績を挙げ来つたことは固より言ふまでもない。然し社会の底に流るゝ浮華なる風潮は矢張り美術界に於いても之を免かるゝことが出来なくて、真に我が国美術の真価を発揮する上に遺憾の点ありしことは、争ひ難き事実である。今や急速なる時代の進展につれて、美術界の実状は茲に期を画して更に適正妥当なる新機構を制定し、我が国美術の指導奨励に関する方を明確にすることを以て急務として居るのである。即ち政府は茲に見る所あり、熟考審議の末新なる帝国美術院を創設して、真に健全なる美術の研究と製作とを促進する為最善の努力を致さんとする次第である。惟ふに国家の施設する帝国美術院は、克く識見閲歴の卓越せる人材を網羅して権威ある挙国一致の指導機関となり、依つて以て我が国美術全般の堅実なる発達を裨補しなければならぬ。従つて其の主要なる事業の一たる展覧会に就ても、之が開催の方法、鑑査、審査、授賞、買上等の制度に関しては慎重なる考究を加へて改善し、本秋より第一回展覧会として之を開催せしめんとする予定である。云々」
すなわち、「急速なる時代の進展につれて」これに見合う新機構を作り、これを「卓越せる人材を網羅して権威ある挙国一致の指導機関」とすることが、この改組の主たる狙いであることを明確に示唆しているのである。つまり、この「松田改組」といわれるものは、人一倍「国粋尊重を内に持し」、そのことで大観とも共鳴し合っていた文相松田源治が、美術界の挙国一致体制を整えるために断行したことだったのである。
ところで、この松田改組は一体どのような社会情勢の 中で起きたものなのであろうか。主な社会的事件を年表から拾い上げてみると、まず昭和初年代では、六年に満州事変が勃発し、これによって軍部の独走が始まっている。翌年の五・一五事件、続いて国際連盟からの脱退、その間の労働運動や左翼勢力への弾圧。そして九年の陸軍省による『国防の本義と其の強化の提唱』(パンフレット)の領布。さらに、松田改組と同じ十年には、政府の国体明徴声明によって「天皇機関説」(統治権は国家にあり、天皇はその最高機関として統治権を行使するという理論)が否認され、政党内閣のイデオロギー的基盤であった機関説はこの時をもって一般社会から消し去られた。こうした経過を辿って、思想や信教の自由は大幅に狭められ、ついには軍部独裁体制下における天皇制が確立されたのであった。同じ十年に軍内部で起きた皇道派将校による陸軍省軍務局長刺殺事件は、これを象徴する出来事であり、またそれは翌十一年の二・二六事件へとつながっていくのである。
こうした情勢の中で松田改組という事件をとらえてみると、きわめて周到な全体主義へのシナリオの中で、一部の官僚が主導した権力によるある種の「文化統制」であったことが強く浮かび上がってくるのである。
改組の行方
しかし、この名実ともに唯一の権威ある公募展を目指した帝国美術院の新組織が発表されるや、美術界は一大騒動に見舞われたあった。
まず、改組にあたって秘密主義をとり、大観、玉堂といった一部の大家にしか相談せずに断行し、他の多くの作家達にとっては寝耳に水であったことへの反発が起きた。さらに、この改組で参与・指定・附則によるもの(今後二回のみ無鑑査)に分けられ、永久無鑑査の特権を剥脱された旧帝展の無鑑査作家に不満が集中した。つまり、将来自分達の予約席と思っていた会員の椅子に、本来ならば席を同じうしない在野の作家達が大挙して収まり、逆に自分達は降格の形になったからである。そのため第一部(日本画)のみならず各部から、改組反対・新帝展不出品の声が続々と上がった。
改組発表後間もない六月二日には、双杉倶楽部(旧帝展の在京無鑑査日本画家による団体)が「新帝展に倶楽部員中一人たりとも無鑑査の資格を得ざる時は倶楽部員は全部結束して無鑑査拒否」を決議し、事実上の不出品を宣言した。一方、京都画壇でも、竹内栖鳳が「現在は政府による美術の庇護など必然としない時代である」という主旨の強硬意見を述べ、新帝展への不出品の意向を露わにし、大勢もそれに賛同しようとした。その後の展開からみて、この場合の栖鳳の意見や態度は正しかったといえるのであるが、それはともかく新帝展反対運動は、特に第二部(西洋画)で熾烈を極め、改組の立案者で洋画界の大立者であった和田英作は苦境に立たされたのであった。そしてこうした紛糾の中で、旧帝展日本画部の東京側会員を中心に、いっそのこと帝展を廃止し不開催とすべしとの声が高まった。六月十三日の新帝国美術院初総会の席上でも、帝展不開催の意見が強かったが、これに慌てた文部省側が説得に回り、どうにか押し切って第一回展を年度内に開催することが確認されたのであった。
翌十一年二月二十六日から三月二十五日まで開催された改組第一回帝展は、当局の思惑どおり一応官野合同の形となったが、洋画部は結局最後まで不出品で結束した。 また各部に出品辞退者が多く、出品作にしても不振な状態であった。そして、この混乱の最中の同年二月、当の松田文相が急逝し、再改組は避けられない事態となった。
この改組第一回帝展の開催初日は、まさに二・二六事件の勃発したその日にあたる。事件後、内閣が更迭し、新内閣のもとで文相に就任した平生釟三郎は、紛糾する帝展を再改組すべく、今度は慎重に各方面の意見調整に乗り出した。その結果、帝国美術院を展覧会と切り離し、展覧会は文部省主催(文展)とすること、また無鑑査を復活するという内容となった。しかし、これは松田改組に逆行する措置となったわけで、今度は「平生再改組」に反発して、大観以下院展同人や玉堂、清方、契月らが会員を連名で辞任、不協力の声明を出し、龍子らも別途に辞表を提出してこれに抗議した。こうして昭和十一年文展は、在野作家が大方離反した中で、無鑑査による招待展鑑査展とが十月.十一月に会期を二分して開催されたが、美術界は混迷の色を濃くするばかりであった。
事態がどうにか沈静化に向かうのは、改組から三年目の昭和十二年、安井文相になって新たに「帝国芸術院」が設置されてからであった。これは帝国美術院を解消し、従来の官展系も在野系団体もそのままの形でその中に含み、美術のみならず文学や演劇・音楽なども網羅した芸術全分野的組織であった。会員には再び官野の指導的作家が選ばれ、芸術院会員の鑑審査への起用、無鑑査作家据え置きの二大原則のもと、展覧会は芸術院と切り離して文部省主催とすることが決定された。このいわゆる昭和の「新文展」が同年十月に開催されるに及んで、無鑑査問題は依然禍根を残ことになったが、帝展改組問題は一応の結着を見たのであった。
足かけ三年にも及んだこの帝展騒動が明らかにしたのは、官展作家は勿論、在野であることを誇り、普段芸術の自由を標榜している作家でさえ、国家権力の前にはいかに無力であり、その精神がいかに脆弱であるかということであったように思う。失敗に終わったとはいえ、在野の院展が一度は帝展と合流したことは、その在野精神の脆さと形骸化を暴露する結果となり、それに対する院展内部の批判や不満から、中堅実力作家が院展を脱退して「新興美術院」(昭和十二年)に結集していったことは、それを裏付けるものであろう。
奇しくも、第一回新文展が開かれた昭和十二年七月、日中戦争が勃発し、日本は泥沼の戦争時代へと突入していった。その後、当局による文化統制は、戦局とともに速やかに、そして次第に厳しさを増していくことになるのであるが、「松田改組」はその端緒を開いた最初の事件だったのである。

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